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東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

善国寺坂

2011年07月28日 | 坂道

今回は、前回に続き、麹町・番町周辺の坂や永井荷風旧宅跡などを巡ったが、コースを変え、はじめての坂もあったので、それなりに新鮮であった。

番町文人通り 番町文人通り 番町文人通り 午後四谷駅下車。

駅前から新宿通りの北側の歩道を東へちょっと歩くと、左の写真のように、左手の道に番町文人通りという案内が立っていたので、この道に入ってみる。そのさきをちょっと曲がると、ほぼまっすぐに平坦な道が続いている。二枚目の写真は心法寺の裏手あたりである。尾張屋板江戸切絵図(東都番町大絵図)を見ると、心法寺があり、その西に成瀬隼人正の屋敷があり、それらの間に、ナルセヨコ丁、と記した道があるが、これが番町文人通りと思われる。この通りは、東へ進むと、やがて御厩谷坂のある通りに至る。

なぜ文人通りというのか、そのいわれを記したようなものはなかった。ネット検索をしたら、「麹町界隈わがまち人物館」というサイトに説明があった。住んでいた時期は必ずしも同じではなかったが、藤田嗣治、島崎藤村、初代中村吉右衛門、泉鏡花、有島武郎、有島生馬、里見、菊池寛、武田鱗太郎、与謝野晶子・寛夫妻、網野菊、串田孫一、川喜田半泥子が住んでいたため、そう呼ばれるらしい。

善国寺坂上(北から南) 善国寺坂上側(北から南) 善国寺坂上側(北から南) 善国寺坂下(北) 番町文人通りを西から東へ進むと、やがて、上右の写真のように、信号のある交差点に至るが、ここを右折し南へ少し歩くと、遠くに上り坂が見えてくる。善国寺坂である。しかし、単に上るのではなく、一回下ってその谷底から上る坂である。

横関は、善国寺坂を、新宿通りから北へ下りさらに北の方二番町へ上る坂とし、谷底を挟んだ両方の坂としている。石川、岡崎も同様である。

尾張屋板江戸切絵図(東都番町大絵図)を見ると、南側の坂に、善国寺谷△、とある。その向かいの坂に坂マーク△があるが、ここでも、△の頂点の向きが逆である。尾張屋板は、慣れないせいか、坂マーク△の使い方が不正確である。近江屋板には、坂名はなく、坂マーク△が二箇所にあるが、その向きは正確である。岡田屋嘉七板御江戸大絵図には、両方の坂に横棒多数の坂マークがあるが、坂名はない。

坂下の谷底は、善国寺谷、鈴降谷、鈴振谷とよばれた。横関が書いているように(御厩谷坂の記事参照)、坂を谷で呼ぶ場合、谷を挟んだ二つの坂を意味したとあるので、ここも、二つの坂を指すものと考えたい。南の坂が新宿通り側、北の坂が二番町側である。

『御府内備考』には、善国寺谷について「善国寺谷は、麹町六丁目より番丁へのぼる所をいふ。又鈴振谷ともいふ。【江戸紀聞】」とある。麹町六丁目は、新宿通りの南側の坂上で、そこから(北側の)番町へ上るとあるので、この説明は、二つの坂を同じ坂名としていることの証左ともいえる。

善国寺坂下(北) 善国寺坂下(北から南) 善国寺坂下(南) 善国寺坂下(南) この坂ははじめてである。近くにある地下鉄有楽町線麹町駅でかなり以前だが乗り降りしたことがあるが、北側の出入口であったのであろう、こんな坂があったという記憶はない。両坂とも勾配は中程度で、まっすぐに上下している。

新宿通り側の坂上近くに標柱が立っており、次の説明がある。

「この坂を善国寺坂といいます。『新撰東京名所図会』には「善国寺坂、下二番町の間より善国寺谷に下る坂をいう。むかし此処の坂上に鎮護山善国寺にありしに因り名づく」鎮護山善国寺は標識の場所からみると、右斜め前の辺りにありましたが、寛政一○年(一七九八)の火事により焼失して牛込神楽坂に移転しました。坂下のあたりは善国寺谷、また鈴降(振)谷と呼ばれたといいます。」

坂名は、かつてあった寺の名に由来するようである。横関は、寺はないが坂の名がいつまでも残っている例とし、他に三田四丁目の安全寺坂や六本木の幸国寺坂(長垂坂)などを挙げている。

神楽坂に移った善国寺は、いまもあり、そのあたりの一大中心になっている(以前の記事参照)。

善国寺坂下(南から北) 善国寺坂中腹(南) 善国寺坂中腹(南) 善国寺坂上(南)標柱 この善国寺谷のあたりを地獄谷ともいったらしい。『紫の一本』に地獄谷について次のようにある。

「地獄谷 糀町(かうぢまち)六丁目より二番丁へ行く谷を云ふ。むかしこの近所にて倒れて死にたる者、また成敗に会ひたる者を、この谷へ捨てしなり。骸骨みちみちたる故にいふ。」

この後、次のような話が載っている。陶々斎と遺佚の二人が善国寺へ夜談義を聞きに行った帰り、その夜はいつにもまして暗く、雨がしとしと降り、寂しい中、坂を下るところが次のように描かれ、怪談めいた話が続いている。

「・・・、襟の回りぞくぞくとして、膝の頭ふるふ。杖を力にして、咳ばらひを頼りとして、「ここには石あり」「ここは雁木あり」「転ぶな」「滑るな」とたがひに声を掛け、そろりそろりと抜き足にて坂を下るに、藪の下のことに闇(くら)き、下水の落つる橋の所にて、女の声にて低く泣く。・・・」

地獄谷は、その後、その名を嫌われて、樹木谷といった。 この谷のあたりは、『紫の一本』が書かれた天和二年(1682)のころ、やはり相当寂しいところであったようである。江戸末期の江戸切絵図には、南の坂の西側に善国寺立跡とあり、東側が御用地、空地で、このころも寂しいところであったと想像される。

善国寺坂上(南から北) 善国寺坂上(南から北) 善国寺坂中腹(南から北) 善国寺坂下の通り(西から東) 坂下の通りは、東へ進むと、やがて、南法眼坂下、袖摺坂下・永井坂下へと至る道である。この坂も、袖摺坂・永井坂と同じく両側(南北)から坂下の谷底へと下っている。この谷筋を挟んで台地が北と南の二つに分断されていることがわかる。今回、この坂に北の方からきて、谷底と、そこからふたたび南へ上っている坂を見たとき、それを直感した。

縄文海進期の地図を見ると、九段下の方から海が樹枝状に細長く入り込んでいたところで、上記の南法眼坂下、袖摺坂下・永井坂下の方からこの坂下のあたりまで延びていた。それが、現在、坂下の谷底の通りとなっている。こういうふうにむかしの地形がそのまま残っているところは、過去の記憶をとどめていることを直感的に理解でき、はなはだ興味を覚える場所である。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第一巻」(雄山閣)
校注・訳 鈴木淳 小道子「近世随想集」(小学館)
中沢新一「アースダイバー」(講談社)

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南法眼坂

2011年07月25日 | 坂道

南法眼坂下 南法眼坂下 南法眼坂下 南法眼坂下 前回、南法眼坂を紹介できなかったので、今回、ふたたび訪れた。麹町の方から袖摺坂下・永井坂下へと至る谷道を東へ歩き、それらの坂下の手前が南法眼坂の坂下である。

北へまっすぐに上る坂で、勾配は中程度である。坂上を直進すると、前回の行人坂上である。坂上を右折しちょっと歩くと、滝廉太郎居住地跡の説明板が右側角にあり、そこを右折すると、袖摺坂の下りとなり、そのまま直進すると、五味坂の下りとなる。

この坂下は、前回、紹介したように、縄文海進期に九段下の方から海が入り込んでいた谷で、この谷筋は麹町の善国寺坂下のあたりまで延びている。今回、この谷筋の通りを歩いたが、谷底であることがよくわかった。この坂などは、後で記事にする予定。

南法眼中腹 南法眼坂上側 南法眼坂標柱 南法眼坂上 坂上側に標柱が立っており、次の説明がある。

「この坂を南法眼坂(みなみほうげんざか)といいます。この坂の北に法眼坂があるためにその名がつけられたのでしょう。坂の下は3丁目谷と呼ばれています。 法眼の名は、『紫の一本』に"斎藤法眼という人の屋敷、この坂のきわにあり"とかかれています。法眼とは僧の階級の一つであり、また江戸時代、医師、絵師、連歌師などに授けた称号のことです。」

尾張屋板江戸切絵図(東都番町大絵図)を見ると、半蔵門の前から四ッ谷門に向かって、いまの新宿通り沿いに、麹町一丁目、二丁目、三丁目、・・・十丁目とあり、三丁目の北側の谷が永井坂下やこの坂下にあたる。これが標柱の説明にある三丁目谷の由来かもしれない。

『紫の一本』の法眼坂の説明は、前回の記事のとおりで、斎藤法眼の屋敷説である。『御府内備考』が引用する【江戸紀聞】は、法印という行人住居説、法眼坂については法印からの転訛説である。

法眼坂は、行人坂の別名、東郷坂のかつての名前、あるいは、この南法眼坂を含めた総称的な名前などといわれるようだが、行人坂と東郷坂とが谷を挟んで相対していることから、二つの坂をよんだと解釈しても不自然ではないが、この坂は、その南にあり、その名のとおり、法眼坂の南の坂ということと思われる。

南法眼坂上 南法眼坂上 南法眼坂標柱 南法眼坂上 岡崎には、この坂の別名として、八百屋坂(横関も)、キンツバ坂が挙げられているが、前者は坂下に大きな八百屋があったことに因み、後者は明治末に坂上にキンツバを売る老夫婦がいたといわれる、とある。

この坂下と永井坂下との間の狭い一角には江戸末期、麹町谷町の町屋があって、横関によれば、前回の記事のように、色んな店があったようである。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大日本地誌大系御府内備考 第一巻」(雄山閣)

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行人坂~東郷坂

2011年07月23日 | 坂道

行人坂上 行人坂上 行人坂上 行人坂中腹 前回の永井坂下を左折し、次を右折すると、南法眼坂の坂下である。中程度の勾配でまっすぐに上っている。あいにく坂下から中腹にかけて工事中であったので、坂を上り、そのまま北へ進む。ここは次回の課題とする。ちょっと歩くと、行人坂の坂上である。

写真のようにまっすぐに北へ下っている。坂の向こうに見える上りが東郷坂である。勾配は中程度で、坂下で平坦になってちょっと歩き、信号のある交差点を横断すると、東郷坂の上りとなる。これらの坂が三番町と四番町の境界にある。

さきほどまでの御厩谷坂から永井坂への通りとは違って住宅地であり、静かなところである。坂巡りならこちらの方がよいと思ってしまう。

行人坂標柱 行人坂中腹 行人坂標柱 行人坂中腹 坂を下ると、坂の中腹あたり左側(西)の歩道に標柱が立っている。次の説明がある。

「この坂を行人坂といいます。『新撰東京名所図会』には「行人坂、上六番町と中六番町との間を南の方に上る坂を称す」とかかれています。また、『御府内備考』にも「行人坂、古某法印と称する行人この辺りに居するゆえにこの名あり。また法印坂とも呼び或は転化して法眼坂という」とあります。もともと一連の坂を起伏により東郷坂、行人坂、南法眼坂と三つの名に分けてよんだものであり、法眼坂の名称だけの地図も多いようです。」

尾張屋板江戸切絵図(東都番町大絵図)を見ると、この坂に△法眼坂とある。近江屋板も同様である。標柱の説明のように、三つの坂全体を法眼坂とよんだとすると、その代表としてこの坂の位置に記したのかもしれない。尾張屋板の東郷坂と南法眼坂に相当する道にある各坂マーク△の頂点の向きは、前回と同様に、いずれも間違っている。一方、近江屋板はちゃんとしている。

行人坂下 行人坂下 行人坂下 行人坂下 『御府内備考』の説明文全体は、次のとおり。

「行人坂、裏六番町・表二番町の間にあり。中比この坂の傍に、何がしの法印といふ行人住居せし事あり。ゆへに行人坂といふ。或は法印坂ともいふ。法印坂を誤て法眼坂と云ものあり。【江戸紀聞】」

上記の江戸切絵図を見ると、この坂上の西側に表二番丁通り、坂下の西側に裏六番丁通りが延びている。法眼坂は、行人坂の別名の法印坂が誤ってよばれたとある。

『紫の一本』には次の説明がある。

「法眼坂 二番町より六番町に登る坂なり。むかし斉藤法眼と云ふ人の屋敷、この坂の際(きわ)にありつるゆゑに名とす。斉藤法眼は今の斉藤善右、同金七の先祖なり。」

『紫の一本』は、法眼坂の由来を、斉藤法眼の屋敷が坂のすぐそばにあったからとしている。

東郷坂下 東郷坂下 東郷坂下 東郷坂標柱 行人坂下の平坦部分を少し進むと、さきほどから行人坂から見えていた東郷坂の坂下である。行人坂と同程度の勾配で北へまっすぐ上っている。

南からきて坂下を右折し東へ進むと、御厩谷に至る。この坂下は、御厩谷の方から東へ延びる谷底にあたり、前回の記事のように、縄文海進期には御厩谷から細長く海が延びていた。

御厩谷では、二つの坂が谷を挟んで向かい合っていたが、ここでも行人坂と東郷坂とが谷を挟んで向かい合っている。坂を上り、途中振り返ると、行人坂が望まれる。

坂の途中東側には、公園があり、そのため、坂の右側は樹木がたくさん見え、坂上側にはちょっと古びた石垣がわずかであるが見える。

東郷坂下 東郷坂下 東郷坂中腹 東郷坂中腹 写真のように、坂下右側(東)に標柱が立っている。次の説明がある。

「この坂を東郷坂といいます。東郷元帥邸の西側にあたるこの坂は、明治三八年(一九〇五)一〇月、当時の麹町区会の議決により命名されたといいます。むかしは東郷坂のところを法眼坂、それから南法眼坂につづいていたといいますがはっきりしていません。今は東郷坂、法眼坂(行人坂)、南法眼坂の三つの名に分かれていますが、古い地図をみると「法眼坂」のみかかれています。」

この坂名は、東郷平八郎という日露戦争の時に日本海海戦を指揮した海軍大将の屋敷が坂の東側にあったことに由来する。標柱によれば、麹町区会の議決により命名されたとあるが、坂名の由来としては珍しい部類の内に入る。同じように軍人邸があったため坂名になったものに新宿の靖国通りの安保坂がある。

戦前の昭和地図を見ると、東郷坂、東郷邸とあり、その東側に東郷小学校がある。小学校の名前にまでなったようであるが、いまは九段小学校となっている。戦後こういった名前の改変は、全国あちこちで起きたことと推測される。この坂名は変えなかったようであるが。

坂名は、明治後半になってから付けられたので、江戸から続く坂名ではなく、標柱のように、江戸時代には、上記の行人坂と同じく、法眼坂とよばれていた。法眼坂を三つの坂の総称とすれば、その一部であった。

東郷坂中腹 東郷坂上 東郷坂上 東郷元帥記念公園 坂の東側の公園は、東郷元帥記念公園で、東郷邸のあったところである。坂の途中と、坂上から公園内に入ることができる。公園は意外と広く、右の写真のように、中央付近にライオンの石像があるが、これはかつて東郷邸にあったものであるという。

坂上から靖国通りへと向かう。余りにも暑かったので、途中、ラーメン屋に入って、冷たいビールでのどを潤してから、市ヶ谷駅へ。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大日本地誌大系御府内備考 第一巻」(雄山閣)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
中沢新一「アースダイバー」(講談社)
「東京人」⑥2011 no.297(都市出版)
校注・訳 鈴木淳 小道子「近世随想集」(小学館)

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袖摺坂~永井坂

2011年07月20日 | 坂道

袖摺坂上 袖摺坂上 袖摺坂上 袖摺坂標柱 前回の五味坂上はまた袖摺坂の坂上でもある。五味坂上を左折すると、御厩谷からの通りにもどり、袖摺坂の下りとなる。南へ向けてまっすぐに中程度の勾配で谷底へと下っている。1,2枚目の写真は滝廉太郎居住地跡の標識のある西側の坂上から撮ったものである。

坂上側に標柱が立っているが、次の説明がある。

「この坂を袖摺坂(そですりざか)といいます。むかし、この坂道は行きあう人の袖と袖がふれあうほどせまいのでその名がついたといわれます。幅のせまい道をこのように名付けた例は他にも見られます。」

袖摺坂というのは、行き交う人々が袖をすりあわせて通り過ぎなければならないほど幅の狭い坂道をいったものであるが、この坂もかつてはそうだったのであろう。

袖摺坂中腹 袖摺坂下側 袖摺坂下 袖摺坂下 尾張屋板江戸切絵図(東都番町大絵図)を見ると、ゴミ坂上を左折した道は、御厩谷からの通りであるが、ずっと同じ太さで太く描かれており、幅狭の道とはなっていない。この坂名はなく、坂マーク△があるものの、その頂点の向きが南であり、御厩谷と同じく間違いである。近江屋板も同じ太さで太く描かれ、坂名はないが、坂マークの向きはちゃんとしている。

ところが、天保14年(1843)の岡田屋嘉七板御江戸大絵図には、この坂の南の永井坂の道幅よりも狭く描かれている。坂名はないが、横棒の坂マークがある。 この坂下を直進し、谷底を過ぎると、下の写真のように永井坂の上りとなるが、坂下からちょっとのところに千代田区町名由来板という案内パネルがある。そこにある江戸絵図を撮ったのが下の2枚目の写真である。この絵図を見ると、永井坂は幅広であるが、袖摺坂は幅狭に描かれている。どこの板かわからないが、「安政三年・1856」とあるので、東都番町大絵図(1864年)よりもちょっと古い版である。しかし、上記の近江屋板の番町絵図は、嘉永二年(1848)の版であるので、これよりも新しい。

明治地図では、永井坂から袖摺坂の坂上まで太くなっており、その先の御厩谷方面が狭くなっている。

以上のように、袖摺坂はいつの時代までその名のとおりに幅狭であったのか、絵図や地図だけではわからない。

袖摺坂・永井坂周辺地図 永井坂周辺江戸切絵図 永井坂下 永井坂下 袖摺坂下は谷底で、ここは永井坂の坂下でもある。永井坂はこの谷底で左へ向きを少し変え、まっすぐに南へと上っている。勾配は袖摺坂と同じ程度だが、長さはこちらの方が長いようである。坂上が半蔵門駅である(坂下近くにも駅出入口があるが)。

坂中腹に立っている標柱には次の説明がある。

「この坂を永井坂といいます。坂下一帯は三丁目谷ともいわれています。名称のおこりは旗本屋敷の名によるとされています。
 嘉永四年(一八五一)の「東都番町大絵図」という切絵図をみますと永井勘九郎・永井奥之助という旗本が道をはさんで、ちょうどむかいあっているようにみえます。」

標柱は、上記よりも古い版の東都番町大絵図を参照しているようであるが、この少し後の上記の東都番町大絵図(1864年)にも、道をはさんで永井勘九郎の屋敷(東側)と永井奥之助の屋敷(西側)がある。近江屋板も同じである。いずれにも坂名はないが、坂マーク△が描かれている。上記写真の安政三年版もほぼ同様である。岡田屋嘉七板御江戸大絵図には、東側に永井ハヤト、西側にナガ井とある。

永井坂下 永井坂下 永井坂中腹 永井坂中腹 坂名は、以上のように、坂両側に二つの永井家屋敷があったことに由来することがわかる。

この通りは靖国通りから南へ向かうと、御厩谷坂を下り、その向かいの坂を上り、袖摺坂を下り、その向かいの永井坂を上り、新宿通りへと至るが、谷を二回通過するので、はげしくアップダウンが繰り返される道である。車だったらそれをもっと感じるに違いない。

このように山あり谷ありの人生のような通りであるが、縄文海進期の地図を見ると面白いことがわかる。

縄文海進期には、いまの九段坂下のあたりはもう海であるが、そこからこの近くまで海が細長く樹枝状に入り込んでいる。細くなった海域が二列このあたりにまで延びており、それらの跡が御厩谷と、この坂下の谷であると思われる。縄文時代に海であったところが谷底となって、それに挟まれるようにある麹町台地を横切ろうとすると、いまのような地形の道筋となる。ということで、ここは、縄文海進期の地形をいまに伝える特徴のあるところといってよい。これは赤坂の薬研坂などと同じである。

永井坂上側 永井坂上 永井坂上側 永井坂中腹 江戸切絵図を見ると、袖摺坂と永井坂の坂下の谷底には、谷町、麹町谷町の町屋があったことがわかる。横関は、江戸末期、この谷町には、武蔵屋という塩魚屋、福島屋という仕立屋、尾張屋新助という菓子屋、油屋嘉兵衛、伊助ソバ、髪結床、その他玉川という小さな料理屋、居酒屋などがあったと書いている。

この坂下に来ると、それまでビルだけのつまらない風景が続いていたのがちょっと変わり、飲屋や喫茶店などがあって商売風の一画を形成しているのは、その歴史のせいであろうと思ってしまう。江戸の歴史がいまに続く。そのもとの谷は縄文時代からである。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「大江戸地図帳」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
中沢新一「アースダイバー」(講談社)

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五味坂

2011年07月15日 | 坂道

五味坂上 五味坂上 五味坂標柱 五味坂標柱 前回の御厩谷坂の谷底から向かいの坂を上ると、ほぼ平坦な道が南へ続いている。しばらく歩くと、ちょっと下りになりったところが交差点で、信号がある。ここが五味坂の坂上で、ここを左折する下りとなる。また、左折せず直進すると、袖摺坂の下りである。

北東側へまっすぐに下っており、坂上でちょっと勾配があるが次第に緩やかになる。ちょっと坂下へと歩くと、信号があるが、このあたりはほとんど平坦である。このあたりが坂下と思われるが、石川は、その先の内堀通りから西南に上るかなり長い坂としている。

今回、そこまで行かなかったので次回の課題である。内堀通りにある未だ行っていない鍋割坂もあるし、と思い、地図を見ると、その北側にある二松学舎大学の近くに一時期、永井荷風の実家があったことを思い出した。冬青木坂から明治27年(1894)10月麹町区一番町42番地に移転している(以前の記事参照)。ここも訪れる必要がある。

五味坂下側 五味坂下 五味坂下 五味坂下側 坂上からちょっと下った右側歩道に標柱が立っており、次の説明がある。

「この坂の名称は、五味坂(ごみざか)といいます。「ごみ」という名前から「芥坂」や「埃坂」の字をあてたり、その意味から「ハキダメ坂」と呼んだり、さらに近くにあったという寺院の名から「光感寺坂」・「光威寺坂」と呼ばれ、さらに「光感寺坂」がなまって「甲賀坂」とも呼ばれたともいいます。 『麹町区史』には、「由来は詳らかでないが、光感寺が元とすれば甲賀は光感の転化らしく、ごみは埃ではなく五二が転化したものではないか」という内容の説明があります。つまり、坂の辺りは「五番町」で、坂を登ると「上二番町」なので、二つの町を結ぶ坂として五二坂と名前がつき、「五味坂」に変わったのではないかということです。ちなみに昭和一三年(一九三八)に実施された区画整理の結果、「五番町」と「上二番町」は現在では「一番町」に含まれています。」

尾張屋板江戸切絵図(東都番町大絵図)を見ると、御厩谷のある通りを南へ進み、東側へ折れた道に、△ゴミ坂とある。坂から坂下の周囲は武家屋敷であるが、坂下を進むと、濠わきの堀端一番丁に至る。その先が丸く曲がっているが、このあたりが現在の内堀通りの東側にある千鳥ヶ淵戦没者墓苑と思われる。

近江屋板には、△ハキタメ坂とある。岡田屋嘉七板御江戸大絵図には、坂名はないが、多数の横棒による坂マークがある。

『御府内備考』には次の説明がある。

「埃坂 火消屋敷の上へ上る坂なり。本の名光感寺坂と云よし。【江戸紀聞】又甲賀坂ともいふ。」

標柱には、多数の別名と、そのいわれを書いている。どれが本来のものかわからなくなってしまうが、やはり「ゴミ」を中心に考えるべきと思われる。

五味坂上 滝廉太郎居住地跡 滝廉太郎居住地跡説明板 五味坂遠望 横関は、江戸の他の地域にあった芥(ゴミ)坂と由来が同じと考えている。標柱にある『麹町区史』の五二坂から五味坂への転訛説には疑問を呈し、その理由は江戸っ子はそんな名前のつけ方はしなかったということにある。江戸市中には芥坂が多数あるから(新宿区市谷の芥坂、新宿区筑土八幡神社近くの芥坂など)、ここだけ特別であるはずがない。江戸切絵図のゴミ坂、ハキダメ坂、というのがやはり本来の名であろう。

五味坂上の横断歩道を西へ渡ると、その角に、二枚目の写真のように、滝廉太郎居住地跡の説明板やレリーフなどがある。(この写真の左に見える歩道が次に行く袖摺坂である。)

坂上の横断歩道を西へ渡ったさきはちょっと上りとなっているが、右の写真は、そこから五味坂方面を撮ったものである。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「大江戸地図帳」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大日本地誌大系御府内備考 第一巻」(雄山閣)

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御厩谷坂

2011年07月14日 | 坂道

御厩谷坂上の手前 御厩谷坂上 塙保己一和学講談所跡 御厩谷坂上 前回の一口坂上で靖国通りを横断し、そのまま南へ進み、突き当たりを左折し、東へ歩くが、この通りの右側(南)は三番町である。このあたりは、永井荷風と関根歌に大いに関係するところである。荷風「断腸亭日乗」昭和2年(1927)9月12日に次のようにある。

「九月十二日 快晴、秋暑益甚し、去年の春書捨てたりし短篇小説捨児といふものを改竄す、晡下邦枝氏来訪、風月堂にて晩餐を俱にす、驟雨を太牙楼に避く、帰途窃に阿歌を見る、阿歌妓籍を脱し麹町三番町一口坂上横町に間借りをなす、」

荷風は、このころ、富士見町の藝妓(歌)を身受けし、三番町一口坂上横町に囲った。ここがどこかはっきりしないが、一口坂上の靖国通りを横断しちょっと進んでから横に入る横町と思われる。その後、お歌は、芝西久保八幡町(仙石山のふもと)に移ってから、昭和3年(1928)3月三番町十番地で待合幾代を開業した。資金はもちろん荷風の負担で、荷風は幾代の旦那である。

やがて、信号のある交差点に近づくが、このあたりがその待合幾代があったところの近くと思われる。左の写真の白い建物のあたりが三番町十番地であったが、この区画は当然ながらある程度広いので、実際の位置はわからない。(このあたりが戦前の昭和地図で九段三丁目、現在、九段南三丁目、明治大正東京地図で三番町十番地である。)

左の写真の交差点が御厩谷坂の坂上で、ここを右折しちょっと歩くと下りになり、左折すると靖国通りに至り、靖国神社の向かいである。二枚目の写真は、坂上を交差点北側から撮ったものである。坂上右(東側)に、塙保己一和学講談所跡の標柱が立っている。

御厩谷坂上 御厩谷坂上 御厩谷坂標柱 御厩谷坂標柱 この坂は、北から南へまっすぐに下っており、坂上側で勾配がちょっとある。面白いことに、一、三枚目の写真からわかるように、坂下が谷底のようになっていて、そこからふたたび上り坂となる。坂下側に大妻女子大学がある。坂途中に立っている標柱には、次の説明がある。

「この坂を御厩谷(おんまやだに)坂といいます。『新撰東京名所図会』には「一番町と上六番町との間、すなわち井伊家邸前より南の方に係れり。厩谷もと御厩谷という。むかし徳川将軍家の厩舎ありしに因り此名あり。」と記され、『新編江戸志』にも「今も紅梅勘左衛門殿やしきに御馬のし池残りてあるなりというと見えたり」とあります。御厩谷にかかる坂ということにより坂名となりました。」

尾張屋板江戸切絵図(東都番町大絵図)を見ると、現在の北から南へ下る坂のところに坂マーク△、谷底近くに御厩谷、その南に坂マーク△があるが、△の頂点が両方とも南側を向いており、実際の地形とあっておらずおかしい。しかし、近江屋板では、北側にある坂マーク△の頂点は北を向いている。尾張屋板の北側の坂マーク△の向きは誤りであろう。

『御府内備考』には次の説明がある。

「御厩谷 表六番町のうらの方をいふ。むかし此辺に御厩ありし故の名也。紅林氏の屋敷の裏に、御馬の足洗ひし池残りて有といふ。【江戸紀聞】」

将軍家の御厩(うまや)がこの谷にあったので、御厩谷とよぶようになったらしい。

御厩谷坂下 御厩谷坂下 御厩谷坂遠望 佐野善左衛門宅跡 横関によれば、谷をはさんで二つの坂がある場合、谷の名を呼んで坂の意味を持たせたという。この御厩谷もそうで、御厩谷というと、谷をはさんで向かい合った二つの坂を同時にいった。赤坂の薬研谷はその例である。のちにどちらか一方のみを呼ぶようになった坂があるとのことで、その例がこの坂である。

三枚目の写真は向かいの坂上側からこの坂を撮ったものであるが、ともに立派な坂で、むかしのように両方を御厩谷坂と呼んでもよいように思えてくる。

坂下近くに、佐野善左衛門宅跡の説明板が立っているが、元禄の頃から、この近くに旗本佐野家の屋敷があった。天明4年(1784)3月24日、当主佐野善左衛門政言(まさこと)は、江戸城内で、時の老中田沼意次の嫡子で若年寄の田沼意知(おきとも)に斬りつけ、その後、意知は死亡し、佐野政言も翌日切腹となった。私怨が原因というが、相手が評判の悪い田沼だけに民衆はそう受け取らず、落首・落書が氾濫した。事件の翌月、米価が一時的に下落したので、佐野は「世直し大明神」とあがめられ、葬られた浅草徳本寺は参詣人で引きもきらなかったという。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第一巻」(雄山閣)
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
秋庭太郎「考證 永井荷風」(春陽堂)
北島正元「日本の歴史18 幕藩制の苦悶」(中公文庫)

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外濠公園~一口坂

2011年07月13日 | 坂道

新見附橋近く外濠公園 新見附橋近く外濠公園から 新見附橋近く外濠公園から 前回の富士見坂下を進むと平坦な道になり、法政大学の門を通りすぎると、一口坂下から延びてくる道路に出るが、一口坂方面に向かわず、右折し反対の新見附橋方向に進み、その手前で外濠公園に入る。ここの木陰で腰を掛け、ペットボトルのちょっとぬるくなった水を飲んで一休み。そんなに歩いていないが、暑いので疲れた。ときおり吹いてくる風が心地よい。

尾張屋板江戸切絵図(東都番町大絵図)を見ると、このあたりは、土手四番町で、北へ進むと、幽霊坂の記事に出てきた板倉家屋敷のわきに出て、やがて牛込御門へと至る。いまも静かなところなので、江戸時代はもっと静かで、夜などかなり寂しく一人歩きなどは怖かったに違いない。

しばらく休んでから、細長い公園を歩くと、眼下に外濠が見え、直下に中央線が走っている。二、三枚目の写真のように、西側(左)の新見附橋の向こう遠くに市ヶ谷橋を望むことができる。その向こうの森は市ヶ谷八幡神社であろうか。ここは東京にしては眺望のよいところといってもよいかもしれない。

一口坂下 一口坂下 一口坂下 一口坂下 外濠公園を出て南へ進む。新見附橋からの道がまっすぐに靖国通りまで延びているが、その靖国通りへと上る坂が一口坂である。平坦な道を歩いていくと、信号のある辺りから上りとなる。勾配は中程度で、長さもさほどない。靖国通りに直角に接続しまっすぐにきっちりとした坂道である。

この坂は、東京ではよく見られる地形の坂であるが、面白いのは、その坂名である。「ひとくち」ではなく、もともと「いもあらい」といった。

坂上近くになっている標柱には、次の説明がある。

「この坂を一口坂といいます。『麹町区史』には "一口坂の一口は、大阪のいもあらいと同じくイモアライと読むべきで、電車一口坂停留所から北へ九段電話局の前を新見附へ降る坂である" とかかれています。疱瘡をいもがさとかへもとよんで、疱瘡を洗う(治す)という意味として知られています。ただこの疱瘡に霊験あらたかな社がどの辺にあったのかということは不明です。」

一口坂中腹 一口坂中腹 一口坂上 一口坂上標柱 標柱にもあるように、いもあらいの「いも」は、いもがさ、疱瘡(ほうそう)のことで、「あらい」は、洗う、治すことである。疱瘡にかかった人が治療のために洗うことで、それには疱瘡神の信仰が背景にあった。どこで洗ってよいものではなく、疱瘡神社の池や湧き水のように霊験あらたかな水である必要があった。この解釈は、横関が詳しく、六本木にある芋洗坂の坂名についてかなり詳細な説明がある(以前の記事参照)。要するに、いもあらい坂というのは、疱瘡神のそばの坂ということである。

横関は、「いもあらい坂と疱瘡神」という一章で、「いもあらい」という言葉を、坂名に限らず、地域も江戸の外まで拡大し、すべてのものから「いもあらい」を追求すると、本当のことがわかるとしている。たとえば、山城久世郡(京都府)の一口沼(いもあらいぬま、芋洗沼とも書く)のほとり、一口(いもあらい)の里。ここは、駿河台の一口(いもあらい)稲荷の元地で、太田道灌がここのいもあらい稲荷を、初め江戸城内に勧請した。その沼の水で疱瘡を洗えば、疱瘡が治ったり、軽く済んだということであろう、と推測している。

この一口坂のふもとには、大きな沼があったが、一口坂近くに疱瘡神があったという記録がなく、地図にもない。ここに何らかの疱瘡神がないと、ここがいもあらい坂といえなくなってしまう、とする。

おおげさであるが、いもあらい坂に関する横関説がここでは危うくなっている。なにかの文献でそれが発見されれば泉下の横関もよろこぶに違いない。

一口坂上標柱 一口坂上 一口坂信号 一口坂上 尾張屋板江戸切絵図(東都番町大絵図)を見ると、この坂の周囲のみならず、すべてが武家屋敷で、神社仏閣がなく、町屋もない。それに、坂名も坂マークもない。尾張屋板は、神社などを赤色、町屋をねずみ色であらわしているが、ここの絵図は、それらがないので、違う板の絵図かと思ってしまうほどである。近江屋板、岡田屋嘉七板御江戸大絵図にも坂名も坂マークもない。

坂上の靖国通りに一口坂という市電の停留場があったが、石川によれば、車掌は、イモアライザカ、とよんでいたが、いつのまにか、ヒトクチザカ、とよぶようになった。そうなったのは、市電から都電に改まった後であったろう、としている。

三枚目の写真のように、ここの信号も、ヒトクチザカ、となっている。四枚目の写真は、靖国通りを横断し、反対側から坂上を撮ったものである。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「大江戸地図帳」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)

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富士見坂

2011年07月12日 | 坂道

幽霊坂の通り 富士見坂上 富士見坂上 富士見坂上 前回の幽霊坂上を左折し、南へ進む。左の写真は三つの幽霊坂のある通りの南側を撮ったもので、右側は衆議院議員宿舎の敷地である。このあたりが江戸切絵図にあった蛙原と思われる。

やがて変則的な四差路に至るが、ここを右折し、そのまま直進すると、左手に靖国神社の裏手の塀が続き、富士見坂の坂上に至る。

坂上からまっすぐに西へ下っている。勾配は緩やかな方で、坂下右側の法政大学の門前まではかなり長い。坂上からずっと坂下まで左側は靖国神社裏の塀で、右側はビルである。石垣が高さはないが塀などとともに古めかしくよい味をだしている。坂中ほどは両側からの樹木でちょっと薄暗くなって、いかにも裏道にある坂といった好ましい雰囲気になっている。

この坂の北側は、富士見二丁目で、かつては富士見町であるが、このあたりから富士山がよく見えたため、それが坂名や町名になっている。これは、南麻布の新富士見坂青木坂(富士見坂)と同じである。

富士見坂上 富士見坂標柱 富士見坂標柱 富士見坂中腹 坂をちょっと下った左側歩道に標柱が立っており、次の説明がある。

「この坂を富士見坂といいます。 同名の坂は各地にあり、千代田区にも三か所をかぞえます。もともと富士見町という町名は富士山がよく見える台地につくられた町ということでしょう。むかしはこの坂から富士山の美しい姿が見えたことによりその名がつけられたということです。坂の下で一口坂と合流します。」

富士見坂は、都内のあちこちにあるが、千代田区には三つあるとされ、ここ以外は、諏訪坂下の青山通りで弁慶橋の方へ下る坂(永田町二丁目の衆議院議長公邸前)、神田駿河台一丁目の明治大学の南側にある南西へ下る坂、である。

尾張屋板江戸切絵図(東都番町大絵図)には、裏四番丁の通りに、富士見坂とある。面白いことに、ついている坂マークが多数の横棒ではなく、三角印△である。この坂マークは近江屋板専用と思っていたが、そうでもないようである。この絵図では他の坂にもこのマークを使っている。近江屋板、岡田屋嘉七版御江戸大絵図には、坂名も坂マークもない。

富士見坂中腹 富士見坂中腹 富士見坂下側 富士見坂下 横関は、この富士見坂と、上記の青山通りにある富士見坂と、護国寺前の先にある富士見坂から、いつも立派な富士が見えたが、いまはこれらの坂からも見ることができない、と嘆いている。

休日の午後、人通りもほとんどなく、静かなところで、ゆっくりした坂散策を楽しむことができる。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「大江戸地図帳」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)

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三つの幽霊坂(3)

2011年07月11日 | 坂道

第3の幽霊坂上 第3の幽霊坂上 第3の幽霊坂下側 第3の幽霊坂下 前回の幽霊坂上を左折して直進し、しばらく南へ歩くと、左に東へと下る坂がある。富士見2-11と12の間である。ここが第3の幽霊坂の坂上で、山野には三番目の幽霊坂として紹介されている。

坂上からかなり急に下り、坂下側で左に曲がってすぐに緩やかになり、平坦になってからまっすぐに早稲田通り方面に延びている。となりと同じく短い坂である。坂下側で古びたコンクリート塀があったり、舗装のはじが苔むしたり、植え込みがあったりして、その名の雰囲気をちょっと醸し出しているが、こういった風景はどこにでもある。

それでも、三つの幽霊坂の中では、もっともその名に似合った坂となっている。この近辺に幽霊坂が三つもあるというのは、なぜかわからず、不思議であるが、江戸から明治にかけてそんなふうに呼んでもよいような雰囲気があったのであろう。

第3の幽霊坂下 第3の幽霊坂下 第3の幽霊坂下 第3の幽霊坂下 尾張屋板江戸切絵図(東都番町大絵図)に、富士見坂の坂上の四差路を左折したところに蛙原というのがあるが、このあたりをいったのであろうか。蛙のなく寂しいところの坂であったためについた名かもしれない。

各江戸絵図には、この坂に相当する道筋は見えないが、となりと同じく武家屋敷の間にできた狭い近道のような寂しく暗い小坂であったのかもしれない。

この坂は、石川、岡崎に紹介されているが、横関にはない。岡崎にのっている坂上からの写真には、コンクリート塀に蔦が絡まって寂しげな様子が見える。石川は、土地の人はここを幽霊坂とよんでいる、と記している。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「大江戸地図帳」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)

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三つの幽霊坂(2)

2011年07月10日 | 坂道

第2の幽霊坂上 第2の幽霊坂上 第2の幽霊坂上 第2の幽霊坂坂上 前回の幽霊坂上を直進すると、すぐに、左手(北東)にまっすぐに下る坂が見えてくる。ここが第2の幽霊坂の坂上である。山野には二番目の幽霊坂として紹介されている。富士見2-12と13の間。

坂上からかなり急に下っているが、すぐに緩やかになる短い坂である。坂上から見て左側に大きなビル(角川書店)があり、近代化された風景が眼前に広がって、ビルが高層でないためもあってか、明るく、ゆったりとした感じのところで、とても幽霊坂といった雰囲気ではない。三つの幽霊坂の中では、もっともその名に似合わない坂になっている。

坂下を直進すると、早稲田通りであるが、先ほど通ったとき、遠くにこの坂とビルが見えた。

佐藤春夫は、大正6年(1917)2月から5ヶ月ほどこの坂にあった家に暮らしたが、そこでの生活を描いたのが『都会の憂鬱』であるという。

第2の幽霊坂下 第2の幽霊坂下 第2の幽霊坂下 尾張屋板江戸切絵図(東都番町大絵図)を見ると、富士見坂の坂上の四差路を左折したところに、蛙原があり、そのさきが板倉内膳正の屋敷の前で、門前から北東へ続く道はあるが、その間に北東への道はない。近江屋板、岡田屋嘉七版御江戸大絵図も同様である。

上記の各江戸絵図を見る限り、江戸末期にはなかったようであるが、石川は、この辺はすべて武家地であったので、屋敷裏の非常に寂しい坂だったのであろうとし、また、岡崎は、小・中の武家屋敷の間の逼塞した気味悪い通りであったに違いないとしている。明治大正東京地図を見ると道があるので、明治以降にちゃんとした道になったのであろうか。

この坂は、石川、岡崎、横関のいずれにも紹介されていて、大和銀行寮の前を北東に下る小坂となっている。岡崎にのっている坂上からの写真を見ると、いまよりも狭い坂道がまっすぐに続いている。

別名を勇励坂というが、石川は、後世の人が幽霊坂では不景気なので、勇ましい字に改めたのであろうとする。横関は、そのように変えてしまうと、残るのは何だかわけのわからない坂名だけで、坂名や地名は、原名がいちばん意味がわかって面白い、と批判している。同じような例は他にもあり、一口(いもあらい)坂をひとくち坂、無縁坂を武辺坂、とび坂を富坂、と呼ぶ例を挙げている。

この坂は、岡崎、石川のように、江戸時代に武家屋敷の間に狭い近道のようにしてできた昼でも暗く寂しい雰囲気の坂であったのかもしれない。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「大江戸地図帳」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
新潮日本文学アルバム 佐藤春夫(新潮社)

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三つの幽霊坂(1)

2011年07月09日 | 坂道

第1の幽霊坂下 第1の幽霊坂下 第1の幽霊坂下 第1の幽霊坂途中 前回の二合半坂の二番目の坂下を左折し、早稲田通りに出て右折する。次は、富士見二丁目にある三つの幽霊坂を目指す。幽霊坂の密集地である。山野に紹介されている。

きょう、午前中はほぼ曇りで、曇天が続くとの見込みで出かけてきたが、さにあらず、陽が出てかなり暑い。コンビニがあったので、ペットボトルの冷たい水で水分補給。

早稲田通りを北へ進み、小さな飯田橋郵便局の角を左折し、西南方向に歩き、ちょっとした上り坂となったさきを左折すると、第1の幽霊坂の坂下で、富士見2-13と14の間の道である。山野で最初の幽霊坂とされているところで、緩やかな勾配でまっすぐに東南へ上っている。長さはさほどない。静かなところである。

第1の幽霊坂途中 第1の幽霊坂上 第1の幽霊坂上 第1の幽霊坂上 尾張屋板江戸切絵図(東都番町大絵図)を見ると、目印となるものがないが、探すと、これから向かう富士見坂がある。この坂上の四差路を左折したところに、蛙原ト云、とあり、そのさきが、この坂と考えると、板倉内膳正の屋敷の前のあたりである。

近江屋板には、富士見坂はないが、四差路を左折したところが広い空き地のようになっている。その先に同じ屋敷がある。岡田屋嘉七版御江戸大絵図には、四差路を左折したところに、ニンジンハタケ、とあり、その先に同じ屋敷がある。

上記の各江戸絵図といまの坂の道筋が対応すると考えると、この坂は板倉内膳正の屋敷の前付近ということになるが、いつの時代にこう呼ばれるようになったか不明である。

この坂は、山野、岡崎、「東京23区の坂道」に紹介されているが、これらは坂名の由来や過去の文献などに触れていない。横関、石川には紹介されていない。

坂名の由来などなにもわからないという不思議な坂であるが、いつの時代か、そう呼ばれるようなさみしいところであったのであろう。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「大江戸地図帳」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)

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二合半坂

2011年07月08日 | 坂道

冬青木坂上から二合半坂上方面 二合半坂上 二合半坂上 二合半坂上 前回の冬青木坂上を右折すると、まっすぐに幅狭の道が延びている。フィリピン大使館の塀に沿って北へ延びる静かな通りである。ほぼ平坦な道が続くが、ここが二合半坂の坂上である。

この坂は、ちょっと変わった上下をしている。坂上が平坦なまま長く続き、やがて下りになるが、さほど勾配も長さもなく、途中に標柱が立っており、ここをすぎると、ふたたび平坦でまっすぐな道が続いてから、左にカーブしてほぼまっすぐに下る。この下りが勾配もあり長さもちょっとあって、坂らしくなっている。

歩きながら、どこかの坂と似ていると思ったら、六本木の鳥居坂の近くにある於多福坂である。鳥居坂上を外苑東通り方面へ直進し、途中で右折し突き当たりを右折すると、於多福坂上である。ここはすぐに、下りになるが、その後平坦な道が続いてから、ふたたび下る。いずれも坂が二つあってその間に長く平坦な道がある。両方ともユニークな坂名である点も似ているといえば似ている。

二合半坂上 二合半坂上 二合半坂標柱から坂上側 二合半坂標柱から坂下側 尾張屋板江戸切絵図(飯田町駿河台小川町絵図)には、モチノ木坂上の北側の道に二合半坂とある。坂の両側は武家屋敷である。近江屋板も同様で、△二合半坂となっている。

岡田屋嘉七版御江戸大絵図を見ると、ニコウハンサカ、とあるが、坂上がモチノ木坂の坂上側に突き当たっている。二つの江戸切絵図はこれと違い、坂上を左に見て直進すると中坂上へと続くが、現在もそうである。

上側の坂の途中の標柱に次の説明がある。

「この坂は二合半(にごうはん)坂と呼ばれています。名前の由来は諸説あります。
『再校江戸砂子』という史料には、日光山が半分見えるためと書かれています。なぜ「日光山が半分見える」と「二合半」になるのでしょう。このことについて、『新撰東京名所図会』という史料での考えを紹介しましょう。
 富士山は麓から頂上までを十分割して一合・二合・・・と数えますが、西側に見える富士山と比べると日光山はその半分の高さ(五合)に見え、その日光山がこの坂からは半分しか見えないので五合の半分で二合半になるという考えです。
 この他に、あまりに急な坂であるため一合の酒を飲んでも二合半飲んだ時のように酔ってしまうからという説もあります。」

上記の由来から、日光坂の別名がある。

二合半坂標柱から坂下側 二合半坂途中から坂上側 二合半坂下側 二合半坂下側 『御府内備考』には次の説明がある。

「二合半坂
黐木坂のならひなり。日光山の半みゆるなりと。【再校江戸砂子】に記せるは甚附會の説なり。別に故あるべし。【江戸紀聞】」

標柱が引用する『再校江戸砂子』の「日光山が半分見えるため」説は、付会(こじつけ)の説である、と手厳しい。

横関は、(標柱のように考えると)はなはだ理屈っぽいが、五合の半分が二合半、というだけの簡単なことで、これだったら、江戸っ子の付けそうな名であるとしている。

石川は、単純な推量だが、坂下の飯田町に酒屋などがあり、コナカラとよばれていた二合半入りの酒升を一杯ひっかけて、この坂をほろ酔い機嫌で家に戻る御家人などがあったのでは、としている。(これもかなりのこじつけのように思われる。)

二合半坂というユニークな坂名の由来は、「日光山が半分見えるため」説が主流のようであるが、そのように考えた方が面白いと思ってしまう。

永井荷風は、『日和下駄』で「飯田町の二合半坂は外濠を越え江戸川の流を隔てて小石川牛天神の森を眺めさせる。」と書き、眺望のよい坂の一つに挙げている。いまは日光山どころかすぐ近くの牛天神も見えない。

二合半坂下側 二合半坂下 二合半坂下 二合半坂下 九段坂から二合半坂まで巡ってきたが、いずれも江戸切絵図に坂名がのっている江戸から続く坂である。九段坂下から坂を上り、右折し北へ向かい、右折し中坂を下り、目白通りを左折し、次を左折し冬青木坂を上り、右折し二合半坂を下ると、簡単だが江戸の坂巡りのできるよい坂散策コースとなる。逆のコースもよい。

ところで、この坂の坂下であるが、横関、石川は、北に下り、突き当たって右折し、さらに目白通りに下る坂としており、これによれば、二回目に下った坂下(3,4枚目の写真)は最終的な坂下でなくなってしまう。今回は、写真の下ったところを坂下と思ったが、山野や「東京23区の坂道」も同じく写真のところを坂下としているようである。その当否はともかく、次回は、その目白通りからアクセスしてみたい。

写真の坂下を左折し、早稲田通り方面に向かう。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「大江戸地図帳」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大日本地誌大系御府内備考 第一巻」(雄山閣)
「荷風随筆集(上)」(岩波文庫)

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冬青木坂

2011年07月07日 | 坂道

冬青木坂上 冬青木坂上 冬青木坂上 冬青木坂上 前回の中坂上を右折しちょっと進み、一本目を右折すると冬青木坂(もちのきざか)の坂上である。この坂上の北側(左)はフィリピン大使館で、このわきを東へとまっすぐに下っている。坂上側と坂下側は緩やかであるが、途中は中程度の勾配がある。坂下は目白通りで、その北側にホテルグランドパレスがある。

この坂は、九段坂中坂とほぼ平行で、いずれも麹町の北台地と東側の谷とを結ぶ坂である。

大使館のわきの古びた石垣が好ましい雰囲気をつくっている。こういった石垣があると、いかにも歴史を感じさせる。九段坂、中坂、冬青木坂の順に来たが、ここがもっとも道幅が狭く、裏道といった感があるものの、こういった坂の方が坂道散策にはずっと適している。静かで、車もめったに通らない。もっともとなりの中坂も車の通行量は少なかったが。

冬青木坂上側 冬青木坂上側 標柱 冬青木坂上側 冬青木坂中腹 坂をちょっと下ったところに標柱が立っている。その説明は次のとおり。

「この坂を冬青木坂(もちのきざか)といいます。『新編江戸志』には「此所を冬青木坂ということを、いにしへ古び足るもちの木ありしにより所の名と呼びしといえど左にあらず、此坂の傍に古今名の知れざる唐めきて年ふりたる常盤木ありとぞ。目にはもちの木と見まがえり。この樹、先きの丙午の災に焼けてふたたび枝葉をあらはせじとなん。今は磯野氏の屋敷の中にありて、其記彼の家記に正しく記しありという」とかかれています。」

尾張屋板江戸切絵図(飯田町駿河台小川町絵図)を見ると、中坂のとなりに、モチノ木坂、とあり、下に坂マークの多数の横棒が続いている。坂の南側は中坂と同じく町屋であるが、北側は武家地で、坂上から順に、青山辰之助、磯野丹波守、松平因幡守の屋敷が並んでいる。近江屋板には、△モチノ木坂、とある。

岡田屋嘉七版御江戸大絵図には、モチノキサカ、とあり、坂の中程に、イソノ、とある。

以上の絵図から、標柱が引用した『新編江戸志』にでてくる磯野氏の屋敷とは、坂中腹にあったことがわかる。

前々回の記事の『江戸名所図会』の挿絵をみると、中坂の向こうに、もちのき坂、とあり、南側(手前)は町屋だが、北側は武家屋敷のようにみえる。現在と同じように狭く、中坂と違って、人通りはほとんどないように描かれている。

冬青木坂中腹 冬青木坂中腹 冬青木坂中腹 冬青木坂中腹 天和二年(1682)成立とされる『紫の一本』に次のような説明がある。

「もちの木坂 田安の御門より北へ行きて、元鷹匠町へおりる所の坂を云ふ。むかしこの坂に大きなるもちの木ありし故なり。」

『御府内備考』の説明は次のとおり。

「冬樹坂 又黐(ただし、「木」へん)木坂と書中坂の北なり、此所に古きもちの木のありしかばかく名付るといへり。又さにはあらで、此坂の傍に古木の□木あり。その木世にたぐひなきものにて、誰もさだに知るものなし。よそめには冬樹のやうにまかへり。此木先年の火災にかゝりて、再び枝葉をあらはさずとなん。今は礒野氏の屋敷の内にありといふ。【礒野家記】」

この礒野(磯野)家記は、上記の『新編江戸志』と説明がそっくりであるが、比べると、こちらの方が先のようである。

『南向茶話』には、「もちの木坂は坂上中程、青山七右衛門屋敷裏に大木あり、これをいふ・・・」と書いているという(石川)。

黐木(もちのき)は、暖かい地方に生える常緑高木で、幹は高さ5~10mになる。葉身は倒卵状楕円形で長さ4~8cm、厚い革質で光沢がある。果実は径1cmほどの球形で、10~11月に赤く熟す。樹皮で鳥もちをつくる。冬青(とうせい)ともいったので、黐木→冬青木となったのであろう。

冬青木坂下 冬青木坂下 冬青木坂下 冬青木坂下 永井荷風の実家は、小石川金富町にあったが、明治26年(1893)11月に麹町区飯田町三丁目黐ノ木(もちのき)坂に移転した(以前の記事参照)。坂の中途にあった借家であった。神田方面を見下ろす眺望のよい家であったという。ただし、翌年10月に一番町の方に移っているので、この坂には一年弱ほどしかいなかった。荷風中学三年のころである。

横関に昭和40年代と思われるこの坂の写真がのっているが、いまも特に北側でその面影を残しているように見える。坂のコンクリートに滑り止めの横溝がたくさん見えるのが印象的である。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「大江戸地図帳」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
校注・訳 鈴木淳 小道子「近世随想集」(小学館)
「大日本地誌大系御府内備考 第一巻」(雄山閣)
「江戸名所図会(一)」(角川文庫)
秋庭太郎「新考 永井荷風」(春陽堂書店)
菱山忠三郎「ポケット版 身近な樹木」(主婦の友社)

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中坂

2011年07月06日 | 坂道

中坂下 中坂下 滝沢馬琴硯の井戸標柱 中坂下 中坂下 前回の九段坂下を左折し、目白通りに沿って北へ進むと、次の信号のところが中坂の坂下である。左の写真はこの交差点を東へ渡ってから振り返って中坂を撮ったものである。

この近くに二枚目の写真のように、「滝沢馬琴 硯の井戸」の標柱が立っている。標柱のわきから中坂下が見える。この標柱によると、馬琴は、寛政五年(1793)27歳の時から文政七年(1824)58歳までこの元飯田町に住んでいたとのこと(一部修正)。

この坂は、となりの九段坂と同じく西へまっすぐに上っている。勾配もほぼ同じようであるが、坂中腹でかなり急になる点が特徴的で、途中で緩やかになってから坂上に至る。坂下から坂上までかなり長い。坂上を左折すると、九段坂上である。

中坂下側 中坂下 中坂中腹 中坂中腹 築土神社 坂上近く北側に標柱が立っているが、次の説明がある。

「この坂を中坂(なかざか)といいます。『御府内沿革図書』によると、元禄三年頃(一六九〇)までは武家地となっており坂はできていませんが、元禄十年(一六九七)の図以降になると中坂が記載され、元禄十四年(一七〇一)以降の図には世継稲荷神社も見ることができます。なお、『新撰東京名所図会』には、「中阪は、九段阪の北方に在り。もと飯田阪といへり。飯田喜兵衛の居住せし地なるに因れり中阪と称するは、冬青阪と九段阪の中間に在るを以てなり。むかし神田祭の山車等は、皆此阪より登り来れるを例とせり。」とかかれています。」

尾張屋板江戸切絵図(飯田町駿河台小川町絵図)を見ると、九段坂のとなりに、飯田町中坂通り、とあり、下に坂マークである多数の横棒が続いて描かれてる。坂の両側は町屋である。近江屋板には、△中坂、とあり、両側が飯田町である。

現在、坂中腹に築土神社があるが、江戸切絵図では、田安イナリ、がある。

岡田屋嘉七版御江戸大絵図には、ナカサカ、その南側に、世ツギイナリ、とある。この世継稲荷と田安稲荷との関係がよくわからない。

中坂中腹 中坂上側標柱 中坂上側標柱 中坂上 この坂は、九段坂と冬青木坂の間にあるから中坂といわれた。横関によれば、江戸時代、新しく坂ができるとすぐに、これを新坂と呼ぶ、または、坂の形態が切通し型になっていれば、切通坂と呼び、既設二坂の中間に新坂ができると、中坂と呼んだという。中坂、切通坂はともに新坂である。中坂は左右二つの坂よりも新しい坂であることはまず原則であるといってよい、としている。

二つの坂の外側に新坂ができたため、こんど新しく中にはさまれた坂が中坂と改名されたという例はない、とのことで、中坂は新坂と同義であるからとする。

標柱が引用する『新撰東京名所図会』では中坂の別名を飯田坂とするが、横関は、飯田坂は九段坂の元名で、中坂の元名ではありえないとしている。

『御府内備考』の御曲輪内之四に中坂の説明として「飯田坂と冬青樹坂との間に在り。故に呼名とす。」とある。また、前回の記事のように、「飯田坂を今九段坂ともいへり」、としているので、飯田坂は九段坂の元名といってよいようである。

中坂上 中坂上 中坂上 中坂上 硯友社跡説明板 前回の記事のように『江戸名所図会』の挿絵には、真ん中に中坂が描かれ、坂両わきに町屋ができ、たくさんの通行人が坂を上下している。九段坂よりも多い。横関に、昭和40年代と思われる中坂の写真がのっているが、両わきは商店が多いようで、下町の雰囲気である。江戸からの町屋が続いていたような感じを受ける。現在はビルばかりになって、往時の面影はほとんど残っていないようである。

三、四枚目の写真のように、坂上北側に硯友社跡の説明板が立っている。ここに、明治時代に尾崎紅葉らによる文学結社の硯友社(けんゆうしゃ)の社屋があった。この説明にある硯友社の一員であった石橋思案は、永井荷風の生家のあった金富町に住んでいて、荷風が偏奇館に移る前に土地を探しに近くに行ったとき思案を訪ねたことを「断腸亭日乗」に記している(以前の記事参照)。

坂上の説明板のところを右折すると、冬青木坂、二合半坂方面である。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大日本地誌大系御府内備考 第一巻」(雄山閣)
「江戸名所図会(一)」(角川文庫)

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九段坂

2011年07月05日 | 坂道

今回は、九段坂から北側(飯田橋側)の坂を巡り、それから南側の三番町方面の坂にも行った。

九段坂周辺街角地図 九段坂下 九段坂下 九段坂下 午後九段下駅下車。

地下鉄の駅から地上に出ると、九段坂の坂下である。坂下の目白通りとの交差点から西へまっすぐに上って、坂上側で左にちょっと曲がっている。勾配はさほど急でなく中程度といったところである。靖国通りにある坂で、道幅が広く、交通量も多い。ゆっくり写真を撮っていられない。新宿近くの靖国通りに安保坂というのがあるが、そこと同じように、信号を待ちながら途切れるのを待つ。

お濠のある南側(左側)の歩道を上る。このあたりは、田安門から北の丸公園方面への道であるためか、歩道が広く、ゆったりとしている。北側(右側)の歩道も同じく広い。南側の歩道の下側から靖国神社の鳥居が見える。

この坂は来たことがあるが、坂巡りの一環としてではなく、千鳥ヶ淵の花見のためであった。かなり前のことであるので、ほとんどはじめての坂である。

九段坂下 九段坂下 九段坂中腹から坂上 九段坂上標柱 坂上側に千代田区教育委員会設置の標柱が立っている。次の説明がある。

「この坂を九段坂(くだんさか)といいます。古くは飯田坂ともよびました。『新撰東京名所図会』には「九段坂は、富士見町の通りより、飯田町に下る長阪をいふ。むかし御用屋敷の長屋九段に立し故、之を九段長屋といひしより此阪をば九段坂といひしなり。今は斜めに平かなる阪となれるも、もとは石を以て横に階(きざはし)を成すこと九層にして、且つ急峻なりし故に、車馬は通すことなかりし(後略)」とかかれています。坂上は、月見の名所としても名高かったようで、一月二十六日と七月二十六日には、夜待ちといって月の出を待つ風習があったといいます。」

尾張屋板江戸切絵図(飯田町駿河台小川町絵図)を見ると、水野監物の屋敷(北側)と小笠原加賀守(南側)との間近くから西へ田安門のところまで上る坂道に九段坂とある。多数の横棒からなる坂マークもある。坂北側は澁川孫太郎の屋敷である。坂下を東へ進むと俎板橋というのがあるが、この道の北側が町屋となっている(ただし、町名の表示がない)。

近江屋板も同様で、△九段坂とあり、坂北側が渋川助左エ門の屋敷である。北側に飯田町とあるので、尾張屋板の町屋は飯田町である。面白いことに、渋川助左エ門の北側から水野監物のわきのL字形の土地に御薬園とある。尾張屋板では植木屋となっている。

『御府内備考』の御曲輪内之四に飯田坂として次のような説明がある。

「今九段坂ともいへり。近き頃まで家居九段に作りなせしゆへなり。今はそれも名のみなり。むかし飯田喜兵衛が住し所なりと。【江戸紀聞】」

江戸名所図会 飯田町中坂九段坂 九段坂上から坂下 九段坂上歩道橋から坂下 九段坂上歩道橋から坂上側 横関は、江戸絵図に出てくる一番古い坂は九段の坂である、と書いている。慶長七年(1602)の江戸古図には、「登り坂四ッ谷道」と記してあるところの「登り坂」というのが、のちの九段坂の道筋であるという。

また、昔の主要な道路の坂は、みな段々になっており、段々は土留めなのであるという。九段坂というのも段々の数である。のちに、その段々にしたがって屋敷長屋が九段につくられていたので、九段坂と解釈されたこともあったが、初めは、単に坂の段々の数から呼ばれた坂名であったことは間違いなく、『江戸名所図会』の挿絵を見るとそれがよく理解できるとしている。左は、その挿絵(飯田町中坂九段坂)の左半分である。手前が九段坂であるが、下の長い部分を零段とすると、一番上の三角に見える部分が九段目である。

この九段坂や五段坂というのは、要するに、段々の段数をいったものであるというのが横関の意見である。上記の新撰東京名所図会や御府内備考の説明とはちょっと違うが、横関説の方が単純明快で説得力がある。

坂の印として、尾張屋板は多数の短い横棒を用いているが、横棒は段々をあらわしていたのであろう。坂名が入っている場合は、名前の上の方が坂上である。近江屋板は△であらわすが、△の頂点が向いている方が坂上である。

『大江戸地図帳』(人文社)という江戸絵図がある。天保十四年(1843)岡田屋嘉七刊行の『御江戸大絵図』の復刻版を文庫本の大きさにしたものであるが、これには、多数の横棒の次に、九タン、とある。次に行く隣の中坂は横棒の次に、ナカサカとある。

九段坂上から坂下 九段中腹から坂上 九段坂中腹から坂下 九段坂下 池波正太郎が「江戸切絵図散歩」(新潮文庫)に、子供のころ九段坂上のさきで濠端の風景を写生したときの次のような思い出を記している。昭和9年か10年のころという。絵を描いていると、後ろで、白い服を着て、眼鏡をかけ、パナマ帽子をかぶった老人がステッキをついて絵に見入っていた。恥ずかしいから向こうに行ってよ、などと云っているうちに、絵をくれないかと云われたので、スケッチブックからはがして手わたした。礼をいい、財布から5円札(当時としては大金)を渡そうとしたが、断って靖国神社の方に歩いていくと、老紳士はあとをつけて来る。何でついてくるのと尋ねると、老紳士の両眼が赤く腫れあがったようになって泪がこぼれかかっていた。びっくりして九段坂を一気に駆け下りた。それから50年余年間、その老紳士が記憶の底からときどきあらわれ、思いだしておもいにふけることがある。

現代地図を見ると、田安門前の西のさきの内堀通りが靖国通りに接続する交差点が九段坂上となっているが、江戸時代には、いずれの絵図をみても、飯田町の方から西へ上り田安門の所までが九段坂となっているようである。現在も田安門前にある歩道橋から先(西側)はほぼ平坦であるので、この歩道橋で反対側に渡り坂を下る。

この坂の標柱は、上記のもの以外に二つあることが「東京23区の坂道」に紹介されている。その一つは、坂下北側の歩道わきで、飯田橋通り商栄会・九段下さくら会が設置したもので、上の2、3枚目の写真のように、字がほとんど見なくなっている。もう一つは今回確認できなかったが、三枚目の写真にかすかに写っているようである(編集しているときに気がついた)。これらの説明文は同サイトに詳しい。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大日本地誌大系御府内備考 第一巻」(雄山閣)
「江戸名所図会(一)」(角川文庫)

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