東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

三宅坂(1)

2011年08月31日 | 坂道

今回は、三宅坂、鍋割坂、梨の木坂、富士見坂などを巡ったが、途中、あちこちに寄り道をした。

桜田門 三宅坂下 桜田壕 三宅坂下 午後有楽町線桜田門駅下車。

出口3から出ると、左の写真のように眼の前が桜田門で、左側にある堀が桜田壕である。反転して堀を右に見て、左に内堀通りを見ながら歩きはじめる。このあたりが、三宅坂の坂下のようであるが、まだほとんど平坦である。ここから坂上の半蔵門を目指す。三枚目の写真のように、堀の向こうを見ると、堤の上に沿ってこれから歩く上り坂のコースが続いていることがわかる。ちょっと歩くと、右の写真のように、左正面に国会議事堂が見えてくる。この国会前の信号のところをすぎたあたりから徐々に勾配がついてくるが、かなり緩やかである。

20年ほど前、この近くに勤務していたころ、運動不足解消のためと称して昼休みに、このあたりをよく歩いたことがある。桜田門を通り抜け、桜田壕に沿って今回と同じ方向へ歩き、そのまま竹橋方面へと歩き、皇居の回りを一周した。季節は、今回のような暑いときではなく、日差しが心地よいころであったから秋から初冬のころであったと思う(暑いときは、地下街を歩きまわっていた)。そのころからジョギングをする人もいたが、歩いている人もいて、中にはかなり健脚と思える老人もいて、付いていこうとしても離された。当時、坂などに関心はなかったが、それでも、今回、久しぶりにこの坂に来て懐かしい感じがした。私的にはそういう気分になる珍しい坂である。

今回、ジョギングをする人はたくさんいたが、それに比べて、休日のせいなのであろうか、散歩ふうの人は少ない。ほとんどの人が半蔵門から桜田壕(三宅坂)の歩道をかけ下ってくるが、なにか理由があるのだろうか。この方が壕を眺めながら坂を下ることができるので気分がよいのかもしれない。

井伊掃部頭邸跡方面 三宅坂下 三宅坂下 三宅坂下 国会前の交差点をすぎたあたりから道路の反対側を見ると、左の写真のように、こんもりと樹木が茂っているが、ここの歩道わきに、井伊掃部頭邸跡の標柱が立っており、そのわきに桜の井跡が残っていいる。ちょうど、首都高速環状線のトンネルの出入口で、騒がしいところである。(ここは、後で行く。)

尾張屋板江戸切絵図(麹町永田町外桜田絵図)を見ると、桜田門の前から堀に沿って半蔵門方面へと続く道がある。堀の側から西北方向に広がって井伊掃部頭の上屋敷があるが、上記の標柱の立っているあたりが表門のようである。井伊邸の前のあたりの道に、サイカチ河岸、とある。井伊家の北となりに三宅備前守の上屋敷があるが、坂名も坂マークもない。近江屋板では、三宅土佐守となっており、その前の道に、坂名はないが、坂マーク△がある。坂名は、この三宅邸の側にあった坂であることに由来する。

標柱などは立っていないが、千代田区のホームページに次のような説明がある。

「15.三宅坂(みやけざか)・皀莢坂(さいかちざか) ・橿木坂(かしのきざか )
 半蔵門外から、国立劇場前を桜田堀に沿って警視庁わき辺りまで下る坂です。東京でも代表的な坂の一つで、景勝の地として知られています。国立劇場のある辺りに三宅備前守の上屋敷があったことから三宅坂と呼ばれました。また、昔は堀端に皀莢の木や橿の木が多く茂っていたので皀莢坂とか橿木坂と呼ばれたこともあるようです。字は異なりますが、「さいかちざか」は「41.」にもあります。」

柳の井戸 三宅坂下 三宅坂下 三宅坂中腹 緩やかな上り坂を歩いていくと、緩やかなカーブを曲がりながら車が下ってくる。このあたりに、左の写真のように、柳の井戸の標識が立っており、次の説明がある。「この堤の下に柳の井戸があります。近くの、もと井伊候藩邸表門前にあたる所にある桜の井戸とともに、江戸時代から名水として知られ、当時の通行人に喜ばれていました。」

土手の下に柳の木が見えるが、そのあたりにあるのだろうか。歩道からはわからなかった。桜の井戸の跡は、上記のようにいまも残っている。

『御府内備考』に、桜の井戸は紹介されているが、ここの井戸はのっていない。紹介されている「柳井」は清水谷にある井戸である。また、戦前の昭和地図、昭和31年の23区地図にはこの柳の井戸がのっている。

三宅坂中腹 三宅坂中腹 三宅坂中腹 三宅坂中腹 やがて、1~3枚目の写真のように、西へと延びる青山通り(国道246号線)の起点となっているT字路に至る。この青山通りのわきに社会文化会館があるが、このあたりまで井伊邸の敷地で、その北側に上記の三宅土佐守邸があった。1,2枚目の写真のように、現在、最高裁判所がある付近である。そのさらに、北側に国立劇場があるが、この北側に鍋割坂がある。

三宅土佐守邸のあったT字路の上下付近がこの坂でもっとも勾配があり、江戸時代にもそうだったとすると、この坂を三宅坂と呼んだのがうなずける。ここを上って国立劇場の前あたりになると、かなり緩やかとなる。

内堀通りは、この坂付近で横断歩道がきわめて少なく、国会前交差点の信号の次は、青山通りの起点までなく、その次は、坂上の半蔵門までなく、しかも道幅が広い。このため、後で行く国立劇場、最高裁判所のある反対(西)側の歩道はまったく別のところのような感じとなってしまう。

三宅坂中腹 三宅坂上 三宅坂上 桜田壕(半蔵門) この坂は、全体として勾配はさほどないが、国会前の交差点のあたりからでも坂上までかなりの距離があるので、坂上ではかなりの標高になる。

坂上の半蔵門前から坂下の方(南側)を見ると、桜田壕が中心になってその周りの皇居の森や歩道の街路樹や堤の法面の緑がよく映えてよい景色となっている。右の写真のように、東京にしては珍しく眺望のよいところである。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大日本地誌大系御府内備考 第一巻」(雄山閣)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)

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善福寺川シラサギ2011(8月)

2011年08月28日 | 写真
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夏目鏡子述 松岡譲筆録「漱石の思い出」

2011年08月27日 | 読書

雑司ヶ谷霊園の記事で、荷風の「断腸亭日乗」昭和2年(1927)9月22日の次の記事を引用し夏目漱石についてちょっと触れた。

「九月廿二日 終日雨霏々たり、無聊の余近日発行せし改造十月号を開き見るに、漱石翁に関する夏目未亡人の談話を其女婿松岡某なる者の筆記したる一章あり、漱石翁は追蹤狂とやら称する精神病の患者なりしといふ、又翁が壮時の失恋に関する逸事を録したり、余此の文をよみて不快の念に堪へざるものあり、縦へ其事は真実なるにもせよ、其人亡き後十余年、幸にも世人の知らざりし良人の秘密をば、未亡人の身として今更之を公表するとは何たる心得違ひぞや、見す見す知れたる事にても夫の名にかゝはることは、妻の身としては命にかヘても包み隠すべきが女の道ならずや、然るに真実なれば誰彼の用捨なく何事に係らず之を訏きて差閊へなしと思へるは、実に心得ちがひの甚しきものなり、女婿松岡某の未亡人と事を共になせるが如きに至っては是亦言語道断の至りなり、余漱石先生のことにつきては多く知る所なし、明治四十二年の秋余は朝日新聞掲載小説のことにつき、早稲田南町なる邸宅を訪ひ二時間あまりも談話したることありき、是余の先生を見たりし始めにして、同時に又最後にてありしなり、先生は世の新聞雑誌等にそが身辺及一家の事なぞ兎や角と噂せらるゝことを甚しく厭はれたるが如し、然るに死後に及んで其の夫人たりしもの良人が生前最好まざりし所のものを敢てして憚る所なし、噫何等の大罪、何等の不貞ぞや、余は家に一人の妻妾なきを慶賀せずんばあらざるなり、是夜大雨暁に至るまで少時も歇む間なし、新寒肌を侵して堪えかだき故就眠の時掻巻の上に羽根布団を重ねたり、彼岸の頃かゝる寒さ怪しむ可きことなり、」

「漱石の思い出」文庫本カバー 漱石未亡人の談話を女婿松岡譲が筆記した文が、雑誌「改造」に十三ヶ月にわたって掲載され、それが後にまとめられ「漱石の思い出」として出版された。これまで複数の出版社から出版されたが、現在、左のように、文春文庫で読むことができる。夏目鏡子述 松岡譲筆録「漱石の思い出」。
松岡譲の夫人が漱石・鏡子の長女筆子である。

漱石の若いときの失恋話と追跡狂のことが最初の「一 松山行」にのっているが、これを荷風も読んだのであろう。

漱石が大学を出たころ、牛込の喜久井町の実家を出て、小石川の伝通院近くの法蔵院に間借りをしていた。そのころ、トラホームになって毎日のように駿河台の井上眼科にかよっていたが、そこの待合でよく落ち合う美しい若い女がいて、背のすらっとした細面の美しい女で、気立てが優しくしんから深切であり、漱石好みであったという。漱石はあの女ならもらってもよいと思いつめて独りぎめしていたらしい。どうしてそのような話になったかわからないが、その人の母の挙動に漱石は我慢ならなくなって、それでひと思いに東京がいやになって松山に行く気になったという。(松山行きとは、明治28年、突如高等師範学校を辞し、伊予松山中学校教員として赴任したこと。)

そのときのことらしいが、突然実家に帰って兄に、「私のところへ縁談の申し込みがあったでしょう」と尋ね、そんな申し込みに心当たりはないが、目の色がただならぬので、「そんなものはなかったようだった」と簡単にかたづけると、「私にだまって断るなんて、親でもない、兄でもない」とえらい剣幕であったという。兄も辟易しながら、「いったいどこから申し込んで来たのだい」となだめながら訊ねても、それには一言も答えないで、ただむやみと血相をかえて怒ったまま、ぷいと出て行ってしまった。

その後、結婚し、英国留学し、帰国後、千駄木にいたころ、家族、妻に乱暴をするので、困った妻が兄に相談すると、兄は、上記の法蔵院時代のことを思い出して、「それでやっとわかった。なぜあの時金ちゃんがあんなにぷりぷりしていたんか、わたしには長いことまるで合点が行かなかったんだが、するとそういう精神病があの人のうちに隠れていて、それが幾年おきかにあばれ出すんだね」

その後精神病学の呉さんに診てもらうと、それは追跡狂という精神病の一種だろうといわれたという。

「一 松山行」には、かいつまめば、以上のような話がのっている。

その後にも似たような話がのっている。たとえば、「二一 離縁の手紙」に、同じく千駄木の家にいたとき、漱石の書斎が向かいの下宿屋の学生の部屋から見下ろされるような位置にあったが、その部屋で毎晩学生が本を読むとき音読するのが学生の習慣で、そこにときどき友達が遊びに来て、大きな声で話をする。それが漱石の耳にはいちいち自分の噂や陰口のように響いた。高いところから始終こちらをのぞいて監視している。朝、漱石が出かけるころ、学生も出かけ、漱石の後をついて行く。あれは姿は学生だが、実際は自分をつけている探偵に違いない、などと決めつけていた。そして、朝起きて洗顔し、朝御飯の前に書斎の窓の敷居の上にのって、学生の部屋の方に向かって、「おい、探偵君。何時に学校へ行くかね」とか、「探偵君、今日のお出かけは何時だよ」などと怒鳴るのだという。

これらは、もちろん、漱石の思い込み、妄想(被追跡妄想)であった。しかし、よく考えてみれば、このようなことは、どんな人にでも条件さえそろえば起きうることかもしれない(その条件というのがよくわからないが)。あるいは、そのような環境にあるとき、そのような行動に移る前に人のこころの中で絶えず反復されることかもしれない。その結果、こころの内で止まり、行動には結びつかなかったということもあるに違いない。異常などと他人のことのように云う前に自分を省みれば思いあたることも多いのではないだろうか。

しかし、そのような感想がある一方で、上記のような漱石と兄とのやりとりや兄の話を読むと、兄の方が常識人で、しっかりしていると思わざるをえない。やんちゃな弟を兄がやんわりと受けとめている。漱石を「金ちゃん」とよんでいるのもおかしい。そんなふうに漱石をよぶことができたのは、この兄などの兄弟だけであったかもしれない。

荷風は、上記の日乗で、漱石の失恋話と追跡狂のことを暴露した夏目未亡人について憤慨しているものの、その内容についてはなんの感想も記していないが、特に、追跡狂について人間にはそういう性癖・性行があったり思いもよらぬ行動をとる場合があることを暗黙の内に了解したのではないだろうか。荷風だって同じような思い込みをすることがあったと思われるからである(たとえば、以前の記事参照)。

作家の死後、その未亡人が夫のことを書くことがよくあることかどうかわからないが、小説「邪宗門」などで知られる高橋和巳の死後、その夫人で同じ作家の高橋たか子が夫について色々と書いていたことを思い出した。主に夫婦間の金銭や酒にまつわる話が印象に残っているが、こういった話は、単なる一読者に対し、そういう一面があったのかと驚かす効果があることは確かである。他方、作家といえども生身の人間であるから色んな奇っ怪な挙動があってもおかしくないことも確かではある。

「漱石の思い出」の最後に、漱石の墓の話がでてくるが、これは、西洋の墓でもなく日本の墓でもなく、安楽椅子にでもかけたような形にしたものらしく、一周忌に間に合うかどうかの時に急いでつくり、漱石の戒名と夫人の戒名とを並べてほったとある。以前の記事で、漱石の墓には夫人の鏡子の戒名も刻んであるから比較的新しいものと書いたが、そうではなく、夫人の生前に墓ができていた、ということである。また、漱石の墓が大きいのは上記のようなことが理由らしい。

参考文献
永井荷風「新版断腸亭日乗」(岩波書店)
高橋たか子「高橋和巳の思い出」

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新坂(市ヶ谷駅前)~三年坂

2011年08月21日 | 坂道

新坂下 新坂下 新坂下 新坂中腹 前回の帯坂下を左折し、ちょっと歩くとJR市ヶ谷駅前の交差点であるが、ここを左折すると新坂の坂下である。ここから西南へまっすぐに上っている。勾配は中程度よりやや緩やかといったところか。駅前の繁華街であるが、それでいて落ち着いた雰囲気もある。

西側坂上近くに標柱が立っており、次の説明がある。

「この坂を新坂といいます。新しく作られた坂ということでしょう。江戸時代の地図をみますと、ここに道はなく、人々は東側の帯坂や西側の三年坂へ迂回しなければなりませんでした。しかし、明治二十三年(一八九〇)三月の『東京市区改正全図』には三等道路として、この道を通す計画が書き込まれています。大正元年(一九一二)の「東京市麹町区地籍地図」では、この道を地図上で確認できます。」

新坂上側 新坂上側 新坂上側 新坂上 尾張屋板江戸切絵図(東都番町大絵図)を見ると、市ヶ谷御門から南へ上る帯坂と、その西側の三年坂との間に、確かに道はなく、近江屋板も同様であるので、ここは江戸から続く坂でないことがわかる。

明治地図を見てもないが、戦前の昭和地図を見るとある。標柱の説明からすると、明治後半ごろにできたものであろうか。

ただし、単に新坂という坂名がついていることだけで、歴史的に新しい坂であるか否かは判断できない。坂ができた当時新しければ、新坂という名が付けられたからである。新坂は都内にたくさんある(横関で20)が、江戸時代の新坂(たとえば、赤坂の新坂)もあるし、ここのように明治になってからできた新坂もある。いつできたか判然としない新坂(南麻布の新坂)もあるが、これはちょっと不思議である。

坂上は、前回の帯坂まで歩いてきた二七通りであり、この通りを横切って南に延び、その先は、やがて善国寺坂へ至り、新宿通りにつながる。

三年坂上 三年坂上 三年坂上 三年坂上側 新坂上を右折し西へちょっと歩き、一本目を右折すると、三年坂の坂上である。細い坂道がまっすぐに北へ下っている。勾配は新坂よりもなく緩やかである。

尾張屋板江戸切絵図(東都番町大絵図)を見ると、市ヶ谷御門の近くの帯坂の西に△三年坂とある。近江屋板も同様。岡田屋嘉七板御江戸大絵図にも「三年サカ」とある。帯坂と同様に江戸時代から続く坂である。

坂上近くに標柱が立っているが、次の説明がある。

「この坂を三年坂といいます。
『新撰東京名所図会』には、「下六番町の方より土手三番町の中間を貫き土手際に降る坂をいう。三年坂は現今通称する所なるも三念寺坂を正しとす。むかし三念寺といえる寺地なりしに因り此名あり。然るに俗間誤りて三年坂と称し、」とかかれています。」

『御府内備考』には次の説明がある。

「三年坂 市谷御門のうちより六番町へ上る坂をいふ。寛永十三年御郭出来の時、あらたに開けるゆへ三年坂と名付しよし。【南向茶話】名貞雄が云、右の説いぶかし。今本郷元町にある楽王山三念寺は正しく此所にあり。今の高木氏・榎本氏等のやしきは三念寺の舊(旧)地なるよしを聞は、うたがふらくは夫ゆへの名にはあらずや。【江戸紀聞】」

三年坂中腹 三年坂中腹 三年坂下 三年坂下 三年坂も都内にはたくさんあり、横関は、次の六つの坂を挙げている。(⑦はここで追加したが、旧東京市内でない。)

①台東区谷中五丁目の観音寺の築地塀の奥にある坂(別名蛍坂)
新宿区の神楽坂の途中から本多横町の通りを筑土八幡に向けて下る坂
③神楽坂駅近くの早稲田通りから下る江戸川橋通りの坂(別名地蔵坂)
千代田区霞ヶ関の財務省南側の坂
⑤千代田区五番町の市ヶ谷駅近くの坂
港区の我善坊谷坂を下り直進し左折して上る坂(三念坂)
杉並区の善福寺川尾崎橋近くの坂

横関によれば、三年坂と呼ぶ江戸時代の坂が旧東京市内に六ヵ所ばかりあり、いずれも、寺院、墓地のそば、または、そこから見えるところの坂であるとし、昔、この坂で転んだものは、三年のうちに死ぬというばからしい迷信があった。お寺の境内で転ぶとすぐにその土を三度なめないと三年のうちに死ぬという迷信があり、坂はころびやすい場所であるので、お寺のそばの坂は、特に人々によって用心された。こうした坂が三年坂と呼ばれたという。

この坂も、尾張屋板江戸切絵図には寺はないが、切絵図にある高木、平野の両家の所に本郷に移転した楽王山三念寺があった。

横関は、上記の『南向茶話』による、寛永十三年にあらたに開かれたため三年坂と名付けたという年号由来説に対し、いつまでも強情を張っているとし、江戸の坂の名は、ほとんど江戸っ子が付けたもので、寛永十三年にできたから三年坂というような名前の付け方はしなかった。これはいかにも上方趣味で、江戸っ子好みではない。もしそうだとすると、五年坂や七年坂や九年坂もあってよいはずだが、そういう坂はないと批判している。

ここは、三念寺のそばの坂であったので、三念寺坂と書き、それが三念坂となり、三年坂に変化したとする。

石川は、上記の『新撰東京名所図会』による、三念寺坂が正しく、誤って三年坂とよんだとする説に懐疑的で、三年坂は横関と同じく上記の迷信からきているとする。

坂下を左折し、外濠公園を通って四谷駅へ。

今回の携帯による総歩行距離は10.2km。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第一巻」(雄山閣)

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帯坂

2011年08月19日 | 坂道

二七通り(東から西) 二七通りから一口坂上方面 東郷坂上 帯坂上 前回の永井荷風旧宅跡のある二七通りを西へ進む。途中、荷風・お歌経営の待合「幾代」のあった旧三番町のあたりをうろうろしてから、通りに戻る。

左の写真は、その通りの西側を撮り、2枚目はその通りの交差点から靖国通りの一口坂上方面を撮ったものである。そこからちょっと歩き、次の信号が、3枚目の写真のように、東郷坂上である。左手(南側)に下り坂が見え、その先遠くに、行人坂(上り)が見える。

二七通りをさらに西へ進み、右側にある水道会館の先を右折すると、右の写真のように、帯坂の坂上である。細い坂道が緩やかな勾配でまっすぐに北へ下っている。坂下は靖国通りで、左折すると、JR市ヶ谷駅前である。この坂は以前に来たことがあるが、東郷坂上に近く、ちょっと意外な気がした。地図を見れば一目瞭然なのであるが。

帯坂上 帯坂上 帯坂上側 帯坂中腹 左の写真のように、坂上近くに標柱が立っており、次の説明がある。

「この坂を帯坂といいます。名称は歌舞伎で有名な番町皿屋敷の旗本、青山播磨の腰元お菊が、髪をふり乱し帯を引きずってにげたという伝説によります。また一名切通し坂ともいわれたのは、寛永年間(一六二四~一六四三)外堀普請の後に市ヶ谷御門へ抜ける道として切り通されたのでその名がつけられたといいます。」

尾張屋板江戸切絵図(東都番町大絵図)を見ると、市ヶ谷御門から南へ上る細めの坂道があるが、ここであると思われる。坂名はないが、坂マーク△がある。坂上の東西に延びる通りは表六番町通りといった。近江屋板も同様で、坂マーク△だけである。ところが、岡田屋嘉七板御江戸大絵図には、ちゃんと、「ヲヒサカ」とある。これから、帯坂という坂名は、江戸時代に付けられたものであることがわかる。

皿屋敷は、お菊という女性の亡霊が皿を数える怪談話の総称で、播州(兵庫県)が舞台の『播州皿屋敷』や江戸番町が舞台の『番町皿屋敷』など日本各地に類似の話が残っているという。

石川によれば、江戸の番町皿屋敷の伝説とは、寛文年中(1661~1673)に断絶した青山播磨という旗本の家で、召使のお菊が家宝の皿を割って、せっかんを受け、邸内の古井戸に身を投げて死に、以後、亡霊がたたりをなしたことで、これを岡本綺堂が脚色し、先代市川左団次の十八番となったのが「番町皿屋敷」であるというが、これは、大正になってからのことである。

帯坂中腹 帯坂下 帯坂下 帯坂下 『御府内備考』には切通坂として次のような説明がある。

「切通坂 三年坂のつぎの坂なり。市谷御門より表六番町へのぼる坂なり。【江戸紀聞】」

横関によれば、小山のようなところを切り通して道路を造った場合、これを切り通しと呼んだ。山を切り通して道路を造ると、どうしても、坂路となったが、これを切通坂といった。いま、都内に六つばかりの同名の坂があるというが、そのうちの一つである。

島崎藤村は、『春』で、明治時代のこの坂を次のように描いている。

「土手の尽きたところから、帯坂を上る。静かな陰の多い坂で、椿の花なぞが落ちている。片側には古い町がある。そこは岸本が気に入った坂で必ず通ることにしていた道路(みち)であった。」

藤村はこの坂を好ましく思っていたようである。

現在、坂中腹西側に日本棋院があるが、そこには石垣があって古めかしい雰囲気をわずかに醸し出している。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第一巻」(雄山閣)
島崎藤村「春」(岩波文庫)

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永井荷風旧宅跡

2011年08月17日 | 荷風

前回の鍋割坂上から千鳥ヶ淵緑道にもどり九段坂上方面へ行くのもよいが、今回は、別の目的があったので、そうせず、内堀通りを横断し、歩道を北へ向かう。すると、下りとなり、ちょっと歩くと、左に二松学舎大学が見え、谷底の交差点に至るが、そこを左折する。(下の地図で、きんでんと公務員三番町住宅との間の道が鍋割坂である。)

以前の記事のように、永井荷風の住居の変遷を簡単にたどると、生家は小石川区金富町45番地(現文京区春日二丁目20番25号)で、ここで明治12年(1879)12月3日に生まれた。明治26年(1893)11月麹町区飯田町三丁目(または二丁目二番地)黐ノ樹(もちのき)坂下に移転。黐ノ樹坂は別名冬青木坂。明治27年(1894)10月麹町区一番町42番地に移転。明治35年(1902)5月牛込区大久保余丁町79番地に移転(現新宿区余丁町14番地)。ここまで、荷風(本名壯吉)は二十代前半で、荷風の住居というよりは、父久一郎一家の住居といった方が正確である。

内堀通りを左折した所 永井荷風旧宅跡 永井荷風旧宅跡 永井荷風旧宅跡 今回は、明治27年10月に冬青木坂から移転した一番町の永井荷風住居跡を訪ねた。

旧麹町区一番町42番地は、明治地図(左のブックマークから閲覧可能)を見ると、千鳥ヶ淵から鍋割坂上(坂上左に梨本宮邸がある)を右折し、北へ進み、次を左折し、次の四差路の東南角である。

尾張屋板江戸切絵図を見ると、江戸末期、このあたりはすっかり武家屋敷であった。

現在は、上の地図のように、二松学舎大の西側(裏側)の信号のある交差点となっている。左の写真は、内堀通りから左折した通り(二七通り)の西側を撮り、二枚目の写真は、その先の交差点近く、三枚目は交差点の東北角から東南角を撮り、四枚目は交差点の西北角から東南角を撮ったもので、二松学舎大のビルが見える。この東南角が旧麹町区一番町42番地であり、写真のように、現在、建物はなく、駐車場のようになっている。

秋庭太郎によれば、一番町の家は、二松学舎と背中合わせの通りに面した門構えの大きな借家であった。当時同町内には、井伊伯爵、東園子爵、金子堅太郎、三井得右衛門、三島毅等の邸宅があったが、永井家も銀杏の老樹茂る広壮な屋敷で、靖国神社の今村宮司の持ち家であったという。この家に久一郎は、妻恒、長男壯吉(荷風)、三男威三郎とともに移った。二男貞二郎は、十歳のとき(明治25年10月)母恒の実家である下谷の鷲津家の養子となっていた。

この家から久一郎は竹平町にあった文部省の会計課長として通勤し、壯吉、威三郎は、中学校、小学校に通ったが、壯吉は病気がちであった。

明治27年16歳のとき下谷の帝国大学第二病院に入院し、付き添いの看護婦に初恋をし、その名がお蓮といったのでそれにちなんで荷風と号したという(秋庭太郎が書いているが、その出典が明らかでない)。その後も流行性感冒にかかったりして長患いとなり、翌28年4月小田原の足柄病院に入院し、7月下旬に帰京、その後、逗子の別荘に9月まで滞在などして、一年近く学業を休んだ。

隣接する富士見町に当時、小山内薫、八千代兄妹が住んでいたが、岡田八千代『若き日の小山内薫』に、この時代を回想して、「永井荷風さんの顔を知ったのも富士見町であった。永井さんの家が一番町にあったゝめか、私たちはいつしか其顔を覚えて居た。永井さんのお母ア様は痩せた丈の高い上品な婦人だった。琴を好まれてか、今井慶松の門に這入ってゐられた。そして私も亦其微々たる門下であったゝめ、月ざらひなどに行くと、永井さんの奏でる琴に合せて荷風さんが尺八を吹くのを見た事もある。やっぱり其頃から永井さんは痩身の貴公子であった。」とあるという。

荷風は、この家の思い出を昭和3年(1928)6月8日の「断腸亭日乗」に次のように書いている。

「六月八日 晴れわたりて風涼し、午後中洲病院に徃く、注射例の如し、帰途三番町に赴きて夕餉を食す、半玉二三人帳場に来りて頻にお化銀杏のことを語合へり、此のお化銀杏といふは旧井伊伯爵家の邸後、一番町の坂上に聳る老樹にて、坂下なる冨士見町の妓窩より仰ぎ望めば、夜ふけて雨の降る折など木立のさま遊女の髪を立兵庫に結ひ帯を前結びにして立てるが如くに見ゆるとて、いつともなくお化銀杏と呼ばれて今は冨士見町に遊ぶもの誰一人知らざるはなしと云ふ、されどこは震災後四五年以来の事なるべし、曾て吾が家明治二十九年の秋の頃飯田町もちの木坂下の借家を引払ひて新に移り住みしは正にこのお化銀杏の聳立ちたる一番町の屋敷なりしが、其頃にはこの老樹を見て怪しみ恐るゝものは絶えてなかりき、老樹はわが引移りし家とその南鄰なる侍従東園子爵が屋敷との垣際に聳え、其の根は延びひろがりて吾家の庭一面に蟠りたり、東園家にては折々人を雇ひて枝を刈込ませゐたり、当時の事を回想するにわが父上は移居の翌年致仕して郵船会社に入り上海支店長となりて其地に赴かれたり、余は母上と共に家に留り、尋常中学校を卒業せし年の秋、父母に従ひて上海に遊び、帰り来りて後外国語学校に入り、三年ほどにして廃学したりしも皆この一番町の家に在りし時なり、始て小説を作りまた始めて吉原に遊びに行きたるも亦この一番町の家に在りて、朝夕かの銀杏の梢を仰ぎ見たりし時のことなり、明治四十一年の秋仏蘭西より帰り来りて、一夜冨士見町に遊びし事ありしが、その頃にも猶わが旧宅の銀杏を見てお化銀杏と呼ぶものはなかりき、大正改元の頃冨士見町の妓界は紅白の二組合に分れゐたりしが、其の頃にもお化銀杏の名は耳にすることなかりき、大正癸亥の震災にこのあたり一帯の焦土となりしに、かの銀杏の立てる東園家の垣際にて火は焼けどまりとなり、余が旧宅は災を免れたり、番町辺の樹木大抵焼け倒れたるにかの銀杏のみ恙なく、欝然たるその姿俄に目立つやうになりぬ、是この老樹の新にお化銀杏と呼ばれて怪しみ畏れらるゝに至りし所以なるべし、思へば三十年前われは此の銀杏の木陰なる家にありて始めて文筆を秉りぬ、当時平々凡々たりし無名の樹木は三十年の星霜を経て忽ちにして能く大名を博し得たり、是をわが今日の境遇に比すれば奈何、病み衰へて将に老い朽ちんとす、わが生涯はまことに一樹木に劣れりと謂ふも可なり、」

荷風は、この日、中洲病院の帰りに三番町のお歌のところに寄り夕食をとったが、そのとき、帳場で半玉(一人前でない年少の芸者)二三人が語り合っていたお化銀杏のことをきっかけにして一番町の家を回想している。

父久一郎は、明治30年(1897)3月文部省会計局長の職を辞して、翌4月に日本郵船株式会社に入り、同社上海支店長となり、5月に単身赴任したが、その後一時帰国し、9月、妻恒、長男壯吉、三男威三郎を伴って上海に赴いた。しかし、荷風(壯吉)が上海にいたのは二三ヶ月で、同年11月末には日本へ戻ったようである。上記の日乗に、上海に遊ぶ、とあるが、それにふさわしい程度の滞在であったようである。帰国後、荷風は、外国語学校清語科に入学した。この清語科入学は、上海に遊んだ影響と漢文を善くした父の感化とされている。

そのお化け銀杏は、もともと、荷風の一番町の家と南隣の東園家との際にそびえていたが、当時から大正はじめまではそんなふうに呼ばれていなかった。関東大震災のとき、このあたり一帯が焦土となり一番町辺の樹木もほとんど焼けたのに、この銀杏のみ無事で、そのため、にわかに目立つようになったことがお化け銀杏と呼ばれる所以としている。 しかし、話はここで終わらず、この無名であったが三十年を経た後に名声を得た銀杏と現在の我が境遇とを比べ、その不幸を嘆いているが、そのような比喩に酔っているかのようである。荷風得意の悲嘆調による締め括りである。
(続く)

参考文献
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
秋庭太郎「考證 永井荷風」(岩波書店)
秋庭太郎「永井荷風傳」(春陽堂)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)

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千鳥ヶ淵緑道~鍋割坂

2011年08月09日 | 坂道

千鳥ヶ淵緑道 千鳥ヶ淵緑道 千鳥ヶ淵緑道 千鳥ヶ淵緑道 前回の五味坂下から内堀通りを横断すると、千鳥ヶ淵が右手に見えてくるが、ここから千鳥ヶ淵に沿って緑道が延びている。左側に車道が通っており、その左手は千鳥ヶ淵戦没者墓苑である。

写真のように、樹木で日陰になって涼しげで散歩によさそうな緑道がまっすぐに続く。ところが、確かにそう見えるのであるが、実際にはそういう雰囲気になれないところである。すぐわき千鳥ヶ淵側に首都高速環状線が走っており、騒音がかなりあるからである。この途中、ベンチがあったので、一休みしたが、騒音に耐えられなくなって早々に中断した。しかし、ちょっと歩くと、緑道は左(北)に曲がり環状線から離れていくので、そうでもなくなくなる。この千鳥ヶ淵緑道のはじめの直線部分は少々にぎやかであるが、それもやがておさまる。

尾張屋板江戸切絵図(東都番町大絵図)には、ゴミ坂下を東へ進むと、右手が堀端で、そのまま直進すると、緩やかに北へと曲がっているが、この地形は現在と同じである。

千鳥ヶ淵緑道 千鳥ヶ淵(北側) 千鳥ヶ淵(東側) 千鳥ヶ淵戦没者墓苑出入口 左の写真は北へ曲がってちょっと歩いたところで撮ったもので、この近くにボートのりばがある。その上に見晴台があるが、ここから千鳥ヶ淵がよく見える。北側は九段坂上の方まで延びており、両側の樹木がせまって見えて鬱蒼とした感じである。

2,3枚目の写真は見晴台で撮ったものである。3枚目の写真の東側に首都高速が見えるが、先ほどまで緑道の側を通っていた環状線である。

ここの説明パネルによれば、千鳥ヶ淵という名の由来は、かつて半蔵門のあたりまで拡がっていた壕が羽を広げたチドリの形に似ていることからといわれている。

ここの緑道の近くに千鳥ヶ淵戦没者墓苑の出入口がある。この墓苑は、第二次世界大戦のとき海外で亡くなった無名戦没者のためのものである。ここも樹木で鬱蒼としている。

鍋割坂下 鍋割坂下 鍋割坂下 鍋割坂下 千鳥ヶ淵戦没者墓苑から出て左折し、次を左折すると、鍋割坂の坂下である。細くまっすぐな坂道が西へと延びている。坂下は緩やかな道が少々長めで、途中ちょっと傾斜するが短くすぐ坂上に至る。そこからふたたび少し下ると、内堀通りの歩道である。短い小坂であるが、千鳥ヶ淵に近いためか落ち着いた雰囲気のある坂である。

横関によれば、鍋割坂というのは、みな小山を横断するところの坂で、坂の形に由来するという。なべわりは、鍋を割ったのではなく、鍋を割った形である。古い昔の土鍋の形で、鍋を逆さにしたような小山を割(さ)いて通ずる切り通し型の坂路を鍋割坂といったとする。同名の江戸時代から知られている坂は、他に次の三箇所であるという。

①鍋割坂(新宿区牛込矢来町、旧酒井邸内の坂、記録のみで今はない)
②鍋割坂(文京区の小石川植物園の大公孫樹の辺、昔のお薬園坂の道筋で、植物園を南北に通づる坂路であった)
③鍋割坂(千代田区麹町隼町、国立劇場敷地の北わきを平河天神社に向かって行く坂路)

鍋割坂上 鍋割坂上 鍋割坂上 鍋割坂上 坂上近くに立っている標柱には次の説明がある。

「この坂を鍋割坂といいいます。『新撰東京名所図会』には「堀端より元新道一番町の通りへ上る坂なり。」とかかれています。同じ名称の坂は各地にありますが、どれもふせた鍋(台地)を割ったような坂であることからその名がつけられています。千代田区隼町の国立劇場北側のところにも同じ名の坂があります。」

標柱も横関と同じく形状由来説である。

『御府内備考』には次の説明があるが、上記と同じ説明(こちらが古いのであろうが)である。

「一番町堀ばたより新道一番町へのぼる坂なり。【江戸紀聞】」

尾張屋板江戸切絵図を見ると、ゴミ坂から来て堀端を緩やかにカーブして北に向かうとすぐのところに、西へ上る坂マーク△のある道があるが、ここであると思われる。坂下の両側は御用地となっている。坂上南北の通りが新道一番町である。近江屋板も同様。

鍋割坂上 鍋割坂下(内堀通り側) 鍋割坂下(内堀通り側)

明治大正地図にも戦前の昭和地図にもこの坂道があり、千鳥ヶ淵側と内堀通り側とを結ぶ近道であったようである。

現存する都内の鍋割坂は、ここと、国立劇場北側だけらしい(植物園内の坂も今はない)。この坂は、今回がはじめてであったが、国立劇場北側の坂も行ったことがないので、次の機会に訪れてみたい。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大日本地誌大系御府内備考 第一巻」(雄山閣)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)

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五味坂下~無名坂

2011年08月03日 | 坂道

五味坂上西側 五味坂上 五味坂下 五味坂下 前回の正和新坂下を右折し、谷道をちょっと歩き、次を左折すると、南法眼坂下である。ここは、すでに今回記事にしたので進む。坂上を右折するが、直進すると、行人坂上に至る。

東へちょっと歩くと、五味坂方面が遠くに見えてくる。左の写真に写っている信号が五味坂上であり、かつ、袖摺坂上(信号の交差点を右折すると下りとなる)である。信号を左折して北へ行けば、御厩谷坂である。

五味坂は前回記事にした。坂を下ると、3,4枚目の写真のように、最初の信号のところでほぼ平坦になっており、このあたりが坂下と思ってしまう。しかし、五味坂は、内堀通りから西南に上るかなり長い坂とする解説(石川)がある。前回来たとき、内堀通りまでは行っていないので、今回、ふたたび訪ねたのである。

五味坂近くの無名坂下 五味坂近くの無名坂下 五味坂近くの無名坂下 坂下の信号の交差点から南側(右)を見ると、まっすぐに上る坂が見えるので、そちらへ行ってみる。すると、坂下の交差点の東から延びてくる道は、先ほどまで歩いていた谷道である。

この坂は無名坂であるが、ちょっと勾配があり、南へとまっすぐに上っている。ちょうど英国大使館の東に当たる位置である。大使館側の塀には、石垣などがあって風情のある坂道となっている。坂上まで歩かなかったが、坂上を直進すると、新宿通りで、半蔵門のすぐ近くである。ここは岡崎が五味坂のところで無名坂として紹介している。

この無名坂は、永井坂とほぼ平行で、そのちょうど東となりに位置する。坂上は、善国寺坂下から続く谷道の南側にあたる台地であり、この大使館のあたりがこの台地の東端であろう。また、谷道の北側にあたる台地は、五味坂上あたりが東端で、このあたりから堀端へと下る。

尾張屋板江戸切絵図を見ると、ゴミ坂を下り、下側で右折すると、この道があり、五番丁とあるが、坂マークはない。近江屋板には、この坂道と思われるところに、坂マーク△があるが、面白いことに、ゴミ坂(ハキダメ坂)を右折し、その無名坂下までの間にも、坂マーク△がある。△の向きが無名坂と同じ向きであるが、これがちょっとよくわからない。

一方、ゴミ坂(ハキダメ坂)を左折した道(北側)にも、坂マーク△があり、その先にも△がある。近江屋板は、坂マークの表記が尾張屋板よりも正確であるので、そのまま正しいとし、ゴミ坂下が谷と考えると一応つじつまが合うようであるが、無名坂の方はどうなるのであろうか。ゴミ坂の方からいったん上り、そこから下ってから無名坂が上っていたのであろうか。そうすると、そのいったん下ったところにも別の坂マーク△があるべきだが。

五味坂下 五味坂下 五味坂下 五味坂下(内堀通り近く) 無名坂から五味坂下の交差点まで引き返し、内堀通り方面(東)を撮ったのが1,2枚目の写真である。五味坂よりも広く平坦な道が内堀通りへと延びている。

山野は、五味坂について、「堀端から勾配があったが、今は道の整備で緩やかになっている。」としている。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)

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正和坂~正和新坂

2011年08月02日 | 坂道

善国寺坂下の通り(西から東) 正和坂下 正和坂下 正和坂下 前回の善国寺坂(南側)下を右折し、坂下の谷道を東へ向かう。左の写真はその途中、西側から東側を撮ったものである。遠くに見える信号のところが次に向かう正和坂の坂下である。

谷道をちょっと歩くと、その信号の交差点で、ここを右折すると、正和坂の上りとなる。坂下から南へまっすぐに上ってから途中で右に少し曲がり、そのまま上っている。勾配は中程度だが、下側でややきつめである。

途中で左折する道があるが、これは次の正和新坂を横切って東へと延び、永井坂上へと至る。途中で曲がってから少し歩くと坂上で、そのずっと南側の先が新宿通りである。

この坂と次の坂は、善国寺坂と同じくはじめて訪れたが、地図でよく確認すると、南法眼坂の近くであることがわかって、意外な感じがした。

正和坂下側 正和坂中腹 正和坂中腹 正和坂中腹 この坂には標柱が立っていないが、千代田区のホームページに次のように紹介されている。

「57.正和坂(しょうわざか)  千代田麹町小学校の北側を一番町の境まで下る坂です。太平洋戦争中にこの地域に正和会という隣組があったことなどが坂の名の由来と関係があるかも知れません。なお、同小学校の東側の坂は正和新坂と呼ばれています。」

この説明からは、坂名の由来や歴史的背景がはっきりしない。

この坂をいつもの坂参考本で調べると、岡崎、石川にのっているが、説明が短く、その由来はよくわからない。横関にはリストアップすらされていない。山野は、坂名の由来は明らかでないとしている(次の坂も)。

坂名は伝えられてきたが、その由来は、いつの間にかわからなくなったということだろうか。

正和坂上側 正和坂上側 正和坂上 正和坂上 尾張屋板江戸切絵図(東都番町大絵図)を見ると、善国寺谷坂の東側に、この坂と思われる道が、麹町四丁目と五丁目の間へと延びている。近江屋板には、坂マーク△が見える。

善国寺坂下からこの坂下に向かう途中で、谷道は左にちょっと折れ曲がっているが、この折れ曲がりが近江屋板によくあらわれている。近江屋板によれば、坂途中で左折し東へ延びる道と、ちょっと曲がり南へ上る道がいまの感じとよく似ている。その東への道は永井坂へと延びている(尾張屋板も同じ)。また、この坂を下り、そのまま北へ進むと、下の1,2枚目の写真のように、上りになるが、その道にも坂マーク△がある(尾張屋板にもあるが、例によって△のむきが逆)。

岡田屋嘉七板御江戸大絵図には、同じ道筋があるが、坂マークはない。

以上のことから、正和坂は、江戸から続く道と思われるが、そういうふうに紹介している解説はまったくない。実に不思議な感じがする。

正和坂の反対側坂下 正和坂の反対側坂下 正和坂下の通り(西から東) 正和坂上 『御府内備考』には、前回の記事にでた樹木谷(地獄谷)が次のように説明されている。

「裏二番町と五番町の間の小路をいふ。むかし此所へよるべなき者のたをれ死たる、或は成敗に逢たるものなど捨しなり。されば地獄谷といふ。世の人後にこの名を忌て、樹木谷とよぶ。これは此辺栗・柿・桜の木など多く有しゆへに唱へかよしといふ。【紫一本】」

裏二番町と五番町の間の小路とあるが、尾張屋板を見ると、坂途中で左折し東へ延びる道に、五バン丁とあり(ただし他の道にもある)、この谷道に平行な北側の道に、裏二番丁通とあるので、この谷道がやはり樹木谷(地獄谷)であろう。

ここにも、谷道から南へ上る坂と、1,2枚目の写真のように北へ上る坂がある。善国寺坂と同じように谷から南北へ上る坂があることから、台地が南北に分断された地形が続いていることがわかる。

正和新坂上 正和新坂上 正和新坂上側 正和新坂上側 正和坂上を南へ進むと、新宿通りの手前、麹町小学校の南わきに東へ延びる小路がある。そのあたりから振り返って正和坂上方面を撮ったのが上右の写真である。その小路がこの写真の右に写っているが、ここに入る。

小路の突き当たりを左折すると、正和新坂の坂上である。ほぼまっすぐに北に先ほどまで歩いていた谷道へと下っている。

しかし、この坂は勾配が一定でない。坂上からしばらく緩やかな傾斜が続いてから、ちょっと急になるが、その下側を正和坂の途中から延びてきた道が横切るため、いったん平坦になり、そこからふたたび下る。そこからもはじめは緩やかめであるが次第に傾斜がついてきて、坂中腹から下側はちょうどとなりの正和坂と同程度の勾配となっている。

この坂は、坂下で行き止まりで、となりのように北へ上る坂はない。

正和新坂上側 正和新坂中腹 正和新坂中腹 正和新坂中腹 尾張屋板江戸切絵図、近江屋板には、この坂は見えない。そこで、明治大正地図を見ると、ここにもない。ただし、この坂の上側(正和坂の途中から延びてきた道の南側)の上4枚の写真の道に相当すると思われる道が見える。

戦前の正和地図を見ると、小学校の南の小路も含めていまのようにちゃんとあるので、大正~昭和のはじめごろにできたものであろうか。

以上のことから、正和新坂という坂名は、いまの坂の下側(正和坂の途中から延びてきた道の北側)部分が正和坂のとなりに新しくできたため、こうよばれるようになったのであろう。

正和新坂下 正和新坂下 正和新坂下 正和新坂下の通り(西から東) 石川は、正和坂について次のように説明している。「千代田区麹町二丁目の麹町小学校西側を一番町の境まで北下する坂で、同小学校の東わきを下る坂には正和新坂の名がある。坂名は諸書に見あたらないから、昭和になってつけられたものに思えるが、土地の古老に問うと、ずっと以前からあった坂名だといい、戦争中は正和会なる隣組を結成し、空襲下の防火活動に奮闘したそうである。」

また、石川によれば、坂下に正和坂の石碑があったらしいが、失われてしまったとある。

やはり正和坂の方は、江戸からあった坂であるので、由来は不明ながら古い坂であると思われる。

右の写真は、正和新坂下を右折してから、谷道の東側を撮ったものであるが、工事中のところを左折すると、南法眼坂下である。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第一巻」(雄山閣)
校注・訳 鈴木淳 小道子「近世随想集」(小学館)

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