東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

旧桐ヶ谷坂

2015年02月23日 | 坂道

旧桐ヶ谷坂上 旧桐ヶ谷坂上 旧桐ヶ谷坂上 旧桐ヶ谷坂上 前回の旧中原街道と桐ヶ谷通りとの交差点を越えてさらに東へ進むと、前方に坂があることがわかる。そのあたりから撮ったのが一枚目の写真で、坂の向こうに首都高速の二段重ねの高架が見える。

さらに歩くと、四差路の向こうにまっすぐに下る坂が見えてくる(現代地図)。ここが現存する旧中原街道の終点(始点)近くで、むかしの桐ヶ谷坂。旧桐ヶ谷坂とでも呼ぶべき坂である。そのあたりから坂下側を撮ったのが二枚目で、中程度よりも緩やかな坂で、そんなに長くないが、そのむかしは、さらに北側へ延びていた。

坂上近くの旧中原街道の標識を入れて坂下側を撮ったのが三枚目である。この標識はこの旧道の所々で見かけたがここで終わり。

ちょっと下ってから坂上側を撮ったのが四枚目である。

旧桐ヶ谷坂周辺明治44年地図 旧桐ヶ谷坂周辺昭和16年地図 一枚目は、明治44年(1911)発行の地図のこのあたりの部分図である。中央左側で平塚村側に突き出ているのが旧中原街道である。前回の部分図と比べるとよくわかるが、斜め下(南西)の平塚橋の方から斜め上(北東)にまっすぐに延びて大崎町へ入っている。ほぼ東へ延びてから北向きに方向を変えている。どのあたりが坂下かは判然としないが、やや北向きになった道の途中あたりであろうか。

二枚目は、昭和16年(1941)の地図でこのあたりの部分図。前回の部分図(荏原区)に続き、新中原街道が左下(南西)から斜めに右上(北東)へと延び、その上(北)に旧中原街道が平行に延び、新旧ともに品川区に入っている。やがて旧道は新道に合流し、ここで坂下側は消滅しているように見える。ほぼ同じ地点に南から新京浜国道(第二京浜)が合流している。

現在、新旧街道をその合流地点の手前(西側)で首都高速の高架下の大きな道路が横断している(現代地図)。このため、現在の旧桐ヶ谷坂の坂下は、新街道には接続していない。

ところで、昭和地図を見ると、新京浜国道の近くの池上線に桐ヶ谷駅という現在ない駅があったことがわかる。この駅は、昭和2年(1927)に雪が谷~桐ヶ谷間の部分開通にあわせて開業したが、昭和20年(1945)に営業休止、昭和28年(1953)に廃止された(品川区HP)。

旧桐ヶ谷坂中腹 旧桐ヶ谷坂中腹 旧桐ヶ谷坂下 旧桐ヶ谷坂下 ちょっと下って、坂下側を撮ったのが一枚目の写真である。

さらに下ってから坂上側を撮ったのが二枚目、そのあたりから坂下側を撮ったのが三枚目である。

四枚目は坂下から坂上側を撮ったもので、そんなに勾配はないが、立派な坂である。

坂下は、首都高速の高架下の道路で歩道ができている(現代地図)。

以前の桐ヶ谷坂の記事でも触れたが、この「桐ヶ谷坂」という坂名は、旧道から新道に移ったとされている(品川区HP)。これは大変おもしろい坂名の付け方(決め方)であると思った。旧道の坂名を新道にできた新しい坂に移したわけであるが、旧道からすれば、新道に坂名を奪われたということになる。新道ができてもこの旧道の坂は残っていたのであるから、少なくとも旧道はそのままとし、新道の方を「新桐ヶ谷坂」とでもすべきではなかったのか。今回、旧道を歩いて、坂下側はともかくとして坂が立派に残っていることから、そういう感想を抱いた。それで、この記事ではこの旧道の坂を勝手に旧桐ヶ谷坂とした。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「東京市15区・近傍34町村⑱荏原郡品川町・大崎町全図」(人文社)
「地形社編 昭和十六年 大東京三十五區内⑯品川區詳細図」(人文社)
「東京人 april 2007 no.238 特集東京は坂の町」(都市出版)
菅原健二「川の地図辞典」(之潮)
「東京の道事典」(東京堂出版)

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旧中原街道

2015年02月17日 | 散策

戸越銀座 旧中原街道の分岐点 旧中原街道標識 旧中原街道周辺明治44年地図 前回のカナリヤ坂下の交差点を右折し、次を左折し、池上線の旗の台駅へ行き、五反田行に乗る。この駅は上りと下りで改札が違う。うっかり下り改札に入ってしまい、引き返した。

戸越銀座駅で下車。

改札を出て右折し、戸越銀座通りを西へ向かう。その途中で撮ったのが一枚目の写真で、いつもにぎやかである。歩きながらわきに小路があるたびに見ると、左右とも上りになっている。この通りもかつてはこのあたりの谷筋であったのであろう。

やがて中原街道となるので、信号で横断し左折しちょっと歩くと、右への道がある横断歩道がある。ここを渡って、振り返って撮ったのが二枚目の写真で、平塚橋交差点の東側(現代地図)。右側が中原街道で、左側が旧中原街道。ここから旧中原街道が中原街道とほぼ平行して東へと延びている。

三枚目は二枚目に写っている旧中原街道の標識で、これによれば、武蔵国と相模国を結ぶ中世以前から続く古道で、中原街道と呼ばれるようになったのは徳川幕府が整備をした1604年以降であるという(品川区のHP参照)。

四枚目は、明治44年(1911)発行の地図のこのあたりの部分図である。新路線は1923年(大正12年)完成であるので、左(西)下(南)から右上へと中央を斜めに延びる道が旧中原街道である。途中かくっと曲がっているところで川が横断しているが、このあたりが平塚橋であろうか。このあたりの街道北側の地名が字中原である。

旧中原街道周辺昭和16年地図 旧中原街道 旧中原街道 旧中原街道 一枚目は、昭和16年(1941)の地図でこのあたりの部分図であるが、現代とほぼ同じである。中原街道が斜めに右上へと延びているが、その上をほぼ平行に延びているのが旧中原街道である。ちょうど分岐点に平塚橋とある。

上二枚目の交差点から旧中原街道を東へ歩きはじめ、しばらくして進行方向を撮ったのが二枚目で、ちょっとうねっている。昭和地図でもうねっている。

さらに歩いて同じく進行方向を撮ったのが三枚目で、ここもちょっと曲がっているが、昭和地図にも見える。

上記以外はほぼまっすぐな道で、裏道とはいえ、現在も忙しく人も車も行き来している。

やがて信号のある桐ヶ谷通りとの交差点に近づくが(現代地図)、ここを右折して行くと、桐ヶ谷坂上の桐ヶ谷の交差点で、そこを直進すると百反通りである。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「東京市15区・近傍34町村⑰荏原郡大井町・平塚村全図」(人文社)
「地形社編 昭和十六年 大東京三十五區内⑲荏原區詳細図」(人文社)
「東京人 april 2007 no.238 特集東京は坂の町」(都市出版)
菅原健二「川の地図辞典」(之潮)
「東京の道事典」(東京堂出版)

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カナリヤ坂

2015年02月12日 | 坂道

旗の台東口商店街 カナリヤ坂下 カナリヤ坂下 カナリヤ坂周辺昭和16年地図 前回のサイカチ坂下の交差点を右折し、旗の台東口商店街の通りを南へ進み、池上線の踏切を渡り、次を右折し道なりに進むと、四差路の向こうに坂が見えてくる。カナリヤ坂である(現代地図)。旗の台五丁目8番と11番との間を南へ上る。

交差点の手前から坂上側を撮ったのが一枚目の写真で、坂下から坂上側を撮ったのが二枚目である。坂下は緩やかであるが、中腹でちょっと勾配がある。

四枚目は、昭和16年(1941)発行の地図のこのあたりの部分図である。右(東)上(北)から左下へと斜めに延びる鉄道が目蒲線(目黒線)で、ほぼ左右に延びるのが大井町線である。両者が交わる地点に上下にまっすぐに延びる道が、そのちょっと下(南)で左右に延びる道と交差している。そこから南へ延びる道がこの坂と思われる。戦前にすでにできていた。

この地図をみると、戦前には、両線ともにいまの旗の台駅がなかったことがわかる。池上線には、その交わる地点から立会川を越えた北東方向に旗ヶ岡という駅があり、大井町線には西側に中原街道のすぐ右に東洗足という駅があるが、これらは現在ない。両駅を廃止し、両線の乗り換えが便利なように現在の旗の台駅をつくったのだろう。

カナリヤ坂下 カナリヤ坂下 カナリヤ坂中腹 カナリヤ坂中腹 坂下からちょっと進み坂上側を撮ったのが一枚目の写真で、このちょっと先の滑り止めのあるあたりから勾配がつきはじめる。そのあたりから坂下側を撮ったのが二枚目である。これらの写真からもわかるが、坂下近くにこの坂名のついた歯科医院がある。

さらに上ってから坂上側を撮ったのが三枚目で、このあたりでもっとも勾配がある。さらに坂上側に進んでから撮ったのが四枚目である。

この坂名の由来が品川区HPで次のように説明されている。

『昭和三十年頃、荏原五中の校長先生と坂の途中にあった鳥獣店のご主人とが相談して「カナリヤ坂」という名前を付けました。荏原五中の生徒だけでなく、近くの旗台小学校の子供達にもこの名称が広まり、「カナリヤ坂」の名称が定着することとなりました。なおこの鳥獣店は、現在はなくなっています。』

その二人の相談で坂名が決められたとあるが、おもしろい坂名の決まり方である。その店にカナリヤが陳列されていたのであろうか。

上記HPに、旗の台駅の東側では、三間通りから南側にたくさんの坂道があるが、正式な名称が付いているのは「カナリヤ坂」だけ、というメモがある。 三間通りとは坂下の東西に延びる道であるが、この道のあたりが荏原台地に入り込んだ谷地なのであろう。その谷から南へ荏原台地に上る坂である。ところで、「正式な名称」とあるが、正式と非正式とをわける基準はなんだろうか。ふとそんな疑問がわく。

カナリヤ坂中腹 カナリヤ坂中腹 カナリヤ坂上 カナリヤ坂上 そのあたりから坂下側を撮ったのが一枚目の写真である。さらに上ってから坂上側を撮ったのが二枚目で、右(西)の公園わきに、この坂名が刻まれたプレート(「しながわ百景」)がある。

さらに上ってから坂上を撮ったのが三枚目で、坂上右側に荏原五中がある。そのあたりから坂下側を撮ったのが四枚目である。

品川区HPでは、坂の延長が93m、高低差が7.5m、最大勾配が約12.8%(7.3度)。高低差はさほどないが短いため比較的急で、前回の百反坂からはじめた品川区の坂の中でもっとも勾配がある。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「東京市15区・近傍34町村⑰荏原郡大井町・平塚村全図」(人文社)
「地形社編 昭和十六年 大東京三十五區内⑲荏原區詳細図」(人文社)
「東京人 april 2007 no.238 特集東京は坂の町」(都市出版)
菅原健二「川の地図辞典」(之潮)
「東京の道事典」(東京堂出版)

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さいかち坂

2015年02月09日 | 坂道

さいかち坂下 さいかち坂下 さいかち坂周辺明治44年地図 さいかち坂周辺昭和16年地図 前回の鏑木坂を下り、坂下を東に進むと、中原街道にいたる。横断歩道を渡り、右折し、中原街道の歩道を南へ歩く。やがてカーブし、しだいに西へ向きが変わり、中原街道の緩やかな上りが見えてくる(現代地図)。ここがさいかち坂で、そのあたりから撮ったのが一枚目の写真である。四車線の広い道路で、交通量が多い。旗の台一丁目4番と旗の台二丁目1番との間を西へ上る。

交差点を坂上側に進み、そこで振り返って坂下側を撮ったのが二枚目である。このあたりでここを横断するようにして立会川が流れていた。ここも鏑木坂と同じように立会川流域から荏原台地の一角に上る坂である。

三枚目は、明治44年(1911)の地図のこのあたりの部分図、四枚目は、昭和16年(1941)発行の地図のこのあたりの部分図である。

明治地図は、昭和地図とかなり違っているが、中央やや右よりの縦方向(南北)の道が旧中原街道と思われ、真ん中よりもちょっと下側で左側(西)へ曲がり半円状にカーブしながら西側へ延びているが、左側のカーブのあたりがこの坂ではないだろうか。坂下のあたりで、立会川の分流が街道を横切っている。

昭和地図では、中央縦方向(南北)の太い道路が中原街道で、中央ちょっと下側でかくっと左(西)へ曲がっているが、この曲がってから西へ延びる道がこの坂である。曲がったところをちょうど立会川が南北に横切っている。

中原街道は、大正期に旧道が改修され、大正12年(1923)に完成している。明治地図と昭和地図が違っているのはこのためである。

さいかち坂下 さいかち坂中腹 さいかち坂中腹 さいかち坂中腹 坂下の交差点を北側へ横断し、左折した近くから坂上側を撮ったのが一枚目の写真で、坂をちょっと上りそのあたりから坂上側を撮ったのが二枚目で、進行方向に見える歩道橋のあたりが坂上である。

そのあたりから坂下側を撮ったのが三枚目である。四枚目は、この後、反対側の歩道を下ったときに坂上側を撮ったものである。

この坂名の由来が品川区HPで次のように説明されている。

『中原街道が立会川と交さする荏原新橋付近から、大井町線ガードまでを登る坂で、大正時代までは右手に清水山、左手に亀の子島(山)の崖と崖にはさまれ、樹木と雑草のしげる、昼なお暗い坂であったといわれる。名称の由来は、坂の右手に「さいかち原」があったとも、両側にさいかちの木があったとも伝えられている。近年までの坂の登り口(旗の台駅の入口側)にさいかちの木が残っていた。』

さいかち坂上 さいかち坂上 さいかち坂上 さいかち坂下 さらに上ってから坂上側を撮ったのが一枚目の写真で、歩道橋の先でほとんど平坦になっている。

歩道橋を渡り坂上側で撮ったのが二枚目である。

三枚目は歩道橋から坂上側を撮ったもので、遠くに大井町線のガードが見える。

四枚目は歩道橋から坂下側を撮ったもので、左側(北)の歩道から北へ延びる道が写っているが、その先は鏑木坂上の交差点へと続いている。

品川区HPでは、坂の延長が400m、最大勾配が6%(3.4度)。かなり長いが、上の説明にあるように、大井町線のガードのあたりを坂上としているためであろう。

後で気がついたのであるが(上のHPにも紹介されている)、この坂にはいつもの品川区教育委員会による尖った柱状の標識が歩道橋近く坂下側の歩道(北)に立っている。上の写真にもかすかに写っている。いずれまた訪れて撮影したい。

同名の坂(皀角坂)がお茶の水駅西側にある。神田川(南側)に沿って上下する坂で(以前の記事)、さいかち(皀角)の木がたくさんあったからといわれている。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「東京市15区・近傍34町村⑰荏原郡大井町・平塚村全図」(人文社)
「地形社編 昭和十六年 大東京三十五區内⑲荏原區詳細図」(人文社)
「東京人 april 2007 no.238 特集東京は坂の町」(都市出版)
菅原健二「川の地図辞典」(之潮)
「東京の道事典」(東京堂出版)

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鏑木坂

2015年02月07日 | 坂道

立会道路 立会道路 鏑木坂下 鏑木坂下 前回の八幡坂の坂名の由来である小山八幡神社から神社前の道にでて、右折し、摩耶寺の前を過ぎて南へ歩き、次の信号を左折して進み、次の信号を右折すると、立会道路である(現代地図)。

立会道路を南へ進むが、そのあたりで進行方向を撮ったのが一枚目の写真である。さらに歩いて、緩やかなカーブの手前で進行方向を撮ったのが二枚目である。

二つ目の信号を右折すると、遠くに坂が見えるが、これが鏑木坂(かぶらぎざか)で、そのあたりで撮ったのが三枚目である。江戸見坂のように坂下から離れたところから遠望できる。この坂も立会川の流域を坂下とし荏原台地の東端の一角に上る。

坂下に近づいて撮ったのが四枚目で、中程度の勾配でまっすぐに上っている(現代地図)。坂の右側(北)の建物は昭和大学の校舎である。旗の台一丁目9番と10番との間を西へ上る。

鏑木坂下 鏑木坂下 鏑木坂周辺明治44年地図 鏑木坂周辺昭和16年地図 坂下の交差点から坂上側を撮ったのが一枚目の写真で、そのちょっと上から坂上側を撮ったのが二枚目である。ほぼ同じ勾配でまっすぐに上っている。

三枚目は、明治44年(1911)の地図のこのあたりの部分図、四枚目は、昭和16年(1941)発行の地図のこのあたりの部分図である。

昭和地図をみると、現在とかなり近いが、明治地図は、川が三本も流れていて、どれが立会川本流なのもわからず、現在と対比するのが難しいが、前回の明治地図の下側(南)にあたるので、これと比べ、さらに下流側と比べると、真ん中の流れが本流らしい。中央からやや上側を左右(東西)に延びる道がこれらの川と直交しているが、この道が鏑木坂にいたる道であろう。ここの橋を屋敷下橋といった(石川)。

明治地図で「字屋敷下」とあるあたりが坂上付近と思われ、そこから右(東)へまっすぐに下っている。住所は、東京府荏原郡平塚村大字中延字屋敷下。この道をそのまま右(東)へ行くと、四差路があるが、その上下(南北)の道が旧中原街道と思われる。

昭和地図では、坂の右側(北)が広大な鏑木邸で、坂名はここからきている。ここは現在、昭和大学の敷地となっている。

鏑木坂下 鏑木坂中腹 鏑木坂中腹 鏑木坂中腹 坂をちょっと上ってから振り返って坂下側を撮ったのが一枚目の写真で、交差点の手前におもしろいデザインのマークが写っている。コンクリートブロック状の物が立体的に浮かんで見える。交差点であることの注意喚起の新しい標識か。

さらに上って坂上側を撮ったのが二枚目で、さらにその上の反対側歩道から坂上側を撮ったのが三枚目である。

さらに進んで坂上側を撮ったのが四枚目で、坂上が見えてきた。

この坂名の由来が品川区HPで次のように説明されている。

『昭和大と同付属病院の間の坂を言います。昔は、立会川のところから坂上にかけて天領名主鏑木家の屋敷があったため名付けられました。』

鏑木氏は平家の支流で、千葉氏から別れ、足利時代に此地に移住して開拓につくしたという(石川)。

鏑木坂中腹 鏑木坂上 鏑木坂上 鏑木坂上 そのあたりから坂下側を撮ったのが一枚目の写真で、さらに上ってから坂上側を撮ったのが二枚目で、坂上の交差点が見える。

その上から坂下側を撮ったのが三枚目で、坂下と同じ標識が画かれている。

さらに坂上側に進んでから進行方向を撮ったのが四枚目で、先ほどの交差点を過ぎても緩やかな上りがだらだらと続いているが、この先の幼稚園の手前でようやく平坦になる。

品川区HPでは、坂の延長が260m、最大勾配が9.0%(5.1度)で、かなり長いが、坂上の平坦になる所まで長いためであろうか。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「東京市15区・近傍34町村⑰荏原郡大井町・平塚村全図」(人文社)
「地形社編 昭和十六年 大東京三十五區内⑲荏原區詳細図」(人文社)
「東京人 april 2007 no.238 特集東京は坂の町」(都市出版)
菅原健二「川の地図辞典」(之潮)
「東京の道事典」(東京堂出版)

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八幡坂(小山)

2015年02月05日 | 坂道

八幡坂(小山)下 八幡坂(小山)下 八幡坂(小山)下 八幡坂周辺明治44年地図 前回の江戸見坂上をさらに上り、平坦になった四差路を左折すると、ちょっとした下り坂になる。神社の塀で行き止まりになるので、左折し、この神社の裏手の道をちょっと下ると、右手に小山八幡神社の境内の出入口がある。境内に入ってそこからの風景を眺めてから、先ほどの神社裏手の道にもどる。下ると八幡坂の中腹に出る。江戸見坂上を左折すれば、こんな迂回をせずに八幡坂であったが、このときは、上の平坦な所が坂上と思っていた。

右折しいったん坂下まで下り、坂下の信号のある交差点で引き返し坂を上る(現代地図)。小山六丁目22番と荏原七丁目5番との間を西へ上る坂。

坂下の交差点から坂上側を撮ったのが一枚目の写真で、中程度の勾配でまっすぐに上る。

ちょっと進んでから振り返って坂下を撮ったのが二枚目で、この先で、暗渠化された立会川の上にできた立会道路と交差する。ここも立会川の流域から荏原台地へ上る坂である。

さらに坂上側に歩いてから坂上側を撮ったのが三枚目で、このあたりではまだ緩やかである。

四枚目は、明治44年(1911)の地図のこのあたりの部分図である。中央左斜め下の天祖神社が、その右(東)となりに摩耶寺があるので、小山八幡神社で、その上(北)にある道がこの八幡坂である。坂下に立会川が流れているのがわかる。

八幡坂(小山)中腹 八幡坂(小山)中腹 八幡坂(小山)中腹 八幡坂周辺昭和16年地図 さらに上ってから坂上側を撮ったのが一枚目の写真で、勾配がかなりつきはじめている。

ちょっと進んでから振り返って坂下側を撮ったのが二枚目、そのあたりで坂上側を撮ったのが三枚目である。

四枚目は、昭和16年(1941)発行の地図のこのあたりの部分図で、この坂名が見える。この昭和地図をみると、先ほどの八幡神社裏手の道がつながる坂中腹の下側の道幅が狭くなっているが、現在はそうなっていない。戦後に改修されたのであろうか。

八幡坂(小山)中腹 八幡坂(小山)中腹 八幡坂(小山)上 八幡坂(小山)上 さらに上ってから坂上方面を撮ったのが一枚目の写真、そのあたりから坂下側を撮ったのが二枚目である。

さらに進んで坂上側を撮ったのが三枚目で、坂上が見えてきた。そこからさらに上ってから坂下側を撮ったのが四枚目である。

この坂が品川区HPで次のように説明されている。

『名称の由来は定かではありませんが、小山八幡神社の近くにあることからこの名前がついたのではないかと言われてます。』

小山八幡神社は、荏原七福神の一つ「大国天」をまつる。となりの摩耶寺もその一つ「寿老人」をまつる。他の五つは、大井蔵王権現神社の「福禄寿」、不動院・東光寺の「毘沙門天」、上神明天祖神社の「弁財天」、法蓮寺の「恵比寿」、養玉院・如来寺の「布袋尊」。ちょうどきょうの東京新聞夕刊にのっていた。

八幡坂(小山)上 八幡坂(小山)上 小山八幡神社境内からの風景 小山八幡神社下そのあたりから坂上側を撮ったのが一枚目の写真で、この先で江戸見坂の坂上と交差する。

その交差点から坂下側を撮ったのが二枚目で、この左(北)が江戸見坂の下りである。

ここから坂を下り、中腹で右折し、小山八幡神社に入る。高台で東側の見晴らしがよい。三枚目は、そこから撮った風景である。

神社の階段を下ったところで、上側を撮ったのが四枚目で、下に写っているのは「しながわ百景」のプレートである。

品川区HPで、坂の延長が約220m、高低差が10.8m、最大勾配が9.0%(5.1度)となっている。江戸見坂よりも長い。

同名の坂が同じ品川区の戸越銀座近くにある。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「東京市15区・近傍34町村⑰荏原郡大井町・平塚村全図」(人文社)
「地形社編 昭和十六年 大東京三十五區内⑲荏原區詳細図」(人文社)
「東京人 april 2007 no.238 特集東京は坂の町」(都市出版)
菅原健二「川の地図辞典」(之潮)

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江戸見坂(小山)

2015年02月04日 | 坂道

今回は、品川区小山から旗の台までの間の坂を巡り、その帰りに別の坂に寄った。すべてはじめて訪れる坂である。

江戸見坂通り 江戸見坂通り 江戸見坂通り 江戸見坂周辺明治44年地図 午後東急目黒線西小山駅下車。

改札を出て左折しそのまま回り込むようにして進んでから右に向いて信号を渡り、直進し次を右折すると、そこが江戸見坂通りである(現代地図)。右手にスーパーがある通りで、南西にまっすぐに延びた商店街になっている。

そのあたりから撮ったのが一枚目の写真で、両わきのポールに江戸見坂通りの表示があるが、この表示をこの通りでたくさん見かけた。

この通りを進み、その途中で撮ったのが二枚目で、この先で左にちょっと曲がっているが、曲がってから撮ったのが三枚目である。

曲がると、突然、前方にまっすぐに上る江戸見坂を遠望できるので、ちょっと驚いた。初めての出合いとしてはなかなかよい。坂下の江戸見坂通りがまっすぐに延び、そのまま坂がみごとにまっすぐに上っている。まるで細長い敷物をまっすぐに坂上まで敷き詰めたようで、スキーのジャンプ台のようでもある。

こんなに坂下から離れたところから、坂下から続いてまっすぐに上る坂を正面にして見ることのできる場所はそんなにないような気がする。目白台の富士見坂も北の目白通りへと南からみごとにまっすぐに上る坂であるが、ここは坂下の氷川神社の方からアクセスし、坂下近くで曲がってからでないと坂が見えず、こんなに遠望できない。これから行く旗の台の鏑木坂も坂下のかなり手前から遠望できるが、坂下近くの交差点までの間で道幅が変化している。

四枚目は、明治44年(1911)の地図のこのあたりの部分図である。目黒線(大正12年(1923)開業)がまだ開通していない。現在と比較するのが難しいが、中央左斜め下の天祖神社が、その右(東)となりに摩耶寺があるので、小山八幡神社と思われる。そうとすると、その上(北)にある道がこれから行く八幡坂で、その左側(西)に進むと、T字路があるが、その471番地と472番地との間を北へまっすぐに延びる道が、この坂と思われる。明治地図での住所は、荏原郡平塚村大字小山字池ノ谷となっている。

坂下のずっと先には立会川があるが、この地図の中央を下側(南)へと流れている。立会川は、目黒区碑文谷六丁目の碑文谷公園の碑文谷池(現代地図)と、目黒本町二丁目の清水公園の清水池(現代地図)を水源とし、目黒区から品川区に流れ、京浜急行立会川駅近くで勝島運河に注ぐ(現代地図)。 

江戸見坂下 江戸見坂下 江戸見坂下 江戸見坂下 江戸見坂通りが坂下まで続くが、そのちょっと手前で坂上側を撮ったのが一枚目の写真で、勾配はそんなにない。小山六丁目18番と19番の間を南へ上る(現代地図)。

ちょっと進んでから坂上側を撮ったのが二枚目、そのあたりで振り返ってから江戸見坂通り方面を撮ったのが三枚目である。

一~三枚目に写っているように、坂下右(西)にちょっと古ぼけた坂の標柱が立っているが、面によっては字も消えかかっている。前回の大崎駅近くの百反坂峰原坂や戸越銀座の宮前坂八幡坂などに立っている新しいものとは違い、旧式の標柱である。

四枚目は、ちょっと進んでから坂上側を撮ったものである。

江戸見坂中腹 江戸見坂中腹 江戸見坂中腹 江戸見坂周辺昭和16年地図 さらに上って中腹から坂上方面を撮ったのが一枚目の写真、そのあたりから坂下側を撮ったのが二枚目、さらに進んで坂上側を撮ったのが三枚目である。

四枚目は、昭和16年(1941)発行の地図のこのあたりの部分図で、この坂名が見える。目黒線の西小山駅が見え、駅のすぐ右(東)から下側(南)へと立会川が流れているが、現在は暗渠化され、立会道路となっている。この坂のあたりは、現在と同じ小山六丁目。現在とほぼ同じ街並みができていたようである。

荏原台地と、その北東に位置する目黒台地との間を立会川が流れているが、この坂は立会川の流域から南へ荏原台地の東縁の一画に上る坂である。標高30~40mで、坂下で20~30mであるので、標高差は10m程度と思われるが、品川区HPでは、坂の延長が約120m、高低差が8.2m、最大勾配が9.3%(5.3度)となっている。

江戸見坂中腹 江戸見坂中腹 江戸見坂上 江戸見坂上 坂中腹上側から坂下側を撮ったのが一枚目の写真で、そのあたりから坂上側を撮ったのが二枚目で、このあたりでもっとも勾配があるように見える。

さらに上ってから坂上側を撮ったのが三枚目で、坂上の四差路が見える。さらに進み、坂上の四差路を撮ったのが四枚目である(現代地図)。坂上を左折すると八幡坂の坂上である。

三、四枚目からわかるように、坂上で左にちょっと曲がってからさらに南へと上っているが、明治地図ではこの坂上で行き止まりである。昭和地図に坂上から上の道が見えるので、大正~昭和初期に延長されたのであろう。

この坂名の由来が品川区HPに次のように説明されている。

『かつては、この坂の上から江戸市中が見渡せたとのことからこの名前がついたと言われています。江戸市中だけでなく大井・大森の海や富士山もよく見えたようです。坂の下には「江戸見坂」の道標がたっています。』

江戸見坂上 江戸見坂上 江戸見坂上 江戸見坂上(八幡坂上から) 坂上の交差点から坂下側を撮ったのが一枚目の写真で、その上側から同じく坂下側を撮ったのが二枚目である。

かつては、このあたりから、坂名のとおり、北~北東側に江戸の町が見えたのであろうか。距離を考えるとにわかに信じられないが、坂名はそれを意味する。

ここのすぐ東にある戸越の地名が江戸越しに由来するとの説から、江戸見坂は遠くはるかに江戸をふりかえった坂の意味であろうか、とする説もある(石川)が、同氏が述べているように、いずれにしても文献が少ないのが難点である。(もっとも、この坂に限らず、このあたりの坂はみなそうである。)

三枚目は、そのあたりから坂上の先の南側を撮ったもので、この先で平坦となるので、そこまでの標高差は10m以上あるように思える。

四枚目は、坂上の交差点を左折してから振り返って撮ったもので、右(北)から上ってきて、中央が坂上である。左折して進むと、八幡坂の下りとなるので、このあたりは八幡坂の坂上といってもよい。つまり、二つの坂の坂上が交わっている。

同名の坂が虎の門にあるが、都心にあるおそるべき急坂である(以前の記事)。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「東京市15区・近傍34町村⑰荏原郡大井町・平塚村全図」(人文社)
「地形社編 昭和十六年 大東京三十五區内⑲荏原區詳細図」(人文社)
「東京人 april 2007 no.238 特集東京は坂の町」(都市出版)
菅原健二「川の地図辞典」(之潮)

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