東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

鶯谷~無名の階段坂(2)

2011年02月26日 | 坂道

無名の階段坂上 無名の階段坂上 断腸亭日乗S8.1.2左図 断腸亭日乗S8.1.2右図 『御府内備考』の小石川の総説に「鶯谷は金剛寺の傍の谷なり、此地よりいずる鶯は聲他に勝れてよかればかくいふなりとぞ、【改選江戸志】」とある。鳴き声のよい鶯(うぐいす)がいたことにちなむらしい。

荷風「断腸亭日乗」昭和8年(1933)正月元旦に次の記述がある。

「正月元日。晴れて暖なり。午後雑司谷墓地に徃き先考の墓を掃ふ。墓前の蠟梅馥郁たり。先考の墓と相対する処に巌瀬鷗所の墓あればこれにも香華を手向け、又柳北先生の墓をも拝して、来路を歩み、護国寺門前より電車に乗り、伝通院に至り、大黒天に賽す。堂の屋根破損甚し。境内の御手洗及び聖天の小祠も半朽腐し丸太にて支えたり。瓦は尽く落ちトタン板にて処ゝ修繕をなしたるまゝなり。聖天祠軒下の賽銭箱に願主□□吉弥市川小団治と彫りたるを見る。近寄りて年号を撿したれど無し。歩みて表町の通に出で、金富町の横町をまがり、余が旧宅の塀外をめぐり、金剛寺阪の中復に出でたり。それより小径を辿り崖を下りて多福院の門前に至り、崖下の道を過ぎて小日向水道町の大通に出でたり。此のあたりの事は大正十三年の春礫川徜徉記といふものに書き置きたり。思へばこれさへ十年のむかしとなりぬ。江戸川端を歩み諏訪町の路地を抜け、諏訪神社に賽し、牛天神男阪の麓に出でたり。諏訪町路地裏の貧家は余が稚きころ見たりし時に異らず。昔と今と異るものは砲兵工廠の建物半取払れて機械の響を聞かざる事、また牛天神の樹木の枯死して幽邃の趣を失ひし事なり。崩れたる練瓦塀に沿ひ飯田橋の河岸に出づる頃短き日は忽暮れかゝりぬ。去年の如く今年も神楽阪上の田原屋に憩ひ夕飯を食し車にて家にかへる。風吹出でゝ寒くなりぬ。是日見るところ委しく書きしるさんと思へど指の繃帯筆持つに不便なれば歇みぬ。」

荷風は、この日、雑司谷墓地で亡き父のお墓参りをし、電車で伝通院に来て金富町の旧宅の塀外をめぐり、金剛寺坂の中腹にでて、それより小径を辿り崖を下りて多福院の門前に至り、崖下の道を過ぎて小日向水道町の大通に出た。崖下の道が現在の無名の階段坂であろう。父久一郎の命日が1月2日で、このため、荷風は毎年よく新年早々雑司が谷に墓参りに行っている。

次の日の日乗に、そのときの多福院あたりのスケッチがのっているが、それが、上右二枚の写真である。右図は、多福院で、寺ノ後ハ高地ノ崖ナリ、と手書きのメモがある。左図は、右図に続く図(ちょうど頁が別々になっている)で、同じく手書きで、礫川鶯谷竹林山多福院之圖 小石川金富町金剛寺阪ノ上崖下ノ窪地昔鶯谷ノ名在り今福岡子爵邸崖ノ下也、とある。

無名の階段坂から 無名の階段坂下 無名の階段坂下 小石川鶯谷見取図 上記から8年あまり後の昭和16年(1941)9月28日の日乗("永井荷風生家跡"の記事参照)に、「・・・(金剛寺)坂を上り左手の小径より鶯谷を見おろすに多福院の本堂のみむかしの如くなれど、懸崖の樹木竹林大方きり払れ新邸普請中のところ二三箇処もあり。昭和十一二年頃来り見し時に比すれば更に荒れすさみたり。牛込赤城の方を眺むる景色も樹木いよいよ少くセメントの家屋のきたらしさ目に立ちて、去大正十二年地震後に来り見し時の面影はなし。その時筆にせし礫川徜徉記を今読む人あらば驚き怪しむべし。・・・」とあるように、左手の小径より鶯谷を見おろす処にあるのが無名の階段坂であろう。

上記の日乗のいずれにも「礫川徜徉記」がでてくる。前回の記事のとおりであるが、昭和16年の日乗では、そのときの面影はない、と慨嘆している。

松本哉「永井荷風の東京空間」(河出書房新社)を見たら、「礫川徜徉記」の「門前の小径は忽にして懸崕の頂に達し紐の如く分れて南北に下れり。」について詳しく書いてあった。松本も実際にここにでかけたようで、やはり、階段坂の南西の低地あたりが鶯谷であろうとしている。 同著にこのあたりの見取図があるが、その部分図が上右の図である。金剛寺坂上(前回の記事の最初の左の写真)を左折したさきにある南へ延びる道が階段坂である。荷風の言い方にならうと、紐のように分れて南に下る道が階段坂で、北に下る道が緩やかに曲がりながら下り多福院の方への道である。荷風がそう書いたころは、もっと道が狭く紐のように分かれていたのであろう。

著者による坂上あたりのスケッチものっているが、そのころは、現在よりも見晴らしがよかったらしく、新宿のビル群が描かれている。

無名の階段坂下 無名の階段坂下 無名の階段坂下の橋から 無名の階段坂下の橋の先 階段を下ると、丸の内線にかかる橋である。ちょうど電車が通ったので、東方面を写した。向こうに金剛寺坂にかかる橋が見える。この地下鉄が開通するまでは、さらに坂道が続いていたのであろう。

橋を渡り、線路に平行な下り坂を通って水道通りに出た。3~4年前にもきているが、下り坂のあたりがそのときの印象とだいぶ違っている。確か工事中であったが、もうすこし広々としていたような気がする。その後、建物が建ったのであろう。
(続く)

参考文献
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「大日本地誌体系 御府内備考 第二巻」(雄山閣)
「荷風随筆集(上)」(岩波文庫)
永井荷風「新版断腸亭日乗」(岩波書店)

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