東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

穴八幡男坂・女坂

2016年04月30日 | 坂道

牛込市谷大久保絵図(安政元年(1854)) 穴八幡男坂(2016) 穴八幡女坂(2016) 穴八幡女坂(2016) 穴八幡女坂(2016) 穴八幡神社境内(2016) 穴八幡女坂(2016) 穴八幡女坂(2016)

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雑司ヶ谷霊園(2016)

2016年04月30日 | 写真

雑司ヶ谷霊園(2016) 雑司ヶ谷霊園(2016) 雑司ヶ谷霊園(2016) 雑司ヶ谷霊園(2016) 雑司ヶ谷霊園(2016) 雑司ヶ谷霊園(2016) 雑司ヶ谷霊園(2016) 雑司ヶ谷霊園(2016)

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大宮 氷川神社(2016)

2016年04月29日 | 写真

大宮 氷川神社(2016) 大宮 氷川神社(2016) 大宮 氷川神社(2016) 大宮 氷川神社(2016) 大宮 氷川神社(2016) 大宮 氷川神社(2016)

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牧野富太郎の墓

2016年04月27日 | 散策

案内標識 案内標識 谷中墓地の鷲津毅堂の墓から牧野富太郎の墓へ向かう。西に歩き、五重塔跡のある四差路を右折し、北へ紅葉坂方面に進む。

しばらくすると、一枚目の写真のように、左手に石柱からなる案内標識が立っているが、この方向からアクセスしたときは見逃しやすいかもしれない。この小道に入り、ちょっと歩くと、右手に同じような案内標識が見えてくる(二枚目の写真)。

前回、紅葉坂から芋坂へ向かったとき、ここに寄り道をしたが、この標識に気がつかず、結局、見つけることができなかった。

この標識を右折し、ちょっと歩くと、右手に独学の大植物学者といわれる牧野富太郎の墓が見えてくる(下一枚目の写真)。ここは谷中墓地ではなく天王寺墓地。

牧野富太郎の墓 牧野富太郎の墓 牧野富太郎の墓 牧野富太郎は、文久二年(1862)4月24日、土佐国高岡郡佐川村(現、高知県高岡郡佐川町)に生まれた。父は佐平、母は久寿、幼名誠太郎。数え年4歳で父を、6歳で母を喪った。7歳で祖父小左衛門が亡くなり、このころ、富太郎と改名した。実家は酒造りと雑貨店(小間物問屋)を営む裕福な家であった。祖母が商売の采配をふるいながら、富太郎を育てたという。

かなり前、高知県出身の作家大原富枝が書いた「草を褥に」(小説牧野富太郎)を読んだとき、牧野が独学になったのは生家が貧しかったからではないことを知ってちょっと驚いたことがあった。つい先入観から野口英世などと同じように勉学の資に窮したためと思っていたが、そうではなく、故郷の私塾などであらかた学んでしまい、大学で特に学ぶ必要がなかったからとしている。

昭和三十二年(1957)1月18日に96歳で亡くなっている(二枚目の写真)。

牧野富太郎の墓は、以前から訪れてみたいと思っていたが、それは、吉本隆明がむかし谷中墓地をうろうろしていたら偶然この墓の所に出くわしたことを書いていたからであった。大きくきれいなかたつむりが墓石や壁塀にたくさんいて、それを採って自宅に持ち帰って庭に放したが、二、三日するとみないなくなった。五月の初旬の頃であった。次の年の五月にもまた庭に放すことができたが、その後、まったくいなくなったと残念がっていた。蚊などの害虫駆除のための殺虫剤噴霧の影響と推測しているが、たぶん、そうだろう。

参考文献
牧野富太郎「牧野富太郎自叙伝」(講談社学術文庫)
吉本隆明「吉本隆明の下町の愉しみ」(青春新書)

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石神井公園4月(2016)

2016年04月25日 | 写真

石神井公園4月(2016) 石神井公園4月(2016) 石神井公園4月(2016) 石神井公園4月(2016) 石神井公園4月(2016) 石神井公園4月(2016)

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善福寺川新緑(2016)

2016年04月21日 | 写真

善福寺川新緑(2016) 善福寺川新緑(2016) 善福寺川新緑(2016) 善福寺川新緑(2016) 善福寺川新緑(2016) 善福寺川新緑(2016) 善福寺川新緑(2016) 善福寺川新緑(2016) 善福寺川新緑(2016) 善福寺川新緑(2016)

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薬王院(下落合)牡丹(2016)

2016年04月20日 | 写真

薬王院(2016) 薬王院(2016) 薬王院(2016) 薬王院(2016) 薬王院(2016) 薬王院(2016)

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善福寺川4月(2016)

2016年04月12日 | 写真

善福寺川4月(2016) 善福寺川4月(2016) 善福寺川4月(2016) 善福寺川4月(2016) 善福寺川4月(2016) 善福寺川4月(2016) 善福寺川4月(2016) 善福寺川4月(2016)

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善福寺池4月(2016)

2016年04月10日 | 写真

善福寺池4月(2016) 善福寺池4月(2016) 善福寺池4月(2016) 善福寺池4月(2016) 善福寺池4月(2016) 善福寺池4月(2016) 善福寺池4月(2016) 善福寺池4月(2016)

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「坂下の鴎外、坂上の漱石」

2016年04月09日 | 吉本隆明

吉本隆明は「私の下町」(『サライ』14号 2007 小学館)という記事で下町とともに坂について次のように語っている。

『月島や深川のことばかり申しましたが、私が戦後に主に暮らしたのは谷中、千駄木一帯で、こちらもまごうことなき下町です。家内の実家が谷中でして、この辺りを転々と移り住みました。谷中には坂がありましょう。その坂の上と下では、何となく格差があるのが面白いんです。
 坂の上は寺町でちょっといい家がある。坂下はもう庶民の町で荒っぽい。人物でいいますと、坂上をすまして歩いているのが、劇作家岸田國士のお嬢さんで詩人の岸田衿子さん。坂下を赤い顔して歩いているのが古今亭志ん生。おふたりには散歩の折によく行き合いました。岸田さんが下の商店街に来ると、美人ではないのですが(笑)よく目立つのですな。もちろん私は坂下派です。つい最近まで、坂下の谷中銀座の散髪屋に通っていました。
 下町の楽しさのひとつに路地歩きがあります。以前は同じ道を通らずに、一筆書きのように谷中、千駄木の路地を歩いては悦にいっていました。でも最近は目と足が弱くなって、ほとんど出歩かなくなってしまいました。
 坂にこだわるようですが、千駄木に住んだ森鴎外[鷗外]と夏目漱石を、私は勝手に「坂下の鴎外、坂上の漱石」と呼んでいます。鴎外は団子坂下の谷中を、漱石は坂上の本郷をよく散歩していたと考えるからです。昔の話ですが散歩中、谷中蛍坂下に鴎外の小説『青年』に登場するような古い家を見つけましたよ。』

谷中銀座 御殿坂 吉本隆明の晩年の談話であるが、これから坂に興味・関心を持っていたことがわかる。もっとも、「坂の上、坂の下」という、若い時の坂にまつわる超短篇小説を書いているので、坂は、このあたりに住みはじめたときから日々の生活でよくなじんでいた。

もともと、月島生まれ(大正13年(1924)11月25日)、新佃島育ちで、十歳(1934)の頃から深川・門前仲町にあった学習塾に通い、十三歳(1937)で入学した東京府立化学工業学校も深川で、ずっと坂のない所で育っている。十八歳(1942)のとき米沢高等工業学校に入学したが、米沢は盆地で坂のある土地ではない。その頃、一家は葛飾区上千葉(現・お花茶屋二丁目)に移住したが、ここは坂のない下町である。その後、二十歳(1944)のとき東京工業大学に入学したが、大岡山や大学の周辺には坂はあるが(以前の記事)、駅のあたりはそうでもなさそうである。このように、吉本隆明は、坂とはほとんど縁のないところで育ち生活してきた。

団子坂下 谷中 そんな吉本が坂とであったのは、「坂の上、坂の下」からもわかるように、谷中である。

「その坂の上と下では、何となく格差があるのが面白いんです」と云うように、坂上と坂下の違いを感じとっているが、これは吉本の感性からすればしごく当然のことであった。坂上は山の手、坂下は下町、であるが、一般的な意味での山の手と下町ではない。都内西側の山の手地域内にある坂の上と下のことで、坂下の下町とは、いわば、山の手内下町である。

この地域(台東区、文京区、千代田区、新宿区、港区、・・・)は、標高のある台地が単に広がるのではなく、いたるところで浸食され、たくさんの谷が入り込んで、複雑に凹凸が形成され、このため多数の坂ができている。このことは、当ブログでも度々書いてきた。

いまでも、坂のある山の手地域を歩けば、静かでつんとすました冷たい感じの住宅街やビル街のある坂上から、坂を下ると、うるさくわい雑であるが人々との親和性を感じさせる坂下に至る。そんな坂上と坂下があちこちにある。

鴎外の「青年」に次のように、主人公が下宿を見つける場面があるが、そこが初音町(旧町名)で、ここに下る蛍坂下に、吉本は、そのような家を発見した(「坂の上、坂の下」にもある)。

『今日も風のない好い天気である。銀杏の落葉の散らばっている敷石を踏んで、大小種々な墓石に掘ってある、知らぬ人の名を読みながら、ぶらぶらと初音町に出た。
 人通りの少い広々とした町に、生垣を結い繞らした小さい家の並んでいる処がある。その中の一軒の、自然木の門柱に取り附けた柴折戸に、貸家の札が張ってあるのが目に附いた。』

鴎外は坂下の谷中をよく歩いたとあるが、それは、「青年」のたとえば次のような描写からだろうか。

『時計を出して見れば、まだ八時三十分にしかならない。まだなかなか大石の目の醒める時刻にはならないので、好い加減な横町を、上野の山の方へ曲った。狭い町の両側は穢(きた)ない長屋で、塩煎餅を焼いている店や、小さい荒物屋がある。物置にしてある小屋の開戸が半分開いている為めに、身を横にして通らねばならない処さえある。勾配のない溝に、芥が落ちて水が淀んでいる。血色の悪い、瘠せこけた子供がうろうろしているのを見ると、いたずらをする元気もないように思われる。純一は国なんぞにはこんな哀な所はないと思った。
 曲りくねって行くうちに、小川に掛けた板橋を渡って、田圃が半分町になり掛かって、掛流しの折のような新しい家の疎(まばら)に立っている辺に出た。一軒の家の横側に、ペンキの大字で楽器製造所と書いてある。成程、こんな物のあるのも国と違う所だと、純一は驚いて見て通った。
 ふいと墓地の横手を谷中の方から降りる、田舎道のような坂の下に出た。灰色の雲のある処から、ない処へ日が廻って、黄いろい、寂しい暖みのある光がさっと差して来た。坂を上って上野の一部を見ようか、それでは余り遅くなるかも知れないと、危ぶみながら佇立している。』

漱石の「三四郎」には次のような場面があるが、これなどはたしかに坂上(本郷台地)からの描写である。

『団子坂の上まで来ると、交番の前へ人が黒山のようにたかっている。迷子はとうとう巡査の手に渡ったのである。
 「もう安心大丈夫です」と美禰子が、よし子を顧みて云った。よし子は「まあ可(よ)かった」といふ。
 坂の上から見ると、坂は曲がっている。刀の切先のようである。幅はむろん狭い。右側の二階建が左側の高い小屋の前を半分遮っている。其後には又高い幟(のぼり)が何本となく立てゝある。人は急に谷底へ落ち込む様に思はれる。其落ち込むものが、這い上がるものと入り乱れて、道一杯に塞がっているから、谷の底にあたる所は幅をつくして異様に動く。見ていると目が疲れるほど不規則に蠢いている。広田先生はこの坂の上に立って、
 「是は大変だ」と、さも帰りたそうである。四人はあとから先生を押す様にして、谷へ這入った。其谷が途中からだらだらと向へ廻り込む所に、右にも左にも、大きな葭簀掛(よしずが)けの小屋を、狭い両側から高く構へたので、空さえ存外窮屈にみえる。往来は暗くなる迄込み合っている。其中で木戸番ができる丈大きな声を出す。「人間から出る声じゃない。菊人形から出る声だ」と広田先生が評した。それほど彼等の声は尋常を離れている。』

吉本は、坂下派を自認しているが、それは谷中などの坂下に長く住んだためだけでなく、その感性・思想に由来するように想われ、興味深い。いってみれば、坂上の高級性の中に低俗性を見て、坂下の低俗性の中に高級性を見るような感性・思想。

参考文献
石関善治郎「吉本隆明の東京」(作品社)

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