生麦事件 2014-8-29
文久2年8月21日(陽暦1862年9月14日)
東海道の海沿いの地、神奈川、川崎の間にある
生麦村で起こった。攘夷の薩摩武士がイギリス人
を切ったと見られるのが通例だが、これは日本人
であっても切られていた筈。島津久光の行列700人
が江戸から京都に戻る時に、英国人リチャードソン
一行4人と遭遇した。行列の先頭の武士が「馬から
降りろ、わきへみ寄れ」と注意したが日本語が
通じず、そのまま乗り入れたために切られた。
薩摩と英国は会談決裂後、戦争になった。これで
薩摩はいかに英国の武力が強いかを知り、英国は
日本人が中国人とは違い、劣勢でも逃げずに勇敢
に戦う民族であることを知る。長州も同様にフラ
ンスの強さを知る。この薩長が手を結び、英仏か
ら武器を調達して幕府を倒す。
私はヨーロッパ列強が日本の植民地化を諦めたの
には、この辺の事情が有ると思う。日本は文明開化、
殖産興業、富国強兵と進み、日清日露の戦争に勝ち、
更に、アジアの植民地の解放へ向かう。それを憎く
思う英米オランダと衝突することは避けられず、更
にソ連のコミンテルンに操られたルーズベルト政権
は日本が戦争に踏み切るように動く。日米が開戦
すればソ連は後顧の憂いなくドイツと戦えるからだ。
大東亜戦争に、日本は負けて傷ついたが、アジアを
解放した点では成功だった。日本が立ち上がらなけ
ればアジアはまだヨーロッパ列強が支配していたか
も知れない。生麦事件はそういう事件だと思う。
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