最初の記憶-3- 2010-05-03
新しい母を上海でめとった父が、私を迎えに来ました。
私は生まれて初めて江戸川を出ました。と言うのは
自分の思いこみで、江戸川に来る時に既に上海から
やって来た訳ですが、自分の記憶では今回が初めて
の旅です。長崎で旅館に初めて泊まり、その時に
枇杷を初めて食べました。
長崎から上海航路の船に乗りました。最初のうちは
見る物見る物全てが珍しく面白くてはしゃいでいました
が、周囲が海だけになり、おまけに、爆撃された時に
備えての訓練が始まると、なんか急に怖くなり、泣き
出したことを覚えています。父から、男はこんなことで
泣いてはいけないと諭されたのに、泣き続け、ついに
は船長さんらしき人からも同じように諭されて、男は
こんなことで泣いてはいけないものなんだと肝に銘じ
たことを覚えています。(でも泣いていました)
上海に着くと、海が黄色いことに気が付きましたが、
日本の海さえ良く知らなかった自分としては、それ
程驚きませんでした。3年後に日本に帰り着いた時
に日本の海の青さに驚いたものです。
上海では新しい母が待っていました。お爺ちゃんお
婆ちゃんに猫可愛がりされていた状況から、全くの
別世界に身を投じたことになります。小説に良くある
ように継母からいじめられるなんてことは全くなく、
これが普通の生活と思っていました。
上海ではすぐ幼稚園年少組に入りました。お寺さん
が経営する幼稚園で、園児は日本人ばかりでした。
最初の年は、よく泣かされました。陰湿ないじめでは
なく、要はケンカで負けて泣きました。次の年は、私が
一番強くなり、誰とケンカしても勝ちました。年長組に
なったので、当然と言えば当然です。
この頃、日本はどんどん負けて行く訳ですが、上海は
蒋介石がいずれ首都にする意向で、アメリカにも爆撃
をさせなかったので、私達には戦争は直接には何の
影響も有りませんでした。そして私の記憶の中に、中国
人は一切出て来ません。日本人とだけ接触する生活で
あった訳です。上海に駐屯する兵隊さんが日曜日に、
遊びに来たことを覚えています。3人一組になって、日本
人が住む家を訪問します。その兵隊さんと映画を見に
行きました。爆弾が仕掛けられていないか、椅子の下を
注意深く探します。映画が終わって休憩時間に、日本人
も中国人もです。
私達の家は四川北路を魯迅公園(当時は新公園と呼
ばれていました)に向かって左に入ったところ、ダラッチ
路松桐里に有ったそうです。イギリス人が建てた家だと
思います。
やがて私は、上海第八国民学校に入学します。桜が咲
いていました。終戦まであと4ヶ月に迫りました。学校へ
行く時は、近所の小学生が隊列を組んで行きました。
入学してすぐ事業時間中に立たされました。先生が話し
ている時に、外を見ていたようです。
街で上級生に敬礼をしなかったと言われビンタを食らい
ました。後年大人になってピカピカの1年生を見て、よくも
まあこんな小さい子に体罰を加えたものだと呆れたもの
です。
新しい母を上海でめとった父が、私を迎えに来ました。
私は生まれて初めて江戸川を出ました。と言うのは
自分の思いこみで、江戸川に来る時に既に上海から
やって来た訳ですが、自分の記憶では今回が初めて
の旅です。長崎で旅館に初めて泊まり、その時に
枇杷を初めて食べました。
長崎から上海航路の船に乗りました。最初のうちは
見る物見る物全てが珍しく面白くてはしゃいでいました
が、周囲が海だけになり、おまけに、爆撃された時に
備えての訓練が始まると、なんか急に怖くなり、泣き
出したことを覚えています。父から、男はこんなことで
泣いてはいけないと諭されたのに、泣き続け、ついに
は船長さんらしき人からも同じように諭されて、男は
こんなことで泣いてはいけないものなんだと肝に銘じ
たことを覚えています。(でも泣いていました)
上海に着くと、海が黄色いことに気が付きましたが、
日本の海さえ良く知らなかった自分としては、それ
程驚きませんでした。3年後に日本に帰り着いた時
に日本の海の青さに驚いたものです。
上海では新しい母が待っていました。お爺ちゃんお
婆ちゃんに猫可愛がりされていた状況から、全くの
別世界に身を投じたことになります。小説に良くある
ように継母からいじめられるなんてことは全くなく、
これが普通の生活と思っていました。
上海ではすぐ幼稚園年少組に入りました。お寺さん
が経営する幼稚園で、園児は日本人ばかりでした。
最初の年は、よく泣かされました。陰湿ないじめでは
なく、要はケンカで負けて泣きました。次の年は、私が
一番強くなり、誰とケンカしても勝ちました。年長組に
なったので、当然と言えば当然です。
この頃、日本はどんどん負けて行く訳ですが、上海は
蒋介石がいずれ首都にする意向で、アメリカにも爆撃
をさせなかったので、私達には戦争は直接には何の
影響も有りませんでした。そして私の記憶の中に、中国
人は一切出て来ません。日本人とだけ接触する生活で
あった訳です。上海に駐屯する兵隊さんが日曜日に、
遊びに来たことを覚えています。3人一組になって、日本
人が住む家を訪問します。その兵隊さんと映画を見に
行きました。爆弾が仕掛けられていないか、椅子の下を
注意深く探します。映画が終わって休憩時間に、日本人
も中国人もです。
私達の家は四川北路を魯迅公園(当時は新公園と呼
ばれていました)に向かって左に入ったところ、ダラッチ
路松桐里に有ったそうです。イギリス人が建てた家だと
思います。
やがて私は、上海第八国民学校に入学します。桜が咲
いていました。終戦まであと4ヶ月に迫りました。学校へ
行く時は、近所の小学生が隊列を組んで行きました。
入学してすぐ事業時間中に立たされました。先生が話し
ている時に、外を見ていたようです。
街で上級生に敬礼をしなかったと言われビンタを食らい
ました。後年大人になってピカピカの1年生を見て、よくも
まあこんな小さい子に体罰を加えたものだと呆れたもの
です。
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