時々、島流しという刑が復活しないだろうかと想像することがある。
かつて世界がまだ広かった頃、自分たちの社会の秩序の維持に不適切な者は島流しにしたり国外追放にしたりすることができた。
日本の社会秩序の維持に相容れない思想犯や宗教信者は、追放されてもその地で生きていくことができた。
でも、今は島流しにできるような島もないから、多くの法律違反者を抱える政府は「二度と出られない塀の中」で何十年も養うか、犯罪人の生命を絶つか、選択を強いられる。
コストの面で考えると、死刑の維持が適切なのだろう。
遠くの孤島に島流しにして自給自足の生活をさせることはできないだろうか。
あ、ロケットで火星流しの刑にする、ということがそのうちありえるかもしれないな。
火星の開拓も兼ねて。
それはともかく、元厚生次官ら連続殺傷事件で凶悪な顔をした小泉毅被告から「人の命だけなぜ尊いのか」と説明を求められた裁判長は、結局理由を答えたのだろうか。
最後まで、なぜ人を殺してはいけないのかわからないまま、死刑を宣告したのだろうか。
「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに答えることは難しい。
その答えがわからないからこそ、平然と人を殺害したり、死刑を宣告したりすることができるのかもしれない。
「やむを得ない」と「死刑に値する」の間には、とても遠い距離があるのに、「法律だから」「常識だから」などといった前例や取り決めに基づいて、おさまりのいいところに着地している。
社会秩序の維持発展のかなめとして存在する統治機関のひとつとして、
「社会秩序を破壊するものは邪魔だから永遠に排除されるんだよ。それが死刑ってものさ」
「愛犬を殺しても社会秩序の維持には支障がなかったんだよ。君にとってはとてもかけがえのない存在でも、他の人たちにはその思いを共有してもらえなかったということだな」
などと被告人に世の中の仕組みを教えてあげればよかったかもしれない。
だけど、傳田喜久裁判長にはそれができない。
社会秩序の維持に疑問を抱くと、裁判長である自分の存在価値を見失ってしまう。
組織の外の世界は見ないようにして、この世界がより住民にとって快適であるように願い、組織の維持発展を危うくさせるものを排除する仕事にいそしむ。
そうしておけば、自分も家族もこの社会秩序の中で安定した地位を得ることができ、自信を持って生きていくことができる。
(ヤクザの世界でも同じだ。若頭はヤクザのルールを守り、組の維持発展にいそしむ)
もし、裁判長の行為がサークルや集落で行われ、ルールを破ってグループの存続を危うくさせた者が殺害されれば、私刑(リンチ)として犯罪行為とされてしまうけど、国家が行えば、正しいこととして社会の中で受け入れてもらえる。
私刑を認めると社会秩序の維持が危うくなる。暗殺やあだ討ちが多かった中世のようになってしまう。
暴力を抑えるための暴力だ、と言えばそれを受け入れる人もいるだろう。
(だが、最近は国家連合が「死刑という暴力をやめるルールに変えよう」という声を強めている)
裁判長は、身近な人間が重罪を犯したことはないのだろうか。
先日かなりふくよかな30代女性が関東と中国地方で殺人疑惑で逮捕されたとき、傳田喜久裁判長の親族のフォルムを思い浮かべた人もいるだろう。中東の人とお付き合いしていた頃と様変わりし、日本人と結婚してからずいぶんボリュームが増している。
まあ、それは別人でよかったが、身近な人が罪をつぐなう必要にせまられたとき、はじめて裁判長は「法律とは何なのだろう」「罪とは何なのだろう」とその仕組みを謙虚に認識しようとするかもしれない。
(芸術に関わっている人が、法律とは異なった価値観で表現を行い、罪に問われることはめずらしくない)
その時、かつて死刑を宣告した小泉毅さんに対し、「なぜ人の命だけが尊ばれるのか、なぜ人を殺してはいけないのか、ようやく自分なりに答えを見つけた」と言いたくなるかもしれない。
だけどもうその時には彼はこの世の中から存在を消されている。
後悔しても、時間は取り戻せない。
やっぱり、火星に星流しにできないものかなぁ。
死刑判決の報道を目にして、ふとそのようなことを夢想した。
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2010033000052&j1
■死刑求刑の小泉被告に判決へ=元次官ら連続殺傷-さいたま地裁
3人が殺傷された元厚生事務次官宅連続襲撃事件で、殺人などの罪に問われ死刑を求刑された無職小泉毅被告(48)の判決公判が30日、さいたま地裁(傳田喜久裁判長)で開かれる。
小泉被告は動機について、捜査段階から公判まで一貫して「飼い犬が殺されたことに対するあだ討ち」と説明した。
弁護側は動機が理解できないとして、小泉被告には妄想性障害があり、善悪を判断して行動する能力が著しく低下した心神耗弱状態だったと主張。自ら警視庁に出頭したことも考慮し、死刑回避を訴えていた。
検察側は「動機と犯行がかけ離れているように思えるが、被告なりに筋は通っている」と妄想性障害を否定。出頭が自首に当たると認めた上で、「出頭して正当性を主張することも計画の一部。残忍極まり、減刑すべきではない」としていた。(2010/03/30-05:47)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100330-00000585-san-soci
《死刑選択を回避する理由をばっさりと切り捨てた伝田裁判長。最後の結論に移っていく》
裁判長「極刑は真にやむを得ない。主文を言い渡します」
http://blog.goo.ne.jp/ambiguousworld/e/472462f1120607e70e5524c154ce28b1
人の命だけなぜ尊いか(2009/11/26)
かつて世界がまだ広かった頃、自分たちの社会の秩序の維持に不適切な者は島流しにしたり国外追放にしたりすることができた。
日本の社会秩序の維持に相容れない思想犯や宗教信者は、追放されてもその地で生きていくことができた。
でも、今は島流しにできるような島もないから、多くの法律違反者を抱える政府は「二度と出られない塀の中」で何十年も養うか、犯罪人の生命を絶つか、選択を強いられる。
コストの面で考えると、死刑の維持が適切なのだろう。
遠くの孤島に島流しにして自給自足の生活をさせることはできないだろうか。
あ、ロケットで火星流しの刑にする、ということがそのうちありえるかもしれないな。
火星の開拓も兼ねて。
それはともかく、元厚生次官ら連続殺傷事件で凶悪な顔をした小泉毅被告から「人の命だけなぜ尊いのか」と説明を求められた裁判長は、結局理由を答えたのだろうか。
最後まで、なぜ人を殺してはいけないのかわからないまま、死刑を宣告したのだろうか。
「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに答えることは難しい。
その答えがわからないからこそ、平然と人を殺害したり、死刑を宣告したりすることができるのかもしれない。
「やむを得ない」と「死刑に値する」の間には、とても遠い距離があるのに、「法律だから」「常識だから」などといった前例や取り決めに基づいて、おさまりのいいところに着地している。
社会秩序の維持発展のかなめとして存在する統治機関のひとつとして、
「社会秩序を破壊するものは邪魔だから永遠に排除されるんだよ。それが死刑ってものさ」
「愛犬を殺しても社会秩序の維持には支障がなかったんだよ。君にとってはとてもかけがえのない存在でも、他の人たちにはその思いを共有してもらえなかったということだな」
などと被告人に世の中の仕組みを教えてあげればよかったかもしれない。
だけど、傳田喜久裁判長にはそれができない。
社会秩序の維持に疑問を抱くと、裁判長である自分の存在価値を見失ってしまう。
組織の外の世界は見ないようにして、この世界がより住民にとって快適であるように願い、組織の維持発展を危うくさせるものを排除する仕事にいそしむ。
そうしておけば、自分も家族もこの社会秩序の中で安定した地位を得ることができ、自信を持って生きていくことができる。
(ヤクザの世界でも同じだ。若頭はヤクザのルールを守り、組の維持発展にいそしむ)
もし、裁判長の行為がサークルや集落で行われ、ルールを破ってグループの存続を危うくさせた者が殺害されれば、私刑(リンチ)として犯罪行為とされてしまうけど、国家が行えば、正しいこととして社会の中で受け入れてもらえる。
私刑を認めると社会秩序の維持が危うくなる。暗殺やあだ討ちが多かった中世のようになってしまう。
暴力を抑えるための暴力だ、と言えばそれを受け入れる人もいるだろう。
(だが、最近は国家連合が「死刑という暴力をやめるルールに変えよう」という声を強めている)
裁判長は、身近な人間が重罪を犯したことはないのだろうか。
先日かなりふくよかな30代女性が関東と中国地方で殺人疑惑で逮捕されたとき、傳田喜久裁判長の親族のフォルムを思い浮かべた人もいるだろう。中東の人とお付き合いしていた頃と様変わりし、日本人と結婚してからずいぶんボリュームが増している。
まあ、それは別人でよかったが、身近な人が罪をつぐなう必要にせまられたとき、はじめて裁判長は「法律とは何なのだろう」「罪とは何なのだろう」とその仕組みを謙虚に認識しようとするかもしれない。
(芸術に関わっている人が、法律とは異なった価値観で表現を行い、罪に問われることはめずらしくない)
その時、かつて死刑を宣告した小泉毅さんに対し、「なぜ人の命だけが尊ばれるのか、なぜ人を殺してはいけないのか、ようやく自分なりに答えを見つけた」と言いたくなるかもしれない。
だけどもうその時には彼はこの世の中から存在を消されている。
後悔しても、時間は取り戻せない。
やっぱり、火星に星流しにできないものかなぁ。
死刑判決の報道を目にして、ふとそのようなことを夢想した。
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2010033000052&j1
■死刑求刑の小泉被告に判決へ=元次官ら連続殺傷-さいたま地裁
3人が殺傷された元厚生事務次官宅連続襲撃事件で、殺人などの罪に問われ死刑を求刑された無職小泉毅被告(48)の判決公判が30日、さいたま地裁(傳田喜久裁判長)で開かれる。
小泉被告は動機について、捜査段階から公判まで一貫して「飼い犬が殺されたことに対するあだ討ち」と説明した。
弁護側は動機が理解できないとして、小泉被告には妄想性障害があり、善悪を判断して行動する能力が著しく低下した心神耗弱状態だったと主張。自ら警視庁に出頭したことも考慮し、死刑回避を訴えていた。
検察側は「動機と犯行がかけ離れているように思えるが、被告なりに筋は通っている」と妄想性障害を否定。出頭が自首に当たると認めた上で、「出頭して正当性を主張することも計画の一部。残忍極まり、減刑すべきではない」としていた。(2010/03/30-05:47)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100330-00000585-san-soci
《死刑選択を回避する理由をばっさりと切り捨てた伝田裁判長。最後の結論に移っていく》
裁判長「極刑は真にやむを得ない。主文を言い渡します」
http://blog.goo.ne.jp/ambiguousworld/e/472462f1120607e70e5524c154ce28b1
人の命だけなぜ尊いか(2009/11/26)