波打ち際の考察

思ったこと感じたことのメモです。
コメント欄はほとんど見ていないので御用のある方はメールでご連絡を。
波屋山人

田舎育ち

2010-03-22 13:43:50 | Weblog
春には土筆を摘み、袴を取って母親に渡すと佃煮を作ってくれた。
まだ開き切っていないツクシの頭の、ほろ苦さが好きだった。

裏山の竹薮では、筍が採れた。
採れたての筍を茹で、家の裏に生えている山椒の木の若葉や味噌をまぜると、香り高い木の芽和えができた。

初夏には自分の部屋の網戸にまで蛍が飛んできた。
幼い頃は親と小川に歩いて行き、闇の中で呼吸するように点滅する光を眺めた。

夏には竹林を通り抜けてくる風で涼をとった。
裏山から野生の春蘭やスミレをとってきて、鉢に植えて眺めることもあった。
父親が捕って来る天然鮎は、味噌汁に入れるととてもよい香りが漂った。

秋には刈りいれ後の田んぼを走り回った。
落穂を焚き火であぶって食べることもあった。
台風が来ると、増水した小川に出かけて網を仕掛け、鯉やライギョなどをつかまえた。

冬には身をすくめて長い廊下を爪先立ちで移動した。
とんど祭りではお餅を焼いて、砂糖醤油をつけて食べた。

田舎は、豊かなにおいや、繊細な光に満ちていた。

捕ったばかりの魚のぬるぬるとした青臭さ。採りたて野菜の力強い香り。
過ぎ行く風を受けてざわめく竹林。刈った草の青いにおい。
ススキの茂みの中に隠れていたときの枯れたにおいと静かな空。
裏山の腐葉土と赤土のしめった香り。
においたつような、日だまり。音がゆっくり伝わる、春の大気。

その頃に感じた自然が、今のぼくにとても役立っている。
さまざまな香りや繊細な味を楽しめるのは、ありがたい。

もし、ぼくが未開の大地に放り出されても、本能的に住居を構えるのに適した地形を選び、食べられる草を収集し、魚のいそうなポイントを探して生き延びることができるだろう。

日暮れまで野山を駆け巡り、爪先は黒く荒れた手に小さな傷が絶えなかったぼくは、塾に通っていた人とちがい成績は良くなかったけど、幼い頃に勉強しなかったことを後悔していない。

風や地形や繊細な香りを感じることなく育つと、バーチャル人間というか、養殖人間のような人になってしまう恐れがある。

繊細なにおいも音もかき消され、地形も日当たりも人工的に変えられた都市空間では繊細さは不要なのかもしれないけど、ぼくは田舎育ちであることを活かし、都市生活に楽しみを見出したいと思う。
町育ちの人には見えないものが、見えるかもしれない。


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マグロはいらない

2010-03-22 00:50:01 | Weblog
水産庁による調査捕鯨は、海洋生物保護団体シーシェパードに妨害されている。
和歌山県太地町のクジラ漁、イルカ漁もアメリカ映画「ザ・コーブ(the cove)」で批判されている。

たしかに、知能の高いクジラやイルカを殺して食料にすることは心が痛む。
だが、日本人は、生きているものの命をいただくことに対して、真摯に向き合ってきた。
日本には、クジラの慰霊碑がある。
大学にだって、実験動物の慰霊碑がある。
欧米にはそういうものはあるのだろうか。

かつて脂をとるためにクジラを大量殺戮したり、化粧品などの実験のために大量の動物を殺害した人々の反省が、他者に向かっているのだろうか。
過去の自分を責めるように、現在の日本人を責めるのだろか。

誠実な人であれば、まず自分が反省してから、同じ事を繰り返さないように、他者に懇願するだろう。
(ぼくは中国の人に懇願する。かつて自分勝手な考えのせいで、中国の人たちには大変な迷惑をかけた。心からお詫びする。他民族を支配することは、とても難しいことなのだ。自分は滅ぼされてもいいから、チベットとウイグルの人々のことは尊重してほしいと心から願う。同じことが繰り替えされることは避けたい)

欧米人はキリスト教の影響もあり、自分が他の命を殺して自分たちが生き延びているということに意識的ではないのかもしれない。
牛や豚の命をもらって生きていることについて深く感謝している日本人が、アメリカ中央部に「牛馬豚羊慰霊碑」という巨大モニュメントを作ったら、動物に魂は無いと認識しているキリスト教信者も訪れるだろうか。

「家畜は殺されて当然だから、罪にはならない」とか、「知能の低い生物は命を絶たれても惜しくない」などと考えている人は、自分が動物や植物を食べても何も罪悪感はないのかもしれない。
もっとも、動植物の命を絶って自分が生きることに罪悪感を感じる人は、食を断ってみんな亡くなってしまったかも。生き残っているのは、自分勝手な人が多いのかもしれない。

まあ、欧米人もいつまでも自分たちの価値観が世界で支配的であるとは思わないほうがいい。
そのうち、カロリーの摂取しすぎは、反エコ行為であるとして糾弾される。
中国人や日本人などのアジア人の体脂肪率が世界標準となり、欧米人が反環境的だとして牛肉や豚肉の食事制限を約束させられる日は近いかもしれない。

それはともかく、一般常識の裏をかいて、楽チンお気楽生活を満喫させてもらってるぼくとしては、マグロが禁猟となっても何の興味もない。
むしろ、マグロがなければありがたい。

今日も刺身の盛り合わせと日本酒の夕食だけど、マグロだけ食べ残す。
マグロのかわりにイワシでもあればうれしかったのに。
カンパチもマダイもホタテもいいけど、中トロも赤身もたいして興味はない。
ぼくは俗に雑魚(ザコ)と言われている安い魚の刺身が大好きなのだ。

本マグロやクロマグロ、インドマグロが高級食材である、というのはひとつの文化だ。
文化というか、共同幻想。
値段が高いから、価値があると思っている人が多い。

先入観なく本マグロを口に入れると、フレッシュだけど、鉄っぽい。カリウムだか水銀だか、ミネラルも感じる。甘み、なめらかさよりも水っぽさが多い。中トロは余分な脂も多い。
ぼくは鰯とか鯵とかホウボウとかアイナメとかカサゴといった青魚、白身魚のほうが好きだ。

多くの人がマグロのおいしさを評価する中で、あえてイワシやカサゴ(ガシラ)の刺身のほうがおいしい、と言い切れる人は、第二次世界大戦中でも戦争に反対できた人なのではないかと思う。

ぼくは深く考えていないけど、過敏なぼくの体が嘔吐を求めるということは、何か、良くない成分がある。
だから、マグロを食べないというのは、わるくない選択だと思う。
マグロは、刺身文化信者の人がおいしく食べてください。ぼくは雑魚をおいしくいただきます。
それが、お金持ちと貧乏人がそれぞれ充実した日々を送ることができる割り切り方だと思う。


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