波打ち際の考察

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波屋山人

人の命だけなぜ尊いか

2009-11-26 22:13:59 | Weblog
(ざっと書いたらまとまりがなくひどい文章。あとで書き直すかも)




「『人権』は大事だ」、と言う人は多いけど、「動物にだって命があるのだから『動物権』があってもいいのではないか」、と言う人に会ったことはない。

道で人が倒れていたらみんな顔色を変えるけど、イタチやタヌキが轢かれていても嫌な顔をするだけ。
家畜は、動物として最低限の幸せや自由を享受できないことも多いけど、狭い鶏舎で効率よく育てられる鶏がかわいそうだと言う人もあまりいない。

「人権」という概念は、すっかり現代に定着しているけど、人類の歴史で見ればつい最近できた考えだ。
遠くない将来、「動物権」という概念が世の中に定着しないとも限らない。

それにしても、なぜ人の命はかけがえのないものとして認識されているのだろう。
人の命を奪うことは重罪でも、動物の命を奪うことはそうでもないのだろう。
なぜ人を殺してはいけないのか。

「大事なものは大事なのだ」「あたりまえの常識なのだ」などと言われても、そんな説明に納得できない人もいる。
なぜ大事なのか、論理的に理解できなくて、悩んでしまう人がいるのも当然だ。

そこで、まとまっていないけど、私なりの考えを少しメモしておきたいと思う。


「人の命は何よりも大事だ」という価値観は、日本や欧米などの社会秩序を維持するために適しているから、維持されている。

世の中に争いが絶えなかった時代には、「国家のために自分をすべて投げ出せる人が大事だ」という価値観が、社会秩序の維持や隆盛に役立っていた。
命を惜しまず戦える人が育てられ、社会秩序を守るために外敵と戦った。
それが、社会全体として、あたり前の常識として認識されていた。

現代でも、戦争や紛争の多い国では、殺すことや殺されることはめずらしくないので、人の命は日本のように重視されていない。

暗殺や戦争がめずらしくない戦乱の世を経験した国でも、安定した社会になると、人を殺すことは重罪になる。
人を殺すことが許されると、絶えず「いつ自分に危険がふりかかるか」ということを警戒しなくてはならない。
人々が平穏な日々をすごすためには、殺人や暴力は禁止される必要がある。
安定した社会の秩序維持に不都合な行為は「犯罪」として忌避され、取り締まりの対象となる。


一般的に、「人の命」や「人権」や「民主主義」などはかけがえのないものだと思われているけど、命や人権や民主主義そのものは、至高の概念やシステムというわけではない。

人の命や人権や民主主義といった概念を設定して保持しておかないと、現在の社会秩序が崩れてしまうおそれがあるから、社会秩序の維持に不適切な方向性を排除している。
それは、特定の誰かが行っているのではなく、世の中の常識をあたり前に受け入れている人たち全体が行っていることだ。

もちろん、人の命や人権や民主主義を重視することによって見出せるすばらしいことはたくさんある。
だけど、動物の命や動物の権利、動物の民主主義といった概念を重視することによって見えてくる世界にもすばらしい価値は見出せるかもしれない。

もし、現在の日本で「動物権」を主張し、保健所で犬や猫を処分することを犯罪視して暴力的な抗議活動をしても、社会秩序の安定や維持を邪魔する者として否定されてしまう。
そして、社会から消滅(=死刑)させられるか、一定期間拘束(懲役)されて、社会秩序の方向性に背かないように指導される。

かつて人権という概念を主張し始めた人も、最初は犯罪者として牢獄につながれたかもしれない。
最初に奴隷を解放しようとした人は異常な人だと思われただろうし、最初に女性と男性は対等だと言い始めた人も犯罪者扱いされただろう。
小泉毅さんは暴力的で短絡的で根に持つタイプでどうしようもない人なのかもしれないけど、遠い将来、「動物権」を最初に主張した義士として評価される日がくるかもしれない。
赤穂浪士のしつこさと、安重根の破壊力をあわせ持ち、愛犬の敵を討った美談として脚色されて小説や映画になるかもしれない。
(もしかしたら実際の赤穂浪士や安重根も、義士というより普通の暗殺者や犯罪者だったのかもしれない)

小泉毅さんの精神状態や深層心理のことはまったく知らない。
だけど、「人の命だけなぜ尊いか」ということにきちんと答えられる人が身近にいれば、彼は世の中に深い恨みをもたないですんだかもしれない。
世の中の仕組みや自分のわだかまりについて、因果関係を見つめてみようとしたかもしれない。


裁判官に「人の命だけなぜ尊いか」と質問しても、答えは期待できない。
裁判官はファロソファーではないし、思索にふけることを習慣にしている人でもない。

「法律はなぜ生まれたのだろう」とか、「社会組織はどのように発生し、バランスを維持して行くのだろうとか」などと考え込む人は、社会秩序の維持のために存在するかのような、裁判官や弁護士などになろうとは思わない。

小泉毅さんは、それをわかっていて、あえて裁判官に言葉を向けたのだろうか。

価値があることとは何か。否定されることとは何か。
価値判断の基準としてあたり前に受け入れられている常識とは何なのか。
それに答えられない人は、世の中の流れに乗って、うまく生きて来た人かもしれない。

不器用な人や過敏な人、抑圧に耐えられない人や想像力豊かな人、理想の自分と現実の自分に乖離がある人などは、世の中の大きな流れの中心からはずれ、流れの底や側面にぶつかり体勢を崩す。
そして、その苦しさの中で、価値とは何だろう、幸せとは、美とは、等々、さまざまなことについて思いをめぐらせる。

芸術家になる人もいれば、旅人になる人もいる。流れの真ん中に戻って常識をあたり前のように受け入れて平穏な日々を送る会社員もいる。学者になる人や犯罪者になる人もいるだろう。

世の中の常識を受け入れ、よく勉強してよく働き、社会的地位を認められた裁判官から見れば、反社会的な行為に走る人は理解しづらいかもしれない。

だけど、「人の命だけなぜ尊いか」という質問に対して自分の考えを説明できないのであれば、自分はどのように価値を判断し、犯罪者を定義しているのか、少し考えてみてもいいのではないだろうか。
裁判官はとても頭がいいけど、法律や常識ではとらえることのできない価値を、見落としてしまっているかもしれない。


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091126-00000142-jij-soci
■「人の命だけなぜ尊い」=小泉被告、語気強め持論展開-元厚生次官宅襲撃初公判
11月26日18時23分配信 時事通信
 「あだ討ちを批判する前に、人の命だけがなぜ尊いのか、わたしに説明しなさい」。さいたま地裁で26日行われた小泉毅被告(47)の初公判。同被告は罪状認否で起訴内容を大筋認めた後、人と動物の命の重さを取り上げ、自分の行為を正当化。独特の持論を一気に展開した。
 午後1時10分、小泉被告は上下とも黒のスエット姿で入廷。逮捕時と同じ丸刈り頭で、顔色はやや青白い。名前や職業を尋ねられると「小泉毅」「無職」と、ゆっくりした口調ではっきりと答えた。
 起訴状が読み上げられる間は、うつむき加減で一点を見つめ、落ち着いて聞いていたが、裁判長から罪状認否を求められると「意見を言っていいですか」と求め、裁判長にさえぎられる場面も。
 認否の後、改めて意見を述べる機会を与えられると、用意していたメモを読み始め、徐々に語気を強めながら、「犬を殺していいわけがない」「生ゴミのように処分していいのか、わたしに説明しなさい」と一気に読み上げ、最後に「以上」と締めくくったときには廷内に響くほどの大声になった。
 その後は表情に赤みが戻り、うつむき加減だった視線も、検察官を直視するように変化。証拠調べで殺害の練習に使用した腹筋台が示された際に「(腹筋台を)入れてある段ボール箱は証拠物ではありません」と検察側が説明すると、笑みをこぼす場面もあった。 

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp200911260324.html
■検察側冒頭陳述要旨 小泉毅被告初公判 '09/11/26
 さいたま地裁で26日開かれた元厚生次官ら連続殺傷事件の小泉毅被告(47)の初公判で、検察側が示した冒頭陳述の要旨は次の通り。
 ▽事件の概要
 2008年11月18日午前、さいたま市南区の自宅で元厚生次官山口剛彦さん=当時(66)=と妻美知子さん=同(61)=が死んでいるのを隣人が発見。同日午後6時半ごろ、東京都中野区の路上で、元厚生次官吉原健二さん(77)の妻靖子さん(73)が血を流して倒れているのが見つかった。
 元厚生次官宅が相次いで襲撃されたことは社会に衝撃を与え、年金テロではないかとも言われ、一時騒然となった。
 22日夜、血の付いた包丁などを持参した被告が警視庁に自首。ほかの元厚生次官も狙っていたことなどが判明した。
 被告の自首をどう評価するか、靖子さんに対する殺人未遂事件で(自分の意思で犯行をやめた)中止未遂が成立するかが争点。
 ▽犯行を決意した経緯
 中学生のころ、飼っていた「チロ」という名の犬が行方不明になった被告は、チロが保健所の野犬狩りに遭い殺処分されたと考え立腹。厚生省が保健所を所管していると思い、厚生省を一方的に強く恨むようになった。実際のチロの行方は確認できていない。
 被告は00年9月にソフトウエア開発会社を退職後、定職をもたずに株取引などで生活。50歳になったら、できるだけ多くの元厚生次官を殺害し、死刑となって人生を終えたいと考えるようになった。
 元厚生次官を無差別で殺害する行為を被告は「決起」と呼び、決起によって、飼い犬のあだ討ちをしたことや動物の命を粗末にすれば自分に返ってくることを思い知らせてやったと訴えようと考えた。



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