今日は4月7日。あれから1ヶ月が経つ。
これも人生の1ページとして記録しておく。
3月7日、陣痛が起こり間もなく破水。自宅の車を走らせて病院へ大急ぎで向かった。
長男がいたため、出産には立ち会わず分娩室近くの待合室で時を待った。
妻の力む声とともに「10時42分」という助産師さんの声が聞こえ、恐らく産まれたんだろうと思った。
赤ちゃんの声はすぐには聞こえなかった。そういうケースも知識にあったので心配はなかった。
しかし、院内を移動する助産師さんの様子が妙に慌ただしい。
何かあったんだと感じた。
それから何十分経過したのか定かではないが、院長先生に呼ばれた。
長男は助産師さんが相手をしてくれると、ジェスチャーがあった。
院長先生の話をとにかく冷静に聞くことに集中する自分がいた。
分娩室に入り、妻に声を掛ける。「誰も悪くないよ。仕方ないよ。」
想像出来ないほどの衝撃を受けた妻に、この言葉だけではなんの救いにもならなかったかもしれない。
その状況、自分の人生経験からは、その言葉以上、見つからなかった。
赤ちゃんは、温かかった。それがなお一層現実感をぼやかした。
その晩は、家族4人で過ごした。
一生忘れないように何度も触って、可愛らしい顔を見つめた。
妻はやや元気を取り戻しつつあったが、それは表面的なところだけと分かっていた。
慣れない環境に長男が夜中にグズり始めた。
周りにいる妊婦さんに迷惑になるので、妻のことが心配ではあったが、やむを得ず長男を連れて自宅に戻った。
自宅では長男は安心して眠りについたが、自分はちょこちょこ目が覚めた。
そしてその度に現実に直面し疲弊した。
翌日、妻の状況は一目で分かった。
外出許可を病院からもらい、家族4人でいったん自宅へ行き、両親、親戚と合流した。
家族に囲まれ紛れる部分があったが、やさしい言葉は胸に直接届き、こらえることができなかった。
青山斎場で最後の見送りを家族、親族で行った。
その2日後に妻は退院した。
状況を理解してないだろう長男が、いつもどおりに振る舞う。
どれだけこれに救われたことか。
3月20日にお寺でお経をあげてもらった。
頼勝寺は自転車仲間の実家であり、これもご縁ということでお願いし、快く引き受けて頂いた。
2週間近くが経とうとしており、ある程度は落ち着きを取り戻していたが、お経を聞くうちに涙がこぼれた。
これで一つの区切りになると感じた。
住職、また家族の方がとても人柄の優しい方で、救われるような想いだった。
切迫早産の疑いがあり、妻は2月に3週間の入院生活となった。
そして自分は長男との父子家庭になり、貴重な時間を過ごすことができた。
長男はインフルエンザにもかかり、つきっきりで看病もした。
ここまでして、なんで・・・という気持ちが無いといったら嘘になるかもしれない。
ただ、赤ちゃんが居なければ、こういう時間を過ごすことは出来なかったのも事実。
失ったものだけでなく、そこから得たものも大きいはずだ。
原因は、胎盤等の検査を行ったがまだ分かっていない。
数日前までの定期検診では、異常は無かったし、胎盤の細菌数も原因になるようなものでなかった。
住職がおっしゃっていた。「この世に来ても生きる力が無いと赤ちゃんが判断したのでしょう」
西洋医学では解明できない。ただ、この言葉はすっと心に落ちた。
赤ちゃんに添えた手紙で、記録を終える。