絵本と児童文学

絵本と児童文学、子ども、保育、サッカーなどの情報を発信する

なでしこフィーバー

2011-07-27 06:42:11 | サッカー
 24日(日)の神戸と千葉の試合には、なでしこリーグ始まって以来最高の17812人の観客だった。これまでの最高が1403人(今季神戸-浦和)というからすごいフイバーである。代表選手の一番多い神戸は、練習を見に来る人がいるというから、驚きである。
 この日の新潟-浦和の試合が3319人で、女子サッカーへの関心が高くなっている。

 代表選手は19日の帰国後から休むことなくメディアの取材やテレビ出演を続け、21日からそれぞれのクラブでの練習を開始した。国民的関心の高まりに対応を丁寧にしたのだが、選手にとっては過酷なスケジュールである。
 テレビではキャスターやコメンテーターが、サッカーに対しての知識が乏しいのに、懸命に番組づくりをしている。
 21日からは、選手の日常生活(プライバシーも含む)やライフヒストリー、クラブの財政等の環境が恵まれていない等に移っていった。
 バラエティー番組の場合、サッカーから離れて女性としてのファションや恋人等へ移っていくのは、ヨーロッパのようにサッカー文化が暮らしに根付いているのとは違い、サッカーの話題を作れないからだ。バラエティーはサッカーではなく人間への興味で話題づくりをするのだが、その路線は選手の関心とは距離があるだろう。選手はアスリートとしての誇りを持っているのではないか。

 大竹七未という元代表である大学の監督をしている人が、W杯中のNHKのスタジオ解説や情報バラエティーに頻繁に出ている。
 ある番組でスウェーデン戦の2点目をループシュートという発言に対して「わたしはドライブシュートだと思う」と強調した。
 これが独自な見解といえるだろうか。ループという場合は、山なりのボールの軌道をいう。ドライブとは、テニスや卓球やゴルフなどに使われるトップスピンを与えて、山なりのボールに威力を加えて飛距離をコントロールする技術である。どちらかというとループシュートという場合、GKの飛び出しの近くで頭上を超えることを言うことが多い。
 ループはボールの状態をいい、ドライブとはキックの技術をいうので、カテゴリーが違うのである。ループシュートにドライブをかける場合が多いので、ドライブシュートとあえて言う必要はないのではないか。今のサッカーでは、ボールに回転をかけるあるいは無回転で様々なボールの軌道と威力を作る選手が多くなった。それに対して回転シュートという言い方はしない。
 監督というのは独自な見解を持たなければならない立場だろうが、サッカーの「博識」(?)振りを披露しなくてもよいだろうに。講演依頼が増えているとのことだが、メイクや服装への気遣いは熱心であるようだし、顕微鏡の視点だけではなく広角レンズでも見られるようにして活躍することを期待する。
 サッカーは内容のある奥深いスポーツなので、女性でサッカー理論を持っている人が増えなければ発展的継続は難しい。
 女性の監督も今より増えるのが望ましいが、国際試合の審判が出来るような審判の育成も協会としてはしなければなるまい。それに放送の解説であるが、応援でなく戦況を分析をできる人が今のところ現れていない。なでしこリーグの放送をしていないから経験が少ないだろうが、W杯のNHK解説をした女性(川上)では感情を入れすぎるので聞いているのが苦しくなる。このような課題が実現していくことが、代表チームが安定的に世界のトップを維持できることにつながるだろう。あと10年ぐらいかかるだろうか。
 女子のスポーツとして歴史と実績のあるマラソンでも、監督や解説で力を発揮している人は少ない。

 政府は国民栄誉賞を検討中というが、サッカー文化の裾野が薄く女子サッカーのフィーバーで一過性に終わる可能性がある等から、今回は見送ったほうがよいのではないか。しかもW杯よりオリンピックのほうが評価が高いようだ。
 日本では女子野球、女子ソフトボール、あるいはWBCのほうが関心が高い。国際的にはサッカーの、とくにW杯のほうが評価が高いのだ。

 女子サッカークラブの財政環境や選手の待遇改善が必要だし、今回の優勝がその契機になればよい。しかし政府が支援するとすれば、専用ピッチなどへの財政援助などの環境整備にとどめて、選手個人への報奨金のようなことはすべきではない。
 清水宏保(元スケート選手)が、かつては韓国の例を出して、政府が選手に手厚く報奨金等の支援をすべきとしていた。
 今回も、「選手がアルバイトで生活しているのは国としての恥だ」とし、「スポーツ基本法を運用しセカンドキャリアの支援」を訴えている(朝日新聞25日夕刊)。
 政府が、国際大会での成果あげた選手に対して経済的支援や顕彰をするのはスポーツの政治利用ことになりかねない、ということを見逃してはならない。それにアスリートが国家のためや国家からの財政を得るためとなると、スポーツ独自の発展をせばめ成果の上げた選手に特権的意識を与えてはならない。清水宏保の主張は、競技成績の基づいた特権意識をもとにしており、わたしはかねがね危険だと思っている。もっとも企業に所属せず、フリーの立場でスポンサーを探しながら競技生活をした体験からきているのだろう。しかし社会主義国のスポーツのナショナリズム利用と同じ発想だということを気づいて欲しい。社会主義国におけるスポーツは、時には人権を軽視した成績至上主義になるのである。
 スポーツを国威発揚の手段になる可能性があり、それは長期的に見ればその種目をする人の裾野を狭める、あるいは国の威信にかけることに選手が組み込まれかねない。スポーツはナショナリズムの高揚に組み込まれることなく、それぞれの種目のスポーツの文化の内容への関心をともなったスポーツナショナリズムにとどめるべきだろう。それが国民のスポーツ権を発展させ、それとともに国際的水準を高める道である。

 サッカーの場合は、サッカー協会がJリーグ等の巨大な事業を展開しており、他のスポーツ団体より民主主義が成立しているので、そこにゆだねたほうがよいだろう。


コメントを投稿