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絵本と児童文学

絵本と児童文学、子ども、保育、サッカーなどの情報を発信する

山の水族館

2013-08-29 21:07:06 | 生活・教育・文化・社会
 5月はじめにテレビ朝日系で、入場者数が急上昇中と報道された淡水魚の山の水族館に行きました。山の水族館は、北海道北見市温根湯温泉の幹線道路(旭川市と北見市を結ぶ国道39号線)の道の駅にあります。
 併設施設としては、巨大なハト時計(果夢林-かむりん)、木製遊具の室内遊び場である果夢林ワールド、木製クラフトを中心にした販売所の果夢ショップ、クラフト体験工房があります。

 規模は大きくないのですが、新しい試みとして滝つぼ、冬期は凍る水槽、温泉水を利用したアマゾンと東南アジカの熱帯の魚の展示などがあります。また自然のものを見るのが困難な巨大魚イトウもいます。魚好きのぼくはイトウにしばらく見入ったのでした。
 水族館は移設されて新設オープンされたので、入場者数急増したのは理解できました。しかし水族館単独で多くの入場者を得る、あるいはリピーターが訪れる、といった条件がもっと欲しいと応援したくなりました。

 展示物については、めずらしいニホンザリガニがいましたが、数が少ないのです。川や湖の生き物でドジョウやカメはどうでしょう。さけがゆっくり泳ぐ姿も見たいものです。
 さらにマリモ(天然記念物なので展示不能の可能性あり)、水中植物などもどうでしょう。川の獣カワウソ(天然記念物で展示不能の可能性あり)などもあるといいです。

 次に展示方法について考えてみます。ニホンザリガニと並べてアメリカザリガニを展示するとニホザリガニの特徴が鮮明になるでしょう。イトウは、アーチ型の大きい水槽の下を人が通るといった展示になると、自然界で泳いでいるような姿がみられる気がします。
 水槽を川に見立てられるように、流水をつくる、あるいは大きな石を使うのもいいのではないでしょうか。

 設置が北見市ということですが、さらにインパクトのある展示法や新しい試みをすることは、費用対効果等を考えると冒険でもあります。維持管理の費用を作り出すのもたやすいことではないと思ったのでした。

 今月中旬のTBS系の「ひるおび」という情報番組で、水族館の入場者が増えているとのことでした。増えているいくつかの水族館を紹介していました。全国統計でも入場者アップが示されていました。
 水族館は、魚などが常に動くという性質があるので、展示の仕方によってはダイナミックな魚の動きは見飽きないものです。

 なお、木製遊具おもちゃの室内遊び場は優れたものと思いました。外遊びを避けている福島県での室内遊び場に、木製遊具にすると子どもの遊びの質が高まるだろうと、しみじみ見たのでした。

*一部誤った記述訂正等のため、9月3日(火)に加筆修正しました。
 



 

自分を「わたし」といわない

2013-08-20 11:55:31 | 生活・教育・文化・社会
 数年前になるが、自分を「わたし」と言わず、名前を言う学生に出会った。めずらしかったが、明るくマイペースな性格のようでもあり、冗談口と思って印象に残っている。その後2年ぐらいたって、小3の孫娘が「わたし」といわずに主語を自分の名前でいうことに気づいた。
「みんな『わたし』と言わないで、自分の名前を言うの?」と訪ねた。
「そうだよ」
「年中ぐらいになったら『わたし』っていうようになると思っていた。どうして「わたし」っていわないの?クラスの人みんななの?」
「『わたし』って言う人もいるけど、少ないよ」
驚いて、
「へー、小学生ではみんな『わたし』っていうと思っていた。どうして言わないの?」
「わたしっていう人は、何かぶっている人なの、みんな自分の名前で言うよ」
「先生が『わたし』って言うように、注意しないの?」
「しない、しない。授業の発表の時とか『わたし』っていうもん」
 どうやらパブリックとカジュアルの時を区別して使っているようだ。小5になっても、わたしと言う気配はない。というより「わたし」も「自分の名前」も言わない、つまり主語を使わなくなっているようだ。わたしが「わたし」と言ったほうがよいと思っていることを、感じ取っているからかもしれないが。

 どうやら主語に「わたし」を使わずに自分の名前で言うのが一般化しているのではないかと思い、大人である学生に聞いてみた。女性の半数以上は「わたし」を使わず自分の名前を言っている。家族、友人などとの会話で言い、パブリックの場では「わたし」を使うという。場による使い分けをしているようだ。ところで知り合いの近所の人、親戚の人といったパグリックとまでいえなくも大人として振舞うときは、主語を言っていないかもしれない。
 自分を名前で言うのは女性に多いが、男性が自分の名前を使う人が少ないとしても、それを意味する気分というか、文化は男性にもあるだろう。
 芸能人といわれている人たちが、私的なことを告知する時に「わたし○○は」と自分の名前を告げてからにするという形式になっている。
 ツイッターなどででは、主語がなくすぐに自分の思い吐き出すような文章が多い。社会、あるいは対象を考えずに思いをぶつける行動は、公人がときには問題を起こす。「わたし」「ぼく」という主語を省略することが、社会の中の自分というのを弱くしているかもしれない。また、話や文章にも「を」などを使う目的語が少なくなっているのも、物事を関係性で捉えないのかと、気になっている。

 学生時代の児童心理学の授業で、自己中心性のともなった第1反抗期が過ぎると、社会性が育つ、と。その象徴的こととして自分のことを「わたし」「ぼく」というようになると、習った記憶がある。たしかテキストにもそんな記述があったような気がする。親が「わたし」「ぼく」というように教えていたのだろう。社会における自分と他人という意識を醸成する文化を伝えていたということなのだろう。
 わたしを使わずに自分の名前で言う「くつろいだ気分」「自分を中心にした気分」は、時代の空気を表している一端かもしれない。


DJポリスが群集に届けた言葉

2013-06-07 15:29:44 | 生活・教育・文化・社会
 W杯出場が決定するだろう4日の試合後の渋谷駅前スクランブル交差点の群集警備は、周到に準備されていた。交差点が広場化せずに道路機能を確保するため、スクランブルをやめて人の流れを一定方向に誘導する等である。それを事前に広報したため、そのことはテレビでも放送されていた。
 当日の人々へのアナウンスが、警視庁の警備方針を反映させて群集の秩序は維持された。
アナウンスしたのは、巡査ということなので若くて勤続年数は少ない。警備の際のアナウンスするのを機動隊の広報係という職務ということだ。この職務には内部的に検定試験を課してレベルアップをしているとのこと。テレビの情報番組によると、広報係の専門性を磨くためには、様々な群衆の映像を見て人々を誘導するアナウンスを試みるなどしているとのことだ。

 警備の目的にそってその状況にふさわしい内容の呼びかけをする、ということである。アナウンスに必要なことは、呼びかける対象の心に届く内容と言葉を投げかけることであろう。対象は大勢なので、とかくマスととらえがちになるものだ。マスととらえると「皆さん秩序を守ってください」といった建前を漠然とした言葉で言うことになる。さらにアナウンスが伝わっていないと感じると、声が大きく荒げてしまうものだ。それに呼応して群集が興奮して、目的とは正反対になってしまいがちだ。
 ところが今回のアナウンスは、「怖い顔をしている警察も皆さんとともに喜んでいます」「みなさんは12人目の選手です」「フェアープレーをお願いします」といった、サッカーの内容を知っていて、群集が個人でも受け止めうる言葉であった。されに「わかっていただけますか」と呼びかけて「はーい」という反応さえ引き出した。そして群集から「おまわりさん!」といったコールにもなった。アナウンスの巡査の言葉は群集に届き、共感関係なったのである。

 このように群集の秩序を維持できたアナウンスをした巡査の特長は、次のようなことが考えられる。
 もともと喜びの感情をも持った人たちなので、群衆を警戒ではなく信頼の気持ちで向かっていた。声を抑制的に個人に語るような調子と内容の言葉であった。これらを可能にしたのは、とかく指示や命令が多い警察の職務であるが、アナウンスをした巡査は、相互応答型のコミュニケーション感覚を持っていたからではなかろうか。
 相互応答とは、伝える内容を聞き手の立場の関心と感情に届くように話すことである。これは好意的なコミュニケーション成立する条件でもある。
 ところでおおよその国では、サッカーの勝利の喜びはスタジアムで爆発させる。それに街に広場がありそこに集うものだ。東京には、少しばかりでも騒ぎ立てるような広場がない。あってもよいのではないか。
 ところでDJポリスとまで賞賛された広報係の様子を長く撮影して動画サイトに投稿したのは、誰なのだろうか。わたしは広報係の隣にいて群衆をひっきりなしにシャッター切っていた人(警察)が気になったのだった。

*このコラムは、遅れて7月7日にアップした。

メディアと政権

2013-05-12 11:58:46 | 生活・教育・文化・社会
 あべ首相は、喝采をあびて得た活力で行動する人のようだ。それだけに自分の行動を疎外するものがあると戸惑い力が萎えてしまう。わたしはそれが第1次内閣の時の辞任の一つの要因だったのではないか、と見ている。
 目下高い支持率もあって、頻繁に「安倍内閣では・・」という悦にいる表現を使う。毎週土日には、テレビで報道されるような行事をこなして、得意満々である。参院選告示まで後7回の行事の予定も組まれているのだろう。
 予算委員会での答弁で、批判的質問に対しては含み笑い、あるいは嘲笑とも思える反応をしながら聞くことが多い。隣に座っているあそう副総理も同一の反応をする。また内容を問わずに受け入れがたい人を無視する態度も取る。緊張する時は頻繁に水を飲み、内容のない言葉でつくろう。
 自分を優位に感じると安定する人はいるものだが、首相という最高権力者は、それを過剰にふりかざさず、自分とは異質なものへの寛容さが求められる。それが人間の奥深というものではないか。

 支持率の高さを喝采と感じ取り、行動のエネルギーになっているだろう。その前提になる後ろ盾を求める。後ろ盾はメディアであり、それへの対策は巧妙である。

 新年早々の1月7日(月)は、18:23~21:33によみうりグループの総帥であるワアタナベと会食。翌8日(火)は、19:15~21:29にサンケイ新聞のきよはら会長、くまさか社長と会食している。10日(木)19:40~21:54報道関係者との会食。いずれも首相の会食時間としては長時間である。
 わたしは2つの巨大メデイのよみうりを政権の露払いで、サンケイを太刀持ち、と見たてている。よみうりは現政権党の幹部の発言を、あたかも政府のリーク情報のようは報道をするし、咋今では政策提言らしき記事も見かける。
 あべ政権と首相の応援報道をするサンケイフジグループは、太刀持ちの役をしている。あべ首相が信頼しているメディアといわれている。

 このような政治権力とメディアの親和性は、あるいは相互の利用のし合いは日本の針路の危うさを生み出しかねない。月1回の頻繁におこなわれる政権や政党に対する世論調査に、政治家や政党が敏感になっている。世論動向をみて政権や政治家が迎合的行動するのは、本来は軽率政治といってもよいのだ。
 メディアがジャーナリズムであるならば、政治権力との距離を取り、時には警鐘を鳴らさねばならない。それが権力と癒着し応援報道はプロバカンダにさえなる場合もある。メディアの後ろ盾を持った政治権力者は、歴史では暴走した例もある。メディアと政治権力の相互依存を読み解くリテラシー力が問われるのは、厄介なことだ。

*このコラムは、1月に執筆を中断していたものを修正してアップしたもの。以前から途中まで書いてアップに至らないものが40%ぐらいだったが、このところは日の目を見ないで没にしているのが圧倒的になってしまっている。

災害への国際的相互支援

2013-04-21 14:26:32 | 生活・教育・文化・社会
 昨日9時過ぎ(日本時間)に中国の四川省雅安市で大地震(M7)があった。報道の時間経過とともに被害状況が明らかになっており、今日の新聞では死者156人、けが人1500人にのぼり、150万人が被災したとのこと。詳細が明らかになると、死者等はもっと増える可能性がある。
 なお、08年にこの地で起きたM8の大地震では死者・不明者が約8万7千人だった。
 初期の懸命な救援活動がおこなわれており、国家上げての救出活動と医療関係の取り組みと困難さも報道されている。テント、布団、食料、水不足など被災者の困難も容易に想像できる。
 他国の救援活動は、その政府の求めがなければできないが、生命が維持できる72時間が刻々と迫る。募金などは赤十字の呼びかけでわたしたちも可能なので、呼びかけてもよい事態ではないかと思う。それにテントのような避難の住まいなど、工夫されたものが日本にはあるだろうし。

 ところで東日本大震災は、地震、津波あわせて原発事故と、災害史に残る多重災害と規模の大きさだった。その事態を、当事者の撮影による映像がテレビやネット動画に映りだされた。その臨場感をともなった映像は、日本だけではなく世界中の人を驚愕させた。災害を当事者によって大量に撮影され、しかもそれが世界を駆け巡るというのも、災害史上初めてだったのではないだろうか。

 そのようなことも反映したのだろうが、多額の義援金が世界中から寄せられた。3日の新聞報道(朝日新聞)によると、
米国の29.9億をトップに②台湾29.2億、③タイ20.5億、④オマーン10.7億、⑤中国9.1億、⑥アルジェリア8.3億と続く。
 義捐金額は額を問わず支援に感謝の念を持つものだが、たまたまランキングされているなかで、8位ベトナム7.8億、15位パプアニューギニア3.2億、17位モンゴル2.9億、フィリピン2.9億は、それぞれの国の経済力(規模)や多くの国民の暮らしを想像すると多額であることと日本に対する親和度が高いと想像する。なお、義援金には在留日本人のものも含まれているようだ。

 義援金といえば、わたしがニュースで心動かされたのは、タイのバンコクで地方から流入してできるスラム街であるクロントイから200万円(記憶による)の義援金ということを耳にしたときだった。
 クロントイ(記憶では7万人)には、90年代半ばに研究調査で行ったときに立ち寄ったのだった。日本の曹洞宗のボランティア組織(現シャンティ国際ボランティア会)が事務所を持って支援活動をしていた。当時から見たらタイの経済力の向上とともに、人々の事態は好転しているのだろうが、日常生活で精一杯だとう人たちのお金を支援に回すという行為のありがたさが格別の思いがしたのだった。
 また新聞記事では、国連が認定する後開発途上国(最貧国49カ国)のうち30カ国から義援金があり、バングラデシュ1.6億、アフガニスタン1億、ブータンと東チモール9千万円ということだ。この記事を読みながらそれぞれの国の経済規模と貨幣価値からしたら、相当な高額であると想像し、感謝の気持ちでいっぱいになるのである。
 災害に対する義援金の国際的取り組みは、日本赤十字社などが災害の規模などの一定の基準を設けて、募金等呼びかけるようなシステムを作ったらどうだろうか。昨年アメリカのハリケーン災害の際、メールマガジンでアメリカ在住の冷泉彰彦氏が募金を呼びかけていたが、応えるシステムがなかったので、叶わなかった。公的機関が、わたしたちの「お互い様」の気持ちが表現できるようにして欲しいものだ。

*中国の大地震では、外国からの援助を事態しているとのことだ。(22日)

長野が長寿トップに

2013-04-14 17:07:13 | 生活・教育・文化・社会
 2月末の厚労省が発表した都道府県別平均寿命(10年)で、長野県が男女とも1位になった。これをめぐるニュースでは、長年女性のトップだった沖縄県が3位になったことが大きく扱われた。
 沖縄県は男性も80年代までトップだったため、沖縄の伝統的食文化とライフスタイルが長寿によい、と英語の本にして国際的にそのことを発信している。
 暮らしぶりの変化が短命化を歩んでいるのではということは、65歳以下の死亡率が高いことからもいえる。とくに食文化の変化に注目が集まっている。その変化とは、沖縄の伝統的食文化に比べて米統治下でファストフードが普及したことも一因ということだ。

 わたしは、80年前後数回沖縄を訪ねたことがある。スタディーツアーのようだったので、観光資源化されていない戦跡めぐりや本格的な琉球舞踊を見る、あるいは高名な陶芸家の窯を訪ねるといった貴重な体験をした。
 食文化では、地元の食堂で食べた沖縄そばというヤギ肉の入ったうどんはめずらしかった。印象に残ったことでは、ステーキが低額で多くの人が日常的に食べられるということだった。当時アメリカからの輸入肉が唯一食べられたのだった。わたしは食について関心があり『短命化が始まった』(農文協)という種の本も読んでいたので、肉の食べすぎにならないかと思ったのだった。

 また食と長命のことで記憶に残っているのは、70年代まで事例としてよく取り上げられたのは、山梨県の旧棡原村(ゆずりはら、現在の上野原町)のことだった。この村が突出して長命のため、栄養学等の研究者が長年食の調査をしたのである。
 水耕ができない畑作地帯だったため、穀類(トウモロコシ、麦など)を主食とする特有の食生活で、しかも当時の交通の関係で物流少ないため、その特徴が色濃かったことに要因があるということだった。やがて物流の発達にともない食生活に地域の特徴が薄れて、栄養学的にも研究対象とならなくなった。

 さて長野県は、佐久総合病院(JA長野厚生連)の先駆的取り組みに象徴されるように、早くから地域医療に取り組んできたことは知られている。さらに行政が疾病予防に積極的取り組んで、啓蒙と具体的活動(身体運動の集まりなど)に取り組んでいるため、一人当たりの医療費負担も極めて少ない。
 長野県の食文化の特徴といわれていたのは、保存食である漬物に象徴されるようにかつては塩分の摂取が多かった。もとから勤勉と教養が高いといわれている県民性もあってか、食改善健康知識普及等もあってだろう、男女とも最長寿県になったのだ。長寿は食生活だけではなく、医療・保健・福祉行政、地域環境、ライフスタイルなどいくつもの要因があるのだろう。一人当たりの医療費が少なくて長寿であるということは、健康年齢も高いということで喜ばしいことである。
 ともあれ長野県がなぜ長寿のトップであるのかを総合的に検討し、多くの人が理解できるようにしてモデル化されることを期待したい。それを実行するのは、研究者、長野県、それとも厚労省なのかな。

*このコラムは、3月に書いて未完成だったのを遅れてアップしました。

ニュース報道と国の事情

2013-04-05 12:01:54 | 生活・教育・文化・社会
 BS1の4時からの「ワールドウェーブニュース・アジア」(月~金)を週2、3回見ている。前日のニュース報道を5分前後にピックアップしたものだが、アジアの諸国の動向がわかることとそれぞれ国の事情が色濃く出るので、それが面白い。

 5日(金)の韓国・KBSのニュースは、ヒュンデ自動車が2カ所の不具合でリコールを出したことを報じた。エンジン部分は、かつてのトヨタのリコールの場合は1人の死者を出したが、それより軽微なものだとのこと。映像は、ヒュンデの本社ビルがいくつかの角度から出し、トヨタの社長の顔をアップで使った。
 もう一つの不具合箇所はエアーバックのことだが、規模が小さいことを強調していた。そして研究者が「部品を作り変えて交換する」とコメントした。ヒュンデの関係者のコメントや顔の映像はなかった。
 この報道の仕方では、2つのメッセージを込められていると思われる。ひとつは、ヒュンデ自動車がトヨタと並ぶほど大きいということ。それにリコールが軽微なものである、ということだ。いずれもトヨタを使って事実の報道よりヒュンデが軽微なリコールであることと、トヨタの危うさを印象付けるものになっていた。

 ヒュンデ自動車のリコールは、すでに日本でも報道されている。リコールとは、市場に出回ってから部品等不具合でそれを取り替える措置を取るとること。それ自体はめずらしいことではなく、リコールが起こしたからといって会社の存亡を左右することにはならない。日本でのリコールの報道は多くは、その事実を簡単に伝えるだけだ。
 ヒュンデ自動車がトヨタを引き合いに出して軽微なものと強調するのは、どんな事情からだろうかということに、わたしは興味を持った。
 韓国のグローバル企業(サムスンなど)は、政府の経済政策と一体であることは知られている。企業ダメージは国家の威信にかかわることなのだろうか。それに韓国内での販売数が、ドイツ車などに押されて販売不振と新聞報道されている。さらに円安のため、シュンデ自動車の価格のメリットが弱くなり、アメリカなどで日本車に苦戦しているとニュースも報じられている。そんな状況を反映している報道なのだろうかと、メディアリテラシーとして想像しながら見ているのだ。

無免許運転の繰り返しを技能とみなす?

2013-02-20 12:02:05 | 生活・教育・文化・社会
 昨年4月23日の、無免許居眠り運転による集団登校列に突っ込んで、死者3人重軽傷7人という事故の1審の判決が下った。少年法や事故の軽重との関係で量刑が決まるだろうが、裁判官の判決内容に重大な問題を含んでおり、驚いた。
 無免許で4月11日、17日も運転していたことが明らかになっている。それ以前にも無免許運転を繰り返していたということである。被告は一度も免許を取ったことがないのである。無免許運転というと、一般的にはかつて免許を取得したのを失効したか取り消しされたか等を考える。その場合無免許でも技能を有したと見てよいだろう。
 裁判官は、免許を取ったことのない者が運転していたのを技能を有したとみて、しかも無免許が罰則をともなう行為なのに、今回の事故と無関係とした。
 
 そもそも免許というのは、国が決めたそれに必要な技能や知識に対して授与するものである。その点では、資格より厳格なのである。
 資格は国家資格から業界によるもの、さては検定など様々ある。それを必要とする場合は、運用で資格の有効性を位置付けるのである。無資格であっても刑事則はなく、運用者(業界)の範囲内で資格の有効性に収斂していくのである。

 必要とする免許なしでその行為や職業をした場合、罰則がともなう。その行為や職業ができるからといって免許に必要な内実が備わっているとは認めないのが、免許制度である。特例的に認めるとしても、仮免許を交付した上で許可する。
 身近な職業で言えば、教員、医師といったものがある。航空、船舶関係にも様々な免許を必要とするし、各種の機械操縦など免許を必要とする。無免許でその職業や機械操縦をしたことが判明すると、何らかの罰則が科せられる。たとえば無免許の医師は免許という文書偽造等も含んだ刑事罰であり、教員はその行為の質にもよるが、行政の範囲内の処罰になるだろう。
 法として免許の有効性を監視し運用を図るはずの裁判官の、運転免許の認識に驚くばかりである。
 今回は、無免許運転を繰り返したことの罰則と運転能力がないと見ると、判決の量刑も変わるのではないか。少年法の厳罰でなく更生に期待するという思想を過大に解釈してそれに依拠したため、免許そのものをゆがめてしまった判決である。

尖閣諸島が世界自然遺産だと?

2013-02-19 18:45:17 | 生活・教育・文化・社会
 この頃4時からBS1の「ワールドウェーブ・アジア」を見ること多くなった。これは前日のその国のニュース番組を、5分前後に編集して日本語で放送するものだ。

 今日放送の中国・上海のテレビでは、日本が尖閣諸島を世界自然遺産登録の準備を開始したと報じた。そのため中国の海洋監視を強化しているという。
 また、韓国のニュースでは、竹島の韓国に対する抗議デモが激しくなっているとした。デモの映像と飲食店員の「デモがあるので怖い」というインタビューを流した。
 中国と韓国ともに領土問題だが、日本では報道されないものだ。尖閣の世界自然遺産登録は、ありえないことで虚偽である。
 竹島もデモはしているグループもいそうだが、日本ではニュースにもならないしデモがエスカレーとして商店に危害を加えるとは考えにくい。
 こうして虚偽やゆがんだ報道によって、自国の正当性と日本への敵対心をあおり、偏狭なナショナリズムの高揚をさせていくのだろう。

 ところでこの番組では、中国の北京、上海、香港、それに韓国、シンガポール、タイ、ベトナム、フィリピン、マレーシアのニュースが放送される。
 日本では知られていないことでは、タイの南部のイスラム文化圏地域と政府のあつれき、フィリピンのある地域の人たちがマレーシアのある地域が元来の居住地域だとする抗争が起きている、といったことが報道されている。
 フィリピンでは、南シナ海の中国との領土問題が大きいことであり、最近では大水害に見舞われている。
 香港では、春節期間中の中国本土からの旅行者が多すぎて様々な困難が発生している。ディズニーランドは入場制限をしたとのことだ。
 中国・上海では春節の花火が大量に打ち上げられ、その清掃が深夜おこなわれ、ごみがトラック3台分になるという。
 ベトナムのニュースは各地の伝統的祭り等の紹介が多い。

 早朝覚醒が習慣になっているので、ある時期は「ラジオ深夜便」を聞いていたが、数年前からは雑誌等を読んでいる。今後は30分ほどの「ワールドウェーブ・アジア」を見ることが多くなるだろう。アジアのことがテレビ新聞で報道されることが少ないし、知らないことが多すぎるというのが実感である。カンボジア、ミヤンヤンマーにも関心があるが、放送はないだろう。
 起床は気ままのほうが体によいのだが、「ワールドウェーブ・アジア」を見たくなると必ず起きるようになる。それもいやだな・・・といったところだ。

触法障害者の社会復帰

2013-02-15 15:38:17 | 生活・教育・文化・社会
 Eテレの「ハートネットTV」は、13日(水)「罪を繰り返す障害者・再販防止への支援とは」、14日(木)「触法障害者の社会復帰・福祉と司法の連携」を放送した。
 犯罪者の再犯率は、60%といわれている。軽微な犯罪を繰り返す人に、発達障害者が多く含まれているという。日本の司法は、犯罪に応報するという考え方のため、刑務所では規律という基に、厳しく自由を狭め労働を課すことで反省をうながすこととしている。
 それは障害者にとっては、苦痛であっても生活するスキルが弱い等から更生が難しい。そこで放送では、出所後更生のため福祉施設によって社会への適応スキルと生活能力と労働体験によって、社会復帰を可能にする取り組みの状況についてだった。
 14日の事例は長崎県の施設で、社会生活のスキルや牛の飼育の取り組みなど紹介されていた。そこに司法関係者が見学していた。
 テーマと内容が、NHKならでは取材力を使っての時宜をえているものだった。司法と福祉の連携により、この動きが広がることにより、人権が尊重され安定した社会が少しでも前進することを願っている。

 なお、障害者とは性質が異なるが、朝日新聞1月10(木)に「盗み癖、刑務所より治療施設へ」と記事にしている。軽微の万引きを繰り返す被告の弁護士が「被告は盗み癖のある病気だ。刑務所ではなく、専門の施設で治療させて欲しい」と訴えた、とのこと。結審後また万引きをしたのだ。それに対して検察が「病気のせいにして、反省していない」と非難して、懲役6年を求刑した。