goo blog サービス終了のお知らせ 

絵本と児童文学

絵本と児童文学、子ども、保育、サッカーなどの情報を発信する

不法、規律逸脱行為を賞賛する危険

2010-11-12 18:47:04 | 生活・教育・文化・社会
 尖閣諸島における中国漁船と海上保安庁の巡視船の衝突状況を海保が研修用として編集したものが、4日(木)「ユーチュウブ」によって流出しそれを直接または一部をテレビで誰もが見る事態になっている。
 それを流出させた海保の主任航海士が、10日(木)上司である船長に告白したため、警視庁による任意の取調べが続いている。国家公務員の守秘義務違反の、刑事事件として逮捕起訴の裏づけを取るためである。
 この事件をめぐってメディアは、連日取調べの事態の進展と識者といわれている人たちのコメントを報道している。インターネットで流出させたということから、ネットでも意見が飛び交っているという。また、海保には流出させたことへ賛意のコメントが多いという。
 現在問題になっている主な点は、次のようなことである。
①守秘義務に違反にあたるか。
②政府が秘匿情報にしていることへ海保が義憤を募らせての行為だ。
③情報を渇望していたので、国民の知る権利にこたえたものだ。
④ジャーナリストとしてもリーク情報として必要だった。
⑤内部告発であった。
⑥海保の情報管理の甘さとその責任。

 ①については、捜査当局場合によっては裁判所の判断によるところとなろう。②③④⑤は
まったく正統性はない。⑥は業務上映像情報を共有または研修に使用する慣行があったというが、今回のビデオは、捜査の証拠物であることと外交上の影響等から検察と政府では秘匿指定が遅かった(10月18日)にせよ、当初から公開せず秘匿扱いだった。
 わたしは今回の海保の航海士の取った行動は、刑事罰の根拠となる守秘義務に当たるかどうかの問題もあるが、より大きな問題を含んでいると考えている。海保というのは、船舶に重火器を備え捜査逮権を持ち領海警備にあったている重要な政府機関である。その者が、単独で「ユーチューブ」という手段を通して、しかもAPECという重要な国際会議主催国として開催直前、さらに国会が補正予算すら滞っている時期におこなった、ということである。政府機関の職員による内閣に揺さぶりをかける、情報テロといってもいいのではないかと、とらえている。ハンドルネームのSenngoku38は、「せんごくさんパー」と読み解ける。
 現に流出以降、野党自民党を中心に内閣の責任問題に焦点当てており、国会審議の渋滞は続くだろう。これまでの通常国会を見れば、自民党の戦略は論戦というよりは、内閣に心理的圧力をかけ民主党政権が無能だということを作り出そうというシナリオで動いているのではないだろうか。自民党の質問は、一部の週刊誌のように辛らつな言葉の揚げ足取りが圧倒的に多いことからも推察できる。
 海保など政府機関に、公務員としての職務を逸脱して内閣を無力化するグループ等が存在しなてほしくないと思いたいほど、わたしは危険な状況を感じている。
 外交問題は偏狭なナショナリズムで沸きたちがちがゆえに、「知る権利にこたえた」などと賞賛してはいけないのである。


strong>

胃カメラ検査をラクに受ける

2010-10-02 18:34:54 | 生活・教育・文化・社会
 あれは40代だっただろうか。胃カメラ検査をしたが、苦痛をともなうものだった。体験した者は、嫌な体験を共感しあうことが多い。最近ではその検査の苦痛を和らげるために、喉からではなく鼻から挿入するなど検査方法も変化していると聞く。
 わたしは数年前から、年に1回胃カメラ検査をするようにしている。友人には過剰検査ではないかといわれたりもするが、用心が大事なので、毎年胃カメラは欠かさない。

 そこでこの検査を、楽しくとはいかなくともラクにできないものかと、検査を受ける側として工夫をするようにした。その成果が現れ、苦痛はなくなり検査時間も昨年は5分ぐらい、今年は3分あまりになった。検査の映像を見て開始時間を確認し、腹部の映像もしっかり観察している。カメラが腹部のどの辺にあるかも分かる。
 検査時間は検査医師がすることであり、詳細な検査が必要なケースには時間がかかるだろうが、一般的な場合は検査のしやすけらばスムースに進行し、結果として短縮されているのではないかと考えてみた。以前は所要時間を確認したことはないが、10分か20分ととても長かったという印象が残っている。

 さて、どのように検査を受けるかわたしの工夫を記すことにする。その基本は被検査者が、検査する医師がやりやすいようにすることである。言い換えれば胃カメラを受容し、検査医師に気持ちも体もゆだねるということだ。
そのために次のように工夫をしている。

①待合室に待機しているときから、胃カメラ挿入後の呼吸と同じく、ゆっくり鼻から息を吸って吐き出す呼吸をする。
②看護師から喉の麻酔液を3回注がれるが、その際天井を見るぐらい顔を反り返り、舌にかからないように喉に注いでもらう。喉に注がれたものを3~5秒ぐらい貯めておきそれをゆっくり飲み込む。これは看護師の業務なので、彼の理解が必要である。
 舌にかかると違和感がおきて、管の挿入時に飲み込む動作が多くなる。その動作が苦痛を感じることでもある。また終了した後、舌がしばらくしびれる感じで正常に戻るのに数時間かかるので、それを避ける意味もある。
③検査時に胃カメラを受け入れるには、体のリラックスが必要だ。そのために意図的にリラックス状態を作る工夫として、唇の力を抜きぽかんとする。それに緊張すると手を握りがちになるので、意図的に広げるようにする。そして気持ちとしても「どうぞお願いします」という感じで胃カメラの挿入を受容する。
④検査中は映像を見ると、検査を受けている自分を客観的に観察する気持ちになる。「なるほどそうなっているのか」「今腸の方に行ったな」といったことを、内言(声に出さない言葉)で言ってみる。
⑤今年の場合は飲む込む動作が2回あったが、それが以前より苦痛に感じなかった。

 わたしの胃カメラ検査の受け方を披露したが、体験した方が何らかの心当たりがあったら、ヒントにして工夫してみてはいかが。

*テレビの報道では、薬ほど小さなカプセルを飲み込むのが開発されたとのことだ。長い小腸まで検査ができるが、胃のような大きな部位は通過するので全体が検査ができない難点がある。それに対して、カプセルの後部に羽のようなものをつけて外部から操作すると、胃の検査も可能になる。ただしこの実用化には2、3年かかるとのことである。(10月8日)

主任検事の証拠改ざん

2010-09-23 15:52:52 | 生活・教育・文化・社会
 郵便不正事件をめぐって、この捜査の現場指揮をした大阪地検特捜部の主任検事前田が証拠品として押収したFDを改ざんしたことが明らかになった。この件について21日(火)の朝日新聞で報道されたら、その日の11時に最高検の次長検事が緊急の記者会見を開いた。そして最高検の検事らをすぐに大阪に派遣し捜査を始め、夜に前田容疑者を証拠隠滅の疑いで逮捕した。

 朝日新聞の報道後すぐに最高検の緊急記者会見、その日のうちに主任検事という重責にある検事を逮捕という早さには、驚くばかりである。議会政治(立法)と独立して、証拠に基づいて裁く検察のあり方を、根底を揺るがす重大事ゆえのスピードの対応と思いたい。
 しかし新聞報道を契機にした最高検一連の動きは、このFD改ざんはすでに大阪地検には知られていたことであり、つまり個人的犯罪ではなく隠蔽していのではないだろうか。
 それに最高検としても、今回の郵便不正事件で取り取調べで作られた検察の作った調書が裁判で採用されず、村木氏の無罪確定を当然把握し検討していたはずである。この事件に対する主任検事前田の全体の見立てそのものに無理があるにもかかわらず、ストリーにあてはめるようにでたらめの調書を作ったので、裁判の公判をまったく維持できなかったという、検察の醜態をさらけ出した。それらのことを最高検として詳細に知っていて関心を持っていただろうし、FD改ざんについても知りえていた可能性がある。

 ところで前田主任検事は、検察では「エース」と評価されていたという。小沢氏のカネにかかわって公設秘書の取調べをし、起訴に持ち込んでいる。それに対しては小沢氏の3人の秘書は、調書は強引な誘導で作られたとして、裁判で全面否定して争うという。

 さて、前田主任検事は当人が自覚しているかは分からないが、「エース」や「割り検」と称されていたことは、一般的には出世コースを歩んでいることだ。自らの評価への自信とその評価であり続けるために、自分の事件の見立にそうように証拠の改ざんにまで及んでしまった。

 そこでわたしはかなり前にあった、古代史の発掘調査の事件を思い出した。ある人が発掘調査をすると必ずといっていいほど、歴史を揺るがすようなものを掘り出す、というのだ。やがて「ゴッドハンド」とまでいわれるにいたって次々に発掘を繰り返して、学会でも話題になり時には賞賛された。ところが学問的に疑念が生まれ、発掘したものはあらかじめ当人が土に埋めてそれを発掘したかのように装っていたのだ。

 検察という捜査権と公訴権をもっている権力機関であってはならないことだが、「エース」や「割り検」になりきるために、恣意的に権力を使い犯罪をでっち上げることは、法治国家の根幹を揺るがすことだからあってはならないことである。
 検察庁の重大に危機に対して、身内の最高検がどのていど本来の「検察正義」をつらぬけるか、今後を注目することにする。


地検特捜部

2010-09-13 07:39:33 | 生活・教育・文化・社会
 8日(水)に、鈴木宗男氏が係争中だった受託収賄事件を、最高裁が上告を棄却した。鈴木氏は、当時北方4島関係など一部には70余りともいわれる疑惑を上げられていたが、ロシア関係でなく、北海道開発庁長官の地位を利用したとして、大方予想をしていなかった件で裁かれた。
 最高裁の判断を下された日は、9日(木)札幌で代表選の街頭演説の前日だった。北海道で支持が高い鈴木氏は、小沢氏の応援演説に立つはずだったが、かなわなかった。最高裁の上告棄却を下した日のタイミングが偶然とは思えないぐらい、政治的意図の疑念を感じるのは、わたしだけではないだろう。

 東京地検特捜部による、小沢氏(当時民主党代表)の「カネ」の捜査開始が昨年の総選挙前であり、民主党へのダメージを与えたはずだ。1年以上かけて立件できなく、今もブルーという世論が作られている。これらは、霞ヶ関が民主党の力をそぎ、小沢氏を総理にさせない意図のもとにやっているとは考えたくないが、はたしてどうだろうか。

 また大阪地検特捜部の案件である郵便料金不正にかかわったとした、村木厚子氏(元厚生労働省局長)の無罪判決が10日(金)大方の予想通り下った。これは民主党の石井一氏(当時副代表)の口利きというシナリオにそった、でっち上げの事件である。これもいつ解散総選挙でもおかしくないという時期であり、民主党へのダメージを与えたことは確かだろう。石井氏の口利きをしたという日時には、ゴルフをしていてアリバイがあった。実際の確かめの捜査もしないで恫喝や誘導による調書を作るずさんさだった。

 地検特捜部は、政治家がらみなど大掛かりな事件を扱うが、この事件はあらかじめ作ったシナリオに当てはめた乱暴な捜査による調書をつくり、それではまったく裁判を維持できなかったのだった。この事件では、冤罪という人権無視の理不尽なことが、権力によって簡単におこなわれるということがわかった。
 ついでに東京地検特捜部がかかわった福島県知事の汚職事件は、シロであった。

 明日民主党の代表選の議員投票日で、事実上首相が決まる。霞ヶ関は小沢氏が当選することを嫌がっていると思える。ちなみに朝○新聞の論調は、どちらかというと小沢氏の「カネ」の問題などで、批判的論調をしている。


ついに代表選

2010-08-29 18:21:14 | 生活・教育・文化・社会
 民主党の代表選挙は、26日(木)の小沢の立候補表明で、メディアはこの件で大騒ぎになっている。早々とグループの人数を掲げ得票予測をしている。小沢の立候補は、わたしの予想外のことだった。3カ月前に「政治のカネ問題」で鳩山首相とともに引責辞任し、そのことを国会や国民になんら説明をしていない。幹事長辞任でいわゆるみそぎが終わったわけではない。

 しかし辞任した時から代表選を視野に党員サポータを増やしていたという報道があるし、軽井沢の鳩山別荘での集まりでの民主党議員の小沢に対する扱いは、氏の「力」を誇示する演出が施されていた。
 首相を投げ出すように辞任した鳩山を中心とした集まりをもって、影響力の健在を示したのでもあった。さらに「気合だ」と唱和した映像には、政権党の議員の集まりか疑うほどうんざりした。ちなみにわたしは、オリンピックの時叫ぶ「気合だ」に対しても、嫌悪感を持っている。

 もっとも小沢のカネの問題は、東京地検特捜部の捜査では不起訴であり、検察審査会で継続中だ。政治資金規正法違反で秘書3人が逮捕されて係争中であるが、そこで明らかになっていることは、会計処理の誤記載という軽微なことである。この件だけでは、衆院選を前にして東京地検特捜部の政治的色彩の濃い捜査だ、という見方もある。強制捜査をし、1年へても起訴にいたらなかったのだ。
 しかし検察での捜査では立件が難しく、クロではないとしても、小沢の多額の政治資金の出所など疑念が払拭されていない。主として選挙に活動する秘書を多数抱えており、その資金などどのように捻出しているか、関心のあるところである。参院では証人喚問が問われても応じておらず、国会議員として疑念を晴らすことはしていないし、とりもなおさず国民にも説明をしていない。

 小沢の政治手法は、影響下にある人の数を背景にした「力」によることが多く、幹事長をしながら鳩山内閣にも影での力を行使していた。それは民主的道理にそっているとはいいがたい。それに幹事長の立場で党のカネ(主として政党助成金)と選挙を独占し、当選者を自分の影響下に置き「力」を増大させるという政治は、民主主義とは程遠いものだ。

 メディアは代表選に対して連日報道し、相当盛り上げている。とくに今日のテレビでは、民主党代表選の菅支援と小沢支援の討論をいくつかの番組でやっていた。わたしは不愉快なのでさわりだけみるにとどめた。日本の政府のあり方を考えると、政策論争ではなく小沢の権力奪還のようにみえる。
 
 仮に小沢が当選して首相になったら、参院のねじれを解消すべく連立を組む等をするというが、それ以前に証人喚問あるいは政治倫理審査会での参考人招致で暗礁に乗り上げるだろう。政府としては、議会がそんなことに時間を延々と費やす場合ではないだろうに。

広島原爆の日65年に思う

2010-08-07 04:59:30 | 生活・教育・文化・社会
 広島原爆の日は、NHKテレビで「平和祈念式」を毎年欠かさず見ている。8時15分の平和の鐘の音ともにおこなう黙祷、そして広島市長の言葉を厳粛な気持ちで耳を傾ける。
 おおよそこの日から終戦の日までのテレビや新聞報道を通して、戦争と平和について集中して考えることも、わたしの夏のすごし方になっている。

 さて、今年は65年という節目であり、国連のパン・ギムン事務総長の出席、アメリカのルース大使の出席という画期的な式典となった。
 オバマ大統領の09年5月のプラハ演説から、核廃絶は日本が発信するだけではなく世界を駆け巡るようになった。それが初めての国連事務総長、アメリカ、イギリス、フランスという核保有国の大使の出席ということにつながったのだろう。
 アメリカにとっては、ルース大使を出席させるということは、一般的には政府の意思と認識されるので、アメリカの国内事情としては簡単な決断ではなかったと思われる。アメリカの保守層(共和党)からしたら、原爆使用を問題視されることは許しがたいことなのである。オバマ大統領の核廃絶の訴えが、アメリカで支持されるわけではないので、次期の大統領選を乗り切るにはデリケートな問題である。
 出席国が増えることによって、海外メディアが報道することが核廃絶への関心が広がることが期待される。しかし報道によると、外国メディアの扱いは小さかったようだ。

 わたしはパン・ギムン事務総長の言葉を放送で聴けることを期待していたが、首相の言葉で平和記念式のライブは打ち切られ、次の番組に移行された。新聞報道によると、広島国際会議場での講演で「グランド・ゼロ(爆心地)からグローバル・ゼロ(核なき世界)」と訴え、核廃絶に向けて包括的核実験条約(CTBT)の2012年の発効や核の先制不使用主義を進めるべきだと、と訴えたという。

 菅首相の言葉は、このところの政治状況からなのか、自ら発している言葉ではないと感じ取られるような慎重な「読み方」だった。
 しかも終了後の記者会見では、日米同盟を意識してのことだろうが「核抑止力は、わが国にとって引き続き必要だ」とした。秋葉市長の平和宣言で「核の傘からの離脱」を訴えたことからしても、被爆国で核保有をしていない国の首相発言として、失望は大きい。
 国連事務総長、ルースアメリカ大使の出席という歴史的平和祈念式であり、核廃絶のうねりを大きくするのを日本政府が率先することを期待するのである。


井上ひさしを悼む

2010-04-11 15:51:57 | 生活・教育・文化・社会
 わが若かりしとき井上ひさしの初期の頃の小説『青葉繁れる』を読んだ時は、内容の面白さ、ストリー展開のうまさ、文章の軽妙さなど、それまで読んでいた小説とは異なるものを感じた。それからエッセーをたびたび読んでは、自分の頭の固さをほぐしてくれるように思ったものだった。

 これからまだまだ書く作家だと思い込んで期待をしていたら、逝去されたという報道に接し残念でならない。
 小説はいくつか読んだが、わたしは氏エッセーが好きだ。「むずかしいことをやさしく やさしいことをふかく ふかいことをおもしろく おもしろいことをまじめに」という氏の言葉は、わたしの座右の銘にして話も文章もそのようにと思っている。「むずかしいことをやさしく」はできるが「おもしろく」が、わたしにとってはなかなか難しい。

 わたしは一度「ごあいさつ」程度の会話をしたことがある。かなり昔のことであるが、ある民間の保育の研究会の夏の集会で氏に講演を依頼した。引き受けてくれるはずがないと思いつつ、小松という人が直接電話で依頼したら、即座にOKしてくれたのだった。しかも講演料など一切無料で、ということだった。いささかびっくりして、しばらくしてから確かめたほどだった。
 なぜ、しかも無料でOKしてくれたのか、と仲間で語り合ったものだった。
 「『こまつ座』という劇団を作ったので、同姓の女性が依頼したからではないか」
 「井上ひさし的ユーモアで」
 「少しばかりの講演料よりは、無料でよいと考えたのでは、井上ひさし流のユーモアで」
 「最近講演など表に出ない暮らしをしているそうだが、運がよかったんだよ」
 300人余りの保育関係の研究集会に来てくれる、驚きと期待が膨らんだものだった。

 さて、当日は出版社の編集者と思われる男性2人とともに、会場のホテルに予定の時間よりかなり早く来てくれた。わたしは立場上、控室にしている部屋へ「ごあいさつに」いって、恐縮しながら話をしたのだった。用件以外は話がふくらまないばかりか、何か沈痛な思いさえ感じ取ったのだった。そして同伴の男性2人がボディガードのような気遣いをしていた。
 エッセーを読んで親しみを感じていたので、その落差にとまどったが、仕事の世界と生活スタイルあるいはコミュニケーションと同一視してしまっている自分が浅はかに感じたものだった。
 講演はたんたんと進んで、終了したらすぐに同伴の人と帰った。そのときちょうど家庭のトラブルを抱えていたのだということが、まもなく報道で分かったのだった。

 氏の脚本の舞台は「泣き虫なまいき石川啄木」を見た。NHKのテレビドラマ「国語元年」も記憶にある。テレビの大衆化が始まった頃の「ひょっこり ひょうたん島」が氏の脚本であることを知ったのは、氏のエッセーを意識的に読むようになってからだった。
 「9条の会」の設立メンバーであり、大事な人を失った。しかし氏の著書にはいつでもアクセスできるし、これまでの脚本の「こまつ座」舞台も見られる。表現者として足跡を残しているので、氏の精神世界とは接触できるのだ。
 氏が75歳というのは、国民学校入学、戦後のまもなくの黒塗りの教科書使用、戦後傷跡と貧しさ体験、そして新制中学と新制高校開始2年目(?)、現在の大学制度を経てきた世代である。また昭和が遠くなった思いである。

ころんだのは誰だ

2010-04-10 21:15:53 | 生活・教育・文化・社会
 やあ、シニア世代が元気だ。このたび自民党離党した人を中心にできた新党「たちあがれ日本」の5人のメンバーの平均年齢が69.6歳なんだよ。シニア世代が作る政党が「たちあがれ」なのだから、「立ち枯れ」や「たそがれ」と揶揄されるのも分かるね。しかし実際は、「暴走老人」あるいは「モンスター・シニア」の行動のようでもあるのだ。
 
 わたしは「たちあがる日本」ではなく、「たちあがれ日本」だから言葉だけを素直に理解すると、日本が転びそうだから、たちあがれと政府を励ましているのか、と。また、誰かがあるいは何かが転んだので、立ち上がれと励ましているのか、あるいはリハビリをしているのかとも思ったんだ。

 ところでそのメンバーが、改憲タカ派で郵政民営化反対の平沼(70)、保守リベラルの財政規律重視で郵政民営化推進の与謝野(71)と政治理念の異なる人が組んでの新党だから、日本再建にたちあがれという思いのようだ。反民主、非自民としているので、民主政権を倒して保守勢力の再建を考えているのだ。命名者が石原新太郎(77)というから「たちあがれ」に憂国の士の決起、といった思い入れなのかな。ところで今日の新聞広告の『文藝春秋』に「たちあがれ」がトップの論考になっていることからすると、原稿締め切りの28日前に決めていたということだ。

 日本の高齢者(65歳以上)は、人口比の22.7%(09年)で、すでに5人に一人である。国立社会保障・人口問題研究所によると、10年後には人口比30%と推定している。このことからしてもシニア世代が、新しいことに立ち上がることもありうることなんだ。
 一般サラリーマンだったら年金暮らし年齢だが、いやはや政治家は国のあり方について考える元気がある。というか、両氏とも大病を患ってはいるのだが。まさしく政治生命をかけているのだろう。
 政権党でなくなった自民は、国会論戦では総理退陣、国民に信を問う、と簡単にたびたび言っている。政権に未練にしがみつき野党になりきれない自民は、民主がもたついていても浮揚できない。「たちあがれ日本」は、皮肉にも自民瓦解の姿の一端なのかもしれない。再建できない自民よ「たちあがれ」と鼓舞してなければ、本当にたちあがれなくなるよな。

日本人のしぐさの国際理解

2010-04-07 20:12:15 | 生活・教育・文化・社会
 北野武が監督として制作する映画は、ベネチア、カンヌ映画祭の賞をもらう。北野はヨーロッパでの評価を意識して作っているのだろうと思われる。歴史を大事にし成熟している文化のヨーロッパの関係者は、日本の文化の独自性を色濃く盛り込むことに関心も持つのだろう。
 このたび北野武が、フランス政府から芸術文化勲賞の最高賞であるコマンドール章授与した。ちなみに北野武はパリで美術展を開いていると報道されている。フランスでは北野のクリエターとしての力を認知しているのだろう。
 ところで北野が賞を受賞する時は、日本人にありがちな頭をぺこぺこ下げ照れくさそうなしぐさをする。一般的な落ち着きと堂々としたしぐさではない。ヨーロッパの人たちからしたら異質なしぐさであり、きわめて日本人的という印象をもつだろう。

 またアメリカでトヨタが、車の欠陥(リコールとも違う)を認め、早々に社長豊田章男が議会での謝罪や謝罪会見をおこなった。そのさい丁寧なお辞儀謝罪を繰り返した。それをアメリカメディアは、歌舞伎を演じたと報道した。歌舞伎に所作のイメージと類似を感じたのだろう。お辞儀というアメリカ人からみたら珍しい所作をし、卑屈にならず確信を持ったスピーチが歌舞伎の所作とイメージが結びついたのだろう。
 かくて日本人のお辞儀とうなずきなど、欧米ではないしぐさを日本の文化として理解されるようになっているようである。
 かつて日本企業が欧米へ進出する際、握手をしながらお辞儀をしないなど欧米のしぐさ(パフォーマンス)を学んでから行っていたことからすると、変化したものだ。これもグローバル化の一こまではないだろうか。

上野の花見の賑わい

2010-04-01 21:29:34 | 生活・教育・文化・社会
 首都圏に住みながらも都心は20年余り行動圏でないため、わたしにとって心理的距離は遠い。耳慣れない電車路線たくさんあるため使いこなすのは億劫でもある。
 そんなわたしだが、上野に出かけた。上野公園の花見が最盛期だろうし、旧東京音楽学校奏楽堂であるある、ある声楽教室の発表会を聴くためである。旧奏楽堂は1890年(明23年)に建造された、当時としては画期的な洋式音楽ホールであり、芸大キャンパスから現在の地に移築されて台東区立となった国の重要文化財である。当時としては画期的なものだったに違いないが、250人ぐら収容の大学のゆるやかな階段教室のようなものである。
 現在もコンサートがおこなわれているが、わたしはアマチュアの声楽を聴きたかったのだった。知り合いが演奏するわけでもないまったく知らない声楽教室の発表会である。

 これまで上野は、文化会館、博物館、美術館、動物園、国立子ども図書館など、その都度の目的の場所だけに行っただけだった。そのため全体が分からなかったが、開演時間3時間前に着いて、公園を歩いてみた。
 上野が起伏に富んだ山であり、お寺などがあり、巨木が残されている自然があり、グランドまであることなど分かった。去年友人たちと夕食をともにした韻松亭という日本料理店が夜で位置が不明だったが、分かってほっとしたのだった。
 平日の午後だが、ラッシュアワーの駅なみに、すれ違うのもぼんやりできないぐらいだった。
 人混みの中に観光客と思われる中国人グループが多かったし、欧米人ではフランス語を話すグループもいた。人ごみのであり、満開のソメイヨシノ下ですでに酒盛りをしていたり、場所取りをして番をしている人がいたり、花見の経験がないわたしは、花見に駆り立てるのは何かな、と思いながら観察したのだった。

 さて、声楽の発表会は、経験の浅い人ほどからだを動かして、視線を下向き加減だった。それに呼吸が安定していない人は、声の表現というよりは息を保つのに力を注いでいるようでもあった。
 経験のある完成度の高い人は、からだを動かさないで会場の後方に視線を向けることが分かった。アマチュアといっていたが、低音高音と音質が同じ声をたっぷり出して表現する相当のレベルの高い人もいた。プロではないが、かつて声楽を専攻した人のように思えた。
 曲目はモーツアルトの「フイガロ」「コシ・ファン・トゥッテ」「ドン・ジョヴァンニ」のアリアが多かったので、聴いたことのあるメロデーが多く、楽しく聴けた。
 今のわたしの音楽の関心分野は歌であり、とりわけアマチュアの人の歌を聴くことなのである。その点23人の、初心者から本格的に表現できる人の歌を聴いて満足であった。
 驚いたのはコスチュームとネックレスなどの装飾品が、これまでわたしが聴いたどの発表会より高価なものをしている人が多かったことだ。その声楽教室の地域を反映しているのだろうか。

 1部と2部だけ聴いて、途中の18時30分頃会場を出た。日没時に花見の宴の人が増え、ちょうちんの明かりとともに一段と華やいだ雰囲気だった。春の花見の名所の実際を確かめられて、以前からの宿題を終えたような気持ちで帰路に着いた。