週末を原村で

非日常性のユッタリした時の流れを信州は原村で。音楽を聴きながら星を眺め!最近は海外の旅の記事もアップします。

§ 狩られるのは男性ですが、所謂、魔女狩り其のものです

2019年08月21日 17時33分41秒 | たわごと(少し硬派に振って)
私のタイトルがタイトルですから、今回の報道に懐疑的と言うより、その報道に異論があるとの事スレッドタイトルでお察し頂けるかと思います。

事実を争う気はありませんしが、ドミンゴ氏を擁護する気もありません。
それなら、何を述べたいかとの事ですが。
自分が危惧する事は少し異なる観点からです。
その考えの一部分もスレッドタイトルに表れています。


読まれる前に言い訳を。
私はセクシャルハラスメントなどを擁護する気は全くありません。
パワハラもセクハラなど総て憎んでいるうえでのスレッドです。
 

TVにてこの件は知りました。
で、TV画面を撮影したものです。
一人だけ実名を出したパトリシア・ウルフさんです。




BBC JAPANの記事を一部スクリーンショットで撮ったものを載せさせて頂きます。


世界的オペラ歌手のドミンゴ氏、セクハラ疑惑で9人が告発したBBCの記事はこちらです。

その記事を消える前にBBCの記事を引用させて頂きます。

世界的なオペラ歌手のプラシド・ドミンゴ氏(78)からセクハラを受けたとして、9人の女性が告発した。AP通信によると、歌手8人とダンサー1人は1980年代後半に、ドミンゴ氏からセクハラを受けたという。
同氏を告発した9人のうち、メゾソプラノ歌手のパトリシア・ウルフ氏のみが実名での報道に応じた。
ドミンゴ氏は告発の内容を否定した一方、「それでも、私が誰かを傷つけたり不快に思わせていたかもしれないと聞くのは、それがどんなに昔のことであっても心が痛い」と話した。
「私を知る人、一緒に仕事をしたことがある人なら、私が意図的に誰かを傷つけたり、攻撃したり、辱めるような人間ではないと知っている」
その上で、「こんにち、我々が測られるべきルールや基準が、過去のものとは大きく変わっていることを認識している」とも述べている。
ドミンゴ氏が芸術監督を務めるロサンゼルス・オペラは、「外部からの助言」の助けを借りて調査を行うと約束した。
Placido Domingo and his wife Marta OrnelasImage copyright EPA
Image caption
ドミンゴ氏は1962年に、ソプラノ歌手のマルタ・オルネラス氏と結婚した。
ウルフ氏は、ドミンゴ氏に体を触られたことはないが、ステージから降りるたびに自分に近付き、「きょうは家に帰らなくてはならないのか」と聞いてきたと語った。
別の女性は、ドミンゴ氏にスカートの上から触られたことがあると話した。また、無理やりキスされたという女性も3人いた。
これらの出来事は、楽屋やホテルの一室、会議の最中、ドミンゴ氏が役員など要職にある複数の歌劇場で起こったという。
被害を主張する歌手はAP通信に対して、「ビジネスランチはおかしいことではないが、ランチの最中に手を握ったり、こちらのひざに手を置いたりする人はおかしい。ドミンゴ氏はいつもどうにかして身体を触り、キスしてきた」と語った。


最初にも述べましたが、セクシャルハラスメントやパワーハラスメント等優越的な地位などを利用して利益を得ようするなど人間の風上にも置けません。
しかし、今回の件はある意味魔女狩りと同じではと感じるからスレッドとしてアップする次第です。
人間の心や感情など中世と何ら変わる事がないものと今回の件で痛感したからです。
ある一人の人に対して、あの人は魔女(男性も含み)だと指さして大騒ぎしているのです。
30年以上も前の行為にたいして、魔女だ魔女だと罵っているのです。
指さされた人がドミンゴ氏の如くの著名人でなけらば何ら意味もありません。
指さして罵った人を気違いだと思うだけです。
有名人である宿命の有名税と見過ごすことができるのでしょうか。
それとも、何年前の事であっても犯した過ちは償わねばいけないのでしょうか。
その償いは金銭的にも肉体的にも精神的にも大きな対価を払わねばならないのでしょうか。

最近、各種ハラスメントがいけない事である共通した価値観が確立した社会です。
ですから、そのことに対して異を唱える気はさらさらありませんが、有名人であるが故の有名税とすることが妥当でしょうか。
名声の失墜を希望する被害者の気持ちも分からないでもありませが、罪と罰が相関し、且つ罪に対して罰が妥当でしょうか。
有名人であるがゆえに一般人が守るべき、道徳などより厳しい規律を求められるべきなんでしょうか。

ME TOO 運動が盛んになり、数年前に世界を席巻しました。
道徳観念も時と共に変遷します。
ドンファンとして持て囃され、女たらしとしてさげすまれても、罪に問われない時代がつい最近まで存在していたのです。
東京裁判のA級戦犯ではありませんが、事後法によって遡及して過去の犯罪(犯罪か否かは今回問いませんが)を捌く事が法治国家でしょうか。
(東京裁判ではA級戦犯が事後法によって裁かれているとして、インドの判事のみ反対しました。この件は気が向けば後日)
30余年の過去の出来事を、今の世の中の価値観で裁く事の是非です。
その年数は何年かとの問題もあります。
裁判では無く社会が裁くのだからと言って何年も前でもよいでは、被害者の挙証の信憑性や反証者の異論や反論などに信頼性か欠けます。
まるで悪魔の証明の如く、あの人は魔女だと言われたら反証できず社会的被害を被るでは問題です。
例え、消極的事実の証明に関連する法律諺として、「否定する者には、立証責任はない」があ
りますが、法律としてではなく社会通念として時効の観念が存在すべきです。
(しかし、アメリカのカトリック教会での少年に対する性暴力は別問題です。未成年の人間に対するセクハラなど性的暴力は時効の無い別問題かもしれません。)

重複(ちょうふく)しますが、問題点を箇条書きしてみます。
1. 過去に社会観念で許容されていたことが時と共に許されないとなった行為についての社会的責任を問う事の妥当性。
2. 有名人には守られるべき社会的名声は有るのか無いのか。
3. 社会的名声の失墜は一方的な魔女狩りと同じ理論で良いのか。
4. 魔女だと指さされた人が、反証の証明ができるのか。(悪魔の証明)


最後に一番言いたいことは、報道機関の報道姿勢である。
 今回の件を記事にするにあたり、被害者たる一方が30余年前の出来事を社会に訴えたとき、報道機関は沢山の真実を確認して報道したのだろうか、甚だ疑問である。
両論併記すればよいでは、済まされない魔女狩りと同じである。
紙面が売れればいい、アクセスが伸びれば良いの報道姿勢では自ずと信頼を失うであろうことは目に見えている。
コメント (2)
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