週末を原村で

非日常性のユッタリした時の流れを信州は原村で。音楽を聴きながら星を眺め!最近は海外の旅の記事もアップします。

#114 -’20. 法隆寺金堂(東博 特別展「法隆寺金堂壁画と百済観音」)

2020年04月13日 15時10分52秒 | ご朱印・納経(神社仏閣)

リタイヤしたら田舎に住むことを選択する方が多くいますが、我が家は都会に住むことを選択しました。何で、東京国立博物館で開催予定だった特別展「法隆寺金堂壁画と百済観音」のスレッドでこんなことを初めに書いたのか不思議に思う方もいるかも。

それは、都会に住むことの利点として文化の香りに浸り易いのです。以前のスレッドで述べたのはこちらです。そんな文化の香りにどっぷりと浸かるつもりでおりました。今回の新型コロナウイルスのパンデミックで残念ですが、東博で特別展「法隆寺金堂壁画と百済観音」が中止になってしまいました。既に前売り券を購入していましたから、返金の手続きを受けなばなりませんが残念でなりません。今回の東博の件を含めて春の催事の中止は四件にのぼります。文化の香りに浸れない事も残念ですが、それだけ経済を疲弊させるのが気になりだした昨今です。

本題に戻り、奈良斑鳩の法隆寺の至宝の金堂~が日曜美術館で放映されました。行くことは叶いませんでしたが法隆寺の金堂壁画の焼失から復元の過程を含めて大変勉強になりました。生でも観ましたが、VTRにも撮ってあり今回のスレッドを書くために再度拝見しています。VTR画面を借用させて頂きました。

法隆寺金堂壁画と百済観音の特別展も無駄になってしまいました。

奈良の斑鳩の里の法隆寺です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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#082 -’20. 大谷祖廟をお参りして

2020年03月07日 12時55分26秒 | ご朱印・納経(神社仏閣)

大谷祖廟に参拝にお邪魔した。お邪魔したのは2月1日ですから、コロナウィルスの流行は始まっていましたが、今ほどではありませんでした。

時のたつのは速いもので、一月が過ぎ去りました。時ばかり流れていくので早くアップせねばと焦るばかりです。

真宗大谷派東本願寺のHPから引用させて頂きます。

大谷祖廟とは

真宗門徒である私たちが、宗祖として仰ぐ親鸞聖人の墓所、それが大谷祖廟です。
親鸞聖人が亡くなられて10年後、末娘の覚信尼公が廟堂を建立して、聖人の御影像を安置したのが本願寺のはじまりです。そして、聖人から本願念仏の教えを受けた多くの同朋たちは、大谷へ参って聖人の御影像を拝し、聖人のご遺骨が納められているお墓にお参りし、あらためて聖人が顕かにしてくださった本願念仏の教えを聞いていかれたのです。
その後、幾多の変遷を経て、聖人の御真影がまします真宗本廟(東本願寺)は、聞法の根本道場として、大谷祖廟は聖人の墳墓の地として相続され、現在に至っています。
真宗本廟(東本願寺)の飛び地境内である大谷祖廟には、聖人をはじめ、本願寺の歴代、全国各地の寺院・ご門徒の方々のご遺骨が納められています。苦悩を縁として、すべての人びととともに仏道を歩んでいかれた聖人のお姿を慕う多くのご門徒によって護持されてきたのが「大谷祖廟」です。

1  参道と言う言葉が正しいか分かりませんが、心休まる感じの直線の先に総門が見えます。

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3   唐破風の総門です。

4   流石に東本願寺の大谷祖廟ですから立派なものです。

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7   総門の修復の過程が書かれていました。

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12   本堂を太鼓堂側から撮影したものです。

13   本堂から南門を撮影です。

14  御廟で儀式などが執り行われている時は撮影禁止でしたが、何も執り行われておりませんでしたので、御廟を撮影させていただきました。

 

15  立派な親鸞聖人御廟を観た時、日光東照宮が脳裏に浮かびました。

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18   大谷祖廟本堂です。

 

19   親鸞聖人御廟を階段下から見上げて。

20   お参りを済ませて戻る途中の総門と右に建つ太鼓堂です。

21  この言葉があるだけで心穏やかになるから不思議です。

 

リーフレットからの追加の画像です。読めるかわかりませんが。

追加 2

 

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#080 -’20. 知恩院 大方丈・小方丈・方丈庭園 特別公開(第54回京の冬の旅)その二

2020年03月06日 12時23分30秒 | ご朱印・納経(神社仏閣)

今回一泊二日で京都に訪れた時はまだ、これほど新型コロナウイルスの影響も無く第54回京の冬の旅の特別公開が執り行われていました。罹患することもなく観たいところは総て参観出来て本当に良かったと思っています。

前回の知恩院の特別公開の続きの二として、アップします。

方丈庭園の一番奥にある二十五菩薩の庭です。

1    阿弥陀二十五菩薩来迎図 国宝
鎌倉時代 1幅 絹本著色
高くそびえ立つ山岳に沿って、観音菩薩・勢至菩薩を先頭に阿弥陀如来と諸菩薩が、念仏行者のもとに急ぎ来迎する様が描かれています。
行者の前の机には経巻が置かれ、虚空に宝楼閣や多数の化仏が描かれていることから、上品上生(じょうぼんじょうしょう)の来迎を表していることがわかります。
桜や滝をあしらった彫りの深い山水や、速度感あふれる来迎雲の表現はみごとで、速やかな来迎を願った鎌倉時代の人々の願望を物語っており、通称「早来迎(はやらいこう)」と呼ばれています。知恩院のHPより引用)

2    庭の皐月なのか刈り込まれている植木を雲に例え。

3  庭を阿弥陀二十五菩薩来迎図のキャンパスととらえ。岩を阿弥陀二十五菩薩として漂う雲を刈り込んだう植木で表現しているのです。 

4  方丈庭園の奥ですから右手の建物は小方丈(こほうじょう)です。

5  権現堂に向かいます。

2019.03.26 
権現堂の拝観を再開しました

6  権現堂惣門からはいります。

左の駒札に書かれている文字を転記します。「権現堂 ごんげんどう 正式には権現様影堂と称する。知恩院と浄土門のために外護者となって、現在の輪かんの美の基礎を築いた徳川家康、秀忠、家光三代霊をまつる廟宇である。度重なる火災によって焼失、現在の建物は、昭和四十九年浄土開宗八〇〇年を記念して再建されたものであり、お茶室は葵庵と名付けられ庭園と独自の美しさを表している。

7  多分、茶室に見えますので右ての庵は葵庵かも。

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9    葵庵の全景です。

10  権現堂です。

御影堂修復工事にあたり、長期にわたり停止しておりました権現堂の拝観を再開いたしました。拝観再開にともない、内部に安置されている徳川歴代将軍の位牌の供養が執り行われました。

権現堂
権現堂は正式には権現様影堂(ごんげんさまえいどう)と称します。浄土宗を信仰し、知恩院の大伽藍を築いた徳川家康・秀忠・家光三代の霊をまつる廟宇です。昭和31年に焼失しましたが、昭和49年浄土開宗八百年を記念して再建されました。
方丈庭園より拝観いただけます。 (知恩院HPより引用

11  檜皮葺の屋根を頂く建物は大方丈と小方丈だけだったような感じですから、葵の紋の瓦の隣は大方丈とおみうけしました。

12  目の前にありますますから、小方丈(こほうじょう)だと思いますがそれでも大きいです。

13   権現堂の有る所は少し高くなっていますので、知恩院の甍が見渡せます。

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15  方丈庭園に戻ってきました。右手の門を通り法然上人御堂に戻ります。

16  右手は大方丈です。その先の門柱は下半分は石で出来ていて、上半分は木でできている。

18   石と木で出来た門柱ですが、本来は緑青を噴いた銅板の(たが)で締まられていますが、本来は楔(くさび)か臍(ほぞ)を差し込むことによって箍は必要ない筈です。臍の木材が腐り箍で補強したものだと思います。最初に日本人のこの匠の技を観て感動したのは、お隣りさんと四国&中国地方を旅行した時のホテル、佳翠苑皆美で拝見したのが記憶に残っていたからです。

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#079 -’20. 知恩院  大方丈・小方丈・方丈庭園 特別公開(第54回京の冬の旅)(その一)

2020年03月04日 21時35分40秒 | ご朱印・納経(神社仏閣)

今回の知恩院のスレッドは平素観る事が出来ない特別公開の所です。第54回京の冬の旅として開催されている特別公開  知恩院大方丈・小方丈・方丈庭園です。知恩院に関しては既に知恩院公式HPはアップしていますので、こちらはウキペディアからです。

武家門から入り、履物を脱ぎ法然上人御堂(集会場)と進みます。ここまでは平素から立ち入る事は仏教活動の一環として可能のようです。当日も退出するときには、大勢の信徒さんが法話を聞いていました。その先の大方丈から今回の特別公開の所です。係員の方がおり説明を随所でしてくれました。特別公開の大方丈と小方丈内は撮影禁止でしたので写真はありません。次にアップした大方丈、小方丈の写真は知恩院のHPから拝借させて頂きました。

大方丈の上段の間の写真です。HPから見ることも勿論可能です。   

 

小方丈の内部です。知恩院の山号の華頂山と書かれた書の掛け軸です。     

 

 

朝一番にタクシーで知恩院へ。と、言ってもそれ程早起きした訳でもありませんが。今回の目的の京の冬の旅です。特別とか限定と付くと何故か飛びつく我が家です。特別が付かなくても京都音痴の自分ですが。

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2   武家門の前に提灯が。

3   法然上人御堂は宗教的にいつも信者さんに開放されているようです。

4  法然上人御堂を通り、特別公開の大方丈・小方丈を見学して外の方丈庭園側に靴を履いて出て来た所です。正面には唐門(勅使門)です。内側からです。平素は内側から見る事が出来ないのかもしれません。桧枝葺きのようです。

5   どこの大仏さんの足型でしょうか? 少し古すぎますが文数は?

6   多分、法然上人御堂のです。裏側になると思います。

7  方丈庭園です。

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9   その時は気が付きませんでしたが、苔が結構枯れている感じです。雨が少ないのかも。

 

10  方丈重要文化財、内部非公開  知恩院には、大方丈(おおほうじょう)と小方丈(こほうじょう)の2つの方丈があり、どちらも寛永18年(1641)の建築、洛中随一の名書院として知られています。   

 大方丈 大方丈は書院造りの形式を備え、鶴の間を中心に、上・中・下段の間、松の間、梅の間、柳の間、鷺の間、菊の間、竹の間があり、狩野派の襖絵(金碧障壁画)で飾られています。(知恩院HPから引用)

  左手は大方丈です。建物の前に大方丈内部の写真と説明文があります。その時は分かったのですが、風景の中の写真になると誤りもあるかもです。

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12  写真の順番から誤りはないようです。

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小方丈  小方丈(こほうじょう)は6室から成り、大方丈とは対照的な水墨画が描かれています。

(周囲には方丈庭園がめぐらされ、小堀遠州と縁のある僧玉淵によって造られたと伝えられる心字池や、茶室の葵庵、権現堂などが続き、春の桜、初夏の新緑、秋には池に写る紅葉、冬には雪景色や澄んだ空気の中全体がくっきりと見え、四季折々の風情を漂わせています。)

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16  正面に見える桧枝葺きの建物は小方丈です。

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20    小方丈 小方丈(こほうじょう)は6室から成り、大方丈とは対照的な水墨画が描かれています。(HPから引用ですが、再掲です。)

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22   江戸東京たてもの園の三井八郎右衛門邸でも述べた補強材でしょうか。こちらは小さいですが、同じ形式の物がありました。今回京都の仏閣内部で大きいものを沢山見ました。

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26   大方丈です。多分。

27  こちらは確実に大方丈です。

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#076 -’20. 浄土宗総本山 知恩院

2020年03月02日 11時10分02秒 | ご朱印・納経(神社仏閣)

参拝したのが、2月1日ですから既に一ヶ月が経っています。

二日目の朝一番にお邪魔したのが浄土宗総本山知恩院です。勿論、三門も国宝の御影堂もですが、特に特別公開されていた大方丈・小方丈・方丈庭園でした。特別公開の部分は追ってアップします。

知恩院のHPから ご挨拶として総本山知恩院門跡  伊藤唯眞 文章を引用させて頂きます。(なんと敬称をつけて良いのか知識がありませんので、文面の通り省略させて頂きます。)

ご挨拶

総本山知恩院では、法然上人800年大遠忌が円成した直後から、国宝御影堂の修復に着手いたしました。9年の歳月を経て、平成の大修理が完成の域に達し、令和2(2020)年の4月には国宝御影堂落慶法要が奉修されます。
これもひとえに仏祖の加護によるものであり、さらに皆さま方の絶大なるご理解ご援助の賜物であります。また国宝文化財の保存には国のご支援や京都府文化財保護課技師のご指導と諸分野の工匠達のご尽力が得られてのことであります。ここに皆様への満腔の感謝と敬意を表したく存じます。

知恩院は観光寺院ではなく、信仰のお寺です。知恩院にお参りした皆さまがお念仏の心を持ち帰り、自分と親しい間柄の人や他の人とお念仏によってより一層深く結ばれてくだされば大変ありがたいことであります。日々の生活の根幹にお念仏をおくことで、自分は一人ではなく、他人から支えられて生きているという共生(ともいき)の精神が醸成され、生活に潤いが生まれ、社会貢献へと繋がります。
わたくしどもは、この落慶法要という歴史上に刻まれる「時」と「現場」に集いあい、お念仏が家や宗派の垣根、結界を越えて、多くの人々に伝わり、個人の信仰として根付いていくことを願っています。 皆様のご参詣をぜひお待ちしております。

                      総本山知恩院門跡 伊藤唯眞

方丈内を拝観させて頂いた時、法話が行われておりました。知恩院は観光寺院ではありませんとある通り、熱心に仏教活動を行っていましたが、時間もありませんのでなるべく隅を歩き法話を傾聴する事はありませんでした。少し心苦しくもありました。

 

1   新門を通り三門前までタクシーで向かいました。車中から撮影です。

2   超巨大で立派な三門です。 華頂山です。

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4   奈良の東大寺と並び称される日本最大級の三門です。

三門国宝、内部非公開
元和7年(1621)、徳川2代将軍秀忠公の命を受け建立されました。 構造は五間三戸・二階二重門・入母屋造本瓦葺(いりもやづくりほんがわらぶき)で、高さ24メートル、横幅50メートル、屋根瓦約7万枚。その構造・規模において、わが国最大級の木造の門で、外に掲げられている「華頂山」の額の大きさは畳2畳以上です。
一般には寺院の門を称して「山門」と書くのに対し、知恩院の門は、「三門」と書きます。
これは、「空門(くうもん)」「無相門(むそうもん)」「無願門(むがんもん)」という、悟りに通ずる三つの解脱の境地を表わす門(三解脱門:さんげだつもん)を意味しています。
上層部(楼上)内部は、仏堂となっており、中央に宝冠釈迦牟尼仏像、脇壇には十六羅漢像(いずれも重要文化財)が安置され、天井や柱、壁などには迦陵頻伽(かりょうびんが)や天女、飛龍が極彩色で描かれています。
また、七不思議の一つである白木の棺があり、三門造営の命を受けた造営奉行、五味金右衛門(ごみきんえもん)夫妻の木像が安置されています。 (HPから引用)

5   三門の先に急な階段が伸びていました。(男階段です。自説)

6   横断歩道の近所でタクシーを下ろして頂きました。向かって左手が和順会館です。

7   三門を支える丸太は石の上に載っているだけです。木材は湿気に一番弱いそうで、乾燥させれば1000年でも優に持つそうです。

 

8    三門の上の楼上に上がるがる階段です。三門に掲げられている華頂山の扁額は畳二畳分の大きさだそうです。

9   三門を潜りその先の急な階段です。

10  脇の緩い階段を上りました。下って来る時に利用させて頂いたワンボックスワゴンを利用して上ることも可能です。

11   本日の目的はこちらですが、知恩院自体がすてきでしたし、心に焼き付く寺院でした。

12  女階段を上った上から和順会館方向を振り返り。右の木立の中の屋根が三門です。

13   三門上の急な階段からの三門です。

14   多宝塔ですが、歴史的に浅いこともあり特段説明されておりませんでした。

15   多宝塔です。

16   多宝塔、御朱印処&手水舎、阿弥陀堂です。

 

17   国宝の御影堂です。

御影堂  国宝  修理中
元祖法然上人の御影(みえい)を祀ることから、「御影堂(みえいどう)」と呼ばれ、俗に「大殿」とも呼ばれます。
現在の御影堂は寛永16年(1639)に徳川3代将軍家光公によって建てられ、間口45メートル、奥行き35メートル 幅3メートルの外縁をめぐらし、その壮大な伽藍は、お念仏の根本道場として、多くの参拝者を受け入れてきました。毎年4月に行われる法然上人の御忌大会(ぎょきだいえ)、12月の御身拭式(おみぬぐいしき)などでは、堂内にお念仏の声が響き渡ります。 (HPから引用)

18   修復作業を行っていた 国宝 御影堂 です。 

19   お線香を手向ける先に御影堂です。

20   御影堂の左手にある阿弥陀堂です。

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22  多分、宝佛殿です。この左手奥に大鐘楼が隠れる感じで位置しています。

23   この位置に正面の三門前の階段(言ってい見れば、急な男坂、脇の緩やかな階段の女坂)以外に大型のワンボックスカーで和順会館前との無料送迎を行ってくれています。観光より生きた仏教を感じる計らいでした。昇りは利用しませんでしたが、下りは利用させて頂きました。コーンポストが並んでいる先が横からみた宝佛殿です。

24   一人では鐘を突く事は出来ない、大鐘楼の鐘です。ゆく年くる年でも放映される大鐘楼です。タクシーを降りる時に大鐘楼も見て行って下さいとのことでした。意識して向かわないと目に飛び込んで来ない位置にあります。

大鐘楼  重要文化財 

鐘楼は延宝6年(1678)、知恩院第38世玄誉万無上人のときに造営されたものです。
釣鐘は高さ3.3メートル、直径2.8メートル、重さ約70トン。寛永13年(1636)、知恩院第32世雄誉霊巌上人の鋳造です。知恩院の釣鐘は、京都方広寺、奈良東大寺と並ぶ大鐘として知られています。
この大鐘が鳴らされるのは法然上人の御忌大会(4月)と大晦日の除夜の鐘だけですが、とりわけ除夜の鐘は親綱1人・子綱16人の17人で撞き、京都の冬の風物詩となっています(HPから引用です。)

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26   池の先にあるのが納骨堂です。その裏手がわに大鐘楼があります。

27   右手は御影堂で左手が阿弥陀堂です。それを繋ぐ渡り廊下です。それを潜って武家門へ向かいます。

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29   こちらの新玄関の中の建物で若い女性が合唱していました。そのご黒いツーピース姿の大学生と思しき集団と一緒に円山公園に向かいました。

30   門をくぐりこの先の大方丈、小方丈そして方丈庭園を拝観させていただきました。撮影禁止が殆どですが、方丈庭園は可でしたので庭園を中心にアップさせて頂きます。

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#049 -’20. 京都・紫野 大本山 大徳寺(龍宝山大徳寺)

2020年02月11日 21時56分38秒 | ご朱印・納経(神社仏閣)

臨黄ネットから引用させて頂きます。

臨済宗大徳寺派の大本山で龍寶山と号する。
鎌倉時代末期の正和4年(1315)に大燈国師宗峰妙超禅師が開創。室町時代には応仁の乱で荒廃したが、一休和尚が復興。桃山時代には豊臣秀吉が織田信長の葬儀を営み、信長の菩提を弔うために総見院を建立、併せて寺領を寄進、それを契機に戦国武将の塔頭建立が相次ぎ隆盛を極めた。
勅使門から山門、仏殿、法堂(いずれも重文)、方丈(国宝)と南北に並び、その他いわゆる七堂伽藍が完備する。山門は、二階部分が、千利休居士によって増築され、金毛閣と称し、利休居士の像を安置したことから秀吉の怒りをかい利休居士自決の原因となった話は有名。本坊の方丈庭園(特別名勝・史跡)は江戸時代初期を代表する枯山水。方丈の正面に聚楽第から移築した唐門(国宝)がある。方丈内の襖絵八十余面(重文)はすべて狩野探幽筆である。什宝には牧谿筆観音猿鶴図(国宝)、絹本着色大燈国師頂相(国宝)他墨跡多数が残されている。(10月第二日曜日公開)現在境内には、別院2ヶ寺、塔頭22ヶ寺が甍を連ね、それぞれに貴重な、建築、庭園、美術工芸品が多数残されている。

こちらは、ウキペディアからの大徳寺の解説を引用させて頂きます。

大徳寺(だいとくじ、旧字体:大德寺)は、京都府京都市北区紫野大徳寺町にある寺院で、臨済宗大徳寺派の大本山である。山号は龍宝山(りゅうほうざん)。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は大燈国師宗峰妙超で、正中2年(1325年)に正式に創立されている。

京都でも有数の規模を有する禅宗寺院で、境内には仏殿法堂(はっとう)をはじめとする中心伽藍のほか、20か寺を超える塔頭が立ち並び、近世寺院の雰囲気を残している。大徳寺は多くの名僧を輩出し、茶の湯文化とも縁が深く、日本の文化に多大な影響を与え続けてきた寺院である。本坊および塔頭寺院には、建造物・庭園障壁画茶道具中国伝来の書画など、多くの文化財を残している。なお、大徳寺本坊は一般には非公開であり、塔頭も非公開のところが多い。

 

1  京都駅から路線バスで霊鑑寺に行く途中では雨が降り出しました。下りた時は、全く傘を必要とすることも無くなり晴れてきました。霊鑑寺からタクシーに乗りこちらの大徳寺総門前の駐車場に着きました。松の木立の先が総門です。

2  六月に来た時にタクシーの運転手さんに教ええて頂いた、寺院の壁の五本線です。皇室に所縁ある格式の高い寺社にしか許されていない五本線です。

3   ウキペディアで記載されていた通り本来は非公開の『なお、大徳寺本坊は一般には非公開であり、』と有りましたが、今回は特別拝観できました。法堂・方丈・唐門(本坊)に向かいます。

 

4  雨が降り出してきました。ホテルに置いてきてしまったし、買えば良いと思ってもタクシーでコンビニを素通りしてきましたので、寒い中での雨でした。タクシーを降りて総門前で撮影したものです。大徳寺境内で特別公開されているところが分かりやすく赤く表示されていました。特別公開で入る事また、観る事はできましたが写真に撮ることはできませんでした。

大徳寺で頂いた資料から引用させて頂きます。引用は青字です。

  1.  方丈(本坊) 【方丈】国宝 三門・仏殿・法堂などの伽藍が中国風なのに対し、方丈は一山住持の修行生活の場となっているが、大徳寺の方丈は特別に大燈国師の塔所雲門庵を中心とする。京都の豪商後藤益勝の寄進により再建。襖絵八十四面は狩野探幽斎筆で重要文化財。また方丈前庭は天祐和尚、東庭は小堀遠州の作庭で、特別名勝庭園である。    方丈を係の方に説明頂き方丈前庭も東庭も拝見することができました。撮影できなかったのが少しざんねんですが。
  2.  唐門  【唐門】国宝 方丈前庭にあるのが唐門。村上周防守が聚楽第の遺構を譲り受け、明治になって明智門があった今の場所に移築された。この唐門は彫刻や金具の豪華さ、豊富さに特徴があり、日光東照宮の日暮門の模型となっている。                  方丈の前庭からと外から通る事はできませんでしたが、内と外と二方面から眺めることが出来ました。
  3.  法堂  【法堂と天井龍】重要文化財 開山大燈国師三百年遠諱〈注、おんき、又はえんきと読み、50年忌や100年忌など長い事を意味する。ここでは300年忌)の際、江月和尚の勧化により小田原城主稲葉正勝・正則父子の寄進によって再建された法堂は、当時の唐様の遺構として貴重な建物である。天井には狩野探幽斎筆による龍が踊る。  因みに、法堂に入り係の方に説明を受けて天井の龍の下で柏手を打ち、泣き龍を堪能しました。画像はありません。

   

5  総門を通り、大徳寺境内に入ってきました。正確には哲学の道を歩いた訳ではありませんが、境内は実に落ち着き観光客も殆どいなかった雰囲気が何とも言えず瞑想の世界に入るが如くの気持ちになりました。大変気に入りました。

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8   平康頼之墓です。違和感を覚える程の変わった所にポツンと鎮座しています。墓地と言う訳でもありません。勅使門左手に残された如くに感じます。「平康頼之塔」と刻まれた石標がたっています。分かっていて撮影したものではありませんでした。通路の脇に佇んでいる雰囲気でした

9   心落ち着く空気が漂っていました。

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11   天皇陛下の行幸や、そのお使いの方が通る時に開き使用する勅使門です。唐破風の荘厳な門です。勿論、この門を潜ることなどかないませんが。

勅使門(重要文化財)
 山門前にある、前後唐破風、左右切妻、屋根桧皮葺の四脚門、後水尾天皇より拝領したと伝えられる。 
平成12年、屋根等修復。以上は臨黄ネットからの引用です。

 

12  こちらの三門が千利休と豊臣秀吉公との因縁の元になったと家内に説明してもらいました。直接上がるとか潜るとかはできませんが、脇から見ることができました。大徳寺で頂いた資料からの引用です。

【三門(三門)】重要文化財  金毛閣と呼ばれるこの三門は、大徳寺最古の建造物の一つ。応仁の乱で焼失後、大徳寺中興の祖一休禅師の参徒で連歌師宗長の寄進により一階を創建、六十年後千利休によって、現在の二階二層門となった。楼上は広い一室で、釈迦如来坐像や利休寄進による羅漢像が安置されている。天上龍は長谷川等伯筆。この楼上に利休木像を置いたことから秀吉の逆鱗に触れ、利休切腹の因といわれている。

法堂・方丈・唐門(本坊)の写真がありませんが、HPから方丈・唐門など引用できれば、続きをアップします。取り敢えず外部から撮影できたこちらまで。

 

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#043 -’20. 谷の御所 霊鑑寺門跡

2020年02月07日 10時10分01秒 | ご朱印・納経(神社仏閣)

都ホテルで荷物を預けて、最初に訪問した霊鑑寺です。京都駅烏丸口バス停から路線バスに乗って向かいました。行き方:我が家が利用したのは京都駅より市バス5系統「真如堂前」下車して徒歩7分とのことでした。しかし、分かり難くて地元の方に尋ねてしまいました。グーグルマップを利用しての状態ですから、白川通から曲がる道など分かり難いかもしれません。

京都の左京区にある霊鑑寺は、尼門跡寺院です。寺院自体が皇室とつながりがあり、格調高い寺院といえます。特別公開で1年に2度だけ拝観できます。Travel Star からの引用です。

1  春のとくべつ霊鑑寺で頂いたパンフレットです。      

 

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3   特別公開の霊鑑寺に到着しました。

  

 

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5  年に春と秋の二度ほどの公開の上に今回は36年ぶりの特別の公開もありました。  

 

6  納経もせず、読経もせずですから、基本京都の仏閣では御朱印を頂いておりませんが、こちらでは特別に頂きました。奥の女性の方がいる所で頂きました。  

 

7  椿で有名な別名椿寺です。こちらが表玄関ですが屏風など内部は、撮影禁止なので内部が写らぬように撮りました。   

 

8  少し未だ早く蕾の椿もありました。  

 

9  多分、ボランティアのご婦人だと思いますが、色々と説明していただきました。こちらの霊鑑寺にとどまらず、特別公開している寺社では若い学生さんから、同世代の方まで色々お世話になりました。   

 

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12   苔の上、早咲きの白侘助が落ちています。

 

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15  霊鑑寺のご本尊は如意輪観音像ですが、撮影することはできません。目視で拝むだけなので、手前にご本尊の写真を飾ってくれてありました。   

 

16   ご本尊の如意輪観音像が祀られている本堂です。室内は撮影禁止なので屋根を撮りました。

   

 

17   見事なヤブコウジです。

 

18   木にかかた札には紺八重侘助とかかれていました。  

 

 

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25   右手が奥書院で左手が本堂につながる階段です。

 

26  京都観光オフィシャルNavi  のHPから借用です。 

 

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今日のお出かけは港区の大使館巡りので、広尾の大使館です。前を通りかかっただけの在日ノールウェー王国大使館です。

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#025 -’20. 烏森神社へお邪魔して

2020年01月21日 17時34分27秒 | ご朱印・納経(神社仏閣)

御朱印を頂きに烏森神社にお邪魔してきました。

昔の貨物の駅だった汐留から歩きますと、結構ありました。本来ならカレッタ汐留でランチを頂く前にこちらで御朱印を頂いてからと思っていました。甘い甘い考えでした。

京都は名刹が多いですが、歴史が浅いこともありますが、それでも東京も神社仏閣が沢山有るのに驚きです。それも、都心部には沢山、軒を連ねております。

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8  我が家が頂いた御朱印もこちらの節分祭特別御朱印です。なので、一枚ものです。

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11  色々拝受してきました。

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#0161 -’19. たこ薬師 成就院 をお詣りして。

2019年10月06日 16時17分15秒 | ご朱印・納経(神社仏閣)

瀧泉寺(聖観世音菩薩)で結願の御朱印を頂き、丁度お昼少し前に完了した。食するのは私のみですが、名物の鰻を頂に八つ目や にしむらでに伺った。でも、どなたも考える事は同じようで、参拝していた男性の集団などが既に並んでいました。順番が来るまで家内は一緒に並んでくれると言いますが、食べないのに並ばせるのもなんですので、次の場所に行く事にしました。

次に向かったのもすぐご近所のたこ薬師こと成就院さんで、家内に案内してもらいお邪魔しました。

HPから由来(開山慈覚大師)を引用させて頂きます。

天台宗の宗祖、比叡山開山伝教大師最澄の高弟、慈覚大師円仁は栃木県壬生町生まれ、幼くして伝教大師をしたって比叡山に登り、学問修行に励まれました。承和5年(832)唐に渡り、同14年帰国されるまでいろいろと苦学して、唐各地をまわり、たくさんの仏法を伝えて帰国されました(この時の旅行記が有名な「入唐求法巡礼行記」です。この本は先年、米国の元駐日大使ライシャワー氏が研究し、英訳出版されました。)大師は若いときから眼病を患い、40歳のとき、自ら薬師さまの小像を刻み、御入唐の時もこれを肌身につけて行かれましたが、お帰りの海路、波風が荒れましたので、その御持仏を海神に献じて、危急をのがれ、無事に筑紫の港に帰り着かれました。その後大師、諸国巡化のみぎり、肥前の松浦に行かれますと海上に光明を放ち、さきに海神にささげられたお薬師さまのお像が、蛸にのって浮かんでおられました。大師は随喜の涙にむせび給い、その後東国をめぐり天安2年(858)目黒の地に来られました時、諸病平癒のためとて、さきに松浦にて拝み奉った尊容をそのままに模して、一刀三礼、霊木にきざみ、護持の小像をその胎内に秘仏として納め、蛸薬師如来とたたえまつられました。かくして本尊の殊勝の12大願による福徳威力、信心の人は、心願ことごとく成就し、除災長寿の利益あまねく千年のいまに至るまで、弘く信仰されてきました。

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 山門を入り境内へ。

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 ありがたや福をすいよせるたこ薬師さまです。 

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お静地蔵尊由来もHPから引用させて頂きます。

この石仏像は、徳川二代将軍秀忠公の側室 お静の方の発願で奉納されたものです。お静は江戸城大奥にあがり将軍の寵愛を受け「お腹さま」となることを願い、三体の観音像を納め奉り、その素願かない慶長16年(1611)に男子「幸松麿」が授かります。その後、秀忠公正室、浅井崇源院の威勢をを畏れながらもその恙ないご成育を祈り3体の地蔵を刻み納められます。そして再び願いが叶い、また家康公の側室見性院殿(武田信玄公の娘)の庇護もあり、保科正光公の養子となり、元服後、保科正之公となります。  元和年間、三代将軍家光公は、目黒で鷹狩のみちすがら、当山に参拝され、瞬興和尚(中興第15世)とのご法談の折、正之公との浅からぬ縁を知り、それにより寛永8年、正之公は信州高遠城主となります。お静は、大願成就の御礼として、阿弥陀如来像を納め奉りました。  正之公は後に山形城主、さらに正保元年会津藩二十三万石の城主となり、会津松平家の祖なります。また家光公の命により四代将軍家綱公の後見人として、幕政に力を注ぎ、善政を施されました。  お静地蔵はその由来により、古くから縁結び・子宝・子育て・出世・福徳・開運を願う人々の信仰を集めてこられました。 

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 葵の御紋が燦然と輝いています。

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提灯には葵の御紋と蛸薬師と書かれています。

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#0151 -’19. 本日、結願しました。(泰叡山護國院 瀧泉寺 通称:目黒不動尊)

2019年09月27日 20時47分28秒 | ご朱印・納経(神社仏閣)
昭和新撰江戸三十三観音札所の三十三観音の泰叡山護國院 瀧泉寺へは二度目の訪問になります。
一番の浅草寺から始まり、番外の海雲寺を含めて三十四ヵ寺の巡礼が本日結願しました。

前回の坂東三十三観音札所の結願寺である補陀洛山 那古寺・那古観音で読経し結願の御朱印(納経)を頂いた時は感動を覚えました。
本日参拝を済ませて結願の印を頂き御朱印を頂いた時はそれ程感動することもありませんでした。
嬉しさ、喜びはその苦労に反比例するのかもしれません。
公共交通機関を利用しての巡礼でした。
でも、でも、帰宅してから嬉しさが増してきたのも事実です。

平成そして新たな元号になった令和の本日結願しました。
発願時の江戸三十三観音の一番の浅草寺で買い求めた納経帳です。



右側のページが本日頂いた結願(けちばん)のお寺の瀧泉寺で、左は番外のお寺の海雲寺で頂いたご朱印です。


結願成就の印と目黒(不動)と記載されていました。


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#0142 -’19. 江戸三十三観音霊場の八番と三十二番のお参り

2019年09月19日 17時15分21秒 | ご朱印・納経(神社仏閣)
後は、三十三番の瀧泉寺の聖観世音菩薩様で結願です。
今日は、向丘の第八番清林寺さんと下馬の第三十二番観音寺さまです。
昼食を頂いて午後から出発しましたから、第八番の清林寺だけでもお参りできれば良いと思っていました。
と、言うのも向丘の清林寺さんにお伺いするのは三度目です。
二度程は、記帳する住職さんが不在で頂けませんでした。
今回は、お電話してから伺いました。
写真は手水舎ではありません。
観世音様の前に沸いている所に青空が写っていましたので一枚。
秋ですね。

所で、江戸三十三観音霊場巡りを始めたのは坂東が結願してからです。
一番の浅草寺にお邪魔したのがちょうど一年前の平成30年の10月18日でした。
クシクモ足掛け一年の歳月を費やしました。
スランプラリーの如く、一日5件も6件も7件も回ればすぐに頂けます。
でも、一軒一軒読経し心を込めてお詣りしてきました。
長いようで短い一年でした。
長い時を掛けて回れたのも、自宅から近いからこそ出来たと思っています。
遠い、地などでは一日にそれこそ回れるだけ廻りますから日数的には早いかもしれません。


社務所の中にしきみもありましたので、観音様の前に一対程備えさせて頂きました。


白山から地下鉄に乗って、目黒駅に向かいました。




世田谷・下馬の観音寺の聖観世音菩薩様です。
御朱印を書いて貰う社務所で長話になってしまいました。
二~三十分は話し込んで仕舞いました。
為になるお話しを沢山お聴きする事が出来ました。
こぼれんばかりのお話を頂きました。
書き留めてきませんでしたので、私の頭脳から即ほとばしり出て忘却の彼方に旅立ってしまう知識が残念でなりません。


目黒駅から野沢循環バスに乗って観音寺(別名、世田谷観音)にお邪魔しました。
帰りは、どちらも循環バスですが早く来たので渋谷に戻りました。

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#0044 -’19. 昭和新撰江戸三十三観音 第14番神霊山慈眼寺金乗院

2019年06月18日 21時37分24秒 | ご朱印・納経(神社仏閣)
昭和新撰江戸三十三観音は番外の海雲寺を含めて三十四カ寺です。
残すはあと三カ寺になりました。
一日にスタンプラリーの如く多くを回る事を止めて、ご近所などの都内の名所旧跡などを歩くのもいい機会と思い日にちが掛かってしまったいます。
今回の神霊山慈眼寺金乗院は別名目白不動とも称さらています。



頂いた資料には 真言宗豊山派 目白不動 東豊山 新長谷寺 金乗院 と記されておりました。

















丸橋忠弥の墓がありましたが名前は知っていましたが、どんな人物か思い浮かばすお参りすることも無くこちらを後にしました。
ウキペディアから丸橋忠弥の生涯を引用させていただきます。
出自に関しては諸説あり、長宗我部盛親の側室の子として生まれ、母の姓である丸橋を名乗ったとする説、上野国出身とする説(『望遠雑録』)、出羽国出身とする説など定かではない。なお、河竹黙阿弥の歌舞伎『樟紀流花見幕張』(慶安太平記)では、本名は「長宗我部盛澄」(ちょうそかべ もりずみ)と設定されている。
友人の世話で、江戸・御茶ノ水に宝蔵院流槍術の道場を開く。その後、由井正雪と出会い、その片腕として正雪の幕府転覆計画に加担する。しかし、一味に加わっていた奥村八左衛門が密告したため幕府に計画が露見。そのため捕縛され、磔にされて処刑された。
辞世の歌は「雲水の ゆくへも西の そらなれや 願ふかひある 道しるべせよ」。墓所は、東京都豊島区高田の金乗院、品川区妙蓮寺。
一説に新選組隊士で御陵衛士でもある篠原泰之進は、忠弥の血筋だという。

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#0038 -’19. 昭和新撰江戸三十三観音 第18番金鶏山海繁寺真成院

2019年06月15日 15時22分13秒 | ご朱印・納経(神社仏閣)
昭和新撰江戸三十三観音巡りの巡礼も後残すところ数カ寺になって来た。
今回金鶏山真成院にお参りしたのは6月11日の火曜日です。
この日も午後からノンビリ出かけ午後4時過ぎに御朱印を頂きました。



地上の国道20号街道は都心から半蔵門~四谷駅前を通り帰宅する時の良く利用する道です。
地階は地下で丸の内線でも大変お世話になっております。
それでも、四谷三丁で降りる事はあっても近辺を歩くことは全くありませんでした。
こんなにも急坂が多くある街とは認識していませんでした。
ご近所には寺院も多くあり、外堀の内側の大名屋敷などの武家屋敷とその外に連なる町人の巻きであり、お寺が多いことに気が付きました。
黒猫ヤマトの宅配の方とすれ違いまいたが昔で言うところの車を利用していませんでした。
道は狭いですし、急坂なので電動のリアカーなどでした。
四谷の大木戸の近くの筈ですから、江戸のある意味で入り口に近いかもです。

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四谷三丁目の交差点です。
四谷消防署と新宿よりに消防博物館が併設されています。
一度だけ入った事がありますが、ベルのヘリコプターがあったような記憶しかありません。
小さなお子様には喜ばれるかもです。
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金鶏山真成院のHPから引用させて頂きます。

江戸三十三観音 十八番観音 ―潮干十一面観音―
当寺院が江戸三十三観音第十八番札所に数えられる所以である十一面観音は、「潮干観音」と呼ばれています。往昔、真成院の近辺は海が近かったため、観音様の台石が潮の干満によって常に濡れていたというのが、その名の由来です。
潮干観音は元々、戦国時代の武将・村上義清の守護観音でした。信濃の豪族だった義清は、信濃攻略を進める武田信玄を一度は撃退したものの、その後に敗れ、越後の上杉謙信元へ蟄居。義清没後、孫の村上兵部道楽斎は、上杉家に従って大阪夏の陣に出陣。江戸に入った際、身を隠す必要に迫られ、当寺院が匿いました。 その返礼として家宝の観音像を納めたいとの意を受けて勧請したのが当寺院との御縁です。以後四百年にわたって人々の篤い信仰に支えられてきました。
現在は正月、五月、九月、 正午より観音会が厳修されます。観音経を読経し、法話を聞きます。 なお、当寺院では、十一面観音の化身とされる歓喜天も祀っています。

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観音様の前には納札入れも有り、納め札を入れてご真言も書かれていましたので三べん程ご真言を唱えさせえて頂きました。
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般若心経外のお経をあげてから再度受付に戻り御朱印帳を受け取り帰路につきました。

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#0034 -’19. 昭和新撰江戸三十三観音 第22番補陀山大本山永平寺別院長谷寺(ちょうこくじ)

2019年06月06日 08時11分16秒 | ご朱印・納経(神社仏閣)
この日の目的ちの二つ目、根津美術館の後に訪問しました。
曹洞宗大本山永平寺東京別院 長谷寺(麻布大観音)です。

目的は昭和新撰江戸三十三観音巡り第22番長谷寺の訪問です。
観音様は麻布大観音(十一面観世音菩薩)さまです。
ご真言が「オン ロケイジンバラ キリク」「オン マカ キャロニキャ ソワカ」のどちらなのか分かりませんでした。
少し知識不足なのが残念でした。

こちらは六本木通りから曲がる所にかかっていた看板です。
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立派な大本山永平寺別院長谷寺(ちょうこくじ)が見えてきました。
一度だけ東尋坊と永平寺の訪れたことがあった。
寺院によって自然と自己の中で格付けしているみたいで、永平寺と言うと背筋がピンと伸びる感じがしてしまう。
他の寺院がそんなことが無いと言う訳ではないが、高野山も永平寺もまたお邪魔してみたいものだ。
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スマホの悲しい所です、直射日光が画面にあたると被写体の状況が分からずにシャッターを押している。
大本山の上部が消えている。
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山門の右に架かる大本山永平寺別院の看板と左に架かる長谷寺専門僧堂と架かる修行の場である事を示す看板。
その時は意識もせずに撮影しましたが、若い修行僧が勉学に励む所である事を今になり感じる次第です。

HPから引用させて頂きます。
専門僧堂としての歴史
長谷寺は昭和43年に曹洞宗宗務庁より認可を受け、修行僧の教育機関として大本山永平寺別院長谷寺専門僧堂となりました。以来、春と秋には仏道を志す者が修行にやって来ます。現在は約30名の修行僧と、その指導役10名の計40名の僧侶が寝食を共にし日夜修行に励んでいます。

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一般の寺院の本堂にあたる法堂(はっとう)です。
家内と共にお参りする時に、托鉢を終えた修行すが法堂に戻ってきたところでした。
指導僧にお参りの方の邪魔にならないようにするべく指示をうけておりました。
その配慮には反対に修行僧の邪魔にならないようにこちらが恐縮してしまいました。
修行僧は撮影したいでくださいとの注意書きがありましたので写真はありません。
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#0022 -’19. 昭和新撰江戸三十三観音巡礼

2019年05月25日 09時17分29秒 | ご朱印・納経(神社仏閣)
昭和新撰江戸三十三観音巡りに行ってきました。
今回は中野区と杉並区です。
その道ずがらです。

直ぐ近くの立正佼成会の立派な大聖堂が見えましたが、今回は昭和新撰江戸三十三観音様の巡礼ですから脇からスマホで写真だけ撮って第19番 東円寺に向かいました。


東円寺で聖観世音菩薩様にお参りしました。


神田川を越えて第17番 宝福寺の如意輪観世音菩薩に向かいました。




この日のランチは久々に和幸でランチを頂きました。


生ビールはすぐに来ましたが、とんかつは写真を撮る前に食べ終わってしまいました。
で、お店の飾りを一枚。
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