週末を原村で

非日常性のユッタリした時の流れを信州は原村で。音楽を聴きながら星を眺め!最近は海外の旅の記事もアップします。

#078 -’24. 加賀之国金沢鎮座(尾山神社)に詣でて

2024年04月12日 21時15分21秒 | ご朱印・納経(神社仏閣)

家内はシッカリ知っていましたが、自分は全く尾山神社がどんなに素晴らしい所が知りませんでした。向かう道すがら教えてもらいました。

視界の正面の一本道の先に加賀之国金沢鎮座(尾山神社)の神門が見えた来ました。神門たる名前も、ステンドグラスがある事も日本で一番最初に避雷針が取り付けられたことも、だれが祀られているか教えてもらいました。

それでは尾山神社のHPから引用させて頂いた歴史などをご覧下さい。

尾山神社の歴史

慶長4年(1599)閏3月3日、利家公が薨去します。その後、二代利長公は、利家公を仰ぎ神として祀ろうとしました。しかし、当時、前田家は、なんといっても外様大名の立場です。徳川幕府の許可なくして、勝手なことはできません。利長公とて、徳川幕府をはばかり、公然と神社創建に踏み切ることができませんでした。そこで利長公は、守護神としていた物部八幡宮ならびに榊葉神明宮を遷座する名目で、卯辰山麓に社殿を建立し、利家公の神霊を合祀しました。これが、卯辰八幡宮です。むろん藩あげて、厚く祭儀を執り行い、尊崇しました。ちなみに、物部八幡宮は、もと東海老坂村の鎮座です。利長公が、越中国の守山城におられたとき、守護神としていました。榊葉神明宮は、もと越中国阿尾の鎮座です。

加賀藩祖前田利家公と正室お松の方を祀る

さて、廃藩置県後、旧加賀藩士等は祭祀を継続し、利家公の功績を不朽に伝えんと、明治6年旧金谷御殿の跡地である現在の社地に社殿を新築しました。尾山神社と称して、郷社に列せられます。翌明治7年には県社に昇格、そののち明治35年には別格官幣社に列せられました。また、平成10年には正室であるお松の方も合祀されました。

廃藩後、旧藩士たちは禄を離れて、必ずしもその生活は楽ではなかったはずです。

それにしては、素晴らしい雄大な社殿を造営したものと感嘆いたします。これもひとえに、利家公の神威の然らしめるところ、前田家三百年の仁政があればこそです。利家公を敬慕し、仁政に浴した士民が、こぞって忠誠と感謝のまごころを捧げてきた結果でしょう。

戦後は神社社格制度が廃止され、現在は神社本庁の別表神社になっています。今では金沢市の総社的神社として崇敬されるにいたり、市民の心の故郷として親しまれています。

1 貴重な文化財を後世に守り伝えるために神門保持奉賛金をお願いしています。とのことで、御朱印を頂く直ぐ脇の窓口(社務所)で奉賛金を二口収めさせて頂きました。

由緒記神門の切り絵の絵葉書とそれを取り巻く 重要文化財 神門 保持奉賛記念 の帯封です。

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尾山神社由緒記

御祭神 加賀百万石藩祖 前田利家公・正室松子命

利家公の生涯はほとんど戦国兵乱の間にあけくれ、幾多の武勲をたて功名高く、(以下省略)

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4     神門です。

5 神門の一番上に避雷針が建ちそのすぐ下の三階部分の部屋のガラス窓はステンドグラスです。和漢洋の三様式を混用した異色の門です。

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8    拝殿です。

9    利家公像です。

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11 お松の方のレリーフです。

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20    本殿を横から  、玉垣はレンガ造りです。

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27    金谷神社です。 二代藩主前田利長公をはじめ三代から十七代までの藩主、当主と正室(夫人)をお祀りしています。

28    神苑です。旧金谷御殿の庭園で、古代舞学の楽器を模した地泉回遊式の庭園です。

29    箏を模した箏橋です。

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#042 -’24. 建仁寺境内から摩利支天に向かう道すがら

2024年03月13日 21時25分42秒 | ご朱印・納経(神社仏閣)

次に向かうのは建仁寺の塔頭の禅居庵(摩利支天)として小笠原貞宗が開いた臨済宗建仁寺派の塔頭寺院です。

「日本三大摩利支天」の一つとして数えられています。

正伝永源院から建仁寺の境内を抜けて摩利支天に向かう道中です。

建仁寺の北側(花見小路を通り北門から勅使門脇から抜けました。)から南に抜ける直前にアオサギが舞い降りて来て、少しすると近づきすぎて撮影した為か舞い上がりました。

1 臨済宗大本山建仁寺の北門から境内に入ります。

本来は南側から入り北に昇り詰めるのが勅使の通路ですが。勅使門 ⇒ 三門 

⇒ 法堂(双龍頭)⇒ 方丈 と並ぶ形式の名称は? 

2 確か鐘楼だったと思います。

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4 両足院の特別展示も気になりましたが、東京に帰る日なので今回はパスしました。

5  風神雷神図屏風が飾られている方丈の入口は今回は入りません。

6 方丈の入口から入り法堂に来ると天井に書かれた双龍頭を拝むことができます。二年前の夜間の特別拝観にもお邪魔したした。

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8 正伝永源院の後のお邪魔するのはこちらの 開運勝利 摩利支天こと建仁寺塔頭の禅居庵です。

9 赤く染まった紅葉が良く見えました。

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15 三門から法堂を見通しています。

16 大変立派な三門です。次は引用です。

寺院の門のこと。三解脱門の略という。三解脱門とは悟りの境地に至るための空・無相・無願の三つの解脱門(迷いから解放されようとする者が通らなければならない門)のことで、これを寺院の門に擬した。

寺院内苑を涅槃の境として、仏道修行によって涅槃に入ることを意味したものである。

往古は南を正面とし、東西の二方にも門を開いて三門を設けた。

空門・無相門・無作門の三解脱門。

 江戸時代末期の建築物といわれ、静岡県浜松市の安寧寺から1923年(大正12年)に移築されたもの。

 「望闕楼」(ぼうげつろう)とも呼ばれ「御所を望む楼閣」という意味があるという。

 楼上には釈迦如来、迦葉・阿難両尊者と十六羅漢が安置されている。

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24 三門と勅使門の間にある放生池周辺です。

25 振り返り見る三門です。

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27 放生池の脇にアオサギがいました。

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29 糸で吊るされているが如きの影像です。

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#040 -’24. 祇園に佇む禅の庭・正伝永源院を訪れて (その二)

2024年03月12日 16時15分15秒 | ご朱印・納経(神社仏閣)

#036 -’24. 祇園に佇む禅の庭・正伝永源院を訪れて  (その一)の続きです。

1 正伝永源院の秋の特別公開時に戴いた拝観券です。拝観券に使用されている障壁画(襖絵)は、絵師 狩野山楽の手に成るものです。

絵師 狩野山楽

京狩野初代・狩野山楽(1559~1635)は。近江出身です。父は浅井長政の家臣で、浅井氏滅亡後は豊臣秀吉に仕えました。その秀吉の推挙により山楽は、十六歳頃に狩野永徳の門人になったと伝えられています。(パンフレットより引用で以下省略。)

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3 一番右下にある「細川家と永源庵」の解説の一部を引用します。

1372年、永源庵はここで建仁寺塔頭に列し、以後細川家の庇護は明治まで続き、・・・・。平成25年3月に第79代内閣総理大臣 細川護熙氏揮毫による襖絵24面が奉納されました。

4 こちらのお部屋で正伝永源院の縁起など、お話を聞きました。

5 平成8年に国宝の如庵と瓜二つ名席が完成しました。

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24  右から「正傳院」と「永源庵」の扁額が並び歴史を感じさせます。

25 如庵の全景を観ることができます。

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#036 -’24. 祇園に佇む禅の庭・正伝永源院を訪れて (その一)

2024年03月09日 15時50分02秒 | ご朱印・納経(神社仏閣)

臨済宗大本山建仁寺 塔頭 秋の特別公開に正伝永源院へおじゃまして。20240309155002

正伝永源院と言えば織田有楽斎と細川家ゆかりのお寺です。過去に永青文庫にお邪魔した時のスレッドはこちらです。

由来

(以下、青字は正伝永源院のHPから引用させて頂いた物です。)

当院は、元々『正伝院』と『永源庵』の統合から生まれ、いずれも臨済宗大本山建仁寺の塔頭でした。明治時代には廃仏毀釈政策が行われ、その影響で仏教排斥運動が起こり、建仁寺領も四分の一に縮小されました。
当時、永源庵は不運にも無住であり、即座に廃寺となりました。しかし、永源庵が建仁寺の真北に位置していたため、堂宇の取り壊しを免れ、代わりに本山の北東に位置していた正伝院がその地に移りました。この時、寺名も「正伝院」と改められました。これが明治六年の出来事ですが、詳細な経緯についての資料は、当院や本山には残っておらず、かえって当時の動乱の激しさを物語っています。

断片的な資料から見ると、「永源庵」は細川家の始祖である細川頼有およびその後の八代にわたる菩提寺であり、多くの菩提寺の中でも最も重要な寺でした。廃仏毀釈の影響で一時的に霊牌などを引き取り、関係を整理しましたが、細川侯爵は「永源」の名前を残すことを望み、「正伝永源院」として寺名が変更されました。

歴史

鎌倉時代中期、文永年間(1264-1275)、大覚禅師の法嗣である中国僧義翁紹仁勅謚普覚禅師によって、正伝院が開山されました。
一方、南北朝時代の正平年間(1346-1370)には、永源庵が建仁寺39世・鉄庵道生の法嗣である無涯仁浩禅師によって開山されました。永源庵は初めは東山清水坂鷲峯下にあり、細川頼有が出家し住持になりました。細川家と永源庵の縁は深く、のちに建仁寺塔頭に列しました。
室町時代年間(1398年〜)、永源庵は現在地に移ります。しかし、天文年間(1532-1555)の京都での戦乱により、正伝院は荒廃しました。
江戸時代(1618年)、正伝院は織田有楽斎により再興され、有楽斎の没後には正伝院に隠居所が寄進されました。

1 織田信長の弟である織田有楽斎と所縁の正伝院と細川家と所縁の永源庵。

2 正伝永源院のHPに記載されている二つの家紋。元々『正伝院』と『永源庵』を表し、左の家紋は『細川九曜紋』で肥後細川家の定紋。細川家の独占紋。ただし、この紋の登場は江戸時代中期以降で、忠興は使用していない。

右の家紋は『木瓜紋』で信長の父、織田信秀が主君の尾張守護の斯波氏から賜ったとされる。(朝倉氏という説もあり)通常の『五瓜に唐花』に比べると花弁が細い。

3  花見小路を通り建仁寺に向かう所を右にそれて、特別公開最終日前日にお邪魔する事ができました。スケジュール調整は京都大好きな家内です。

4  紅葉も少し終わりかけていましたが、写真では綺麗に写っていました。

5 織田信長の弟で、豊臣家としても、そして徳川家にも使えた茶人の有楽斎です。六本木ミッドタウンのサントリー美術館で開催されたいますので、時間が取れればお邪魔して見たいです。

6 正伝永源院に入ります。

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8 織田有楽斎のお墓です。(次はHPからの引用です。)

織田有楽斎の墓

茶道三昧の生活を送ったが元和7年に75歳で没した。
有樂斎の墓は正伝院の移転後も旧地に残っていたが、
昭和38年秋、有樂斎夫人・息女・孫織田長好の3基とともにここに移された。
現在各地に有樂流の茶道が受けつがれている。

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15 門を潜った先のすのこの所で靴を脱いで入りました。

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22   平成25年3月には、第79代内閣総理大臣である細川護熙氏が揮毫(きごう)した襖絵24面が奉納されました。細川家ゆかりの美術館「永青文庫」の永は永源庵に由来しています。

23 細川護熙氏が揮毫した襖絵です。

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25 室内で説明を聴いた後にお庭に出る事ができました。

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28  樹形や黄葉の仕方からドウダンツツジと思います。

29 国宝の茶室・如庵は愛知県の犬山市に移築されている。光線の影響で如庵と記されている扁額の所の明り取りの出窓が開いています。この開いている、出窓をみて歌舞伎の「蝶々曲輪日記~引窓」を思い出しました。

 

30 如庵の解説文が記されています。こちらの如庵は平成八年十月に完成したそうです。

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#018 -’24. 仁和寺雲海ライトアップ(その二)と国宝金堂裏堂 五大明王壁画特別公開

2024年01月29日 18時56分07秒 | ご朱印・納経(神社仏閣)

真言宗御室派総本山仁和寺で開催された昨年の『仁和寺雲海ライトアップと国宝金堂裏堂の五大明王壁画の鑑賞の続きです。

その前に仁和寺の理解の一助になるユーチューブ動画を二つほど。豪華な「松林庵」での宿坊?と、神社仏閣ユーチューバー吉田さんの動画をアップしました。

「松林庵」世界遺産 仁和寺で特別な一夜を

【ロケ】京都仁和寺を回りました!どうぞ気楽にご覧ください!

 

1   金堂前の雲海のライトアップ会場での写真撮影です。

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3   ミストが出て来て荘厳な雰囲気を・・・。

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6    記憶違いでなければ経蔵です。金堂に向かって右手奥ですが、ここから先には行かれません。

7  宮中の紫宸殿を移築した金堂ですから、瓦ぶきに変わっても高貴さが漂う佇まいです。檜皮葺では経費が掛かる為でしょうか、耐久性のある瓦葺きに変わる事が多いです。

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14   令和の文字が見えます。

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17   仁王門脇を出てバス停に並ぶ所でその前に一枚撮影しました。

ホテルは食事別で予約しましたので、夕食は京都駅で頂いて行かねばなりません。

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#017 -’24. 仁和寺雲海ライトアップ(その一)と国宝金堂裏堂 五大明王壁画特別公開

2024年01月26日 21時29分16秒 | ご朱印・納経(神社仏閣)

お邪魔したのは仁和寺雲海ライトアップ最終日の12月3日です。

仁和寺雲海ライトアップと金堂での五大明王壁画の鑑賞です。

ライトアップ等の記事を朝日新聞デジタルから借用して次にアップします。

 世界遺産仁和寺京都市右京区)で、国宝の金堂が雲海に浮かぶようにライトアップされた。インバウンド訪日外国人客)の回復に向けた取り組みの一環。観光庁の支援事業に選ばれ、微細な水を噴霧して雲海を表現する装置を約2800万円かけて新たに設置した。

 仁和寺は888年創建で、真言宗御室派の総本山。江戸時代まで皇族が門跡を務め、金堂は御所の紫宸殿(ししんでん)を17世紀前半に移築したものだ。同寺の大林実温執行長は「紅葉と共に、普段は目にすることのできない異空間の境内を楽しんでいただきたい」と話した。

 「雲海ライトアップ」は12月3日までの金~月曜と祝日に開催(11月20、27日と12月1日を除く)。大人2800円、高校生以下無料。金堂裏堂にあり、通常非公開の五大明王の壁画も見ることができる(別料金)。西田健作

仁和寺を最初に訪問したのは30泊31日の旅の途中でした。家内から御室にある仁和寺の御室桜なら未だ咲いてるかもと教えてもらったからです。30連泊の自分にとって長い旅でしたから、想い出も一入(ひとしお)でした。京都通の家内と異なり何も分からずに歩き廻った次第です。

それでは、仁和寺のHPから境内図をお借りして次にアします。

 

1  バスを降りて仁王門をくぐり仁和寺の境内にはいりました。振り返り昼間は空いていますが、夜間なので脇の小さな門からはいりました。照明に写り仁王門です。  

2   受付を済ませて工事中の養生で覆われた中門前にならびました。直ぐ脇には天皇や天皇の使者のみが通る事が許された立派な勅使門が見えました。

3   勅使門前あたりから立派な仁王門を振り返り撮影しました。

4    スマホにて撮影ですが、露光時間が長いためかピンボケなのはご容赦の程。左手の所は工事用の養生がされた中門です。

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8   午後6時半になり中門を潜り、雲海ライトアップの会場にはいりました。のべつまくなしに霧が発生している訳では無く時間を区切って発生させていました。

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11  中門を入ると御室の地名が桜名にもなった 名勝 御室桜の庭園が左手に広がっています。低木な事と相まった視線の目の前に桜の花を愛でる事が出来る御室桜です。写真に写っているのが五重塔です。照明と雲海に浮かぶ幻想的な姿です。

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18  12段の石段を上ると金堂が見えてきました。

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22  国宝の金堂にて五大明王壁画特別公開が同時公開されていました。時間が無いので少し速足で拝観させて頂きました。こちらの入る時に仁和寺のトートバックを戴きました。数には限りがあるようですが、家内共々二枚ゲットできました。金堂内は靴を脱いで入りますので靴入れを兼ねてます。

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27  WANDER 国宝 のHPから引用させて頂きました。

国宝 『金堂』

国宝の『金堂』は本尊の阿弥陀如来のを安置する本堂にあたる。通常は非公開だが、春秋の特別拝観などで内部拝観できることもある。 『金堂』は、1613年に建立された御所の「紫宸殿」を、寛永(1624~1643年)に移築したもので、現在残る紫宸殿の遺構としては最古のものである。

紫宸殿は、檜の皮を重ねて屋根の素材とする「檜皮葺」(ひわだぶき)だが、移築に伴い瓦葺に変更された。(しとみど)などは宸殿造りのまま当時をしのばれる。紫宸殿として使われていた頃に「高御座(たかみくら)」が置かれていた場所に、現在は本尊が安置されている。現在は霊宝館に安置されている『阿弥陀如来・両脇侍像』は、創建当時から金堂の本尊であった。

28  檜皮葺から瓦ぶきに変わっても、御所から移築した高貴な佇まいは仏教寺院とは異なる高貴さを醸し出している。

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#295 -’23. 聖護院門跡を訪れて。(秋の特別公開)

2023年12月30日 17時48分11秒 | ご朱印・納経(神社仏閣)

*謝罪させて頂きます。一旦アップした物を追加してアップした為に既にリアクションして下さった方のアイコンが消えてしまい失礼しました。申し訳ありません。* 以上の文は後日消去させていただきます。

聖護院門跡秋の特別公開にお邪魔しました。

次の聖護院門跡のHPからと、秋の特別公開の開催趣旨初公開「書院」拝観の見所は特別公開のHPから引用させて頂きました。

聖護院門跡とは

門跡の雅と、厳しい山岳修行の寺。

当院の沿革は寛治四年(1090)、白河上皇の熊野御幸に先達を務めた増誉(ぞうよ)大僧正が寺院を賜り、「聖体を護持した」というその功績から「聖護院」と称したことに始まります。
後に戦乱・火災によって京都を転々としましたが、延宝四年(1676)、創建の地でもある現在の場所に再建されました。

その当初から皇室と深い結びつきのあった聖護院では、出家された皇族や摂家の方がたびたび住職を務められました。このような寺は門跡(もんぜき)寺院と呼ばれ、日本国内でも数少ない、格式高い寺院とされています。
特に聖護院は江戸時代、天明の大火を逃れて来られた光格天皇が三年間ほど御在所とされた事から、「仮皇居」の史跡指定を受ける唯一の寺院です。寺内には花鳥や賢人、また雄大な自然が描かれた貴重な金碧障壁画が数多く残され、京文化の美を感じることができます。

こうした雅な側面の一方で、聖護院は野山に分け入っての修行を旨とする「修験道」を実践する、本山修験宗の総本山でもあります。春の葛城修行、秋の大峰奥駈修行をはじめとする入峰修行には僧俗を問わず多くの方が参加され、自然の中に仏の教えを観るという山伏の信仰を現代に伝えています。

開催趣旨

 聖護院は役行者を宗祖とする本山修験宗の総本山として、寛治4年(1090)に建立されました。以来国内でも数少ない皇室や摂家より代々住職を迎える宮門跡であり、更に光格天皇の仮皇居としても使われ、日本唯一の史跡旧仮皇居として指定されています。
 現在でも修験道の荒々しい修行を行っていますが、一歩院内に足を踏み入れると当時の宮廷文化をそのままに残す200面近い障壁画や多くの宝物が遺されます。

長年の風雪もさることながら、平成30年9月の台風21号により境内は大きな被害を蒙り、特に門跡筋塀はじめ御所より下賜されて約300年を経た書院の被害は甚大でした。当院は歴史を後世に伝えるべく「書院」・「筋塀」の修理修復を天皇御即位記念事業として発願いたしました。

 大変多くの皆様方のご協力のもと、この度無事に完成したことを記念し、建築当初の美しさを取り戻した書院の特別公開及び、関連展示を期間中に開催いたします。関連展示では書院を建造された後水尾天皇様の宸翰等ゆかりの宝物類や修復工事の様子を展示いたします。
 例年の特別公開では所蔵の内100面以上の金碧障壁画や宝物類をご覧いただいていましたが、今回の特別公開ではそれに加え、修復後初公開の書院(重要文化財)もご覧いただけます。
 

初公開「書院」

 この書院は後水尾天皇ご側室の御殿と伝わり、建物そのものが重要文化財として指定されています。
 修復工事完了後初めて一般公開されるこの書院は、延宝4年(1676)に聖護院が現在の地へ移転してきた時に御所より移築されたと伝わります。
 障壁画が残る二室には、当時としては非常に高価であったガラスを花頭窓に使用するなど贅がつくされています。違い棚周辺には豪華でありながらも緻密な金細工がされていることや、釘隠しに彫金細工の結び文や泥七宝の笹竜胆、細い柱を使った華奢な建物の造りなど女性好みの志向が凝らされており、この書院を女院へ送った後水尾天皇の心配りをご覧いただけます。

花頭窓には当時のガラスが今も使われている

書院内部(修復前)

拝観の見所

 秋の特別公開では普段立ち入ることのできない宸殿や書院といった建物の内部をご覧いただけます。専門のスタッフが巡回して解説しておりますので、ご希望の方はご自由にお聞きいただけます。
 内部の障壁画は全て描かれた当時の本物が今も現役で使用されており、光格天皇や聖護院宮に謁見するため訪れた使者同様の景色を追体験することができます。

大玄関より使者之間

※特別公開時、文化財保護のため一部障壁画の配置が変更されています

 100余面を数える障壁画の殆どは日本最大の画派であった狩野派による作で、波之間を境に京狩野と江戸狩野の作品を見比べることができます。また、今回特別に公開される書院内部には呉春らによる作品も遺されています。
 謁見之間までの道中では、役行者神變大菩薩様、また明治の法難の時に廃寺となった各寺院より預けられた複数の不動明王様など、修験道と関わりの深い仏様へお参りしていただけます。

奇しくも訪問したのは開催日の千秋楽の日でした。

 

1   夜の止観 として次の様にかかれていました。「月に一度、心を整えてみませんか。」と問い掛けられていました。

2   聖護院門跡が彫られた石柱が建っていました。

3   山門を入った直ぐ左手に枝垂れ桜の木が植わっていました。春にはさぞかし美しい事かと。正面に見える白い壁の建物は長屋門です。

4   こちらの聖護院表玄関からはいりました。豪華さを感じさせる唐破風の屋根です。

5   室内は決められた所しか撮影できませんが、案内者の許可が出た所はOKです。修験者のいでたちでお迎え頂きました。

聖護院は役行者(634~701)を開祖とする修験道の総本山です。1090年三井寺の増誉大僧正が白河上皇の「熊野行幸」の先達を勤めた功績によって「聖体護持」より2字をとった「聖護院」を賜り、さらに「熊野三山検校職」に任命され、修験者を統括する全国に2万余の末寺をかかえる一大修験集団となった。しかし明治政府によって「修験道廃止令」がだされ、多くの山伏は還俗し、寺院は衰退した。(HPより)

6  宸殿からお庭を撮影です。

7   市松模様の如きのお庭には可愛い小さな猫ちゃんの置物が置かれていました。猫好きの心を揺さぶる可愛らしさです。

8   こんな猫ちゃんが何匹も。

 

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10  右手奥に見えるのが本堂です。参拝前に、外に出てしまい本堂には行きませんでした。中からしか入ることはできないので、参拝する事は叶いませんでした。 

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12   説明を受けてから撮影可の所を写真撮影させて頂きました。

13        宸殿の上段の間です

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17      書院側の庭園です

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23       書院の中庭から

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28   見学可能の所を一巡してきました。市松模様のお庭を拝見です。

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32   拡大した所です。岩にほら貝が彫られていました。修験道の聖護院ですね。

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35   宸殿をお庭から拝見しています。

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37   本堂前に居ますがこの後ろの階段を上る事は禁止です。

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39    役行者の脇に居る猫を拡大して撮影しました。

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この後、西尾八ッ橋の里にお邪魔して昼食を戴きました。

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#272 -’23. 浄土門根元地 西山浄土宗総本山光明寺を訪問し(その二)

2023年12月06日 11時20分12秒 | ご朱印・納経(神社仏閣)

西山浄土宗総本山光明寺を訪問してのそのニです。

光明寺HPから次の文章を引用させて頂きました。

光明寺とは

西山浄土宗の総本山光明寺は、長岡京市西山のふもと、粟生広谷にあります。
1198(建久九)年、法然上人の弟子となられた熊谷蓮生(れんせい)法師(熊谷次郎直実)によって、京都府長岡京市西山のふもと粟生広谷の地に御堂を造立したのが始まりです。
また、師である法然上人を開山一世と仰ぎ、自らは二世となられ、法然上人より「念仏三昧院」の寺号も頂きました。1227(安貞元)年、叡山の衆徒が法然上人の墳墓を暴く企てを、上人の遺弟たちがご遺骸の石棺を太秦に移すことで防ぎました。
翌1228(安貞2)年正月20日夜、上人の石棺より数条の光明が放たれ南西の念仏三昧院を照らすという奇瑞が現れました。
同月25日ご遺骸を念仏三昧院に運び、荼毘に付し寺の裏山にご芳骨を納め御本廟を建てました。
以来光明寺は宗祖法然上人の御遺廟の聖地として信仰を集めています。
また寺名は、この時の奇瑞にちなんで、四条天皇より勅額を「光明寺」と賜ったことによります。

 

1   JR長岡京の駅前のバス停から定刻の数分前に出発したバスに乗車しました。光明寺に行くまでに停車するのは阪急「長岡天神」駅に停車するのみで、光明寺行の臨時バスや終点の「旭が丘ホーム前」で下車しました。

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3     総門の前に「浄土門根元地」の碑があります。光明寺が建つ粟生広谷の里は、法然上人がはじめて「南無阿弥陀仏」のお念仏の教えを説かれた場所です。

 

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12       撮影可でしたので、撮らせて頂きました。

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14    鐘楼は、寺内では、御本廟についで古い建築だそうです。

15     御影堂です。

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戻る時も臨時便のバスに乗車して終点のJRの駅の一つ前の阪急「長岡天神」駅で下車して大山崎のアサヒビールの山荘に向かいました。

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#249 -’23. 恵林寺を参拝し(その一)

2023年11月19日 16時26分42秒 | ご朱印・納経(神社仏閣)

今回の臨済宗 妙心寺派 乾徳山 恵林寺訪問は数時間の峠の我が家滞在だけでは物足りないので、それではと数年ぶりでの恵林寺訪問です。

個人的に恵林寺と言えば塩山ですが、思い浮かぶのは夢窓疎石(夢想国師)です。

今回知った快川国師(かいせん)です。誰でも知っている「心頭滅却すれば、火も自ずから涼し」の言葉で知られる、快川国師(快川紹喜:かいせん じょうき、1502年:文亀2年~1582年:天正10年)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての臨済宗妙心寺派の名僧です。(恵林寺HPより引用です。)

説明&解説をアップします。

1   参道の一番奥に駐車スペースがありましたが、戻ってきて一番長く歩く処の駐車場に止めました。塩山では既に多くの銀杏の葉を散らせていました。銀杏の大木に日光が降り注ぐと、これぞ黄金(おうごん)・黄金色(こがねいろ)と感嘆するほどです。

2   イチョウの葉は繊維質が固く丈夫ですから、欅の葉の如く粉々になりません。その為まるで小判を敷き詰めた如くの黄金色の絨毯です。

3   一直線の参道を進み恵林寺の受付に進みます。(今回自分はそれ程意識していないで写真撮影した為、要所が写真に納まっていないようです。今回の此方の門も恵林寺の南の入り口に立つ黒い門・総門かとおもいます。)

4   総門(通称黒門)を進み四脚門(通称赤門)です。家康の再建と伝えられる国の重要文化財です。

5   次に見えてくるのが三門です。この三門はまさしく快川国師がその悲劇に遭った場所に再建されたそうです。

6   三門の向かった左手には「滅却心頭自涼」と右手には「安禅不必須山水」と快川国師の遺偈が書かれています。

7   安禅不必須山水(安禅は必ずしも山水をもちいず)

8   滅却心頭火自涼(心頭を滅却すれば 火も自ずから涼し) 炎に包まれて落命するこの最後の瞬間に、国師が唱えたものだといわれています。

9   開山堂です。三門をくぐって正面に見えるのが甲州市指定文化財の開山堂である。夢窓疎石(むそうそせき)、快川紹喜(かいせんしょうき)、末宗瑞曷(まっしゅうずいかつ)の三像が堂内に安置されている。

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12   武田菱風の明り取りが見えるのが庫裡です。

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14   庫裡の正面に武田菱的な明り取りから光が入り素敵な風情を醸し出している

15   武田家と言えば風林火山です。武田信玄が軍旗に用いた「孫子」の句「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」を略称したもの。「はやきこと風のごとく、しずかなること林の如く、おかかすめること火の如く、動かざること山の如し」と読み下します。
  

16    入り口の梁につるされていた輿ですが、家紋が付いているので何処か分かるかも。大名などが乗る程の高貴な感じは受けませんが、だからと言って町人が乗る駕籠(かご)でもないです。高貴な僧侶が乗る駕籠でしょうか。

17   庫裡の梁は自然に幹が曲がった天然木ですから強度的には強靭です。

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21   夢想国師は僧侶であり、造園家でもありましたから日本各地に名庭園を残している内の一つです。恵林寺の方丈庭園です。

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24     次の写真は 柳沢吉保公墓所のものです。HPから引用させて頂きました。     徳川幕府の側用人だった柳沢吉保公の墓所である。正室・定子の墓石も並んでいる。自らの出自が信玄公と同じ甲斐源氏の一族、武川衆であることを強く自負していた吉保公の想いをくんで、柳沢家の大和郡山への転封にあたり、吉保公夫妻の墓所のみ、ここ恵林寺に設けられた。

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26   武田家はお城を築きませんでした。館の飾られていた武田菱の鬼瓦なのでしょうか❓

27  庫裏の中ではHPに『参禅は別に秘訣なし、唯だ生死の切なるを思ふと・・・』と記されていました。その中は覗けませんが、障子のガラスに反射して秋の色付いた庭園が写っていました。

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#229 -'23. 真言宗豊山派総本山 長谷寺の声明(はせでらのしょうみょう)

2023年10月30日 21時24分48秒 | ご朱印・納経(神社仏閣)

令和五年八月声明公演 真言宗豊山派総本山 『長谷寺の声明』に行ってきました。お邪魔したのは8月5日ですから、既に三か月が経とうとしています。

国立劇場も10月には閉館となり新しい建物が建つ予定ですが、建築の入札が不調のようです。

長谷寺の声明をPRTIMES  さんの記事から引用してアップします。

【初代国立劇場さよなら特別公演】8月声明公演『長谷寺の声明』舞台芸術として声明を紹介し続けてきた初代国立劇場で最後の演目は“宙を舞う経典と圧倒的な大音声”!

文化庁

仏教儀式において僧侶が唱える声楽・声明(しょうみょう)。

国立劇場では、従来儀礼として行われてきた仏教音楽・声楽の芸術的な側面に光を当て、日本の伝統音楽の一ジャンルとして「声明」を広く公開してきました。

現在、国内外の各地で声明公演が行われていますが、昭和41年(1966)の国立劇場開場記念公演以降、毎年継続して声明を紹介し、昭和48年には国際交流基金主催の43日間にわたる世界一周の演奏旅行が企画され、海外でも高い評価を得たこともあって、「声明公演」の魅力が一般に知られることとなりました。
本年10月末の閉場を控え、特に各芸能の集大成をご覧いただく 《初代国立劇場さよなら特別公演》 を8月から開催していきますが、その先頭でご紹介するのが『長谷寺の声明』です。
国立劇場開場記念公演として第1回声明公演で上演された演目が、真言宗豊山派(しんごんしゅう ぶざんは)による「大般若転読会(だいはんにゃ てんどくえ)」でした。初代国立劇場の声明の最終公演に、第1回公演と同じ演目を大劇場でご堪能いただきます。
 
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2   沢山の方がお見えになっていました。
 
 
3   初めての長谷寺の声明(しょうみょう)に参加です。
 
 
4   個人的には25分に亘る「国立劇場の声明公演を振り返る」も大変良かったです。
 
 
5   声明が始まる前に撮影させえて頂きました。
 
 
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7   長谷寺式十一面観音菩薩三尊像と等身大の仏様とその仏足のレプリカです。実際に長谷寺にて特別な所の拝観をすると十一面観音菩薩三尊像のおみ足に触れる事ができます。
 
 
8   皆さま熱心にお祈りしていました。
 
 
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10  自分は奈良の長谷寺にて御足を触れてお祈りしてきました。
 
 
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13   結縁の証「五色線」をこの日は巻いて来ました。
 
 
こちらの五色線を撒いて頂くには長谷寺本堂の十一面観音菩薩三尊像の御足に触れて参拝する事がひつようです。その時の長谷寺のスレッドはこちらです。
 
 
 
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#213 -’23. 今戸神社を参拝し

2023年10月14日 23時27分06秒 | ご朱印・納経(神社仏閣)

10月12日にランチ前に参拝に訪れた今戸神社と待乳山聖天の二ヶ所です。今回はその最初の今戸神社をアップします。

招き猫と縁結びでゆうめいですが、今戸神社のHPから御祭神の項目を借用してアップします。

御祭神

御祭神  應神天皇(おうじんてんのう)
     伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
     伊弉冉尊(いざなみのみこと)
     福禄寿(ふくろくじゅ)…七福神の内の一神
福禄寿…昭和十二年一月から同年十六年頃まで七福神巡拝が行われておりましたが、戦時下となり一時中止され、昭和五十二年一月より復活されました。浅草は江戸文化発祥の地といわれ、七福神巡りの流行したのはその江戸時代からと伝えられております。福禄寿は白髪童顔の温和な容姿で、年齢は数千年といわれ、福(幸福)と禄(生活・経済の安定)と寿(健康にして長命)との三つの福徳を授ける福の神として、古くから人びとの尊信を集めています。

1   バス代は100円の自治体が運営する台東区の地域バスにのって4っつ目のリバーサイドスポーツセンター前で下車して直ぐです。

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4   地域のお神輿が収納されています。

5   手水舎の真ん前には招き猫が二匹。外回りには願い事が描かれた絵馬がつるされています。

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7   大願成就と縁結びの二種類がありますが、我が家は成就を買い求めてきました。海外旅行に行く事も無くなったスーツケースの名札にと思い。

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#171 -’23. お茶と茶菓子をいただいて(於、日枝神社)

2023年06月17日 07時06分36秒 | ご朱印・納経(神社仏閣)

日枝神社でお茶とお茶菓子を戴きました。

お茶を入れる時の温度とお茶の良し悪しにより、左右されるお茶の味。

甘味の出た大変美味しいお茶をご馳走になりました。

その上、お茶菓子も頂いてお参りを済ませてナナちゃんの待つ帰路につきました。(6月8日の街歩き)

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3  地下鉄の駅に向かう途中に在った料亭でしょうか?道路の反対側を歩いていましたので細かい事は分かりませんでした。ただ、戸袋に松の鏝絵が絵描かれていたので一枚撮影しました。原村郷土館の鏝絵はこちらです。目黒雅叙園の鏝絵は自分のブログに中では明記されていませんでしたが、螺鈿細工と大きな鏝絵が在った記憶があります。

追記:永田町鮨かねさかでした。ランチタイムで18000円だそうです。

4  地下鉄に乗って帰ります。

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6  頂いた和三盆落雁とおとしふみとの名称の和菓子です。

7  おとしぶみとは恋文です。今ほどコミュニケーションが進んでいない大昔に於いても恋心は変わりません。おとし文で心を伝えるとは何といきなことか。平安時代から行われた文化が葉にくるまれた幼虫が育つ様を恋文になぞり付けられて名前です。風流な名ですよね。持ち帰ったら美味しそうに見えない状態になりましたが、美味しかったです。

 

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#170 -’23. 日枝神社(山王祭)に参拝し

2023年06月13日 15時17分47秒 | ご朱印・納経(神社仏閣)

江戸を二分割する神田明神と日枝神社です。

今回は食後、アークヒルズから日枝神社へ徒歩にてむかいました。勿論、お邪魔したのは山王祭の期間中なので皇城の鎮を願い、災害がない素晴らしい江戸・東京をこころに参拝してきました。

山王祭は東京で開催される日本三大祭りのひとつです。因みに、日本三大祭りは 祇園祭(京都  八坂神社)、天神祭(大阪  天満宮)とこちらの山王祭(東京  日枝神社)です。江戸三大祭りはこちらの山王祭(日枝神社)、神田祭(神田明神)と深川八幡祭(富岡八幡宮)です。江戸城(皇居)入れるのは山王祭と神田祭の二つのみです。歴史的な由緒あるつながりでです。

①  日枝神社②  山王祭、そして山王祭の一部を構成する ③ 祭礼行列(神幸祭)に特に焦点を合わせてアップします。

 

A  山王祭の日程です。

 

B  HPより引用です。

諫鼓鶏 The KAN-KO-DORI (Fowl Float)  (原村注 かんこどり

 「諫鼓」は「いさめのつづみ」とも読む。古代中国の五帝の一人尭帝が宮廷の門外に太鼓を置き、政治に不満があれば 太鼓を打ち鳴らして欲しいと働きかけたが、善政により打つ人もなく、遂に太鼓は苔生し、上に鶏が止まっていたと いう逸話によるもので、天下泰平の象徴とされる。江戸時代、諫鼓鶏の山車は江戸山王・神田両祭礼において一番大伝馬町から曳き出され、現在も神幸祭では列の先頭に 位置している。

 

C 神幸祭のユーチューブ動画です。

【赤坂日枝神社】山王祭 神幸祭のご案内

1  アークヒルズから泉屋博古館側に上ってしまい、スウェーデン、スペイン、アメリカ、ジョージア大使館などを経由して少し遠回りしてたどりつきました。

2  男坂も女坂の何のその、内堀通り側からいつものエスカレーターを利用して境内にはいりました。

 

3  日本橋から四ツ谷駅の内堀側が範疇です。

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7  本殿です。その左右にはお猿は神の使いです。

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10  右手は雄猿です。何事にも勝るとの事でマサルと呼ばれるそうです。普通は狛犬ですが、日枝神社は御祭神の大山咋神の使いとされており、神様の使いの猿「神猿(まさる)」と言われ、敬われていました。日枝神社のアイコンもお猿さんです。

11  左手は子供を抱いた女性です。

 

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16  江戸城と縁が有るので、宝物殿を入ると太田道灌像がありました。以前は丸の内都庁前に鎮座していましたが、今は跡地に出来た国際ホーラム内に在るそうです。こちらと都庁前に在った道灌像はどちらがどちらなんでしょうか。

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21   何年か前にお邪魔した時に撮影した神輿とかんこどりです。

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#164 -’23. 大徳寺の本坊特別公開にお邪魔して。

2023年06月05日 09時42分06秒 | ご朱印・納経(神社仏閣)

今回の京都への旅で一番期待していた大徳寺本坊伽藍特別公開です。

訪問したのは京都旅の初日(5月12日)の午後です。川床料理を露瑚で食事を頂こちらの大徳寺に廻ってきました。事前予約は出来ないのでこちらに到着してから受付で大徳寺本坊伽藍特別公開の申し込みをしました。

申し込み後、特別拝観スタートまでに時間がありましたので、大徳寺塔頭の龍源院を参拝してきました。

京都厳選観光情報  京都春秋 のHPから引用させて頂きます。

後醍醐天皇から「本朝無双之禅苑」と評された禅宗の名刹、⼤徳寺は⼤燈国師によって1326年に創建されました。⼀休宗純や沢庵宗彭などの名僧を輩出したほか、千利休や狩野永徳など後世の⽇本⽂化に多⼤な影響を及ぼした⼈物たちが活躍した場でもあり、数多くの貴重な⽂化財を今に伝えます。本公開では 聚楽第の遺構と伝わる国宝の唐⾨や、 狩野探幽が『雲⿓図』を描いた法堂(重要⽂化財)の内部、また   ③ 千利休が寄進した⾦⽑閣(重⽂)を間近で拝観するなど、⾮公開区域の伽藍の数々を解説付きのツアー形式でご案内します。特に今回は、⼀般の⽴⼊りを初めて解禁する仏殿内部(重⽂)の拝観や、⾦⽑閣をくぐり間近で歴史的建造物を拝観するなど、貴重な体験ができる特別公開です

前回、大徳寺に訪問した時のスレッドはこちらです。

 

1 スタート時刻はご覧の通りです。こちらのプラスチックタグの裏に書かれている時刻3時20分までに戻ります。

次はJRおでかけネットから引用させて頂きました。

大徳寺 本坊 伽藍特別公開

大徳寺本坊の通常非公開の区域の伽藍の数々を解説付きで拝観できる、特別公開が行われます。大徳寺は、後醍醐天皇から「本朝無双之禅苑」と評された禅宗の名刹で、一休宗純や沢庵宗彭などの名僧を輩出したほか、千利休や狩野永徳など後世の日本文化に多大な影響を及ぼした人物たちが活躍した場でもあり、数多くの貴重な文化財を今に伝えています。聚楽第の遺構と伝わる唐門(国宝)をはじめ、狩野探幽が『雲龍図』を描いた法堂(重要文化財)、三門「金毛閣」(重要文化財/外観のみの拝観)のほか、今回初めて一般の立入りが解禁される仏殿内部(重要文化財などを特別に拝観することができます。

開催日時
2023年4月27日~6月4日
拝観時間/10:00~16:00(受付終了) ※状況により変更や中止となる場合あり
開催場所 京都市 大徳寺 本坊
料金 一般2000円、高中生1000円、小学生500円 ※30分ごとに人数を限定しツアー形式で拝観(当日先着順)
主催 京都春秋
お問い合わせ 京都春秋 075-231-7015 (平日10:00~16:00)
関連ホームページ https://kyotoshunju.com/temple/daitokuji-honbo-garan/
アクセス JR「京都駅」から市バス「大徳寺前」~徒歩5分

※掲載情報は2023年2月8日現在のものです。内容が変更になる場合もありますので、あらかじめご了承ください。

2  朝鮮通信使が宿泊地として利用した地が大徳寺だそうです。「大徳寺は,文禄・慶長の役の前に豊臣秀吉が誘致した朝鮮からの使節団を含めると,合計4度,朝鮮から訪れた使節団に宿を提供しました。」

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4  購入してきませんでしたが、大徳寺納豆の一久です。納豆と聞けば水戸納豆で関西人はあまり食べないと思っていました。

5  塔頭を含む大徳寺の特別公開が表示されていました。勿論我が家は本坊です。

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8   左に見える門の一部が勅使門です。勿論、特別公開と言えでも一般人が通る事はかないません。その先に見える門が特別公開の三門である金毛閣です。

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12      3時20分前になると、見学者が集まってきました。点呼をして、確認後勅使門の手前に特別にできた通路を通って見学開始です
勅使門の所で大徳寺の説明を受け、いつもは通れない金毛閣の門をくぐりました。
金毛閣は、大徳寺の三門(三解脱門)で、2階は千利休が寄進したものです。利休切腹の原因となった木像が安直されていましたが、切腹に伴い、取り壊されましたが、今は、2代目が置かれているようです。(初代は、切腹した千利休と共に河原にさらされました。)

13    続いて、初の内部公開となった仏殿です。本尊の釈迦如来像をお参りし、天井には、狩野元信の天女が絵描かれているようですが劣化して良く見えませんでした。次の法堂では、狩野探幽の鳴き龍が、天井に絵描かれ、説明の後、1人ずつ手をたたいて、反響を体験させていだだきました。

14   最後が、国宝の唐門です。(京都、国宝三大唐門はこの大徳寺と西本願寺と豊国神社です。)こちらは、木の柵の中まで入れて頂き、間近に眺めながら、唐門の彫刻の鳥や動物などの説明を聞き、最後は、写真撮影もOKでした。

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16  豊臣家の紋章が沢山付いています。 

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21  鐘楼です。

22    法堂を通路から

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25   塔頭の総見院の大好きな鐘楼です。

 

26  こちらは大徳寺の塔頭の龍翔寺です。

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#161 -’23. 今宮神社

2023年05月31日 14時39分05秒 | ご朱印・納経(神社仏閣)

大徳寺の特別拝観を堪能して初日の観光を終えても良かったが、すぐ裏手は今宮神社です。素通りする事は無いと思い足を伸ばした次第です。考える事は同じで特別拝観を終えてこちらに廻って来るご婦人たちの一団と付かず離れずに参拝です。早朝に東京を発ちましたから既に疲れ切っている感じです。自分としてはあぶり餅どころではありません。宿に帰りたい一心でした。スレッドを編集するにつけ、手抜きが悔やまれます。

HPを見るのも今宮神社の事が理解できますが、デジタルアーカイブで素敵な画像をご覧いただけます。

平安建都以前より、疫病の神として祀られ信仰された社があったという。それは疫社と呼ばれ、今宮社の起源となる。

今宮神社には本社を初めとして疫社をはじめ多くの社が鎮座しています。

1   大好きな大徳寺の境内を今宮神社に向かいます。(沢山の塔頭が建っています。)

2  今宮神社が見えてきました。

3   右手は未だ大徳寺です。

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6  最近観光地に行くと愛犬を着飾り小道具を持参して撮影タイムです。愛犬家にしてみればネットにアップする程なのかも。愛猫家の我が家も同じですが、犬と異なり猫は難しいかも。

7  大正創建の楼門です。

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9  拝殿です。

10  本社です。

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15   境内から楼門を。こちらを潜らずに左手に行けばあぶり餅のお店が並んでいましたが、バス停に向かいました。

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