Me & Mr. Eric Benet

私とエリック・ベネイ

8月最後の週末の宵

2009-08-31 22:29:27 | 私の日々
画像はフットボールのポーズをとるスタジアムでのエリック・ベネイとデモンテ。

夫が高校時代の友人S君とその新妻Kちゃん、
そしてその友人のM君と野球を観に行くと言う。
野球音痴の私は恵比寿『ブラウンシュガー』で待ち合わせ。
9時半頃に着いたが夫達はまだ現れない。
マスターとコットンクラブ、9月のMAZEのライブの話などをしながら待つ。
「何の試合を観に行っているんですか?」
「知りません」
「球場はどこ?」
「わかりません」
「ご主人はどこのファン?」
「さぁ・・・」

野球の話はまるで要領を得ない私。
10時頃に夫は友人達と登場。
ヤクルト、中日戦を神宮で観ていたそうです。

S君が相当なソウルファンであることは知っていたが、
初対面のお二人KちゃんとM君もメチャクチャ詳しかった。
5人でイントロ当てクイズ状態。
最初に一人が曲名を言うと、他の4人が次々と、
その曲のバックには誰が入っているとか、曲にまつわるエピソードが始まる。

DJのKさんが更にこのクイズを複雑な物にしてきた。
「ルーサーの曲なんだけど、声もそっくり。だれがカバーしてるんだろう?」
「アッシャーです」
「アッシャーは写真で見るとたいしたことないけど、映像だとフェロモンが凄いよね。」

M君「フォープレイのクリスマスアルバムで唄っているエリックベネイっていいですね。」
「うん、エリックはいいわよ~」と私。
「僕、ファンなんだけど、エリックのこと知っている人、初めて会った。」ですって!

"Stay Gold"が掛かる。
「コッポラ監督の父親が作曲、そしてスティーヴィー・ワンダーが歌ったけど、
著作権でもめて当時は発売されなかったよね。」
「『アウトサイダー』、この映画、とても良かった。泣けたね。」
いつまでも子供の時の美しい気持ちを大切にしたいというテーマソング、
「ステイ ゴールド」

シャラマーの曲が掛かる。
「ジョディー・ワトリーがいた時?」
「ううん、もういなかった。」

「シャラマーはソーラーレコードに所属していたんだよね。」
「今、そこの社長の娘だったキャロル・グリフィーがシャラマーでやってるよ。」
「何でそんなの知ってるの?」
「だってmyspaceでフレンドだもん。
ジョディーの方は『私がシャラマーを通して学んだことは、
アーティストは弁護士の立会いなしに契約を結んではいけないという事だった』
って自分のプロフィールに書いていた。」

Kちゃん「あっ、これ『ジャッキー・ブラウン』!大好きな映画なんだ!」
一回り以上年下なのに彼女はやたら詳しい。
スチュワーデスで運び屋、パム・グリアが一攫千金を狙って仕掛けるストーリー。
「私も観た!タランティーノって音楽に拘りあるわよね。」
タランティーノ監督作品で、ジョン・トラボルタ、ユマ・サーマンが出てくる、
あれって何だっけ?
ブルース・ウィルスもサミュエル・ジャクソンもいた。
しばらくみんなで考えるが出てこない。
「パルプ・フィクション」でした。

その他、夫とS君はブラザースジョンソンのライブ、
感動の余り3日続けて二人で行った20才の時のこと、
20代の頃、ロサンジェルスのロキシーでクルセーダースを観に行ったら、
アル・ジャロウ、そして隣のテーブルからラリー・カールトンが飛び入りした、
などと懐かしい話が尽きない。

夫とS君と私は同じ年なのだが、シカゴの来日がキャンセルになったのはいつだったか、
という話になる。
「私は高1の時、武道館で観たな。」それは二回目の来日では?と言われる。
はるか昔のことなので、皆、記憶があいまいだ。
いや、年取ると最近のことは忘れて、昔のことばかり覚えてるなんて。

アースウィンド&ファイアーのメンバーで誰が好きか。
「エモーションズは絶対シーラがいい。」とか。
シーラはコットンのライブの時、熱烈な声援を送っていたら、
退場の時、客席の私のところにハグしに来てくれて、益々ファンに。

「マーカス・ミラー、ラリー・カールトンはバックで入るといいけど、
単体だとちょっとあきるね。」なんて。
ファルセットが巧いのは誰か、あるいは誰のファルセットが好みか?
これはちょっと譲れない、やはりエリック・ベネイでしょう。

ストーンズの初来日のコンサート、キャンセルになったけれど、
払い戻ししないで記念にチケットを取ってあるなんて話も。

昔話だけではない。最近の話題も。
ジェフリー・オズボーンの「ラブバラード」が掛かる。
夫「コットンクラブでデュエットしちゃったぜ。」
コットンで"You Should Be Mine"をジェフリーと一緒にワンフレーズ歌わせて貰った。
客席数の少ないコットンクラブにはこういうサプライズがあるのが魅力だ。
「『ラブバラード』はジョージ・ベンソンの方が好きだ。」と誰かが。

Eric Benet"Spiritual Thang"、そして来月、ライブに行く
MAZEの曲など掛けてくれるので誰も腰を上げない。
気が付くと、時計は一時半。

最初は皆、好きな飲み物を2杯ずつ。
その後、ワインを2本。
そして最後はお別れにマルガリータ、ギムレット、ドライマティーニ、
ジンライム、ダイキュリーをそれぞれ一杯ずつ。
バーテンダー泣かせの注文。
料理も自家製オイルサーディン、ブータンノワール、ピクルス、
手打ちピザも美味しく、しっかり食べて大満足の夜が終わった。
外に出るともう秋の風。
盛りだくさんだった今年の夏が終わった。
いや、9/26のMAZEをもって晩夏の〆にしたい。

エリック・ベネイの休日

2009-08-30 12:19:18 | エリックベネイの日々&KyteVideo
8月中旬でツアーが一段落ついたエリック・ベネイ。
今はプエルトリコで休日を楽しんでいる。

その後、9月に入ると西海岸ツアー。
9/2  サクラメント
9/3,4 サンフランシスコ
9/5,6 オークランド

8/31にはNAACP関連イベントも行われ、Ledeisiがメインパーフォーマーだが、
Eric Benet、Kelly Price、Al B. sure、Blise Neal、Hill Harper
などの出演も予定されている。
NAACP、Eric Benet、2000年に"Spend My Life"で最優秀歌曲賞を取っている。

ところでNAACPって何??
National Association for the Advancement of Colored People
有色人種地位向上委員会
1909年に発足。
毎年、前年の活動が評価された人が表彰されるそうだ。
歴代の大統領がNAACPの大会でスピーチをしてきたが、
ブッシュの代になってからは、行われていない。
オバマが大統領となった2009年からは、
この団体の名称、意義そのものがもう必要ない時代に入ったとも窺える。

エッセンス関連の諸々

2009-08-29 10:30:37 | 私の日々
ニューオリンズ、エッセンスミュージックフェスティバルのチケット、
インターネットで予約、カードで購入し現地でチケットを受け取った。
その後、エッセンス関連の情報が随時、メールで送られてくる。

8/30,8:00pm~ イースタン/セントラルタイム、チャンネル1にての放映がある。
誰かが録画してインターネットでアップしてくれることに期待。
しかしメインステージのアーティスト中心の放映ではないだろうか。
スーパーラウンジのエリック・ベネイ、ずっとテレビカメラが入っていたので、
編集で削られたとしても少しでも映像が観られればと思う。

その他、エッセンスから「アンケートに答えれば
当選者にペアで来年のエッセンスにご招待」とか、
「買い残したエッセンスグッズ、ネットで買いませんか?」などのメールも来る。
エッセンス、ルイジアナスーパードームの売店を見過ごした。
したがってプログラムも夫に頼まれたTシャツも買い損なった。
しかし通販のページを見ると販売は米国国内のみ、
そしてエッセンスTシャツ、一つにはコカコーラのロゴ入り、
もうひとつは、ニューオリンズ市のマークがプリント、
ニューオリンズのシンボルマークは、
私が高校まで通った母校と同じ、百合のマーク。
これでは高校の時の体操服を着ている危ないおばさんになってしまう。

日本に帰る前日(もう7/5当日になっていた)
マックスウェルのステージの開始が遅れて午前2時頃、
ルイジアナスーパードームを出る。
外に出るとTシャツを通り沿いで売っている人達がいる。
これは、要するに東京ドームと同じ状況で、エッセンス公認ではなく、
勝手に作ったTシャツを個人で売ってるのだろうと判断。
しかし一面にアーティストの顔がプリントされたTシャツ、
「エッセンスのTシャツ、買ってきてね。」と言った夫の言葉もあり、
若干、興味を惹かれた。

その時、一緒にいたカミュラが言った。
「AK、『ママサン』って何? あのTシャツ売っている人、
あなたに向かって、さっきからそう呼びかけてるのよ。」

「『ママサン』、ほんとに私をそう呼んでるの?」
私はギョッとした。
「『ママサン』ていうのは、クラブホステスの親玉みたいな人のことよ。
素人の人には言わないわよ。
ああ、でも『お母さん』、自分より年上の人ってことかなぁ。」
アフリカ系アメリカ人の人から見て私は玄人っぽく見えるのか、
あるいはあのTシャツを売っていた人にとってお母さんを思い出すほど、
年上に見えるのか?

家に帰って夫にその話をすると、
「たぶんその人は、日本に仕事で来たことがあって
男の人には『社長』『先生』、女性には『ママサン』っていうって覚えたんだよ。」

『ママサン』と言われてびっくりしてそのTシャツを買い損なったが、
ニューオリンズからヒューストンに向かう国内線。
隣の席の女性はこれを着ていた。
「いいTシャツね。柄を見せてもらってもいい?」
メインステージのアーティストの顔だけでいっぱいになり、
ラウンジに出ていたエリック・ベネイの顔はなかったので、納得。

旅に出ると一つくらいは記念に身に着ける物も買いたい。
今回のニューオリンズでは、黒い少しソールの高いゴム草履。
それが唯一の買物になった。

MAZE feat. Frankie Beverly @Cotton Club 9/22~26

2009-08-27 08:52:34 | その他のライブ
「栄枯盛衰の激しい米国ソウル界の良心、
リビング・レジェンドと呼ぶのにふさわしいメイズ feat. フランキー・ビヴァリーの、
実に15年ぶりとなる日本公演が実現する。(中略)これを事件と言わずして何と言う?
メイズを知らざる者、ソウルを語るべからず、この千載一遇の機会を見逃すな。」
東京丸の内Cotton Clubから果たし状ともいえる案内状が届いた。

コットンクラブ、座席数200席余り。
ルイジアナ州ニューオリンズ市ルイジアナスーパードーム、
今年15周年を迎えたエッセンスミュージックフェスティバル。
その最終日、最後のステージを飾るのは、いつもMAZE feat.Frankie Bevely。
このパーフォーマンスをコットンクラブで観ることができる。
『千載一遇の機会』私はこの言葉に弱い。
7/25の11時、発売開始と同時に早速、席を押さえた。
現在の予約状況を見ると4人掛けのテーブル席、まとめてお買い上げなら残っている。
Cotton Clubでは前例のない1日1ショウ。
すべてカード決済か事前入金の今回のライブ。
コットンが社運を賭けたイベントを企画した意気込みが感じられる。

今年のEssennce Music Festival、私は最終日、涙を飲んで観ることなく帰国。
この日も観戦したnkmrakikoさんから、フランキーに敬意を表し
その日はクリームパーティー(白系の服装のコスプレ)だったと聞いた。
彼女から9/22の初日に20人近いグループが白で決めていく予定でいるという情報が。
私が行くのは、26日だがこちらも白で盛り上がりたい。
白いスーツやワンピースは無理でも、
上物だけでも白いシャツ、Tシャツ、ブラウスくらいなら何とかなるかな?

コットンクラブ、ビルボードと違いパッケージツアー同様、
キャンセルに対して公演日前日数により、返金のあるシステム。
これから行きたいと思っている方、
まだキャンセル待ちをする価値は充分ありますよ。

The Long Good-Bye

2009-08-26 00:00:23 | 私の日々
昨日、マイケル・ジャクソンの死因が薬物の大量投与による他殺とされた。

レイモンド・チャンドラーの「長いお別れ」
Raymond Chandler "The Long Good-Bye"
最初に読んだのは30年近く前、弟が持っていた古本、1972年版の早川書房、
『世界ミステリー全集 5』「さらば愛しき人よ」「長いお別れ」「プレイバック」
三作品が収められた清水俊二訳だった。
一昨年、翻訳権が50年を切る前にと多くの新訳書籍が出版された。
「長いお別れ」も村上春樹の新訳が発売された。
待ちきれず2007年ミステリマガジン4月号、先行掲載があり入手し、
新訳本も発売まもまく購入した。

他の翻訳者のレイモンドチャンドラーの作品、探偵フィリップマーロウのシリーズで、
一人称が『俺』となっているものがあり、
主人公、マーロウのキャラクターがかなり違って感じられる。
村上春樹作品は清水俊二と同様に『私』で落ち着く。

しかし「『しょうがねぇな。』と男はとげのある声で言った。」
が『あのね、ミスタ』になっている冒頭から違和感があった。
これでは村上春樹節になってしまう。

中でも「私たちは朝食を食べるためにとくに作られている小食堂で食べた。
そんな小食堂がかならずつくられていた時代に建てられた家だった。」という部分が、
「キッチンについた朝食用の小さなテーブルで我々はそれを食べた。
どの家にもそういうささやかな一角が設けられていた。よき時代に作られた家屋なのだ。」

朝食用の部屋とは何と素敵なのだろう、
朝陽が入る位置にあるのかと想像していたたものが、
朝食用の小さなテーブルではまるで台所作り付けのカウンターだ。
ここで我慢ができなくなり原書を買いに神保町まで出掛ける。

オリジナルの文章はこうだった。
"We ate in the breakfast nook.
The house belonged to the period that always had one."
村上春樹訳がおそらく正しいと思うが、私の中で長い間、
フィリップ・マーロウが住んでいるとイメージしていた家が崩れた。

この小説の中でロサンジェルス近郊のセレブ御用達の精神科医や
診療所、リハビリセンターなどが登場する。
1954年、この作品が出版された当時のハリウッドにはこういう怪しげなドクターが、
はびこっていたのだろうと思っていた。

現在のハリウッドにもこの手の医者が依然として存在しているのだろうか。
Michael Jacksonのような過酷な生活をおくるハリウッドスターは、
こういったドクターの助けを求めるより他ならない運命へ
と導かれてしまうのかもしれない。

「事件のことも僕のことも忘れてしまってほしい。
ただその前に<ヴィクターズ>に行ってギムレットを一杯注文してくれ。
そして次にコーヒーをつくるときに僕のぶんも一杯カップに注いで、
バーボンを少し加えてくれ。
煙草に火をつけ、そのカップの隣に置いてほしい。
その後で何もかもを忘れてもらいたい。テリー・レノックスはこれにて退場だ。
さようなら。」(村上春樹訳より)

"So forget it and me....
Terry Lennox over and out. And so good-bye."

マイケルジャクソンも天国からそんな風に思っているのではないだろうか。
事件のこと、自分の最後についても忘れてほしい。
でも一緒に輝いた時代のことは、心に留めておいてもらいたいと。

「長いお別れ」では、死んだと思ったテリー・レノックス、
別人となってある朝、フィリップ・マーロウを突然に尋ねて来る。
「ギムレットにはまだ早すぎるね」と。

「今の君の姿は今までの君とは違う。
僕が知っていた君は遠くへ去ってしまった。」
というマーロウにテリーは「これはただの見せかけだ」
「見せかけを楽しんでるんだろう?」
「もちろんだ、なにもかもただの演技だ、そのほかにはなにもない、
ここには―。かつては何かがあったんだよ、ここに、
ずっと昔、ここにはなにかがちゃんとあったのさ」

Eric Benet - What You Won't Do For Love

2009-08-25 05:06:04 | エリック・ベネイライブ(日本以外)
Eric Benet、好きなアーティストの一人にBobby Caldwellを挙げている。
2005年の来日ではボビー・コードウェルの"What You Won't Do For Love"から
エリック・ベネイ"Georgy Porgy"へと繋げた。

今年2月、ビルボード東京のライブでもエリックは
「日本に来る数日前にLAのスタジオで、ボビーと偶然会ってね。
だからこの曲を歌う。今日のメンバーはみんな彼のファンだから。」
と"What You Won't Do For Love"を歌った。

SweetlocsことTifは、NYCでDJや音楽評論の仕事をしている。
彼女から教えてもらった事だが、アメリカでは、
Bobby Caldwell、ずっとアフリカ系アメリカ人と思われていたそうだ。
製作サイドがそのように装っていた節もあるらしい。
この事をつい最近、ラジオの番組で取り上げると、
未だに初めてそれを知り驚いた人達がいたそうだ。
確かに最初の頃のレコードジャケットはシルエットの描かれたイラスト。

日本で彼の音楽を聴く人達は当然、姿も知っている。
ボビー・コールドウェルは金髪のダンディーな白人男性というイメージ。
以前、パックンが「英語で喋らナイト」でインタビューをしていたが、
質問も良かったけれど、とても丁寧な受け答えをしていて、
謙虚な人柄が顕れていた。

昨年の10/11、ビルボード東京のBobby Caldwellのライブに行ってきた。
1979年から毎年日本に来ていると言う。
日本のファンが喜ぶ懐かしい曲や新曲、自分のアルバムにはないシカゴの曲。
流暢な日本語でバンドメンバーの紹介。
さすがコンスタントに日本で人気を誇るアーティスト。

「今、世界経済がたいへんな事になっているね。
来年もこうして又皆と会えるといいけれど・・・」とボビー。
その時はアメリカの経済危機が問題化した直後だった。

ボビーは今年もまたビルボード東京にやってくることになった。
毎年、この日を楽しみに遠くから飛行機で駆けつけるファンもいるそうだ。

動画はエリック・ベネイ、8/7、セントルイスのライブでの
"What You Won't Do For Love"
エリックが自分の曲以外の曲で何を歌うかは、毎回ツアーの中での楽しみの一つ。
着ているジャケットは日本公演でも着用したお気に入りのビンテージ物のチェック。
裏地は鮮やかなコバルトブルー。袖にネーミング刺繍がある。
ボビーが一年振りにビルボード東京に再び出演することが決まった。
それなら、エリックもまた来年2月頃の来日を期待しても良いのかな?

Eric Benet - What You Won't Do For Love



金子三勇士@シャネルネクサスホール8/22

2009-08-23 13:58:11 | ピアニスト 金子三勇士
ここのところ、涼しい日が続いていたのに、昨日はまた残暑が戻ってきて、
蒸し暑い一日となった。
金子三勇士、今年の3月から始まったシャネルにてのリサイタル、
昨日で4回目となる。
会場に向かう途中、電車が止まり、間に合わないのではと慌てた。
降りてから歩行者天国でのんびりムードの銀座の街を駆け抜ける。
着席するとほどなく開始となった。

今回はショパン三昧。

ワルツ第4番ヘ長調『華麗なるワルツ』作品34-3
オープニングに相応しい楽しげな曲。
前回の東京フォーラムでのコンサート「チャイコフスキーピアノ協奏曲第1番」
とは対照的な小振りで軽やかな曲からシャネルのリサイタルは始まった。
作品の別名は『子犬のワルツ』に対して『子猫のワルツ』と称されるそう。
いたずら猫が鍵盤の上を走ったり、じゃれたりする様子がイメージされる。
転げるように銀座を走ってきた私を迎えてくれるのにもぴったりの曲だった。

夜想曲第2番変ホ長調作品9-2
この曲の持つ切なさや甘さ、柔らかな中にある抑制の利いた力強さ、
絶妙なバランスを保ち三勇士は演奏した。
この曲の持ち味が、彼によく似合っている。

ポロネーズ第4番ハ短調作品40-2
フランスとポーランドの血を受けたショパン、作曲家、演奏家としては、
ほとんどフランスで生活し、39歳で生涯を終えた。
母国に対しての郷愁が込められたこの作品。
ポーランドの民族舞踊を踊る曲と言うより、重厚な旋律。
金子三勇士、バルトーク「ハンガリー農民組曲」、ウィネル「ハンガリー舞曲」、
コダーイなどは十八番だ。
民謡とも言える民族舞踊の独特の節回しは、ハンガリーのDNAを持ち、
かの地で教育を受けた彼の演奏には圧倒的な説得力がある。
ポーランドに息づく濃厚な民族色の強く激しいこの曲は、
金子三勇士だからこそ、弾きこなせる作品。

ここまで、一曲毎に三勇士のMCが入る。
観客に向けての曲の説明があるのは、聴く側にとっては、
もちろん曲の聴き所を捉え醍醐味を味わえて、ありがたいのだが、
彼にとっては、曲に入り込んで演奏し、その間、気持ちはポーランドの宮殿や、
パリのサロン、また民族舞踊を乱舞する村人の世界に飛んでいるのに、
そこから切り替えて観客に説明するのは、
たいへんな集中力を要するのではないだろうか。

前奏曲第7番イ長調作品28-7
この曲は説明なしで、そのまま始まった。
前の曲でのMCで三勇士、「ポロネーズが暗いので、お口直しに、続けて演奏します」と挨拶。
誰もが知っている胃腸薬のコマーシャルソング。そしてイ長調。
ボリュームのある曲を聴かせた後に、胃腸薬のテーマソングとは、金子三勇士、
そうとうな遊び心のある選曲だ。

バラード第1番ト短調作品23
19世紀ロマン派の作曲家、ショパンは同時代の作家ミツキュヴィチの愛の物語に
インスパイヤーされてこの曲を作ったとされる。
三勇士の解説によると、貴族と庶民のその時代では叶わぬ恋、
ロミオとジュリエットのような物語だが、作品全体を貫いているのは、
悲恋というよりも恋する気持ち、とのこと。
この作品は、恋愛のいろいろな面が描かれ、まさに物語性がある。

音楽プロデューサー 坂田康太郎さんの解説に、
「バラードとは一種の物語詩をさし、その起源は中世に生まれた詩形。
ショパンによって初めて器楽曲の名称に」とある。
目から鱗だ。R&Bの世界でよくバラードという言葉は使われる。
語りかけるような曲を得意とする歌手をバラーディアとも呼ぶ。
ジェイムズ・イングラム、ピーボ・ブライソン、ジェフリー・オズボーンなどが、
その代表とされる。
エリック・ベネイはそのようには呼ばれずワーナージャパンは、
「愛と魂の伝道師」というミドルネームを付けた。
バラード、ショパンによりこの言葉が曲を表現する名称になったとは初耳だった。

19才の金子三勇士。
これから多くの恋愛を重ね(?!)そしてこの曲の解釈が、その時々で変るのでは。
10年後、20年後の彼のこの曲の演奏を聴いてみたい。

その後、休憩があり目の前のピアノが目に入る。
何か様子が違う。
一回り大きくシンプルな作りに感じる。

第二部の始まりで三勇士からピアノについての説明があった。
スタンウェイ、今までより大きくタイプBというサイズになった。
そして低音の響き、高音の細かい音がクリアに出るそうだ。

三勇士のブログで「素晴らしいピアノを弾きました」とあるが、
それはこのことだった。

ピアノのことはわからないが、車でも排気量が少ない車で、
思いっきり踏み込むのと、性能の良い大きな車で走行するのでは、
明らかにゆとりが違う。

今までのピアノは装飾が美しく鑑賞には足りる物だったが、
新しいピアノは余裕の中に滑らかな流れるような響きで奏でられる。

もちろん、持ち運びできる楽器でもその日の温度湿度、会場の響き、天上高、
床や壁の素材などいろいろな影響があるとは思うが、
他の楽器奏者とピアニストの決定的な違いは楽器を持ち運びできないことだ。
用意されたピアノを自分の演奏までに調律師とその日の演奏曲と自分に合わせて、
可能な限り整えなければならない。

アーティストを支援しピグマリオンと呼ばれたとされるファウンダー、ココ・シャネル。
ピグマリオン、ギリシャ神話に語源があるそうなので古代ギリシャ語辞典を引いてみる。
ピグマリオンという単語、そのものはみつからなかったが、
「全信頼をおく、預けきる、委ねる、託する、信じる」という言葉があった。
そのスピリットを受け継ぎ、若手のピアニストのために新しいピアノを用意するとは、
シャネルには脈々と創始者の心魂が生き続けている。
そしてまた、金子三勇士の演奏は、このプロジェクトの関係者達に、
今までのピアノでは対応できないスケールを感じさせたのではないのだろうか。

第二部の最初は、
モーツァルト ピアノ・ソナタ第10番ハ長調
多くの人に親しまれたこの曲。
モーツァルトもショパン同様35歳と短命だ。
ショパンと較べると古典派はピアノができて歴史の浅い時代、
弦楽器を対象に作曲がなされていたらしい。
一昨年に訪れたベルギー、ブリュッセルの楽器博物館で見た
古楽器の数々を思い出す。
館内に入るとヘッドホーンをさせられ、展示されている楽器の前に行くと、
その調べが流れてくる。
ハープシコード、チェンバロなどは音色だけではなく
部屋を彩る装飾品として美しいものではあるが、
ピアノのように情緒豊かな表現力には欠けていた。
新たな楽器の選択肢としてピアノが加わったばかりの時代のモーツァルトの作品。
新しいピアノで聴くモーツァルトは音の響きが柔らかく更なる奥行きが広がる。
古典派時代の人々は聴く事のできなかったモーツァルトの世界に
私たちはこの会場で惹き込まれた。

そしてまたショパンに戻る。
スケルツォ第2番変ロ短調
解説によるとスケルツォとはラテン語で「冗談、いたずら、戯れ」
作られるようになった初期は軽快な曲調だったらしい。
が、ショパンはスケルツォをドラマチックな楽曲へと昇華させた。
金子三勇士の感情がほとばしる迫力の演奏。
さきほどのモーツァルトとの対照が著しい。
もちろん、この辺りは選曲にあたっての彼の計算だろう。
繊細さとあえて荒削りに力強く描いた部分、
新しいピアノの響きを楽しむ演奏者の喜びが伝わり、
これは観客達を大きなエネルギーとなって包みこんだ。

アンコールは
ショパン 練習曲第5番変ト長調「黒鍵」作品10-5
スケルツォを弾いた勢いでステージに戻り、そのままこの曲に突入した。

昨日のショパン尽し、通して聴いてみて、今まで、
リスト、バルトーク、ハンガリー色の濃かった金子三勇士のイメージが一新した。
フレデリック・フランソワ・ショパンは、ピアノの特性を捉えた多くの楽曲を残し、
自分の思いのたけをピアノを通して表現し、『ピアノの詩人』と呼ばれる。
ショパンには一般的に知られた曲以外の多面性があることも知った。
フランスとポーランドに生きたショパンと、
ハンガリーと日本、二つの祖国を持つ金子三勇士。
二人には多くの共通点があり、昨日のリサイタルは、金子三勇士を通して
新しいショパンの世界が開かれていった。
金子三勇士、クラシック界の『愛と魂の伝道師』
"The Missioner Of Love&Soul" になりつつある。

品川歴史館の夏

2009-08-22 09:53:05 | 私の日々
地元の品川区にある歴史館、7年ほど前から、
不定期に展示解説ボランティアをさせていただいている。
この時期、夏休み終わりごろになると、宿題の自由研究のための小中高生がやってくる。
テーマも決まっていない子もいれば、品川宿、大森貝塚などはっきりしている子も。
子供の質問はとんでもないから笑える。
「この模型、作るのにいくら掛かりましたか?」などと大真面目で聞いてくる。

大人でツアーを組んでくる方達は手強い。
たいへんな知識を持たれて下調べもして来られるので、私の柔な説明では歯が立たない。

海外からの来館者もいて、夏休み日本にホームスティに来た学生もやってくる。
こういう方々の目の輝きが俄然と違ってくるのが、日本の考古学の祖モース博士のコーナー。

Dr. Edward Sylvester Morse、大森貝塚発見者として日本で親しまれているが、
海外では、その出身地アメリカ、メイン州でも無名だ。
1838年に生まれ、小学校から退学を繰り返し、とうとうハイスクールでドロップアウト。
母親の勧めで貝類の収集を始め、研究者の助手となる。
その後、研究所の職員となり、論文や講演で生計を立てるようになる。
そして専門分野の腕足類の研究のため、日本へと旅立つ。

1877年、6月17日深夜、横浜港に着いたモースは、研究の許可を取るため、
6月19日、横浜から東京へと汽車に乗り、その車中で大井町と大森駅の間に、
貝塚をみつける。

その日のうちにたまたま東京大学の教授と会う機会があり、
2年間、東大の動物学の教授として働く契約を結ぶ。
その金額は月給350円、日本人教授が100円、職人の稼ぎが10円だった時代。

まず江ノ島で発掘を始め、そして大森貝塚も開始しようと、
その許可を取ろうとするが、他にも3人の外国人が狙っていた。
自分が最も相応しいと思うモースはヤキモキする思いで許可が下りるのを待つ。
そして、許可が下りると早速、学生達と発掘を始める。
一時帰国したモースはアメリカから多くの専門書を持ち帰り、
それらは、資料として大学に収められた。そして大学での講義も始まる。
その当時の東大の授業は英語で行われていたそうだ。

3回の来日、約2年半の滞在で北海道、本州、九州とモースは旅をしている。
三度目の来日では、アメリカ人収集家とともに訪れて古美術、民具などを収集し、
これは後にボストン美術館などに売却、モースの死後は地元の博物館へ寄贈される。
モースのコレクションの特徴としては、浮世絵や陶器のみではなく、
日本のその当時の日常的な雑貨にも興味の幅が広がっていた。

"Japan Homes And Their Surronundings" "Japan As Day By Day"の著書があり、
翻訳された物に『日本その日その日』創元社 『大森貝塚』岩波文庫
などがあるが、偏狭の地JAPAN、そこにあるアメリカにはない文化の何もかもに、
モースは感激している。

たとえば、箸、フォークやナイフ、スプーンを使わず、
この道具ひとつで、食事ができると感心し、その使い方を図解している。
ザルやカゴも丁寧にスケッチしている。
また日本の家の間口は小さいが奥行きがあり簡素に整えられている様子、
アメリカの幌馬車では争いあって追い抜いたりするのに日本の人力車は、
穏やかな微笑みのもとにすれ違う、など。
日本の女性が着物がはだけて膝下の足が見えることにも驚いている。
アメリカの女性は胸が開いたドレスを着ているのに。
商人や職人がまじめで正直であると賞賛している。
旅先で露天風呂の混浴場面に出くわし、これにはあきれているが。

モース博士は遺言ですべての蔵書を東京大学に寄贈した。
関東大震災で東大の書庫が焼失したことに心を痛めていたという。
3度の来日の後、40年後に亡くなるまでモース博士は日本を訪れることはなかった。
その理由として、新鮮な感動を胸に留めておきたかったからなのでは、とされている。

モース博士は日本にダーウィンの種の起源を伝え、考古学を築きあげた。
報酬も相当得たが、お金のためだけではなく、
未開の地、日本を愛し、そして、その地の学生達に、少しでも知識を授けたいと
大志に燃えて、学生からも慕われ、教育者として大学の期待も受けていた。
自分が最も輝いていた時代の日本、
後に単なる観光客として来訪したくなかったのかもしれない。

今では日本、海外からの来訪者や長期滞在者は増えたものの、
やはり少数派、欧米からは遠い国だ。
外国からの来館者はそんな自分とモース博士の気持ちを重ねるのだろうか。

1996年、モース博士の120年後に初来日したエリック・ベネイ。
その後、インタビューで「ライブで行って好きな国は?」
と聞かれると、「日本。人々が慎み深くて、独特の文化がある。」と答えていた。
「何もないところ」の例えによく使われるウィスコンシン州ミルウォーキー。
田舎町で生まれ育ったエリック・ベネイにとってCDが発売され、
初めて来日した日本はモース博士ほどではないにせよ、
数々のカルチャーショックがあったに違いない。
そしてモース博士との共通点は、そこに自分を必要とし歓迎する多くの人達が、
待っていてくれたことだ。

Eric Benet - Chocolate Legs

2009-08-21 09:10:56 | エリック・ベネイライブ(日本以外)
『bmr』9月号のニューオリンズ、エッセンスミュージックフェスティバルの記事、
エリック・ベネイのショウ、一人は1st、2ndともに長蛇の列であきらめ、
もう一人の方は「2ndの"Chocolate Legs"の辺りだけ観た、やたら受けていた、
さすが99%ブラックピープルの音楽祭」と書かれていた。

この日の1st、長年エリック・ベネイのショウを観続けてきたファンたちが、
今までのベストに入ると言っている。
日本の記者の方達に観ていただけなかったのは残念。

『疲れきって家に帰ってきた日、
君がチョコレート色の足で包んでくれれば、それだけで癒される』
というこの曲、「それなら、チョコレート色の脚を持っていない人は?」
という質問にエリック・ベネイ、「チョコレートでもいろいろあるでしょ?
ホワイトチョコとか、ビスタチオとか。」
発売したばかりの頃のインタビューでは言葉に詰まったエリックの代わりに、
DJの女性が、「白い脚のシスターはたっぷりと、黄色の脚のシスターは少し、
色を塗ればいいじゃないの」
ですから、この曲はすべての色の足の方に通用します。
もちろん、あなたの足もね!

7/3の1st、思わず涙して隣のリサに背中をさすられた『チョコレッグ』
今一度観返してみる。
みんな、サビの部分だけじゃなくて、ほとんどの歌詞を一緒に歌っている。
エリックがジャケットを脱いだ時に上がる歓声。
シャウトしている人もいるが、じっと聴く人も多かったこの曲。
そして最後の部分、歌う時に間を取るエリックの得意げな表情。
何もかも、懐かしい。
来年もエリックにエッセンスに出てもらい、ファンクラブのみんなとも再会したい。
でも、来年はスーパードームのラウンジじゃなくて、メインステージに出演かな?

Eric Benet - Chocolate Legs



Let's dance "The Hunger"

2009-08-20 10:07:25 | 私の日々
バスの中で老婦人二人が会話している。

健康のために何かやりたいけれど、
人から薦められたものをやっても自分に合うとは限らない、
今まで、ヨガもやってみた、セラピスもした、
もう一人が口を挟む、「それはピラティスじゃない?」
そう、そう、ピラティス。とても良いと言われたけれど、ピンとこなかった、
自分にあったものを探さないとね。最近、太っちゃって。
後1キロ、減らしたいんだけれど、これが減らないんだなぁ。

聞いていて微笑ましい。
ほんとうにその通りだと思う。
楽しくて、やる気が起きて、ちょっとは負荷をかけることも必要だが、
無理があるようではいけない。

NHKで、一日の間に何回か体操をやっていて、実家の母などは、
これを利用している。
一緒にいる時は、やってみるが、NHKのリラックス体操じゃあ、
モーティベイションに欠ける。
ビリーズブートキャンプ、何とかやり通したが、もう一度繰り返す気にはなれない。

エリック・ベネイは一時は体を鍛えることにかなりはまっていたが、
今でも、定期的にジムでトレーニングしている。
筋トレというのも私は苦手だ。
夏痩せする人もいるらしいが、私は確実に太る。
カロリーの高い飲み物、糖分が多い飲み物をたくさん飲んでしまう。
夏は冬より代謝が悪くなっているので、太りやすいとも聞いた。
唯一、スイミングだけは続けているが、多くて月に4回ほどのペース。
おまけに水泳に痩身は期待できない。
何か、シェイプアップ効果のあるお勧めのワークアウトがあったら、
教えて下さいね!

エリックの曲なら、運動する気も起きそう。
しかし、このアマカのダンス、
筋肉痛どころか、骨折しそうに難しい。
Amaka



bmr(black music review)9月号

2009-08-18 21:01:19 | 私の日々
nkmrakikoさんから、8/10発売の『bmr』、
マイケル・ジャクソンの追悼、そしてエッセンスの記事、
エリック・ベネイやマックスウェルについての記載もあり、と教えてもらう。
小さな書店では売っていなくて、今日、ようやく大型店にて入手。
マイケルの子供時代からの記事は読んでいてセンティメンタルになる。
このことを語りだすと、長い話になるので、Essennceに関してに絞る。

ニューオリンズ、ルイジアナスーパードームで7/3~5に行われた
エッセンスミュージックフェスティバル、大箱のメインステージの席を予約してチケットを買う、
そしてキャパ300人ほどの4つあるスーパーラウンジは、スタンディングで、出入り自由。

マックスウェルがメインステージなのに対して、エリック・ベネイは、スーパーラウンジ。
エリックのショウ、1stはぎっしりで、身動きが取れず、これ以上人が増えたら、
どうなるのかと不安を覚えるほどだった。
2ndは、少し余裕が出て、後ろから押されたりせず、落ち着いて観ることができた。
後から入場制限が行われていて入れない人がいたと聞いてはいたが、
記事には、1st,2ndともに入り口は長蛇の列であきらめたと書かれていた。
ずっと中にいたので、気付かなかったがそれ程の混雑だったとは。
本来はメインステージに出ても良いはずが、ラウンジとはファンの間でも、複雑な心境
(近くでエリックを観られるのは嬉しいが、エリックが過小評価されているのは納得できない)
「なぜマックスウェルがメインステージでエリックベネイがラウンジなのか」
という思いもあったが、これ程までの人気のショウだったならエリックも本望だろう。

コカコーラスーパーラウンジ、Eric Benetの前に男性1人、
女性3人のパーフォーマンスがあった。
最後の二人がとてもユニークだった。
どういう人かと思っていたら、記事に解説が書かれていた。
一人はマーヴァ・ライト、
前月に心臓発作を起こしながらのこの日のライブだったそう。
巧いんだけど、観ていてやたら可笑しい。
そしてもう一人はこの人。
名前は分からない。こちらもすごい迫力だった。
アメリカのこの業界のアーティストの層の厚さを感じさせるステージ。


マックスウェルに関しては、記事を読み、ほとんど呆れてしまった。
噂には聞いていたが、機材や会場の都合ではなく、自分の勝手であれだけ待たせたとは!?
新作のリリースパーティーをフレンチクォーターでやっていて遅れただなんて信じられない!
開始予定時刻表には、Maxwell、11:45pmとある。
記事には1時と書かれているが、1:15amに「まだ出てこない~」
とメールでやり取りした履歴、携帯に残っているので、
実際、始まったのは1時半を廻っていたと思う。
みんな、辛抱強く待っていたとあるが、それは良いお席の方々なのでは。
私の座っていた$50の席の人達は帰り始め、ステージ最左端のドーム頂上から、
頂上中央付近に移動することができた。
始まってからも周りは徐々に帰り、私達も2時には席を立った。
記事には終了した時刻は深夜3時とある。

しかし、これほど勝手放題でも許されてしまうマックスウェル。
いったいどういうアーティストなんだろう?
エリック・ベネイは自分の都合でショウの開始時間を遅らせたこと、
一度もない。

エリック・ベネイ@Essennce Music Festival 7/3 2009
http://blog.goo.ne.jp/ak-tebf/d/20090718
ルイジアナスーパードーム、メインステージへ
http://blog.goo.ne.jp/ak-tebf/d/20090720

1.5泊4日間、香港激安ツアー

2009-08-16 20:12:14 | その他の旅
夏休み、近場でも一泊位したいと、探し始めたのが、7月末。
どこも良さそうな所はいっぱいだし混み合いそう。
インターネットをいじっているうちに「羽田から香港激安4日間」
というのを見つけた。

羽田空港を8/13の夜8時半に発ち、現地時間の翌8/14の12時10分頃に香港着。
ホテルに着くのは日本時間の午前2時半頃。寝るのは3時半頃になるか。
8/15の午後10時にホテルを出発、翌16日の12時半の飛行機に乗り、
羽田着が日本時間の午前6時頃。 1・5泊4日間、激安香港ツアー、
ホテル代1.5泊と航空券込みでしかも、お盆の時期この値段は破格。
企画を請け負う旅行社に連絡すると、まだ空席はあるという。
いったい何が落とし穴なのかと思うと、それはホテルだった。

泊まるホテルはリーガルオリエンタル、旧名称は「エアポートホテル」
旧空港に面しているので、便利なホテルとして親しまれたという。
それが新空港ができてから、当然、お客も激減し、
近くに地下鉄の駅もなければ、九龍の繁華街からは外れ、香港島にも遠い。

香港は返還前の10年間に3度ほど行った。
最初の2回は九龍の中心部、チムサチェイに泊まったが、最後に行った14年前、
返還の前年は香港人気が過熱していてホテルの値段も上がり、中心部が取れず、
地下鉄で一つ先のジョーダン駅の近くに泊まった。
地元の人達で賑わう街の様子も活気があり楽しかった。

返還後、新空港になってからも行っていない香港。
かつて香港の夏は蒸し暑いと言われ敬遠されたが、今は日本と大差はないだろう。
家からそう遠くない羽田から発つというのも興味はあり、行くことにした。

品川で乗り換え京急線で羽田空港へ。
羽田の国際線ターミナルは国内線から更に奥。
まるでバスの発着所。国際線どころか国内線のターミナルにも見えない。
韓国、香港、上海また夏季のみグァム行きのチャーター便も出るらしい。
液体のチェックもなく、博多にでも行くノリで飛行機に乗り込む。
左右2列、真ん中3列の飛行機は小さい。
全日空のスチュワーデスさんたちは優しくて笑顔がある。
こういう飛行機に乗るのって久しぶり。
「綺麗なお姉さんばかりでいいわねぇ。」呟くと
隣の夫「その発想、おばさんじゃなくておじさん化している」
荷物を持ち込みにしたが、飛行機が小振りのせいか行き帰り共に、
預けた人も待ち時間なしですぐに受け取れていたようだ。

旧空港は夜着くとまるで銀座の晴海通りに着陸していくような高揚感を覚えた。
空港も胡散臭く、街中は優雅な部分と怪しげな世界が共存し、
香港のその雑多感が好きだった。
新空港は近未来的な建築物。市内までも40分程かかるようになった。
香港はサーズ後に、「町をクリーンに」をスローガンにしてきたそうだ。
そのせいか妙に整えられ、また以前より日本料理やエスニックの料理店も増え、
シンガポールに似てきた印象がある。
香港島も九龍もやたら人が溢れている。中国からの観光客が多い。
そしてあちこちで建設工事、道路工事が行われている。

唯一、泊まったホテルの近辺には旧香港の名残があった。
ごちゃごちゃした建物と、得体の知れない路地。
建物の外には各階にクーラーの室外機とプランターが置かれている。
以前はチムサチェイもこんな景観が見られた。
ホテルの部屋は空港跡地に面していて野原が広がっている。
滑走路の残骸もあり。
左右には山と高層ビル群が見える。
近くには九龍城を壊して作った公園がある。
魔の巣窟、香港のカスバと言われた九龍城跡と旧空港跡地に挟まれ、
市場の前に立つホテル。

周りの市場、野菜果物、肉魚が積まれている。
そして車の修理工場や専門道具店。
タイ料理、インド料理、いろいろな種類の中華料理屋、
定食屋やテイクアウトの店。
カスタードタルト、焼き立てを買う。一つが約30円。
露店でライチを一枝、約100円。物価は安い。

朝食を食べようと入った店、セットメニュー約300円。
出てきたものは、コーヒーとハムエッグ、トーストにチキンラーメン。
安価なのはありがたいが、2日しかいられない香港滞在がこれでは寂しい。
翌朝は鶏や豚を捌いて料理している露店で台所にある物を指差し、
お粥を頼む。言葉はわからないが、店主が「それだけじゃ、物足りないだろう?」
と店の中の物を目で示す。豚のローストを指す。
こちらは両方で200円ほど。
夫は鶏肉に葱ソースが添えられた掛けご飯とビール。
こちらは両方で400円位。サービスでゆで豚を3切れほど食べさせてくれた。
店の前には子豚の丸焼きが。テイクアウトで買物に来る人も多く、
美味しそうな物がたくさん並んでいる。


広東語は「ムコイ」(Please、Excuse me)「ト-チェ」(ありがとう)
「マイタン」(会計)「レイ ホーマ?」(How are you?)
[ホーセイ」(美味しい)「ホー、ホーセイ!」(すごく美味しい!)
しか知らない。
「ムコイ」は万能語だ。
空港で前の人達が並んで歩いていたら、
「ムコイ!」と叫ぶと、道が開ける。
香港映画『インファナルアフェア』では、「ムコイ」が連発されていた。

二日とも、お昼頃からバスで九龍のチムサチェイ、その後、地下鉄で香港島に移動。
初日は夕方からライブハウスやバーの集まる夜の街、ランカイフォンへ。
ライブハウス、R&Bの聴こえてくる店があれば当然入ったが、ヘビメタがガンガン唸っている。
ソウルバーがあれば、エリック・ベネイをリクエストするが、それもない。
外にテラスがあるビアバー、明るい内からハッピーアワーでピールを飲む。
そして14年前に食べたピータンやガチョウのロースト、
鮑の蒸しスープが忘れられない味のYung Keeへ。
以前は落ち着いた2階で食べたが、1階も混雑の中、きちんと統率が取られ、
きびきび働くスタッフの動きは見ていて気持ちが良い。
チャーハンやワンタンも食べたいし、マンゴプリンも追加したかったが、
バーで飲みすぎたせいでお腹が一杯に。残念!

二日目は昔に行った飲茶の店を探したが、
見つからずに暑さの余りマンダリンホテルへ入る。
ここは観光客でごった返すペニンシュラと違って落ち着きがあり、
地元の人に人気があった。
しかしサーズが香港で流行った年、香港スターが飛び降り自殺する事件があり、
その後、全室バルコニーを取り払い、リニューアルオープンした。

香港に行くといつも夫に「アフタヌーンティーだけは勘弁してくれ。
香港に行ったら絶対に中華で通す。」と言われていた。
待つこと20年、ようやく初めて香港でアフタヌーンティーをする機会に恵まれた。
私はアフタヌーンティーセット、夫は飲み物のみを注文する。

お寿司風の形に整えられたそれぞれ違う種類のパン、
サーモン、生ハム、きゅうり、等で巻いてある。
可愛い型の暖かなキッシュ、ミートパイ(4種のメニューからチョイス)
小振りの濃厚なチーズケーキ、フレッシュなマンゴがジューシーなタルト
(こちらも4種からチョイス)
熱々のスコーン二種にストロベリーの香り豊かなジャムと、クロティットクリーム。
どれも素晴らしくお洒落で美味しい。お菓子ではなく前菜にもなる。
私はアールグレイティーにしたが、夫は最初はビールで次はワイン。
赤ワイン、日本の2倍位の量がワイングラスに並々と。
3時からのアフタヌーンティー2時半頃に入ったが飲み物は先に出され、
3時過ぎた頃にはすぐに満席になっていた。
それでもペニンシュラで見かけるような観光客の行列はない。
外は暑くて室内はエアコンが効き過ぎの香港、
さすがマンダリンの冷房は、適温で心地良かった。

街を歩いていると「足マッサージ」「全身マッサージ」の立て札を持つ人がいる。
初日はチムサチェイで雑居ビル、手で開けるエレベーターで上階へ。
約1300円で50分のフットマッサージとのことだったが、
10分は足湯、30分の足マッサージと10分と言う筈が5分の肩と頭。
(私の方が上手にできるかと思う程の腕だった)
夫の足は二人掛り、しかし携帯で喋ったりしながら、片手だけ動かしている。

翌日はセントラルで45分の全身。
やはり路地裏の雑居ビルの上階、夫と二人、二人分のベッドが並んだ小部屋で
用意されたルームウェアに着替えて待つ。
うつぶせの状態。周りが見えないだけに手荷物が気になる。
これってこの年でも女一人だったらちょっと怖い状況。

その後、タクシーでホテルに戻る。
土曜日のせいか、道は渋滞している。
香港島からトンネルを抜け、九龍。
そして旧空港のあった九龍糖のホテルへ。
香港のタクシーは安く、24時間割増料金もない。
かなり乗っても、約1500円位。

ホテルから歩いて2~3分。
一時期、話題になっていた店、創發潮州飯店に行ってみる。
一昨年、食中毒を出してから、店の雰囲気が面白みがなくなったそうだが、
外に生簀があり、蝦蛄、海老、蟹、マテ貝、ほら貝、太刀魚、マナガツオ。
値段を聞かないで「時価」という魚を注文して、
お会計で唖然とした経験があるので、すべて値段を確認しつつ注文する。
海鮮料理が売りのようだが、それなら香港から船で1時間余り、
長州島の港の市場で選んだ魚介類をそのまま料理してもらった時の方が美味しかった。
全体的に塩味が濃く、作り方が荒い。
揚げた太刀魚を食べようとして夫は箸を折った。
割り箸ではない、プラスティックの中華箸。
この太刀魚、二人とも一口しか食べなかった。
生臭くて揚げすぎ。ちなみに夫はこの手の食材を扱うプロだ。
その他の物もお腹が一杯なのではなく、口に合わずに残した。
フカひれとチキンのスープだけは美味しかった。
この店に来ることは二度とないだろうと、店先で記念撮影。
夫を撮った時、横を通りカメラに収まった女性、
今度は私を撮る時も、横切り、両方の写真に収まった。

荷物を預けてあるホテルに戻る。
空港に向かうまでまだ2時間以上ある。
コーヒーショップにもバーにも入る気にはなれない。
かなり眠くなってきた。
ロビーで寛ぎながら、飽きると時々、ホテル周辺の夜の街を散策する。


空港に着いたのは10時半だった。
上海灘で買ったコロン、オンスで表示があるが100cc越えているか心配に。
チェックインカウンターの女性は持ち込みは無理と言う。
箱に小さな字で100ccと書かれたのを発見。
そのまま持ち込むことにする。
拒否されたら時間はたっぷりあるから、ここに戻って荷物を預ければいい。

チェックイン、引っかかったのは夫だった。
先に行ったはずなのに、前にいない。
振り返るとボディーチェックを受けている。
金属探知機のみで身体検査はない。
ジッポーのライター、小銭をポケットから出している。
ライターを取り上げられるかと思ったら、持込OKとなった。
アジア航路はあまり厳しくないようだ。

搭乗寸前までカートで荷物を運べる。
免税店がここ数年、利用した空港の中では最も充実していた。
一昨年、機内販売で買ってから使うようになったボビー・ブラウンのコーナーがある。
化粧品の値段、物によって日本との価格の比率に差があるのが意外だ。
カードで買物をする。
チェックが済んで「アリガトウゴザイマス、バ~イ。」と言われるが、
カードを返して貰った覚えがない。
催促すると「オー!」とキャッシャー下から出してきた。
「あれってわざとかな?」と夫に聞くと、「いや、単に忘れたんだろう。」

16日、12時半に香港を離れる。日本時間では1時半。
夫は爆睡しているが、私は行きに観ていて着陸態勢に入り、
途中で終了してしまった映画、『ソリスト』を観る。
ジュリアードでチェロを専攻していたジェイミー・フォックスのその後の人生と
新聞コラムニスト、ロバート・ダウニーJr、との物語。
引き続き、リーアム・ニーソンが、パリで行方不明になった娘を探しに行く
『96時間』も観てしまい、またしても一睡もせず。
『レオン』と似ているところがあると思ったら、脚本と製作がリュック・べッソンだった。

羽田に着くと、行きは海風と湿気で蒸し暑かったのが、
早朝は風もあり、爽やかだ。
機内でも夜が明けていく雲海の眺めが神々しかった。
大島に始まり、三浦半島、房総半島も地図通りの形に見ることができた。
入国も税関も空いている。カスタムを抜ければすぐに外。
帰りはタクシーに乗る。
20分もしないうちに我が家のドアの前に着いた。
成田ならまだリムジンにもエクスプレスにも乗れていない時間。
夫と共に海外旅行をするのは実に10年振りのこと。
パスポートの日付を見ると、香港入国は8/14、出国は8/15とスタンプされていた。

金子三勇士「チャイコフスキー ピアノ協奏曲第1番」8/11・12

2009-08-13 07:04:41 | ピアニスト 金子三勇士
中学一年生の時にロシア映画「チャイコフスキー」を最初、母と観に行った。
その後、学校全体でこの作品を観ることになり、二度映画館で鑑賞した。
12歳の私にとってこの経験は大きかった。
難解な映画が一度ではなく、二度観ることで理解が深まり、
そして映画の中に出てきた「ピアノ協奏曲第1番」「交響曲第6番 悲愴」
母がこの二枚のレコードを持っていたこともありその後、繰り返し聴いた。

映画の印象としては明るい画面で描かれたスケールの大きなロシアの風景や建築の美しさ、
そしてもう一つは、それとは対照的に暗い画面になるチャイコフスキーの苦悩の部分、
またチャイコフスキーを長年に渡って援助しつつ、
一度も会うことのなかったとされるメック夫人の存在。
映画の中では二人が列車に乗り合わせ会話していたかの場面がある。
二度目に観た時、これは二人の間を象徴的に描いた場面、
会うことはなかったが、会っているかのごとくにお互い親しく感じていた、
と解釈したが、親愛の情を持ちながら一度も合わずにいた二人の真意は、
12歳の私の理解度をはるかに超えていた。

11日の日は夫と友人のIさん、そしてIさんの18才のお嬢さんとそのお友達とご一緒した。
若いお二人はそれぞれコントラバスとバイオリンをされている。
Iさんは私と同世代なのだが、やはり初めてクラシックの曲として認識したのが、
このチャイコフスキー「ピアノ協奏曲第1番」だったそうだ。
夫は最初の第一楽章の繰り返し使われるテーマ、
その部分だけで後半は聴いたことがないようだ。
第一楽章も勇壮で華やかだが、第三楽章の憂愁はこの楽曲に甘美な、
そして聴き通した後の爽快感をもたらす。

金子三勇士は登場した。
ハンガリーでこの日のために仕立てた燕尾服を身に着けて。
ここ一年の間に、多くの経験を重ね、大舞台でも臆することなく毅然としている。
最初のフレーズが始まった時、困ったことになったと思う。
自分の思い入れの深いこの曲に金子三勇士が手を付けたかと思うと、
それだけで涙腺が緩くなってきた。
まだ、まだ始まったばかり。今からこれでは最後まで持たない。

第一楽章の終わり、第二楽章に入った時に、はっとした。
これは金子三勇士にとってたいへんなチャレンジなのではないか。
ここのところ、ソロのリサイタルが多かった。
またオーケストラをバックの演奏は一年に数回、
そしてその時は同じ学校のメンバーたちが彼をバックアップする。
したがって、どちらかと言えば、みんなが彼に合わせ、自分は引っ張っていく立場。

今回、中盤は三勇士が新日本フィルのメンバー達とどのように融合しようかと、
試行錯誤しているかに見えた。
指揮者がいて、コンサートマスターがいて、そして後ろに控える大所帯。
みんな、それぞれ自分の仕事をしながら、金子三勇士のお手並み拝見、
といったところだろうか。

ソロのリサイタルで自分一人で観客を惹きつけ続け、
満足させる演奏会を行うのも偉業だ。
しかし、普段、一緒に組んだことのないオーケストラ、指揮者と同じ壇上で、
一つの曲において融和させるのもたいへんな取り組みだという事を
この時に聴きながら、気付いた。

第三楽章序盤において、それは起きた。
三勇士の体の向きはピアノ正面というよりも、指揮者、オーケストラに向け、
開かれていた。
音楽家にしかわからない、一つの瞬間があるのだろうか。
演奏しながらお互いに相手を認めて、受け入れる瞬間。
その後は、全体のハーモニーが完璧に調和し、その中で、
三勇士はのびのびと演奏を終えた。

三枝成彰さんの解説で、クラシックのコンサートでも自分の感動を素直に表してかまわない、
一つの楽章ごとに拍手しても、立っても、前まで押しかけてもかまわない、
とお話されていた。

当然、私は立ち上がり拍手を送った。
主人と友人も立ち上がった。
金子三勇士、顔には出さなかったが、こちらに気付き目で微笑みを返してくれた。
私はとてもチャイコフスキーのメック夫人のように謙虚にはなれない。
応援する気持ちははっきりアピールさせて頂きます。

10代の音楽家の一年の成長には目を見張るものがある。
金子三勇士、また一回り、大きくなってこの日の演奏会を終えた。

8/11は、中央から左よりで鑑賞したが、翌日、12日は、右よりで観る。
金子三勇士と新日本フィル、最初から寄り添うように息が合っていた。
その中で第一楽章は力強さが増し、第二楽章は軽やかで弾むように楽しげだった。
第三楽章、コンサートマスターと三勇士の姿が重なる。呼吸が一つになっている。
そして、エンディングを迎えた。

この演奏会を聴き終えて、自分の子供の頃を振り返ることになる。
中学一年の私に「チャイコフスキー」の映画を観る機会を与えてくれて、
たくさんのクラシックレコードも持っていた母。
8/11、私の隣の席は小学校低学年の少女と母親だった。
場内には小中学生、高校生も多く見られた。
この日の演奏が何十年の先までの彼らの音楽観や生き方に繋がっていく。

8月11日のこと

2009-08-12 08:41:34 | 私の日々
いったいアメリカで日本の様子はどのように報道されたのだろうか。
無事を心配するコメントやメールを貰ったので、facebookに、
「地震二つと台風一つが来たけれど、もうだいじょうぶだから。」
とステータスを出すと、薮蛇になってしまい、
「地震だけかと思ったら台風も来ていたの?」とか、
「どういう状況か連絡してほしい」とか、たくさんのコメントを貰った。

夜になってカミュラからショートメールが携帯に届く。
「ニュースを聞いてから心配で仕事が手につかない。
無事なら連絡してほしい。
あなたや日本の人の安全を祈っている。」

実は昨夜、帰ってきてこういうコメントを読んでいるうちに、
泣いてしまった。
ただ、「良かった、無事で。」そして"Thanks God!"とか、
書いてくれている人もいれば、
「どんな環境の災害もダメージも私達の愛と神の力であなたを守る。」
とまで書いてきてる人もいる。
信仰の深い人ってすごいなぁと思った。
キリストを信じている人もアラブの神に帰依している人も、
"Thanks God!"

東京も大きな被害を受けたと誤解されるような報道が北米であったのか思うが、
ファンクラブのメンバー達の優しい気持ちに胸が熱くなった。
自分に向けて貰った祈りを被災地の方達へと運びたい。


The Earthquake

2009-08-11 06:34:21 | 私の日々
9日、夜8時頃の地震についてお見舞いのメッセージを
ニューオリンズのエッセンスミュージックフェスティバル、
エリック・ベネイのファンクラブの集いで知り合ったリンから受け取った。
「日本の様子はどうなの? だいじょうぶ?
他の皆もあなたのことを心配しているから無事なら
facebookかmyspaceでコメントを出してね。」
早速返事をすると、「ほんとに無事とわかって安心したわ。
Essennceの時はとっても楽しかったわね。
私の人生にとって忘れない出来事になった。
あの時の皆、一人一人の笑顔が今も目に焼きついている。
そしてあの日、一緒に過ごした人は、自分にとって大切な友達になったの。」
私も同じ気持ちだ。

ありがたいことだと思った。
今まで遠い国だった日本の出来事を私を通して、
身近に感じ案じてくれている。
自分自身もそういうことがある。
ベルギーの人達と親しくするようになり、
それまで知らなかった政治や言葉の分裂の問題、
またR&B、そしてエリック・ベネイのファンになり、
アメリカにおけるアフリカ系の人達の立場を人事とは思えぬようになった。

金子三勇士というクラシックピアニストの存在で、
まだ行ったことのないハンガリーという国も今は気になる。
一昨年、ハンガリーの動乱の映画を観た。
ロシアの占領下における革命の物語だった。

今日は「はじめてのクラシック」
東京国際フォーラムでのチャイコフスキーがテーマの演奏会。
ハンガリーの血を引き、かの地で音楽を学んだ金子三勇士が
ロシアの作曲家、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を演奏する。
地震の時も、この曲を練習していて、ピアノの振動かと思ったという三勇士。
ここのところの悪天候を吹き飛ばす迫力の演奏を聴かせてくれるに違いない。

PS:
今朝の地震、そして台風のこと、
その後も深刻なお見舞いのメールを受け取っている。
いったいアメリカでどのように報道されているのだろうか。
ハリケーンカトリーナのような台風と地震が同時に来てしまったと、
思われているかのようだ。
それとも、東海地震が起きると予想されているのにもかかわらず、
私達の感覚、地震に関しての危機感が麻痺してしまっているのかも知れない。
改めて個人レベルの災害対策を検討しないと。