Me & Mr. Eric Benet

私とエリック・ベネイ

Eric Benet、来日決定

2015-08-05 22:10:16 | 私の日々
猛暑の中、嬉しいニュースが飛び込んできた。
エリック・べネイ、東京公演が10/16.17.18とブルーノート東京、
名古屋公演が10/14と決定する。
昨年の5月から約1年5ヵ月振りの来日となる。
今回もエリックべネイの来日を実現させてくれたブルーノートに感謝。

早速エリック宛てにツイートするとリツイートしてくれている。
相変わらず早起きのエリック・べネイ。
本人も久々の来日を楽しみにしてくれていると解釈する。

そこで「今度はインディアも連れてきて!」と。
エリックの娘インディアはずっと日本に来たがっていた。
「でも学校がある時は『休んではダメ』ってお父さんに言われてるの。」
とお返事を貰ったことがある。
今年の初夏に大学(USC)を無事に卒業したIndia。
初めての親子そろっての来日が叶うかもしれない。
うだるような暑さの中、私は妄想を始めている。
いや、妄想、夢ではなく、ぜひ実現してほしい。

ここのところ、70年代風のフォトシューティングや、
ミュージックヴィデオの撮影が続いているエリック。
新しいアルバムのリリースもそろそろアナウンスがあるのか、
などと期待していたところだ。
来日の時にサプライズとして新曲や、
あらたなカヴァー曲も聴かせてくれるかもしれない。

涼しくなる頃にはエリックべネイがやって來る。
そう思うとこの夏も乗り切れるというパワーが漲ってきた。


スズランの日/Jour des muguets

2015-05-01 19:03:13 | 私の日々
「フランスでは5月1日をスズランの日としていて、
相手の幸せを願ってスズランの花束を贈る習慣がある」
ともう30年以上前から話だけは聞いているが、
実際にその時期にフランスに居たこともないし、
周囲のフランス系の場所や人においても、
特にそれらしきイベントの雰囲気を感じたこともない。
むしろメーデー、労働者の日としてマニフェスタシオン、
デモや街頭演説をする日のイメージの方が強い。

取り立てて騒ぎ立てるほどのことではないが、
昔からの伝統として残っている、
日本の菖蒲湯や柚子湯の習慣のようなものではと思ったりする。

スズランは大好きな花、
4月中旬からフラワーショップで切り花や鉢植えが置かれていると、
思わず手に取りたくなる。
強い香りの花々が年々苦手になってきているのに対し、
ほのかな香りで見た目も清々しいスズランの姿に惹かれる。

子供の頃、たぶん小学校低学年だったと思うが、
祖父母の家に遊びに行っていた時のこと、
祖母宛に小包が届いた。
開けるところを見守っていると、
箱の中からスズランの花が出てくる。
子供心に小包から花が出てくる様子はマジックを見ているようで目を奪われた。
自分の記憶の中では何か品物が入っていて、
その上をスズランが覆っていたように覚えている。

それにしても今のように送った荷物が翌日に届くような時代ではない頃、
花が瑞々しいままで送られてくる、
いったいどのようにしてそんなことができたのか、
祖母になぜ北海道に知り合いがいたのかなど、
いろいろなことが不思議に思えてきた。

母にそのことを尋ねてみると、
送り主は祖父の仕事関係の方の奥様でお里が北海道、
そして私が切り花だと思っていたのはスズランの苗だったと教えてくれる。
なんて素敵なんだろうと思って見ていた私に対して、
毎年恒例の贈り物だったからか、草花があまり好きではなかったのか、
祖母の受け止め方が淡々としていたのも記憶に残っている。

苗が届くといつも庭に植えていたそうで、
祖母も亡くなり、その方とのお付き合いも途絶えて、
花が送られて来なくなってからも、
毎年、しばらくはこの時期にスズランが咲いていたそうだ。
それがいつのまにか花が咲かなくなり、
同じ場所に何回か、余所から取り寄せたスズランを植えてはみたけれども、
根付くことはなく、その内に諦めてしまったと母から聞いた。

スズラン、名前の響きも可愛らしいし、
漢字で書くと鈴蘭となるが、この字体にも美しさを感じる。
フランス語では"muguet"、はて英語では何だったかしらと思い、
辞書を引いてみる。
"lily of the valley"と出てきたのには驚く。
それならバルザックの「谷間の百合」、英語のタイトルの"The Lily of the Valley"
はスズランのことを勘違いして違訳してしまったのかと。
映画や小説のタイトル、今とは違い情報量の少ない時代、
様々な間違った訳のタイトルや字幕がある。
フランス語での「谷間の百合」のタイトルは"Le Lys dans la vallee"になっていて、
これを読んで納得する。
英語にするのならどちらかと言えば"The Lily in the Valley"
この方が正しいニュアンスだったのかも知れない。

百合の花は聖書の中でもシンボルとして「野に咲く百合の花を見よ」
などと引用されるが、これは百合ではなく、アネモネの花だったという説もある。
白い百合の花と鮮やかなアネモネではまるでイメージが異なってくる。
花にまつわるエピソード、誤訳についてのエピソードには事欠かない。
そもそも見たこともない植物を翻訳するのだから。

スズランの季節は初夏の訪れを象徴している。
肌寒い日々は終わり、着る物も食べる物も変化していく。
梅雨に至る前の一年で最も心地良い時期。

オレンジ色の水

2014-10-31 16:54:47 | 私の日々
アメリカ人の男性と結婚してスイスに住む友人から一時帰国していると連絡がある。
ロシア出身で今はスイスに住む仕事仲間も交えて、夕食を共にしようと誘われる。

「アレクサンドルはとてもエネルギッシュで素敵な人よ。
ぜひ、紹介したいわ。」と言われて、
ウォッカをがぶ飲みする体格の良いロシア男を想像し、
私は少し引いていた。
友人から次に貰ったメールに「アレクサンドラはコンラッドに泊まっているので、
そこで待ち合わせをしましょう。」とあり、
最後が「ル」ではなく「ラ」で終わっていることに安堵する。
男性ではなく、女性だったのだ。

待ち合わせに最初に現れたのはスーだった。
中国系の女性で今はイギリスに住んでいて、仕事がアレクサンドラと一緒だと言う。
「干し柿を買いたいんだけれど、築地市場に行ってみたら閉まっていた。
どこで買えるかしら?」と尋ねられる。
タイ人の友人も柿が大好きで、
日本に來るとたくさん買ってスーツケースに詰め込んでいた。
日本では柿や干し柿は今一つ人気がないだけに意外に思う。

アレクサンドラは登場した。
胸の開いたシックな黒いドレスに豹柄のスカーフ。
まさにパンサーを思わせる女性。
どこに連れて行こうかと思案していたら、
もう既に何度か前を通って入ってみたいお店があると連れて行かれる。
店頭には魚介類の入った水槽が置かれている。

河豚のコースなどの案内が書かれているが、値段も妥当なので入ることにした。
最初通されたお座敷、靴を脱ぐのが苦手かと思い、
テーブル席に変えて貰おうとすると、畳の方が良いと言う。
スイスでは飲めないお酒、食べられない物を食べたいと頼まれる。
私の選んだヒレ酒、ふぐ刺し、ふぐのから揚げなど一つ一つに感嘆し、
写真や動画を撮りたがる。
メニューにある写真からイカの活造りを選んだのは彼女自身だった。
お通しに出た白子ポン酢、英語で意味を説明すると、かなり受けていた。

「もっと違う種類のものも食べたり飲んだりしたい。」と、
近くにあった水槽の貝類を指さすので、
冷酒、ホタテのバター焼き、サザエのつぼ焼きなどを頼む。
サザエには歓声を上げ、自分の胸に引き寄せて写真を撮っている。
芋焼酎はお湯割りを頼むと「匂いだけで味はお湯ね?」
それでも器が気に入ったと喜んでくれる。

最後はうどんすきで〆る。
二人とも食べ物に関心が高く、こちらもメニューを選ぶのが楽しかった。
アレクサンドラは自分たちのためにオーダーしてくれた感謝から、
私の分を持ちたいと言ってくれるのを丁重に辞退する。
こんなことで人に喜んでもらえるなら、こちらこそ嬉しい限りだ。

アレクサンドラとスー、二人とも物理学で博士号まで持ち、
今は製薬会社に勤めている。
スーは香港に生まれたが、返還の時に一族郎党上げて英国へ移住したと話す。
英国ではお湯を沸かすやかんが石灰質で白くなるのに驚いたそうだ。

アレクサンドラは樺太で育った。
「故郷は何もない所だった。でも魚介類だけは豊富だった。
だからこういう食べ物にはノスタルジーを感じる。
子供の頃に大きなボトルに入った飲み水が届くの。
最初にそれはオレンジ色をしている。
2週間待つと浮いている物が沈むから、上澄みを飲むのよ。」
笑いながら話していたが、アレクサンドラの飲み水さえ不自由な生活、
スーの家族全員でイギリスに移ってからの苦労に思いを馳せる。

平和な日本に育った私には想像もつかないが、
大人から見れば困難に思えることも、子供の時には、
水がオレンジ色をしている、
と面白がって捉えられる感性が備わっているのかもしれない、
などと別れた後に思ったのだった。

インド夜想曲:Indian Nocturnal

2014-07-22 21:51:49 | 私の日々
図書室にあったこのDVDをみつけ、懐かしさと共に手に取り、
久々に鑑賞することになる。
原作を読んだ時期を確認すると1991年、
その半年程後に公開された映画もリアルタイムで観ている。

今回、借りたDVDの特典映像、これが秀逸だった。
監督のアラン・コルノーと主演のジャン・ユーグ・アングラード、
映画化された1989年から10年後のインタビューが挿入されている。

失踪した友人を探しにイタリアからロンドンを経てインドを訪れた主人公、
不可思議な旅の持つ魅力と友人ではなく自分探しとも取れる物語。
原作はアントニオ・タブッキ、翻訳は須賀敦子。
DVDがきっかけで改めて原作も読み返すことになるが、
後書きに訳者がこの物語を知ったのは1990年の春、
フィレンツェの書店で知人から「騙されたと思って読んでみて。」
と渡されたと記されている。
1984年に書かれた作品がこのような経緯を経て、
日本語に訳され、映画もその年に公開される。
須賀敦子が手を付けなければ、この作品を日本語で読むことも、
また日本での映画封切りへの流れもなかったのではと思わせる。



映画は原作に忠実だった。
そしてテーマとして繰り返し使われている曲、
シューベルト:弦楽五重奏曲ハ長調D.956
クライマックスの言葉のない場面で、
常に雄弁に美しく物語りの奥行きを広げていく。
監督はインド音楽が好きだったが、
インドで迷う欧米人の心象を表すのにはクラシック、
シューベルトの静かでありながら死を連想させる、
悩ましく抒情的なこの曲が相応しいと選んだそうだ。
そしてこの曲は監督と意を違えたインド側のスタッフやキャスト達、
をも納得させ、すべてを包み込み和合へと導いたと言う。

イタリアの文学作品を映画化したのはフランス人の監督アラン・コルノー。
彼はインドとこの作品に魅入られていた。
アランは親しみを込めて「アントニオ」とタブッキを呼ぶ。
わけのわからない部分は電話で確認したいとさえ思ったが、
それはそれでそのままに描こうと思ったそうだ。

その他にもインドで女優を見つけようとすると、
自分が綺麗だと思うインド美人は色黒で痩せた女性なのに、
価値観、美意識の違いから色が白く厚化粧、太った女性を紹介されたり、
またボリウッドやインドの舞台俳優が台詞を覚える習慣がなく、
指導に戸惑ったこと、政府や軍との撮影許可の折り合いをつけることなど、
苦労話はつきないが、それでもインドで映画を撮るという得難い体験をしたこと、
この作品を通して刑事物中心の監督から、新たな自分の世界を構築したことなどを語る。



一方、主役のジャン・ユーグは一足踏み入れるなり、
インドに対する嫌悪感を持ち、ずっとぬぐえなかったと語る。
監督には動きや大げさな表情は控え、あくまでも内面で演技することを求められ、
これがさらに彼を混乱させた。自分を見つめる役に入り込み過ぎ、
迷いから自分自身をも見失ってしまい撮影に困難をきたす。
それはタブッキ本人に数年後に会った時にも伝えたそうだが、
タブッキは自分も同じだったと受け止めてくれたそうだ。
10年後の今ならもっとうまく演じられたはずとジャン・ユーグは話しているが、
インドへの畏怖の念や自身の悩む気持ちが素のままに出ているのが、
むしろ映画としては効果的だったと思う。

今回の特典映像のインタビューで最も驚いたことは、
この映画に出てくる病院、駅の構内で死んだように横たわる人々、
これらがすべてエキストラではなく真実の人々の姿であったということ。
低予算の作品ゆえにセットが組めずにそれしか方法がなかったとのことだが、
それが映画にドキュメンタリーのような風格を添えている。

特に原作に出てくるマドラスに向かうバスの待合所でのできごと、
「僕は少年のそばにすわった。
彼は素晴らしくきれいな目で、僕を見てにっこりした。
僕もにっこりした。
その時初めて、僕は少年がおぶっている動物と思ったものが、
猿ではなく、人間だとわかって慄然とした。
それは恐ろしい形をした生きものだった。」
原作では少年の兄とあるが映画では姉となっている。
CGではなく、実際にいた人物から選んだと監督のインタビューで知る。
監督は彼女をすんなり受け入れることができたが、
ジャン・ユーグは強い恐怖心を抱いたまま、
二日続いたこのカットの撮影に神経をすり減らす。
収録が終わった時に監督の胸に倒れ込んで号泣してしまったそうだ。



時を経て自分の中で最初に観た時と解釈が変わる映画がたくさんある。
そういう意味で年を取ることも悪くないと思う。
物語の主題は仮の姿と本質についてで、
幻想『マーヤー』のみでほんとうの姿『アートマン』などどこにもない、
というメッセージが見えてきた。
ボンベイ、マドラス、ゴアなどのインドの土地の風景、
ヘルマン・ヘッセやビクトル・ユーゴの言葉に作品は彩られていく。

映画ではなく本の「インド夜想曲」、須賀敦子の流麗な翻訳に魅惑される。
物語にぐいぐいと惹きこまれ、会話の部分は生き生きとしている。
平仮名と漢字、片仮名の外国語名、時には原文そのままの引用の使い分けが、
巧みなことに息を呑むばかりだ。

原作者のアントニオ・タブッキ、翻訳者の須賀敦子、
映画を監督したアラン・コルノーも既に故人となっている。

マイケル・ジャクソン 五回目の命日

2014-06-25 22:12:00 | 私の日々
2009年6月25日、マイケル・ジャクソンの訃報が届いた。
あれから5年。
仏教では一周忌、三周忌(二年)、七回忌と数えていくが、
十年一昔というだけに5年という歳月はその半分、
もうそんなに時間が経ってしまったかとの重みがある。

その年、2009年はエリック・べネイのファンクラブの集いに向けて、
数日後にニューオリンズでのエッセンス・ミュージック・フェスティバルへと
旅立つ予定になっていた。
マイケル突然の死のニュースにアメリカのファン達も動揺していた。
エッセンスもこのままでは初七日の法要となってしまうかに思えた。

ニューオリンズ、バーボンストリートを歩いていても、
街角ではマイケルの曲が演奏され涙を誘われる。
お店に入ってもクラブでは半生バンドがマイケルの曲を歌っている。
ニューオリンズとヒューストン間の国内線、
アフリカ系アメリカ人のスチュワートはマイケルの顔写真の付いたバッジを
エプロンに付けてサービスする。
空港でもマイケルジャクソン特集の雑誌が並べられていた。

エッセンス、どのアーティストもマイケル追悼の曲を歌い、
メインステージの待ち時間はマイケル・ジャクソンの映像が流れ、
地元のドラムチームもマイケルの演奏を聴かせていた。
2005年のハリケーン・カトリーナで被害を受けたニューオリンズ、
まだ復興も進まず、全米に悲劇的な残像を残したまま、
マイケル急死のニュースが更に街の中に暗い影を落としていた。

今日は渋谷に行く用事があり、渋谷タワーレコードで、
マイケル追悼の店内アレンジをしているとのこと、様子を見てきた。



フロアの片隅に献花台が設けられ、マイケルの映像と音楽が流れる。
想像していたよりもひっそりとした誂えだったが、
それでも音楽史に残る寵児への哀悼の意が十分に伝わってきた。

あの日から5年。
自分の中でもあっという間のようでいて、もうそんなに歳月が流れたのか、
と思うと感慨深いものがある。



マイケル・ジャクソン ライフタイムコレクション@東京タワー
http://blog.goo.ne.jp/ak-tebf/d/20100709

マイケル・ジャクソン 一周忌 
http://blog.goo.ne.jp/ak-tebf/d/20100625

マイケル・ジャクソン「日本滞在1440時間」1987年来日映像
http://blog.goo.ne.jp/ak-tebf/d/20100317

The Long Good-Bye
http://blog.goo.ne.jp/ak-tebf/d/20090826

RIP マヤ・アンジェロウ

2014-05-29 09:34:05 | 私の日々
Maya Angelouが亡くなった。
86歳だった。
画像はオプラの番組に出演した折のもの。
追悼の気持ちを込めて過去のブログを掲載します。
以下の内容を読むと楽観的な人物に思えてしまうかもしれないが、
波乱万丈の人生、苦労を重ねた中でこの一つ一つの言葉が生まれていることを
忘れてはならない。
ご冥福をお祈りいたします。

2010年5/7のブログ
http://blog.goo.ne.jp/ak-tebf/d/20100507

マヤ・アンジェロウ(ウェイトレス、ダンサーを経て作家、詩人となり、
公民権運動にも参加。クリントン元大統領の就任式典では自身の詩を朗読、
マイケル・ジャクソンの追悼式でもクイーン・ラティファが、
マヤのマイケルを送る言葉を読み上げた)
Dr. Maya Angelouは、数年前の4月、彼女の70歳+何歳かのお誕生日に、
オプラ(黒柳徹子のアメリカ版、更に突っ込みと辛口あり)の番組に出演した。

オプラは彼女に「年齢を重ねて行くことをどう思う?」と尋ねる。
マヤは「それはエクサイティングよ!
いろいろな体の変化がある。ほとんど毎日ね。たとえば私の胸とか。」
彼女のバストがウエストの位置につきそうな様子に観客は涙が出るほど笑った。
マヤはこういうユーモアのセンスのある賢い女性なのだ。

Maya Angelou、マヤは言った。
「どんなことが起きて、それがたとえ悪いことでも、人生は続いて行く、
そして次の日はきっと良くなるってことを私は学んだ。

次の3つのことにどう対処するかでその人の人となりがわかる、ということ。
雨の日、ロストバケージ、絡まったクリスマスツリーの電球のコード。

両親に対しては、失った時からずっと懐かしい存在になるということもね。」

「生活をするということと、人生を送るということは違うということも。
人生は時としてあなたに二度目のチャンスをくれることも。
あなたは、あなたの人生をずっとキャッチャーのミットにしてはいけない、
自分から投げることも必要だということ。」

「心を開いて何かを決めた時、それは正しい決断だった。」

「たとえ苦しいことがあっても、心も苦しむ必要はないということ。」

「毎日人と接して、ふれること、
みんな、心からのハグ、気持ちを表してくれる人が欲しいものよ。

そして、まだまだ学ぶことがたくさんあるということも学んでいる。」

「あなたのしたことや言ったことを人は忘れるけど、
そのことでどのように自分が感じたかを人は忘れない。」

**********

さてこの文章を5人の影響力のある人に送って、そして自分も共感するなら、返事をちょうだい、
きっと良いことが起きるわよ、そして他の女性も元気づけてあげられる。
もしやらないと・・・・あなたのパンツのゴムが切れてくるぶしまで下がっちゃうからね!

[みんなのパンツを落とそうと思ってこれを送ったんじゃないのよ、
自分の大切な友達とこの言葉を共感したいと思って送ったの。」
と昨年、ニューオリンズのエッセンスでルームメートだったリーサからこんな携帯メールが来ました。

で私もこれを最後まで読んで下さった方達と分け合いたいと思います。

2010 5/7

「それでも夜は明ける」

2014-03-19 16:43:24 | 私の日々
1853年に出版された本人の実経験を綴った本、埋もれていたこの作品が、
1960年代になり再評価され、監督スティーヴ・マックウィーンがこの物語に惹かれ、
ブラッド・ピットがプロデューサーの一人としてバックアップしたことで、
映画化が実現した作品。

"12 Years A Slave"
アフリカ系アメリカ人の歴史としてというよりもアメリカの国として、
奴隷として使われていた人達の苦しみばかりか、
使っている側もそうとうに病んでいたという事実が重くのしかかる。
主人公は北部で家族も仕事も持ち「自由黒人」として普通の生活を営んでいる。
それが2人の白人に騙され、薬を盛られた酒を飲まされ奴隷として売られる。

生還して本も出しているわけだから、これはネタバレにならないと思うが、
主人公ソロモン・ノーサップ、一人が助かっても、
それは北部の自由黒人という恵まれた立場であり、
あの時代の南部の多くの奴隷が受けていた待遇を思うと救われない気持ちが残る。
突然、日常を奪われたという観点から北朝鮮の拉致被害者にも想いを馳せる。
また女性としての立場の弱さ、ジェンダーの問題も考えさせられた。
奴隷としては、美しく仕事もできる人がそのことで返って災いを招いてしまう。

ロケ地はルイジアナ州、ニューオリンズが中心。
ニューオリンズに二回行っているが、
うっそうと茂る樹木、そこにぶら下がるスパニッシュモス(苔のような植物)
南部の雄大なプランテーション、その陰にはあのようなドラマがあったのかと。
予備知識は持っていたものの生々しい映像を受け止めるのが辛い。

現地ではプランテーション、奴隷小屋は撤去され、農場主が住んでいた大邸宅のみ、
観覧できるようになっている場合が多い。
跡地を見学したプランテーションの中の一つ"Laura"のように、
農場主と奴隷が協調して暮らしていたという場所もあった。
そこはオーナーの住まいは質素で奴隷たちの住居もけっして劣悪な環境ではなかった。
そんな場所もあったということに一筋の光を見出すことができる。

エリックのファンつながりでニューオリンズで一緒の部屋で過ごした女性二人、
今でも連絡を取り合っているが、アフリカ系の人独特の「諦める」という感じ、
何かそれの奥の深さ、ずっと「しょうがない。」と受け入れてきた習慣が
DNAに組み込まれている、それはこういう歴史が刻まれてきたからと、
そんなことまで考えてしまった。

どん底の中でゴスペルを奴隷たちが歌い出すシーンがある。振り絞るように。
あの場面、やはりアフリカ系の音楽はこういうところから生まれてきているのだと、
魂に響くものがあった。

ブラッド・ピット、'96年に「12モンキーズ」でゴールデングローブ賞を受賞している。
ブラピ、注目されたきっかけはボクサー、マイク・タイソンの元妻のデート相手としてだった。
それだけ人種に拘りを持たない平等を絵に描いたような人柄で、
ニューオリンズの2005年、ハリケーンカトリーナの被害に対しても、
"Make It Right"という組織を立ち上げ支援している。

現地でブラッドが中心になって建設している復興住宅を2009年と2011年、
見学してきたが地元の人々はアフリカ系中心の地域ゆえに再建が進まないこと、
自治体がやってくれないことをブラッドはしてくれていると感謝の気持ちを言葉にしていた。

妻のアンジェリーナ・ジョリーも社会貢献を世界的な規模で行い、
おまけに昨年は手術も受けた。
今回は世に出るはずもなかった可能性の高い作品を知らしめたという点と、
ブラッド・ピットへの功労賞的な意味合いの作品賞受賞だろうか。

ちなみにアカデミー賞にノミネートされるような人種問題、黒人問題を扱ったような映画、
エリックのファン繋がりのアフリカ系アメリカ人の女性達、必ずしも評価していない。
「ヘアスプレー」あり「幸せの隠れ場所」など。
今回も助演女優賞をルピタ・ニョンゴが取ったという快挙に対しては素直に喜んでいるが、
作品に対しては納得していないようだ。

作品賞、助演女優賞の他にジョン・リトリーが脚色賞を受賞している。
主演はキウェテル・イジョフォー。
アカデミー賞にノミネートされなかったらはたしてこの映画は日本公開されただろうか。

大統領の執事の涙 Butler

2014-02-26 01:11:19 | 私の日々
全く予備知識のないまま、地元のシネコンの前を通りかかり観ることになる。

綿花畑で働く家族、母親の役、どう見てもマライア・キャリーだと思ったら、
ほんとうに彼女だった。
冒頭の部分だけでセリフもほとんどないがマライアの存在感が光る。
白人の家族に仕える奴隷の子供としての厳しい環境と事件。
しかし農園主の母親(ヴァネッサ・レッドグレーヴ)に救い上げられ、
サービスのプロとして子供の頃から仕込まれる。
この女性との信頼関係が後のセシルの輪郭を形作る。
やがてそこに先がないことを見定めて離れることになるが、
バーテンダー、給仕として仕事に恵まれた結果、
ホワイトハウスのバトラーとして採用される。

「事実を基に描かれたフィクション」とのことだが、
実際に7人の大統領に仕えたバトラーの存在がニュースになり、
実在の人物から掘り起こされた物語ということになる。

大統領や夫人、それぞれの人となりが描き出される。
JF・ケネディーやナンシー・レーガン、癖のあるキャラクターだが、
抜きに出た魅力も持ち合わせていたと思わせる。
ケネディーを演じるジェームズ・マースデン、
ナンシー役のジェーン・フォンダの演技によるところが大きいのかもしれない。

妻役のオプラ・ウィンフリーは、アフリカ系アメリカ人の黒柳徹子、
それを更に辛口にしたイメージの司会者であり女優。
仕事に徹する夫セシルとすれ違いの生活からアルコールにおぼれたり、
隣人と浮気したりもありだが、最後は夫との信頼関係を取り戻す。

部屋の空気となるようにサービスするようにと教育され、
白人と迎合して生きるかに見える父、それを嫌い公民権運動に走る息子、
その息子の存在を気に掛けてくれる大統領がいて、
セシル(フォレスト・ウィテカー)の苦労や努力を買う大統領や夫人がいる。

父の仕事を軽蔑する息子にキング牧師は諭す。
「彼らの勤勉な仕事振りのお蔭で黒人の持つ典型的なイメージが改革されている。
自分達では気付いていなくてもバトラー達は私達と同じ『戦士』なのだよ。」
父と息子との葛藤と和合、そこで息子よりも夫の気持ちに添おうと努力する妻。
歴史をたどりながら家族のドラマとしても深い。
断絶してしまった父と息子の間もそれぞれが時を経て相手の気持ちを、
理解しようと歩み寄るところに救いがある。

セシルが生まれた時、ホワイトハウスに仕えていた頃にも想像もできなかった、
アフリカ系アメリカ人初のオバマ大統領誕生へと物語は繋がっていく。

この部分、エリック・べネイという一人のアーティストのファンとなり、
同じファンであるアフリカ系の女性達と交流する中で、
オバマ当選へと一緒に気持ちを運んだ頃のことを懐かしく思い出す。
エリックはクルーズの仕事が入っていたので、
オバマに投票するために、期日前投票を済ませた。
クルーズ船の中からオバマ当選の喜びに泣くエリックの姿が投稿された。
大統領就任式、一般席で観戦するために乗ったタクシーの中で、
「こんな日がくることを亡くなったお父さんに見せたかった。」と
感無量になって話すエリックべネイの姿もかつてのSNSの投稿で見た。

テーマの一つが差別であるだけに観た後でいろいろと考えさせられる。
州に依っては、スタンド ユア グランド法が未だに存在し、
アフリカ系アメリカ人への偏見が無くなったとは言えない社会。
そしてR&Bやソウルミュージックを愛し、
アフリカ系のアーティストやファン達と交流しながらも、
真の意味での彼らの苦労は何もわかっていないのかもしれないと一石を投じられた、
そんな思いが残る。

監督は「プレシャス」のリー・ダニエルズ。
セシルに理解のある同僚としてキューバ・グッディングJr,
問題の多い隣人役にテレンス・ハワード。
ロビン・ウィリアムズ(アイゼンハワー)、リーヴ・ジェレイバー(ジョンソン)
アラン・リックマン(レーガン)、ジョン・キューザック(ニクソン)
がそれぞれの大統領を個性的に演じている。

映画のコマーシャル、日本のヴァージョンは娯楽作品的なイメージ、
US版はもっとシリアスなドラマを予感させる。

映画『大統領の執事の涙』予告編


THE BUTLER Movie Trailer (2013)

Ain't No Sunshine & Lovely Day

2014-02-19 18:04:23 | 私の日々
地元の駅ビルにある中古レコードの置いてあるショップ。
近々閉店という噂を聞いたのでのぞいてみる。
¥400位からの膨大な数のレコードが箱に並べられている。
二箱ほど中にあるレコードを物色したが、
雪の終わりを待っていたかのように花粉が飛散しているようで、
体力、気力も弱っているのか、集中力にも欠けているようで、
出物探しをあきらめ店を離れる。

帰宅し、Bill Withers "Greatest Hits"久々にレコードを掛けてみる。
レコードとCD、当然レコードの音の方が良いと以前は思っていた。
恵比寿のソウルバー・ブラウンシュガーで同じ曲のCDと、
レコードの聴き比べをさせて貰ったことがあるが、
カウンターに居合わせた人達とどちらが好みかなどと話し合いながら、
意外にCDの方が音の響きが良かったりすることに気付いた。
今の方が録音技術の進歩などもあり、
一概にレコードの方が優れているとも限らないようだ。

"Just The Two Of Us"から始まるこのレコード、
"Ain't No Sunshine"から"Lovely Day"と繋がっていく。

今まで考えたこともなかったけれど、
この二つの曲の歌詞、かなり矛盾していると気づく。

Bill Withers - Ain't No Sunshine


前者は「彼女が去ってしまった今、陽も射してこない。」と歌い、
後者は「太陽の光が痛いほどまぶし過ぎて君のことを見るとほっとする。」
太陽が好きなのか嫌いなのかと尋ねたくなる。
"Ain't No Sunshine"は寒さ厳しい場所、"Lovely Day"は炎天下での曲、
と思えば納得もできるが、彼女がいる時は疎ましかった太陽、
いなければ恋しくもなると歌っているようにも取れる。

Lovely Day Bill Withers


掛けっぱなしで10曲以上聴けるCDと較べると片面4曲程度のレコードは分が悪い。
それでもジャケットが絵になるのとレコードを掛けるというゆったりした雰囲気、
部屋の空気感まで変わるようで捨てがたく、レコードの魅力には抗えない。

永遠の0

2014-01-30 19:28:34 | 私の日々
邦画はほとんど観ることがない。
観るきっかけになったのは偶然会った人が「これから『永遠の0』を観に行くの。」と話し、
私と一緒にいた人が「ハンカチ、最初から用意しておいてね。」と送り出し、
私にその映画について何とも愛おしそうに語り始めたからだった。

祖父とは血が繋がっていないことを知った青年がほんとうの祖父について調べ始める。
そこから20代で特攻として散って行った実の祖父の姿を知っていく。
観るつもりだからそれ以上は話さないでと彼女を静止し別れた後、
駅前のシネコンの上映時刻表を観ると『永遠の0』の開始5分前だった。
余りのタイミングの良さに驚きながら受付に行くと小振りの上映館ではなく、
別の階にある大型スクリーンのある劇場へと案内される。

以下、ネタバレは避けて自分の感想のみを記すと、
泣くべくして作られたツボに素直にはまって泣けるという心地良さ。
号泣という言葉を簡単には使いたくないが、目が腫れるほど泣けた。

ストーリーが綿密に練られていて最後まで飽きさせない。
そして結末にも納得できる。
CGの画面なども全く違和感がない。
暗くなりがちな話を未来へと繋げている。
祖父をたどりながら青年が自分探しをし、
亡くなった祖父の人生を知ることで、自分の生き方もみつけていく。
会ったことのない祖父と彼は心の中で出会い気持ちを重ねることができる。

胸に迫って来るのは人の生きることの意味、生を全うすることの美しさ。
主役の岡田准一を始め、脇を固める名優たちが秀逸だ。
夏八木勲はこの作品が遺作となった。
若者たちにぜひ観て欲しいと思う作品だ。

原作は百田尚樹、監督、脚本は『三丁目の夕日』の山崎貴。

http://www.eienno-zero.jp/index.html

軍国主義・特攻を肯定する映画と批判されていることを後ほど知ることになる。
青年が祖父の人生を追体験することの意義、
時代に流されず生きようとした祖父の凛々しさ(現実には在り得ないとしても)
この作品には一人一人が「命」を大切にするというメッセージが込められている。
それほど生きることは素晴らしいのだからと。

ソウルガールズ

2014-01-21 17:20:53 | 私の日々
有楽町の上映館に着いたのは開始10分前。
平日の昼間の時間帯にもかかわらず全席指定の映画館、空席は何と1席のみだった。

原題は"The Sapphires"
ベトナム慰問のオーディション中にグループ名を聞かれて、
恋人にふられたメンバーの指に空しく輝くサファイアの指輪を見た一人が、
長くて覚えにくい名前をとっさに「サファイヤズ」と言い換えた。

映画を観たことで初めて知ったのは、
オーストラリアにおいて、アボリジニの受けていた差別。
民族として排他され、一般市民の居住地から離れた場所で、
自給自足のような生活をしていただけでなく、
肌が白く生まれた子供達は親から隔離され、
白人の子として育てられた、という政策だ。

事実を基にして描かれた作品なので、
ベトナム戦争の慰問にカントリーを歌っていたアボリジニの少女達が選ばれ、
即席でR&B、ソウルシンガーとして特訓すること、
激戦地で護衛なしで放り出されたりする場面には、
こんなことが実際にあったのかと驚かされる。

カントリーが失ったものをあきらめ懐かしむのなら、
ソウルミュージックは失ったものを取り戻そうとする切なさを歌に込める、
とふとした縁から同行することになったマネージャーに諭される。
実際、ベトナムに行き、アメリカの黒人兵士達とかかわる内に、
そのグルーヴ感、自分達の求められている姿を把握していく。
危険が伴う仕事でありながら、戦場で体を張って闘う兵士達を喜ばせ、
楽しませるという役目はやりがいがあったはずだ。

女4人の道中、また3人は黒人の姉妹、
一人は隔離され白人として育てられただけに、葛藤も起きてくる。
いいかげんで行き当たりばったりだったようなマネージャーが、
実はけっこう責任感がある良い人だったりする。
いや、彼女達と一緒にいる内にそういう気持ちが徐々に育ってきたのかもしれない。
マネージャーとグループとの衝突もある。
この辺は応援しているアーティストが長いツアーの間に付き人と大喧嘩になった、
メンバー同士でぎくしゃくとする、そんなエピソードも知っているだけに頷ける。

ネタバレになる感動的な部分は避け、鑑賞後の印象深い点を記すとすれば、
最終的に全員がオーストラリアのアボリジニの立場を向上させる役割についた
という後日談だ。
ハリウッドで成功する、などというオチにならないことで返って爽やかな後味が残る。

Eric Benet in O

2013-12-28 19:08:39 | 私の日々
我が家から徒歩圏にあるソウルバー、そこにEric Benetが来店したことがあると知り、
行く機会を待っていた。
業界の知る人ぞ知る店で、マスターはとても気難しいとネット上の書き込みにもある。

イベントでその店をたまたま訪れ、エピソードを伝えてくれたCさんが、
幹事を引き受けて下さり、J.Iさん、Yukaさん、そしてはるか遠方からKorinさんも参加、
エリックべネイファンの集い、忘年会となる。

O駅から自宅とは反対側に歩いて5分ほど。ラブホの隣に忽然と輝くネオン。
中に入るとソウル、ファンク、R&Bの世界。家の近くにこんな場所があったとは。

店内に入り、まず目に入ってきたのは"Reserved Table for Eric Benet"というバナー。


そしてエリックべネイ、1999年の来店時の写真とサイン。


それぞれエリックべネイの滞在した雰囲気を感じ取りつつ、記念撮影。
マスターからエリック来店時の様子を聞き出そうとするが、
さすが商売柄、お客様の情報は簡単には教えてくれない。

しばらくしてマスターから「これからJが来るからね。」と目配せがある。
Jさんはエリック・べネイの来日時にはずっとアテンドした業界人。
2009年のエリック来日の折にはビルボード東京の楽屋で連日顔を合わせていた。
2012年の来日では他のアーティストの担当だったJさん、
彼らを引き連れてブルーノート東京のEric Benetライヴにやって来た。

以下はJさんから聞いたエピソード。
Jさんに連れられてその店に来たエリックべネイ、
店内で二曲をアカペラで歌ったという。
デュエット曲"Spend My Life with You"をひとりで。
そして"Georgy Porgy"も。
店内には他のお客様もいて「ずいぶん歌の巧い人なんだね。」
と声が上がったそうだ。
何と贅沢な・・・羨ましい。

その後お店から出て一人でタクシーに乗り、ホテルへと帰って行ったそうだ。
「そんなことできるんですか?」との仲間内からの質問に、
「ホテルの名前さえ言えば大丈夫。」とJさん。
ホテルの名前と住所の入ったカードを見せれば運転手さんもわかりますからね。

以前、エリックべネイが日常の様子を撮った動画を良くSNSでアップしていたが、
東京でタクシーに乗る映像、地下鉄に乗る映像や街歩きを楽しむ映像があった。
Jさんの手解きで東京での過ごし方を学習しつつ、次に連れてきたバンドのクルー達を、
エリックは案内していたんだなと納得。
Jさんからは他のアーティストの「ここだけの話」もたくさん聞かせていただきました。

店内ではマスターが用意してくれていた様々なエリックべネイの映像が、
何か所かに設置してある画面から映し出される。
自宅のパソコンで見聴きするのとは大違い。
映像、音響ともに臨場感がある。

当時はまだアーティストとして新人の部類に入っていたエリック・べネイ、
来日もその時が2回目だったはず。
初回と違い少し慣れつつ、それでもまだ何もかも物珍しく新鮮に感じていたに違いない。
その頃のエリックの気持ちに想いを馳せる。

思いっ切りエリックべネイが恋しく懐かしくなりつつ、
日本から応援するメンバー達の絆を深めた最高の夜になりました。
この日のために遠くから来て下さった皆さん、
まとめ役をして下さったCさん、ほんとうにありがとうございました。

初めての「はとバス・夜のツアー」

2013-12-10 11:32:16 | 私の日々
私と同じ12月が誕生月の友人と、自分にお互いに何かプレゼントということで、
ここ数年はコットンクラブ、スリーディグリーズのライヴに行っていたが、
今年は友人の提案で夜のはとバスに乗ってみることになった。

はとバスツアー、夜どころか昼間も乗ったことがない。
友人が選んだコースは汐留のライオンでディナー、
その後新宿三丁目でものまねショーを観るというものだった。

http://www.hatobus.co.jp/feature/newhalf.html

出発時間17時、乗車時間が10分前とのことだったので、
それに合わせて東京駅丸の内南口で待ち合わせ。
乗車位置はコットンクラブのあるビルのほぼ向かい側。
以前からここにたくさんバスが駐車してあり何かと思っていた場所。

ほどなく乗車が始まり、最初から座席は指定されている。
友人が早めに予約してくれたお蔭で一番前の席となる。
運転手さん、ガイドさんからの挨拶がこの日の夜のスタートを感じ良く切る。
東京の夜景、バスの車窓から見ると見慣れた景色も違ってくる。
ガイドさんの説明を聞きながら近くにいながら知らなかった歴史や物事の詳細に触れる。

汐留のライオンではワンプレートディナー+恵比寿樽生1ジョッキが付いている。
ビールを飲みたくない人は他のドリンクに変更も可。
ここで飲んだ樽のハーフ&ハーフ、やたら美味しかった。
食べ終わってチェックの煩わしさもないまま(最初にすべて込々の費用を払っている)
友人と化粧室に行き、集合時間前に店の前に出ると既に他の参加者達も集まっている。
汐留の綺麗なクリスマスイルミネーションを見ながらバスへと戻る。

高速で新宿へと思いきや、一般道から向かう。
その間、通過していく皇居前、東京タワー前のイルミネーション、六本木、
四ツ谷などの街、そこにある建物などの由来の説明がある。
考えてみれば当たり前のことだった。
夜の東京を見物するツアーなのだから。

24歳まで麹町に住んでいたので、通過する周辺は思い出深い場所が多い。
また一緒の友人は中学・高校時代の同級生なので、
20歳前後に一緒に遊び歩いた追体験をしつつ盛り上がる。
その当時、なぜ流行っていたかわからないが赤坂ココパームス、六本木エスト、
皆が集まるカフェレストランみたいなものがあったとか、
ディスコでこの辺りで人気だった場所はなどという話題が出る。
飯倉を通過する頃「キャンティーってまだあるの?」との友人の問いに、
「ほら、あそこ。」と私は窓の外を指し示す。
4年程前に偶然近くまで行き、懐かしさからこの店を再訪していた。

すっかり変わってしまった場所もあれば全く変わってない場所もある。
15歳頃、家から歩いて出掛けることに拘った時期があり、
青山一丁目の雑居ビルの前を通過した時、
当時小学生だった下の弟と一緒に徒歩でやってきた、
すっかり忘れていたそんなことまで思い出す。

ほどなく新宿に着きバスを降り、ガイドさんについて「そっくり館きさら」へ。
http://www.kojima-kikaku.co.jp/

入口前で担当者の説明があるという。
店内はフリードリンク、ビール、杏子酒、ウィスキー、焼酎、ソフトドリンクあり。
長い説明かと思いきや、一言で終わる。この時点でもう笑いへのツボにはまった。
店内はショウは始まっていないものの既に司会者がステージを温めている。
この日、お誕生日当日に当たった人が数々のお持て成しを受け、
遂にはステージに上げられ一緒に降り付きで踊っている。

ショウの前に司会者から拍手と掛け声の練習を促される。
これもとても良いと思った。
ライヴは自分が参加してこそ楽しめる。
これから始まるショウへの期待感が高まる。

この日登場した出演者達、みかんちゃんは華があり、何をやっても可愛い。
歌麻呂はトリを取るだけの力量のある芸人、NASUMIもいけていた、
ビトタケシも良く似ている。

最後は出演者全員が客席へと降りてきて、記念撮影。
徹底したサービス振りに究極のエンターテイメントをみた。
この中から未来のスターが出るのかもしれない。

アメリカの映画に良くスタンドアップコメディアンのショウの場面が出てくる。
出るためにもオーディションを受けなければならないし、
出演が打ち切られることもあれば、反対にここで人気が出ればメジャーへとデビューもあり。
そんな店が日本で東京でもあるとは知らなかった。

帰りも店の外で集合。
新宿が都合が良い人はそのまま帰っていった。
東京へ向かう残り組は半数位。
道も空いていてかなり早めに東京駅へと到着。
東京でありながら、しかも5時から9時半という短時間でありながら、
旅行気分を味わえ、お腹が痛くなるほど笑った。
最初にお金を払っておけば後はすべて支払なしというのも楽。

友人と既に次回はニューハーフショーのツアーに行こうと計画している。
このツアーはバスガイドさんからしてニューハーフだそう。

バックコーラスの歌姫(ディーバ)たち

2013-11-27 22:46:59 | 私の日々
原題は"20 Feet From Stardom"
「バックボーカルからリードボーカルはほんの数歩ほどの距離だ。」
というブルース・スプリングスティーンの語りから映画は始まっていく。
しかしそこに行きつくためには才能や歌の巧さだけでなく、運や時期、
本人がどうしてもそうなりたいという強い意志、精神性が必要だと繋がっていく。

この映画にミュージカル「コーラスライン」、
あるいはモータウンのバックバンドを務めたファンクブラザースの伝記映画、
"Standing In the Shadows of Motown"のようなドキュメンタリーを想像していた。

アメリカのオーディション番組「アメリカンアイドル」をずっと観てきて、
バックボーカルの経験がある人がオーディションに登場した時、
拍手喝采となり審査員からも称賛される。
しかし余りに存在を消すことに慣れ過ぎて、自己主張する、
自分を出していくことから離れた部分で仕事を重ねて来たゆえに、
その人たちがトップ12、10に残る確率はほとんどない。
またエリックべネイという一人のアーティストをずっと見守ってきて、
ツアーにバックボーカルとして彼が選ぶ相手は、
一度組むと長く続く米国内、海外遠征ツアー、
歌の巧さや観客を惹きつける魅力のあるタイプよりも
周りの人と上手くやっていける協調性のあるタイプなので、
そういうバックボーカリスト達についての映画かと思っていた。

この映画で焦点となるのはバックボーカリストでもトップに上り詰めた人達の物語だ。
名前は出なくてもその人の声でその曲が売れた、
そういう歴史を持ったアーティスト、
ソロとしてデビューしたこともありながら、それが成り立たなかった、
一度脚光を浴びながらその後、またバックに戻っている、
あるいは今は違う仕事をしているというアーティスト達。

映画ではバックボーカリスト達の歴史から紹介されていく。
最初は上品で綺麗な白人の女性が、無難にリードボーカルを盛り上げていた。

そこから黒人のダイナミックな女性が強烈なインパクトを残す歌や動き、
メインになるアーティストにとってなくてはならない存在へと
バックコーラスのあり方が変化していく。

エリックべネイがマライア・キャリーと共演した映画「グリッター」は、
外見的に華のある女性が口パクで歌い、
実際は歌の巧いバックコーラスの女性の声が、
映像でもレコードでも使われるというストーリーから始まっていくが、
自分が歌っているのに名前と顔は別の人、
こういうことが実際に多々あったというエピソードがこの作品中に紹介されている。

あるいは名前の売れてない女性の歌った曲を有名な歌手が取ってしまうという、
「ドリームガールズ」の中にもある逸話。
こういったことを生で経験してきたバックシンガーたち。
その悔しさ、曲が売れるほどに募るやりきれない想い、
もちろんファンクブラザーズのドキュメンタリーでも彼らは同じ状況を語っていた。

そしてイギリスのハードロック系のアーティスト達がアフリカ系アメリカ人の女性により、
ステージを彩ろうとした時代があった。
この時代は彼女たちの声の素晴らしさと共に個性的な魅力にスポットが当てられる。

しかし現在はバックコーラスの存在は再び廃れつつあり、
レコーディングでは自分の声を重ねたりする手法が多用され、
(デュエットとして名前のある人を指名することはあっても)
名もないバックコーラスを敢えてレコーディングには使わないのが、
主流となってしまったという業界の状況が紹介されていく。

マイケル・ジャクソンの最後のツアーでマイケルのデュエット相手に決まりながら、
マイケルの死によってそれが叶わずに終わったが、
逆に追悼式で歌ったことで脚光を浴びたジュディス・ヒル。
ミック・ジャガーとツアーしたメリー・クレイトン。
グラミーを取りながらもバックシンガーであることを選ぶリサ・フィッシャー。
バックボーカリストの中でもソロでコンサートが成り立つ存在であるダーレン・ラヴ。

ダーレン・ラヴがメインを取り、ジュディス、リサがバックを歌うシーン、
それぞれの想いや生き方が交差する形で映画は終盤へと向かっていく。
若手のジュディスばかりか、年を重ねても外見も声も美しいディーバ達。
彼女たちがアレサ・フランクリンやチャカ・カーンにはなれなかった理由、
を考えさせられる。

「永遠のモータウン」"Standing in the Shadows of Motown"
ファンクブラザーズのドキュメンタリーの中には、
目頭を押さえるシーンがいくつもあった。
「バックコーラスの歌姫たち」の中に、
泣けるシーンがなかった意味を私は計りかねている。

メインとしてトップに上り詰め、
その位置を維持し続けているアーティスト達の凄さというものがこの映画を通して、
逆に浮かび上がってくる。

それでも今まで誰が歌っているとも考えたことのなかった曲のバックボーカリストの声、
急に気になってきた。
「人々が口遊むのはメインの部分ではなく、サビを歌うバックコーラスの部分。」
という言葉が残る。

ルーサー・ヴァンドロスがバックコーラスの女性たちを指導する場面がいい。
バックコーラスたちが集まり自分の仕事で印象深い旋律を歌うシーン、
数々の名曲が彼女たちの存在により作られてきたことがわかるこの部分、
もっとずっと観ていたいという気持ちにさせられる。

公開は12/14よりBunkamura ル・シネマにて。

Eric Benet came to my town?

2013-11-26 10:37:43 | 私の日々
(注:トップの画像は本文とは全く関係ありません。)

CさんがFBのTLにエリックべネイの写真とサインが飾られたソウルバーの画像をアップした。
あるイベントでたまたま訪れた店内にエリックのサイン入りの色紙をみつけたのかと思った。
まずびっくりしたのがその店が私の住む町の最寄りの駅付近であるということ。
最初はライヴに行った店主がサインを貰い写真と共に店に飾ってあるのかと解釈したが、
それだけでも充分なサプライズだった。

その後、Cさんからもう一枚の写真を良く見るようにとメールが来る。
何気なく撮影したような店内の写真。
その下の部分に小さく"Reserved for Eric Benet"と札が張られている。
ほんとうにエリック・べネイが好きなマスターの店なんだなと感激していたら、
追ってメールをいただく。

なんとエリック・べネイ、推定1999年の来日時、この店に来店していた。
私の住む町の近くまでエリックがやってきたことがあると知り、飛び上がるほど驚く。
そこでエリックは何を飲み食べ、どんな会話をしどのように過ごしたのか?
興味は尽きない。

その店は知る人ぞ知る業界の関係者の御用達のバーらしい。
今年中に何とかその店に伺い、マスターから直にその時の話を聞きつつ、
エリックの座ったテーブルで美味しいカクテルなどいただいてみたいと思っている。