Me & Mr. Eric Benet

私とエリック・ベネイ

St. Emilion Jazz Festival へ行きたい!

2015-07-18 10:01:52 | ボルドーへの旅
昨日からサンテミリオン・ジャズ・フェスティバルが始まっている。
Saint-Emilionはボルドーの郊外の山間、葡萄畑の中、
ワイナリーやワインショップが点在する町、
というより村といった風情だろうか。

昨年の夏の終わり、ボルドー中心部から車で約一時間強のこの場所、
リクエストして連れて行って貰った。
残念ながら小雨の降る肌寒い日となったが、
前日に行ったアルカッション、ヨーロッパ最大の砂丘、ピラ砂丘に登った日が、
太陽が照りつけていたのと対照的で返って私の中で印象深い。
前日はノースリーブだったのが、この日はダウンジャケットを貸してもらった。

キリスト教に由来する歴史のある町でそれにちなんだ名所も見学したが、
やはりサンテミリオンの魅力は高台から眼下に見下ろす一面のワイン(葡萄)畑、
街中にワインが溢れ、テイスティングする場所もあり、
ワインも葡萄の苗も売っているし、
坂が中世の街並みにアクセントを添えている。

今年のメインゲストは私の大好きなBen L'Oncle Soul。
2012年の来日時にブルーノートでのライヴを観ている。
終了後に話もできたが、初来日での歓迎振りをとても喜んでいた。

このフェスの存在を知ったのは応援するアーティスト、CHICが2013年に招かれ、
メンバー全員がここでそれぞれ楽しい一時を過ごす様子をSNSを通して知ったからだ。

3日間行われるミュージック・フェスティバル、
街の中では普段以上にワインが振る舞われる。
CHICのメンバー達はプライベートプールのあるホテルに泊まっていたが、
実際にサンテミリオンに行ってみると、意外に周辺には小振りのホテルしかなかった。
またこのこじんまりした街の中でこれだけの規模のフェスが行われるとは、
信じがたいほど普段はひっそりとしている。
CHICのメンバー達はここから少し離れたところに点在するシャトーに泊まったようだ。
メンバーの一人、フォラミは「また行ってみたい。
ここで買ったワイン、まだ飲まずに取ってあるのよ。」と教えてくれた。

昨夜、早速参加した地元の知人が写真をアップしている。


会場の熱気と共に町がお祭りモードに入っている様子がうかがえる。
一度はこの時期にサンテミリオンを訪れてみたい。

TEASER SAINT-EMILION JAZZ FESTIVAL 2015

Liszt 『巡礼の年』"Annees de pelerinage"Bertrand Chamayou

2015-05-29 19:28:44 | ボルドーへの旅
昨年8月の末、ボルドーでフランス語教師二人の家に一週間滞在した後、
ボルドー市内のシャンブル・ドット、三部屋しかない民宿のようなところに移動した。
私と同世代のマダムと彼女のママン、二人で二匹の猫と共に美しい家と庭を維持していた。
小振りのプールのある庭には花々が咲き乱れ、
4階建ての建物、一階は玄関脇にグランドピアノのある客間。
廊下を進むとキッチン、庭園を臨むリビング・ダイニングへと誘われる。

2階にはマダムとママンが住み、私の通された部屋は3階だった。
同じ3階にもう一部屋と更に4階に一部屋。


朝食も滞在客全員で一つのテーブルを囲む。
季節が夏の終わりだったこともあり、
いつも朝食は外にテーブルがセッティングされていた。


夜もマダムとママンは滞在客の帰りを玄関脇の客間で待っていた。
ここでひとしきり、その日の出来事などを話し、
各自の部屋へと戻って行く。

ある晩、私はこの客間に置いてあるCDに目を留めた。
Liszt "Annees de pelerinage"Bertrand Chamayou
リスト『巡礼の年』の中の曲は金子三勇士君の演奏で、
何曲かに馴染んでいた。
ママンとこのCDのことで話が弾む。
「オーベルマンの谷」をリストが作曲するきっかけとなったとされる
セナンクールの小説「オーベルマン」
ママンから「原作も素晴らしいからぜひ読んでみて。」と言われる。
作家が20歳の時にヨーロッパ各地を放浪した旅の書簡形式の物語、
と聞いているが、フランス語の原書などとても読めるとは思えない。
以前に日本語訳された書籍を探したが既に絶版となっていた。

このCDで演奏しているピアニストにもエッジの効いたジャケットから、
興味を持った。
Bertrand Chamayou、現在34歳、今、フランスで最も旬なピアニストだそうだ。
フランス版「ELLE」の今月号でも彼の特集が組まれていた。


一度演奏を聴いてみたいものだと思っていたら、
何と5月初めの音楽祭のために来日してサントリーホールで演奏していた。
生演奏を逃したのならせめてCDを聴き込みたいと、
このアルバムを取り寄せることに。
3枚組のCDのセットと丁寧な解説書が付いている。
アルバムの雰囲気を伝える美しいモノトーンの写真も添えられている。
「第一年スイス」のCDをセットしつつ、
フランス語のタイトル、一曲ごとに手書きで邦題を書き込む。

今までリストの曲、ハンガリーの演奏家か金子三勇士君の演奏でしか、
しっかりと聴いたことがなかった。
初めて聴くシャマユの演奏は新鮮。
円熟し、洗練された味わいがある。
そして現代的でもあり、いかにもフランスのピアニストらしい。

しかしアルバム3枚の「巡礼の年、第一年スイス、第二年イタリア、第三年目」
通して聴くことでどっぷりとリストの世界観に入り込む。
通して聴くことで見えてくるもの、感じ取れるものがある。

新作「ベルトラン・シャマユ/シューベルト:さすらい人」
も早速オーダーしてしまった。

いざボルドーへ

2014-12-08 09:09:58 | ボルドーへの旅
早朝のサクラ・ラウンジは混雑していた。
2010年の年末、深夜の飛行機に乗るために使った際には、
羽田の国際線発着も始まって日が浅かったせいか、
ほとんど人もいず、また一般の空港内のレストランなども閉まっている時間帯ゆえ、
暖かい料理がここに用意されていることがありがたいばかりだった。

今回は席を見つけるのも容易ではない。
また朝食ゆえにそれほど食べたいと思える料理も特にない。
ほどなく飛行機に乗り込み、手荷物も棚に乗せ、席に落ち着く。

私の不意をついたのは突然の思ってもみない申し出だった。
前に立った初老の男性が「あの、席を替わって貰えませんか?」
余りのことに絶句する。
友人と離れた席なので私にそっちの席へ行ってくれとのこと。
その男性が指示した席は非常口のそば、緊急時に脱出の手助けをする、
そういう条件で座る席だった。

最前列、中央の通路側、この席に拘って数か月前からここを座席指定したこと、
また非常口の脇の席に座るだけの資格が私にはないはずと、
丁重に断るが、そのような申し出をしてくる相手が隣人となったことで、
12時間近いフライトはかなり重いものになった。

ボルドーに着いてからLにその話をすると、
万が一のことが起きた場合、誰がどこに座っていたかは、
確認のために重要な手掛かりになる、
そのような行動は非常識極まると呆れて、
航空会社、あるいはフライトアテンダントに報告するべきではなかったか、
と言われた。

飛行機が空いていれば皆、移動して好きな席に座ってしまうのだから、
その人も軽い気持ちで言ったのだとは思うが、
そもそも航空券もそれぞれ違う価格で買っていて、
席によって付加価値が違うはず。
やはり理不尽と言うか、身勝手には間違いない。

2010年の年末は深夜便だったので、ひたすら寝かせてくれて、
食事もそれほどサービスがなかった。
今回は幾度か味わいのない機内食が運ばれてくることになる。
また映画がJALは無難なものに抑えていてつまらない。
しかしサービスするアテンダントの女性達はとても感じが良かった。
そして外国系のエアラインと違い、室温が暖かいのが、
私にとっては何よりだ。

ボルドーに行くという話からどうやってワインを持って帰ってくる、
そんな話題になる。
年上の方のアテンダントはお客様の赤ワインが割れて出てきたのを、
見て以来、自分もワインを持ち帰るのは不安になり、やってないとのこと、
若い方の女性は、かつてスーツケースにたくさんのビール瓶を入れてしまい、
瓶同士がぶつかり割れて、衣類もビール浸し、散々な目に遭った経験があるそうだ。
二人にボトルは衣類できっちりと囲み、それぞれは離し、
動かないように詰め込むようにとアドバイスを受ける。

いよいよパリへと到着の時間が近づく。
エールフランスに乗った知人は乗り換えのターミナルについて、
きちっと教えてもらったとのことだが、
JALのアテンダントはボルドーへと向かうエールフランス便について
までの知識はなかった。
案内のパンフレットに記されているターミナルとは異なる場所へ着陸、
となったことでマニュアル通りにはいかなさそうだ。
しかし最悪と言われるロンドンのヒースロー空港、
しかもテロ未遂事件後の乗り換えを経験したお蔭で、
それ以降、どんな乗換も臆さないだけの度胸がついている。

その都度、空港の職員に確認しながら、
ボルドーへとのゲートに、さほど迷わずに向かうことができた。
ショップで簡単なスナックと飲み物を買い、フライトを待つ。
ボルドーまでは座席指定ができず、通路側ではなく窓側となった。
しかしながらずっと低空飛行、隣の席にも乗客はなく、
のんびりと窓からの景色を眺める。
サービスは飲み物と簡単なスナック。
塩味の物と甘い物から選べる。

ボルドーの空港に着いた。
小振りの空港で職員に聞きながら、タクシー乗り場を探す。
タクシーは見当たらず、戻ってまた尋ねることになる。
ようやくタクシーをみつけ、行き先を告げつつ、
言われた通り、幹線道路には入らず、下の道を行くようにと頼む。

緑も多く、葡萄の木が植わっていて、中心部に近づくと街の賑わいが見えてくる。
それでも大きなビルや無機質的な街並みではなく小振りで暖かみがある風景。
LとMの住む街へと車は進んでいく。
道路の入り口に杭が出ている。
住民はカード、タクシーはどこかに連絡してその杭を下げてもらい侵入していく。
一般車両は入れない状態になっている。
運転手は中々、彼女たちのアパートメントをみつけられない。
ようやくらしきものに近づいたと告げられたので、
降りて確認をしてほしいと一緒に下車する。
呼び鈴を鳴らして、彼女たちが現れるまで一緒にいてほしい、
何しろ私はボルドーに初めて来たのだからと半ば強引に頼む。

二人が中から出てきたので、トランクからスーツケースを出してもらい、
料金を払う。
外ドアを開け、少し進んで内ドアを開けると、
そこに4階までの螺旋階段が待っていた。
Mはスーツケースを持って階段を登ってくれる。
薄暗い階段を上り詰めた4階が彼女たちの住まい。
開けるとそこにまた階段、メゾネットになっている。
18世紀の建物を古い部分の良さは残し、
住みやすいようにと上手にリノベーションされている。


大きな吹き抜けの窓の外はまだ明るい。
海外に行って暗くなってからタクシーに乗るのは今まで避けていた。
ニューオリンズの帰り、早朝であったのにかかわらず、
まだ外は真っ暗で運転手には口説かれるし散々な目に遭った。
今回は夜8時過ぎてもまだ外は明るく何の問題もなかった。

私の部屋はメゾネットの二階、天窓とバスルームが付いている。
とても居心地が良さそうだ。
部屋を出てすぐにトイレもある。
リビング、ダイニングとキッチン、二人の寝室は階下にあり、
それぞれのプライバシーが保たれている。
階下にもトイレはあるので、
これは自由にバストイレを使えそうで気が楽になった。
若かりし頃、イギリスでホームステイをした折、
そこの家族と一部屋のバス・トイレ・洗面所を共有した。
いくら何でもこの年であれはできない。

「運転手さんと何かフランス語で話した?」と聞かれ、
「う~ん、あんまり感じが良くなかったなぁ。
でも私のフランス語の発音が悪くて通じなかったのかも。」と言うと、
Mは「私のフランス語の発音は問題ないと思うけれど、
それでもあの人は感じ悪かったわよ。」と笑わせてくれる。

「簡単な食事を用意してあるけれど、一緒に食べない?」と誘われる。
ほんとうはさっさとバスに浸かり、荷をほどき、ベッドに横になりたい、
そんな気分だったが、食卓が用意されている様子を見て、
「喜んで(avec plaisir!)」と答える。

季節の野菜、ズッキニを使ったキッシュ、グリーンレタスのサラダ、
トマトのマリネ、赤と白のワインとお水。
機内食で満腹でまったく食欲のないはずだったのに、
Mの作ったキッシュを食べた瞬間、五感が蘇ってくるというか、
水分や栄養分が五臓六腑に浸透し生気が漲ってくるのが、
ひしひしと感じられる。

何人かのフランス人の家庭に招かれたことがあるが、
食べ物が口に合った場合とまったく喉を通らずに、
残すのにどう言い訳したらよいのやら、
どうやって少しでも食べた様子にみせるのかと苦労した経験がある。
Mの季節の食材を使った優しい味の料理、
明日から何の心配もなく食べられることがわかり安堵した。

Lから明日からのスケジュール表を渡される。
翌日の天気予報は晴れ、2時間のLとの個人レッスンの後、
ヨーロッパでも珍しいとされる砂丘のある名所、
アルカションに行く予定となっていた。


翌朝も早いので早々に寝室に引き上げる。
彼女たちが整えてくれた部屋、
写真集や照明が綺麗にアレンジされた本棚、
机と可愛いクッションの添えられた椅子、
クローゼットがあり、鏡も用意されている。
ベッドもセミダブル、ゆったりとしている。
備え付けのバスロブ、タオル類は感触が良い。
洗面所のシャンプーやせっけんも香りの良いものが置かれている。
屋根裏部屋風に天井が傾斜しているのも返って落ち着く。
私はこの部屋がすっかり気に入ってしまったのだった。

重たい扉

2014-11-20 14:04:22 | ボルドーへの旅
その後、Lとのメールのやり取りが10日ほど続いた。
向こうがフランス語でぎっしりと書き込んできたものを辞書を使って読むのに1時間、
返事を書くのに2時間、そんなことを続けている内に私はほとほと疲れてしまった。

その内、小賢しい手段を私は発見した。
日本語からフランス語に自動翻訳を使うととんでもない文章になるが、
英語で文章を書き、フランス語にするとそれなりの輪郭が出てくる。
もちろんフランス語で必須の女性形、男性形が英語にはないので、
この部分を直す、有り得ない動詞は使い得る動詞に変える、
部分的な補正を加えることで最もらしいフランス語になる。
こんなことをやっていたらLから「文章がずいぶん上手ね。」
とメールに書かれて慌てる。
「話すのは苦手だから。」と返信する。
しかしこういうメールのやり取りを重ねたことで、
お互いに相手の性格や考え方の一端を知ることができたのは間違いない。

一通りのことが一段落したと思っていたら、
出発3週間ほど前になり、いよいよ詰めの段階に入り、
まだ何も始まってさえいなかったことに気付く。
エージェントを通さずに個人でこのような滞在型の旅行をする、
たいへんさを思い知った。

費用の払い方、現地で現金で欲しいとのこと、
空港から家までは、バスかタクシーで来てほしい、
授業は一日三時間のフランス語のレッスンと料理のレッスンをどう組み合わせるか。
また滞在中のスケジュールについて問い合わせるのだが、
詳細を中々教えてもらえず、現地に同時期に旅する友人と会う予定が立たない。
折悪しく二人はバカンスでコルシカ島に出掛けてしまい、ますます連絡が取れない。
はてはタオル類や石鹸、シャンプー等は持参するのか、備え付けがあるのか、
そんなことまで疑問に思えてきた。
どういう生活になるのかわからないものに飛び込んでいく、
一人旅において絶対に避けてきた二つのこと、
高額の現金を持ち歩く、夜に見知らぬ地に着いてタクシーに乗る、
を今回はしなければならない。
さまざまな気掛かりが生じてきた。

70才を過ぎたT子さんとお友達は空港までのお迎えがあったそうで、
私が家まで自力で行くことになったのを心配し、
同じような石造りの建物が両脇に並ぶ私道に添っていて、
特徴もなければ表札もない、ベルはあるけれど場所はわかりにくい、
詳しくその辺を聞いて出発までに確かめるようにとアドバイスをくれた。


ふと私の中でほんとうにこの二人は私を受け入れる気があるのかな、
航空券だけキャンセル料が掛かるけれど今からやめてしまってもいいのだし、
と心がザワザワしてきた。

その時に相談した人に言われたことが、
疑問に思えたことはその都度、確認をし、
不安になったことはできる限り事前に準備をする、
そして「人の心の中にある優しさを見出していく」
悪い方に取ると何もかも信じられなくなる、
物事を良い方に捉えていく、ということだった。

現地で現金で支払うというのは、万が一キャンセルすることになった場合、
払い戻しなどの煩わしさを省くことになるし、
地元の人が空港からバスやタクシーで自宅まで来いと言っているからには、
安全な地域に違いないと。
またそれ位のことができないようでは、行くだけの資格がないとも取れた。
しかしボルドーという都市、フランス語を学習している人達には、
行った経験がある人が多い場所なのに、
出版されているガイドブックでは「フランス」編において
たったの4ページというのにも、困惑させられた。


旅の始まり

2014-10-24 17:47:17 | ボルドーへの旅
それは今年の初めのフランス語の第一回目の授業でのことだった。
先生の「今年の旅の予定が決まっている人は?」との問いかけに、
何人かが答えた。
70歳過ぎた女性の一人がブラジル、もう一人はパリにアパルトマンを借りてひと月、
そして私の隣の席にいたT子さんは「ボルドーへ。」と。

次に先生は「まだ旅の予定が決まってない人の行きたい場所は?」
と全員に端から振った。
どこも行く当てのなかった私は「T子さんと一緒にボルドーへ行く。」と答える。
すると先生は「T子とT男(先生は自分の名前をもじってこじつけた)とボルドーへ行く。」
と私に言い直させ笑いを取る。

その後、T子さんとは良く一緒にお昼を食べたり、お茶を飲んだりした。
彼女の旅の予定が順調に決まっていく中で、
私も「自分だったら?」とシュミレーションをしていく。
彼女の旅のスタイル、欲張って乗り換えで通るパリで降りたりせずに、
ボルドーだけ10日間で行って來る、
お友達と二人で以前にフランス語を教わり、
今はボルドーへと帰っているL先生の家の近くにホテルを取り、
語学のレッスンを受け、観光に案内してもらい、食事もそこの家でする、
という話に共感した。

6月に入り、出発間近となったT子さんから、
L先生のアドレスを教えてもらったので、取敢えずメールだけ送ることにした。
先方からはすぐに返事が来た。「8月の末か10月なら空いているけれどどう?」
私の場合は一人なのでぜひ、そこの家に泊まるように、個室には浴室が付いているとある。
また授業の進め方などの提案があった。

8月の末、飛行機は取れるかと席の確認をネットでしてみる。
飛行機が苦手な私は一番前の通路側の席が空いているのを見て安心した。
先生の家を出た後、どうするかを考え、市内のホテル選びが始まる。
「三部屋のみ、優しい女主人、猫二匹、美味しい朝食」
と書かれたプール付のペンションに惹かれた。

6月中に航空券と先生の家を出た後のホテルの予約をした。
L先生、T子さんは2年も教わったそうだが、私はたったの6時間のみ。
それでも素晴らしい教師だということは良くわかった。
それだけでは向こうには私の印象は残ってないと思うが、
2011年3月の震災の後にフランスに帰っていたL先生とパートナーのMが、
品川駅で成田エクスプレスから降りてきたところで私は偶然に鉢合わせした。
二人ともとても心細そうで日本に戻ってきて大丈夫なのかと心配していた。
その後、二人と学校で顔を合わせると挨拶するようになったのだった。

言霊、ものごとは言っているとその通りになるという説があるが、
私は今までそんなことを信じたこともない。
しかし新年早々の授業で言ったことが形になっていく、
LとMとの出会い、T子さんと会わなければ、そこに繋がらなかったことなど、
人の縁とはつくづく不思議なものだと思う。
また自分よりも若い人ではなく、70歳過ぎた女性が、
旅へと一歩一歩計画を進めていく様子は出不精になっていた私を、
多いに刺激したのだった。