Me & Mr. Eric Benet

私とエリック・ベネイ

ボストン最終日

2010-09-30 09:35:19 | MAへの旅
昨日の朝、体が冷えて寒がっていたらご一緒したお二人から「朝食に来てなかったでしょう?」
と指摘され、やはりどんな朝食でもダイニングになっている宴会場に顔を出した方が良いと思い、
最終日は食事に行く。
するとコーヒーとパン、卵が少ししかビュッフェには残っていない。
まだ食事中の人が4名ほど。
ウェートレスを見つけに隣のダイニングルームに行くと、
ジュースだけ持ってきてくれる。
フルーツや他の食べ物は?と聞くと「もうない。あなた達のグループが大食いなのよ。」
持ってきてくれたオレンジジュースは他の方に譲る。

さて務めて今回の旅行のポジティブな面をずっと書いてきたが、
最後に辛口の部分を書きたい。

この時食事をしたメンバーとホテルの酷さ、段取りの悪さ、前日と前々日の食事の話題になる。
前々日は7~8分歩いて、お洒落な中華の店に連れて行かれたが、料理が全く出てこない。
やっと出てきた春巻きが人数分ないので、「あと4本足りない。」と言ったら、
それっきり料理がストップしてしまい、随分経ってから春巻きが4本入った皿が4皿出てきてしまう。
その後、しばらくしてから、ぞくぞくと料理がいっぺんに出始めたが
疲れと待たされたのとでもう喉を通らない状態だった。
20名の団体がハードなスケジュールの1日を過ごした日に食べに行くのに相応しい店とは思えなかった。

前日はロブスター料理の店と言われて20分近くも離れたところまで大雨の中を歩いた。
20名の団体旅行だったらこんな距離を移動するのにバスぐらい出すはずなのではないのか。
そうでなければ近くの店で食べるとか。
セーラム市側の指定したレストランが毎年、ここと決まっているのか、
前回はここのすぐ近くのホテルだったそうだ。
この日のために正装したと言う人もずぶぬれになっていた。

そういった多少のことは目をつぶるとしても、帰りの飛行機でも話題になり、
皆の不満の種になったのはホテルの荒れようと団長の傲慢さだった。
区の若手職員は走り回ってみんなに気を配り、セーラム市側との間に入って、
またそれぞれが満足した旅行になるように気を使ってくれている。
副団長の課長も初めての旅行で慣れない部分も多々あるはずなのに、
「どうですか?」と話しかけてくれたり。
「荷物、重くないですか?半分持ちましょうか?」お断りしたが、そういう心遣いをしてくれる。
添乗員も悪条件の中で善処してくれているのがわかる。
しかし添乗員がフリーランスの人だと旅行社の不手際に対して怒りの矛先を向けようもなくなる。
旅行中、その人もそのために苦労していると気の毒になってしまったからだ。
今にして思うとそれも旅行社の責任逃れの作戦かと思ってしまうが。

団長は区の国際親善部の部長とのことだったが、団員に対する気遣いは全くなかった。
旅行の段取りの悪さに業を煮やしたのか、
それを部下や添乗員の責任としてロビーで叱責している姿も見た。
最終的な責任を取るのはトップであるその人であるはずなのに、
部下でもない、お客である私たちに旅行の不満の八つ当たりをされてはかなわない。

いつも苦虫を押しつぶしたような怒りの表情を浮かべて笑顔一つなく、
私たちに話しかけることもなく、ほんとうに感じが悪くて、
イライラ全開で悪いオーラを出しまくっていた。
たいへんな旅行であればこそ、トップの人が毅然とした態度で臨んで、
団員を引っ張っていくべきなのにあきらかに逆切れしてしまって、やけになっていた。

最後の挨拶、添乗員、副団長には拍手喝采、団長には拍手をしないことで、
意思表示をする人も多かったけどこういう人は気付かないだろうな。
「不備な点もあったかと思いますが、後日、詳細なアンケートを送りますので、
それに答えていただきます。」にはあきれてしまった。
自分の態度が一番問題になっているとは考えてもいないようだ。
団長の不快な態度に対してのコメントを私以外の人も書き、それは彼に伝わるのだろうか。

経験のない旅行社のミスと現地の今まで力を尽くしてくれていたコーディネーターが退職したことが重なり、
このような形の旅行になったのだとは思うが、その中でお互いに助け合って、
少しでも良い旅にしていく先頭に立つ立場の人が、最も団員達の士気を下げる役割をしていた。

さて愚痴はこれくらいにして。

最終日、朝食が終わると、ホテルの外に出てみた。
周りにある施設などを出発までの間、散策してみる。
霞が関に泊まっちゃったという感じだろうか。
改めて「地球の歩き方」を読むとこのホテルのことを「この立地とは思えぬ低価格。」
と書かれている。

帰りの荷物はどう贔屓目に見ても重量オーバーしている。
添乗員と現地のガイドに相談。
欧州系と較べるとデルタはかなり荷物におおらかだそうだ。
もしオーバーしていたら、手荷物にその場で移せばいい、
超過していると言われても顔色に出すな、平然とした表情で何も言うな、
と言われた。
超過した場合、手荷物に移す手間などを考えて現地ガイドに付いて、
先頭に立った。
女性係員が「荷物の重量、超過している。」ガイドも私も無表情に黙っていると、
男性係員がそのまま荷物をベルトコンベアーに載せた。

団体だから私がオーバーしても他の人で総括できるという判断かもしれないし、
「超過している」と言われて料金を払うよりはとスーツケースを開けて、
手荷物へと移動、また「まだ超過している。」と言われて、スーツケースを開けて・・・
そんなことを皆に始められるよりは一人の超過荷物など無視した方が楽と言う判断なのかもしれない。

いろいろなこともあったが、この旅行に思い切って行ったことで後悔することは一つもない。
まずはホームスティしたファミリー達との出会い。
そして一緒に参加した方達、普段では係ることもなかった人たちの生き方を知り、
優しさを見ることができた。

ホームステイ先は先方が私たちを選ぶそうだ。
他の人がどのように過ごしたかと聞くと、
プライベートビーチがある家のゲストハウスに泊まって、
翌日はその方の友人の60歳のお祝いのパーティーへとご一緒した。
ある犬好きの男性は大型犬のいる家庭に滞在し、
翌日は地元のドッグショウへ連れて行ってもらった。
今回の旅で一番若い女性なのだが「疲れているからマッサージに行きたい。」と言ったら
地元のマッサージ店へ案内してくれた。
これまでにも「ボストンフィルが聴きたい。」と言ったら券を取ってくれてご一緒した
(今回はボストンフィルはオフシーズン)
それぞれ自分のやりたかったこと、またそれにフィットする共通の趣味のあるお宅で
楽しく過ごしたようだ。
年配の方が別れ際にS市のイラストのあるノートに彼女の写真が張られたアルバム集を
プレゼントされたと喜んでみせてくれた。
その方は母と同じ年、この旅行にお一人で参加された勇気に拍手を贈りたい。
道中も英語の本を読まれて日記も英語で書かれていた。
「英語の勉強は私の最後の課題。」とおっしゃった。

悪条件の中での区の若手職員と添乗員の奮闘振りは表面に見えないところでもたくさんあったと思う。

予定していなかったのに行くことができたタングルウッド、またユダヤ人ファミリーとの出会いから、
次回の目標とする旅も決まりつつある。
添乗員や現地ガイドから聞いた裏技、裏情報も次回の旅行の時に生かせそうだ。

旅行に行くか迷っている時に、友人から
「出掛けて行くことで人との出会いのチャンスがある。行かなければ何もない。」
と言われたが、ほんとうにその言葉の通りになったと思っている。

タングルウッド

2010-09-29 06:16:55 | MAへの旅
タングルウッドとは。
発端はある方がボストンシンフォニーオーケストラに約50万坪の敷地を寄付したことに始まる。
ボストンフィルは10月2日から6月中まではボストン市内のシンフォニーホールで演奏する。
そして6月下旬から9月上旬まではこちらのタングルウッドに移る。
もちろんボストン交響楽団の他にもいろいろなアーティストのプログラムが行われる。

タングルウッドに行くとは、ここの野外音楽堂で演奏を聴くことが目的だ。
近くのホテルやレストランでは5時から夕食が取れるそうだ。
その後、コンサートを聴き、それぞれニューヨークやボストンへと車で帰っていく。
あるいは、近くのホテルやB&Bに滞在して数日、この高原の生活を楽しむ。
周辺は別荘地や可愛らしい風情の街並みもある。

このタングルウッドへとシーズンオフになったばかりの9月13日に、
コンサートも行けないのに観光する意味があるのか。
空いている時だからこそ、じっくりとホテルや町の様子を観てくることができた。
私があるクラシックピアニストを応援していること、
ずっと読んで下さっている方はご存知かと思うが、
いつかK子M士君の演奏をここで聴く日がきっと来ると思った。
その日のためにしっかりと下見ができて良かった。

"Red Lion Inn"
ガイドさんとマネージャーが懇意にしていて、内部をじっくり見せていただいたのだが、
こじんまりとして昔風のとても可愛らしいコテージ。
シーズンオフのはずなのに大勢の人が食事やお茶を楽しんでいた。
現地の人達に人気があり、親しまれているようだ。
1773年に駅馬車の泊まる宿としてスタートしたそうだが、開拓時代の雰囲気が一杯で、
かつての時代にタイムスリップしたようだ。

その後、町を散策するが、「大草原の小さな家」に出てくるような雑貨屋がある。
5ドルで誰とも知らぬ人の書いたバスケットの中で寛ぐ猫のデッサン、台所用品などを買い込んだ。
未だに何のために使うか良く分からない道具もあるが。

その次に向かったのはウィートレイ、19室しかない。
かつてバーンスタインが贔屓にしてここで食事をし、また自宅(別荘)もこの近くにあったそうだが、
ここの別棟のスウィートに滞在することもあったという。
広大な敷地に人っ子一人見かけない。
ゴルフ場の真ん中に立っているような景色。
丸いプールがあって庭園には苔むした彫刻もある。

室内にはティファニーのステンドグラスで彩られた階段がある。
スタッフは親切でダイニングやロビーを見学させてくれた。
ダイニングでも食事中の人を数人見かけた。
ここの値段を帰ってから調べたら、一泊7~8万。
ヨーロッパにあるようなホテルとも言えるが、
シーズンオフのせいか余りに閑散としていて寂しい感じさえした。
人を寄せ付けない近寄りがたい雰囲気をあった。

それとこの町では東洋系もアフリカ系も全く見かけない。

さていよいよタングルウッドへ。
シーズンオフともあり、私たち以外の人は誰もいない。
屋根つきのホールがあり、その周辺に芝生が広がっている。
広大な敷地、ホールから離れれば音はそれほど聴こえないのかもしれない。
芝生に座りながら、飲み物とお摘みなどを手にコンサートの雰囲気を楽しむ場所なのだろう。

ご一緒した方の一人は芝生に大の字になって空を見上げている。
「空が凄くきれいで、気持ちがいいよ。皆もやってごらん。」と誘われたが、
コートを着てなかったので芝の露で濡れそうで、そのまま、
立ったまま雲のぽっかり浮いた空を見上げていた。
高原の空気が清々しい。

私の亡くなった祖母は山梨の人だったが、夏休みに遊びに来ていて家の中にいる私を呼んで、
「雲が綺麗だから見てごらんなさい。」と言われたことがある。
立ったまま見ている私に「寝転がらなくては分からない。横になって見て。」と言われた。
ほんとうに立って見るのとは大違いだな。そして祖母とこうやって二人で芝生に横になった日、
この日のことをきっと自分は後で思い出すんだろうな、と思ったことを覚えている。

タングルウッドでも素直に横になって空を見上げなかったのがちょっと残念。

売店にはクローズドの札が掛けられ、中でひとりの女性が、在庫整理をしている。
「日本から来たんだけど、中の写真を撮ってもいい?」と尋ねると室内に入れてくれた。
Tシャツが20ドルくらいで売られている。
もう一歩踏み込んで、「一生に2度と来られないと思うから、少しだけ買い物させてくれない?」
と言ってみれば良かったかな?
余りに厚かましいように思えてさすがにそこまで言えなかった。
いつかきっとK子M士君のコンサートのためにここに戻ってくる日が来るはずだ。

6日目 バークシャー地方へ

2010-09-28 07:58:11 | MAへの旅
6日目は自由行動日。
どのように過ごそうかとあれこれ考えながら中々決まらないままになっていた。

自分で地下鉄、徒歩で町を歩くか。
半日観光ツアーを現地で申し込み、後半日は自分で行動するか。
ロバート・B・パーカーのスペンサーシリーズに出てくるケープ・コッドへ行く。
「若草物語」の舞台になったルイザ・メイ・オルコットの故郷で生家もあるコンコード地方を訪ねる。

今まで海外に行くと現地についてから、その時の状況次第で、
ホテルの人に相談して観光する場所を決めたり、あるいは現地のツアーの予約をしてもらっていた。
ニューオリンズでは午後のツアーに関してだったら、当日の予約もOK、
ブリュッセルでも前日の午後11時まで申し込みができた。

今回ボストンに着いてからすぐにホテルのスタッフに聞くと、
前日の午後5時までにツアーの予約が必要とのこと、
第一候補として考えていたケープコッドは自力で日帰りで行くことは不可能に近いとわかったので、
ツアーを調べてもらったが、隔日のみのツアーでちょうど私の自由行動日は催行されない日にあたっていた。

ニューイングランドの海岸、ハンプトンビーチを訪ねるツアーがあったが、
スタートが9時半でホテルに帰ってくるのが7時を過ぎると言う。
この日は全員で現地の方々もお迎えしてする最後の夕食会があり、開始時間は7時。
このツアーに参加するとお食事会に確実に間に合わないことになる。

迷っていたところ、添乗員から事前に申し込むオプショナルツアーの一つ、
イラストレーターのノーマン・ロックウェルの美術館とストックブリッジ、
バークシャー地方の田舎町へのツアーが申込者が一人しかいないので、
中止になる、もし誰か他に申し込む人がここで一人でもいれば、催行になる、
と報告があった。

一人の人が挙手し、最終日の行動の仕方が今一つ、閃くものがなくて、
思案していた私もふと手を挙げていた。

旅行の前日、掛かり付けの内科医に一通りの薬を出してもらった。
腹痛、痛み止め、ビタミン剤など。
その時にどこに行くかと聞かれて話すと、「ここにぜひ行ってらっしゃい。
素晴らしいところだから。」と先生は私の血圧や体温を測った記録紙の裏に、
"Tanglewood"と書いて下さった。
80才前後の先生はお嬢さんがボストンに留学していた頃、
何度も訪れた楽しい思い出をお話しして下さった。
海沿いや山間部にある小さな美術館巡りの魅力や海岸の美しさなど。
タングルウッドはバークシャー地方にある。
その後、すぐに地図とガイドブックで調べたが、タングルウッドはかなり遠い。
せっかく教えて下さった先生には申し訳ないが、行くのは難しいと思っていた。

この日のツアーでご一緒した方はお二人共に医療関係者。
お一人の方は何と旅行中に3人の方を助けている。
一度目は飛行機の中、「お医者様か、看護師の方はいらっしゃいませんか?」の呼び出しが始まる。
機内に緊張感が走った。
こういう時は正直、出て行きたくないそうだ。
自分の専門分野とは限らないし、返って悪い結果になることも考えられる。
続く呼び出し、またその方の仕事を知っている人に促されて、席を立ったそうだ。

ところが、現場に行くと「医療関係者であると言う証明書を見せて下さい。」
と言われて、持ち合わせてなかったので立ち去ろうとすると、
「いえ、それでもけっこうです。」と呼びとめられた。
機内を走り回って転んだアメリカ人の男の子が激しく泣き、
心配した両親が手当を頼んだそうだ。
大した怪我ではなかったのと様子を見て貰えたことで安心したらしい。

航空会社から「先ほどのお礼に。」とワインを持ってきたので、
これから旅行の始まりに重い荷物になるし、自分はお酒を飲まないのでいらないと断ったが、
気持ちをどうしても表したいと言われて受け取ったそうだ。
(私と他の方がそれをご馳走になりました、フルーティーなリースリングの白でした)

次は飛行機を降りて預け荷物が出てくるのをターンテーブルの前で待っていた時。
突然、近くにいた女性が失神したそうだ。
その時はとっさに体が動き、すぐに駆け付けて脈と呼吸を確かめていたそうだ。
空港の救急隊がほどなくやってきて引き継いだ。

三回目は移動するバスの中。
バスの窓を思いっきり閉めた方が指を挟んでしまい、爪が割れて出血してしまった。
止血してまた窓が錆びていたことから、流水でしっかり洗うようにと教えていた。
今はどちらかというとカウンセリングに近いお仕事をされているが、以前はERにも勤務されていたそうで、
こういう臨機応変な対応ができるようだ。
かつて学生時代の恩師に言われた言葉、「10年後に今の君を振り返って誇りに思うことができるか」
それを座右の銘にしているとおっしゃっていたが、その言葉の重みは今も私の胸に残っている。

かなり疲れも出ていた最終日。
車で片道2時間半近くかかるバークシャー地方までの往復。
こんな方とご一緒できるなんて、心強い限りだ。
二人ともお仕事がら道中からガイドに対して、私とは全く違う観点の質問をしていた。
救急車や消防署についてとか医療保険のこととか。

ドライバー兼、ガイドさんは最初、もの凄く飛ばしてあっという間に2時間が過ぎた。
かなりな長距離でもあり焦っていたのだろう。
休憩所に寄りたいとお願いして下車。


そして程なくノーマン・ロックウェルの美術館へ。
ご一緒のお二人と見学。
ノーマン・ロックウェルのイラスト、ダイナーで少年の話を聞く店員と警察官の後ろ姿。
少年の足元には袋包み、家出をしてきたのだ。
絵が二つ並べてあって一つは店員の顔が若い。もう一つは癖のありそうな中年。
少年の持つ包みも違う。
カバーとして使われた有名な作品は後者。こちらの方が格段に面白みがある。

その他、とても気に入ったのが、縦型の作品で世界の人種が描かれ、
それぞれ宗教観も違っていることが表現されている。
そこに"DO UNTO OTHERS AS YOU WOULD HAVE THEM DO UNTO YOU"
「自分がして欲しいように他の人にもしてあげなさい。」
これは複製を買おうと思うほど気に入ったのだが、やはり二つ作品が並べてあり、
一つはそこにいる日本女性が普通の和服を着ているのに対し、
もう一つ、公開され画集に載り、複製にも描かれている日本女性は簪を付けて
華やかな着物を着た舞妓風。伏せ目がちに下を向いている。
しかし白塗りしていないのは、この作品で白くすると人種の違いが分からなくなること、
また日本の代表が舞妓さんと言うのも、ちょっとひっかかってしまった。
でも素晴らしい迫力のある作品でした。

有名なクリスマスの町景色の横長の絵。
アメリカの田舎町の冬景色が美しい。

全体にウィットに富んだ温かさを感じる、そしてユーモラスな作品。
美術館も風光明媚なところにあり、ここのオープンエアのカフェが居心地が良さそうで、
サンドウィッチとお茶を頂いた。

ここでもこのお二人は消火器を指して、「日本は赤だけどこれはシルバー。
ここの雰囲気に合わせて色を替えているのか。それともアメリカはすべてこの色?」
ガイドさんが美術館のガイドに質問をしようとすると、美術館ガイドは、
考えてもいなかった質問らしく意味を計りかねて、「以前、ノーマンが煙草の吸い殻と、
油絵の具の不始末から出火させてアトリエが全焼したことがあったけれど、
今は大丈夫よ。」
それ以上、踏み込めない雰囲気になった。

しかしそうなると私も気になってくる。
こういう疑問ははっきりさせておかないと、後々また同じことでひっかることになる。
そういうことを今まで経験して来ている。
二人が「もういいよ。いいよ。」と言ってくれているのに、
その辺で絵を観ていた一般観光客の人の良さそうなおばさんを呼びとめて、
「これは銀色をしているでしょう?日本では赤なんだけど、これはここだけ?
それともアメリカはみんなシルバーメタリックなの?」
と聞くと、彼女はびっくりしたような表情で、しばらく黙っていたかと思うと、
「この道具はね、もし火災が起きた場合、このホースのような物をそこに向かって噴射するの。
そうするとシェービングクリームのような液体が出てきて、
それは化学薬品なので消火に役に立つの。そして火が消えるのよ。」
と丁寧に教えてくれる。

「それはわかっているんだけど・・・」と言いかけて、
「まあ、そうなんですか?日本にも同じような装置があるけれど全部色は赤と決まっているんです。
でもこちらはそうではないのですか?それともこの美術館だけこの色?」
彼女はじっと考え込んで言った。
「そういうことをあんまり考えたことがなかったけど、確かに家に置いてあるのは赤だわね。」
丁寧にお礼を言って別れたが、その後もその女性はしばらく物思いにふけっていた。

さあ、次はタングルウッドへ!

5日目のセーラム

2010-09-27 02:47:54 | MAへの旅
画像はセーラム市のピーボディー・エセックス博物館前にて

朝起きて、下の階に下りて行くとジョージが朝食を食べていた。
ミルクを掛けたシリアル。
「朝ご飯食べる?」と聞くので、頷くと立ちあがって用意し始めた。
「食べているところだったんでしょう・・自分でするから大丈夫。」
と答えたのに、コーヒーとマフィンを用意してくれている。
「バナナも食べる?」と聞くので「では半分だけ。」
半分に切った物を4分の一だけ綺麗に皮を剥いてお皿に盛ってくれる。
このセンス、嬉しい。

ルースが戻ってくると自作の絵を3枚差し出し、「この中でどれがいい?」
海岸の海と空を描いた抽象的な作品、海と船、海岸線の具象、ポップな花の絵。
しばらく迷って海と空の抽象画にした。
今、家のリビングに飾ってあるが、紫とグレーのトーンの中に海と空の合間にイエローの光り、
空には白も混ざり、嵐の前とも後ともとれる。
改めてこの絵をじっくり観てみると、
穏やかな状況が厳しく変わる、あるいは今は荒れていてもこれからは静寂が待っている、
どちらとも受け取れる。

ルースはこの絵の他にお魚の柄のペーパーナプキン、お揃いの柄のバターナイフをプレゼントしてくれた。
S市の風景が入った可愛いペーパーでラッピングされている。

ジョージと昨日の音楽の話になる。
ツェッぺリンのファンだったと知ったので、「この曲、知っている?」
と私は"Stair Away To Heaven"を口ずさみ始めた。
家で夫にこれをやっても絶対に何の曲か当ててくれることはない。
「なんだよ、それ? 全然わからない。」とか言われてしまう。
ジョージは席を立つと戻って来て、この曲のCDをかけてくれた。

その様子を動画でとってあるが、この家の雰囲気とこの曲がとても合っている。


ユダヤ教の話になる。
「映画でパルミツバ(12.3歳で迎える成人式のような儀式)の前に少年が全然準備ができていなくて、
ラビ(司祭)がイライラしている、そんなの観たことあるわ。」
「ああ、何の映画だったっけ。それ観たな。いつもそうなんだよ。
パルミツバ、その日までに旧約聖書の詩編の暗唱とかをさせる練習をラビと一緒にするのに、
子供はいい加減で間に合いそうもなくなってきて。」

「セックス&ザ シティーの中でユダヤ教の男性と結婚しようとした女性が、
ラビに認めてもらって改宗するのにとても苦労するシーンがあったわね。」
「娘の二ーナの夫も彼女と結婚するために一年間も勉強したんだよ。」
「二ーナって愛されているのね。」
「彼は二ーナが好きなことをするのに協力してくれて、ほんとうにいい夫だ。」
どこかにもそんな夫がいるような気がしてきた。

そう言えば、二ーナは今、高校で化学を教えているが、生徒にスペイン語圏の子供が多く、
英語では足りないと思い、手っ取り早くスペイン語を学習したくて、
数年前に一ヶ月、語学学校に行くためにパラグライに滞在したと言っていた。
ご主人は犬の世話のために、また余り旅行好きじゃないのでお留守番。
私も猫2匹を二年続けて19歳で見送ったが、猫の晩年は置いていくのがかわいそうで
旅行をずっとしなかったことなど話した。

その他に私がかつては夫と一緒に働いていたが、一生懸命働けば働くほど、
夫婦仲が悪くなり、離婚することまで考え始めてしまうので、
とうとう一緒に働くべきではないと気づいたことなども話すと、
受けを狙ったわけではないのにルースと二ーナは爆笑している。

二ーナとは子供の話にもなり、「そのうちできるかと思っていたら、あっという間に44歳。
いなければそれも人生と思ったの。」と彼女が言うので、「その気持ちわかるわ。」

イスラエルのテルアビブ、ルースの弟が住んでいて、家族それぞれで何回も訪問していて、
「Aもぜひ行ってみて。弟に面倒見させるから。」とまで言ってくれた。

その日はお昼からO区が行うセーラム市に対してのお礼のお別れパーティー。
私は受け付けの担当だったが、その前にホームに入っているルースのお母様を訪ねることになる。
ルースのお母様は確か104歳。
「そんな年のおばあさん、会う機会もないでしょ?」
お母さんはご主人に亡くなられてから最初は一人で住んでいたそうだ。
朝の9時にはルース、夜の9時には彼女の妹さんが毎日電話する決まりになっていたそうだ。
それがある時、電話に出なかったのでルースは心配でびっくりして家に駆け付けたら、
お母様は単に朝早くから出掛けただけだった、そんなこともあり、
年齢も年齢なのでホームに入ったと聞いた。

そこは私の想像していたところとは、全く違っていた。
ホテルの上階がケア付きホームになっている。
そこのペントハウス。
お母様は身ぎれいにされて髪も整えられて待っていて下さった。
ホテルで食事をしたり、ルームサービスを頼んだり、自分でお食事も作れる。
お掃除やお買い物もホテルの人に頼める。
そして数年前から始めたと言う油絵がお部屋にいくつも飾ってあった。


そこで私はルースの亡くなったお父様の書かれた本をいくつか見せていただいた。
何とミステリー作家で日本の早川書房からも翻訳がいくつか出ている。
絶版になっている物もあったが、まだ買える本もあったので、
帰ってから早速オーダーした。


見送りのパーティーが終わり、別れの時が来た。
私はロスやロンドンでももっと長期間のホームステイをしているが、
別れ際、さほど感傷的にはならなかった。
それなのにたった数日一緒にいただけなのに、二人とハグすると涙が溢れてきた。

寡黙だけど気持ちの優しいご主人、アートの製作に励みつつ娘や母親、孫を想い、
忙しい日々の中に日本からのゲストを精一杯もてなしてくれたルース。
今も壁に飾った彼女の作品を見ながら、この家族達のことを想っている。

4日目のセーラム その2

2010-09-26 00:27:48 | MAへの旅
ジェニーの家族と別れて家に帰るとルースも帰宅していた。

ルースはこれから海岸線を北上して海沿いの町、グロースターへ案内したいと言ってくれた。
帰りは高速だったが、行きは雰囲気を見せてくれるためにあえて海沿いの道を選んでくれた。

途中、漁師町の裏通りを車で見せてくれる。
ロブスターは網の仕掛けを使って獲るそうでその道具が積み上げてあった。

そしてこの街並みには一番古くて1710年、その他にもその年代に建てられた家々が保存されている。
というか、現在も住居として使われている。
アメリカの建国、大学受験前に覚えた年号、「卵割って雛なろう(ヒナ・ナ・ロ、1776)」
のフレーズが浮かんできた。
この辺り、ボストン周辺は建国前から栄えた古い町がたくさんある。

グロースター、「パーフェクトストーム」という映画を私は見ていた。
本来なら行かないはずの漁場に出掛けてあり得ない嵐に遭遇してしまい遭難した漁師たちの物語。
「私は絶対にあの人達は最後には戻ってくると信じていたのに。
ジョージ・クルーニーが死んでしまってダイアン・レインが一人になるなんて、
考えられないわ。」と言うと、
二ーナはばっさり「ほんとうの話だからしょうがないのよ。」

海岸には生きて戻ってこられなかった漁師たちの碑が立っていて、すべての人の名前が刻まれている。
私の夫は海産物の取引をしているが、この辺りの漁場からの品物もある。
こういう漁師の人達の命懸けの仕事の上に夫の仕事が成り立っているかと思うと、
感動が深まって涙ぐんでしまい、ルースにもそれを伝える。
ルースも黙って頷いてくれた。
海岸線は陽に照らされて波もなく静かだ。
この海が荒れることなど想像もできない。
改めて自然の力に畏敬の念を抱く。

海に面したシーフードを出すレストランで食事。
寿司のカウンターまである。
皆でアボカドソースのガスパチョ風スープ、トマトとシーフードの煮込み、
ハマグリのフライなどを頼む。

日差しが強く、二ーナは日焼けしようとしていて、ルースは避けようとしているので、
日焼けしても構わない私がルースと席を変わる。

ルースもかつてはP博物館でガイドをしていたそうだ。
その頃は館長の方針でM博士が大切にされていて、来館者にも彼の話をするように指導されていた。
しかし時代は変わり、今は現代的な物、スタイリッシュな作品や展示の仕方になり、
あまり郷土色の強い民芸的な物よりもモダンな雰囲気が好まれるようになったと言う。
今ではS市の人でさえ、M博士を知らない人も多いそうだ。

ところでルースはアーティストなのだが、以前町の一角にアトリエを構えていた。
そこの建物も観に行く。
風格のある窓の大きいアンティークな建築。


そしてその近くにある美術館、Cape Ann Museumに案内してくれる。
港町の風物とこの町にちなんだアーティストの作品が展示されている。
やはり東洋の物も飾られている。
大きな窓がたくさんある美術館。
そこからは外の緑や海が臨める。
それもまた美術館の作品のようだ。

日本から現在は直行便もないボストン。
意外に年配の人でボストンに行ったことのある人がいることを旅行前に知り驚いた。
今はサンフランシスコ、ニューヨーク、ロサンジェルス、ラスベガス辺りが日本から旅行する人気都市のイメージがある。
それなのに昔は船で行き来があったためか東洋からの美術品がこのような地方都市の美術館にも見られる。

美術館を出てから近くのお店でチャイを飲む。
こちらはどこの店に入っても大きなカップがあたりまえのように出てくる。

ルースと二ーナ行きつけのビーズやガラス、自然石のアクセサリー店へと入った。
Beth Williams Studio、オーナーで作家が感じの良い対応してくれて、
そこで二人ともピアスやネックレスを楽しそうに見て買い物をした。
私もネックレスで欲しい物があったのだが、端の処理をしていないため、
この店に頼むと一週間ほどかかるそうで、持ち帰って日本でどこかの店に頼まなければならない。
その上、45とあったのを$かと思ったらこれは重さで、値段は290ドルほど。
あきらめました。


店から出て家へと向かう。
車の中でいろいろな話をするが、二ーナは科学者で、
2年間、観測船に乗りこんでいたと言うことも知る。
「船の生活ってどんな感じ、慣れるの?」
「自分は平気だったけど、最後まで慣れない人もいたわねぇ。
一月に一度は陸に上がって食料や必需品も詰め込むのよ。
むしろ船から降りてからもシャワーを浴びる時に壁に張り付いて頭を洗ったり、
船の上の習慣が抜けなかったわ。」
ルースから二ーナの年を聞いてびっくりする。
思っていたよりも10歳は年上だ。びっくりしていると、
ルースは「Aこそ、その年には見えないわよ。」と二人で笑っている。

家に帰るとジョージはソファーで寛いでいた。
家の中にこういうコーナーがいくつもある。
「今日は何をしていたの?ガーデニング?それとも株の取引をネットで?(笑)」
「ガーデニングで一仕事終えたところだ。」

夕方になると二ーナはご主人と愛犬のレトリバーが住むニューハンプシャーへと車で帰っていった。
山の中に住んでいるそうだ。
別れ際、ルースは「もっとしょっちゅう会いたいわ。二ヶ月に一辺じゃねぇ。」
ルースとハグ、ジョージも言葉には出さないが娘との別れを惜しんでいるのが、わかる。
どこの家も同じだ。
自分の両親のことを思い浮かべる。

二ーナを見送った後、地元のレストランで簡単な食事をしようということになる。
日本で言えば食堂、居酒屋だろうか。二人とも店の人と懇意にしている。
ここで食べたリブステーキが絶品だった。


店を出る時、70年代のロックが掛かる。
ジョージが「この時代の音楽はほんとうにいい。自分もいろんなのを聴いたなぁ。」
と目を輝かせる。
「えっ、どんなのを聴いていたの?グループ名や歌のタイトルを言ってみて!」
「ディープパープル、レッド・ツェッぺリンとか。」
その話の詰めは翌朝に持ち越される。

4日目のセーラム その1

2010-09-25 09:29:24 | MAへの旅
朝起きてシャワーを浴びる。
旅行で移動して行くと先々のバスルームや部屋の使い勝手に戸惑うことがある。
しかし同じ地域のせいかこのお宅も市内のホテルもボストンのモーテルも
温度調節やレバーのタイプが似ている。

昨夜、朝食はどんなものか聞かれて「コーヒーと少しのパン。」と話しておいた。
ご主人が用意して下さり、マフィンのトーストとコーヒーを頂く。

朝からお習字のお教室に出ているルースに代わってご主人のジョージとお嬢さんの二ーナが
庭を案内してくれる。
ガーデニングとアート、ペインティングが趣味とあったが、岩と灌木、植物、
そこに様々なアート、お嬢さんだったり奥様の作品だったり、他のアーティストの物などが、
家だけではなく庭にもたくさん置かれている。
それぞれが庭園にマッチしていて違和感がない。
アジアの物、青銅や陶器もある。

庭のはずれには菜園があり、トマト、ミニトマト、ズッキニやバジルが育っている。
バジルは香り高く、ミニトマトを摘まんでくれたら甘みが豊かで美味しい。
個人の家のプールとしては今まで見た中で一番大きなプールが庭の中心にある。
このプールと高低のある立体的な岩山が庭にアクセントを添えている。
しかしながらプールは潰す予定だそうだ。
真夏の2ヶ月だけ、そして使うのは孫だけ、維持費も掛かる。
だったら埋めて庭にしてしまう方が無駄がないと。


ところでここのお宅に数日滞在する間に度々庭へリスがやってきた。
私が「わぁ、可愛い。あそこにいる、見て!」
などと騒ぐと、ご夫妻は「あ~、またリスか。」といった様子で、
嫌そうにされる。
リスは庭を荒らし、野菜や果物の実を食べる。
困った存在なのだそうだ。
ここでのリスはまるで東京のカラスだ。
帰りの飛行機で隣の席の男性が嬉しそうに「公園で望遠レンズで撮ったんだ。」
とリスのアップの写真を見せてくれたが、その時私も「リスねぇ。」みたいな反応になってしまった。

二ーナがそろそろ朝市に行ってみようと誘ってくれる。
二ーナの車に乗り込む。
思わず爆笑してしまう。
日本の若者ならともかくアメリカの女性の車なのにそこら中にフィギアが置かれている。
それに車の中も散らかり放題。
しかしそれが返って親しみが持てて寛げた。
二ーナの気取らない性格が車にも出ている。
後で両親が「二ーナは変わっているでしょ?」と聞くので、
「全然変わってない。う~ん、変わっているのは私の方かも。」
二人は「Aは自分が変わっているから二ーナを変わっていると思わないのよ。」と笑っていた。

朝市は前日、S市内で行った市場と似た雰囲気だったが、更にもっとローカルで、
ホームメードの野菜、蜂蜜、パン、クッキー、手作りのカード、パスタ、果物などが置かれている。

二ーナと一緒にチーズを買う。
一つは同じのを、そしてもう一つも。
これは日本に持ち帰って食べたがどちらも、素晴らしい味だった。
二ーナが朝余り食べてないので、屋台で食事をするというので、私は別れて、
買い物をしたり、写真を撮ったり。
またしてもブレッドやブラウニー、ケーキやマフィンを買ってしまう。
このブラウニー、前日のよりも格段に美味しかった。


二ーナの妹のジェニーの家族がやってくる。
14歳の娘と10歳の男の子が一緒だ。
全員と挨拶、記念撮影。
この男の子がストローに詰めた蜂蜜を買ってきたと私に一つくれる。
端を噛み切って吸うようにと食べ方を教えてくれる。
「私も買いたい。」と言うとお店に連れて行ってくれて、説明をしてくれる。
蜂蜜のポットとこのストローを10本買うとお店の人も「またお客を連れて来てね。」
と彼にバックマージン(?)のストローを2本。

その後も彼はイタリアンで無料で試食ができるラビオリなどを取って来てくれて、
「美味しい。」と言うと「もっと食べる?」と持ってきてくれる。
アメリカの男の子はいいなぁ。
日本の10歳の男の子が外国人のおばさんをこんなに親切に面倒をみてくれるだろうか。

3日目のセーラム

2010-09-24 04:44:38 | MAへの旅
案内をしてくれた博物館ガイドの女性と。

その日は朝から夜まで予定がぎっしりだった。
手作りでチョコレートを作る工場見学、小学校の見学、農業高校の見学、モース博士の墓参。
夜はセーラム市主催のウェルカムパーティー。そしてそこでホームステイ先の方とご対面して、
各自ステイ先へと引き取られていく、という予定だった。

まず工場見学が予定時間を一時間近く上回ってしまった。
オーナーが事細かに説明、ヘアキャップをかぶり工場内部を見学。作業過程を見る。
その後、チョコレートの試食と販売。
工場見学、さすがにチョコレートが解けないようにエアコンが効いていて冷える。
そしてチョコレートの香りも長く嗅いでいると厳しい物がある。
大勢が買い物をしたのにもかかわらず一つのレジでのんびり会計している。
これって優先順位からすると最後の見学に持ってきても良かったのにと後日、意見が出ていた。


工場を出ると小学校の学バスが待機してくれていて、小学校へ。
校長が出迎えてくれて、体育館、音楽室、授業風景、学食、などを案内してくれる。
日本との違いとしてカウンセリングの充実、生徒に対しても親に対しても。
また移民としてアメリカに来た英語が母国語でない生徒、識字障害やいろいろの障害に対しての
カウンセリングが整っていて、その専門のカウンセラーたちがいる。
教師に対してのカウンセリングもあるようだ。
先生達も生徒の人気投票があったりで、教師も手を抜けない。
また海辺の町なのでそれに因んだ装飾やインテリア、また私たちを歓迎するために、
生徒達が飾り付けをしてくれて待っていてくれた。
最後は校長室で全員にハロウィンのカップに入ったお菓子を校長から手渡され、
校長は学校の出口まで見送ってくれた。
ここでも校長に感想と感動を伝え、そして握手をして別れた。


次は農業高校。学校役員の理事をそうとう待たせてしまっている。
駆け足で広い敷地の馬や牛の小屋、山羊の放牧される牧草地、
園芸の練習をする庭を見学。

獣医師を目指す生徒、園芸家、牧畜などいろいろな科がある。
それぞれの授業や実験室を見学。
友人のお嬢さんでこういう方向性で将来を考えている子がいるので、
留学は受け付けるのかと尋ねたところ、州立なのでそれは難しいかも、
とのことだった。

こちらでも学校の名前の入ったマグカップを頂く。
学校の理事でO区とセーラム市の交流の役員でもあるピーターと。


ここの学食で昼食となるが、食べ切らない内にダッシュで移動となる。
モース博士の墓地へと移動。
ところがこの時、時間に追われて慌てていたドライバーが石に乗り上げてしまい、パンク。
外に出て代わりの迎えの車を待つことになる。
この日はホームステイ先にスーツケースが持ち込めないとのことで、
ボストンバックとハンドバック、また買い物をした小物や頂いたお土産を入れるバッグなども持っていた。
それらをすべて持って下車。
しかし振り返って写真を見るとこの時の様子が何かとてものどかだ。
田舎町の雑木林の中で時間に追われることもなく、ぼーと立ち尽くしている。

セーラム市に着いてからO区との親善団体の役員の人が出迎えてくれて、この学校訪問や移動にも、
付き添ってくれていた。
私はその中の人達に自分がいかにモース博士を尊敬していているかと、
彼が日本で行った偉業の素晴らしさについて語っていたらしい。
墓地について献花が行われ、その後私は博士の墓碑の前にひざまずき、
二冊の本を差し出して見せている写真と合掌している写真がある。
自分では自然にしたことだったが、後から写真を見ると町の役員の方達はその様子をずっと見守っていてくれた。
博士の墓参ができて感極っていることもこの中の一人に話したような気がする。
その年配の女性は私を抱きしめてくれた。

その後、出会った人達にも私は自分の旅の目的はモース博士の故郷を訪ねて、認識を深めることだったと話していたらしい。
それがどうも噂になって他の方にも伝わっていた。
最後の日のパーティーで何人かの知らない方々がそれぞれ私に挨拶とお詫びに来てくれた。
この町で博士の功績が大切にされていないことに対して、そして自分はそれは間違っていると思う、
あるいは、「家には博士の写真とサインを飾っているよ。」とか、
「あなたはひとりでない。」とか、
日米でそれぞれ博士の功績を伝える役割を担っていこうとか、わざわざ声を掛けに来てくれた。
今思うと墓参をした時よりも、こういう一人一人の方の心遣いに胸が一杯になる。

その後、モース博士が元祖であり立ち上げにかかわったピーボディー・エセックス博物館を見学になる。
そこまで、またバスを降りて大荷物をしょって歩くことになる。

博物館に着くと私と同じ博物館ガイドのボランティア二人が待っていてくれた。
ガイドではなく、Docentと呼ばれていた。訓練を受けた案内人ということだろうか。
まずクロークで荷物を預けて札を受け取る。
そして連れていかれたのは、二軒の古民家。1700年代、アメリカの建国1776年よりも古い家もある。
この都市では貿易が盛んで、船主や貿易商は豪華な調度品や東洋からの輸入品を手にいれることができた。

しかし見せて貰った二軒の家、豪華とされる方よりも質素とされる方が、
フォークロア調とでもいうか今の感覚では素敵に見える。
当時の贅を尽くした家の内部

当時の豪邸だが質実な家の内部

その後、博物館へ。
博物館の内部に東洋館のような別館がある。
古くから東洋との貿易が栄えた港町らしい風物や豪華な展示物がスタイリッシュに飾らていたが、
残念なことに、モース博士のコレクションはひとつもなかった。
博物館のガイドとも話したが現在の展示は無いそうだ。
日本では今でもこのように展示されていて本も区内で出しているとガイドに見せる。
英文で書かれた翻訳を送る約束をした。

博物館からホテルへと戻ってきた。
ここで現地の人達、ホームステイの引受先の人達が迎えに来ている。
今日一日、持ち歩いた重い荷物は何だったのかという感じだ。
それなら最初から荷物ごと預けておけたのにと意見が出る。
ホテルがスーツケース以上の物を団体分預かれないとか諸事情もあったのかとは思う。

パーティーまでの時間、それぞれのスティ先の人と過ごすのだが、
私のスティ先の人は来ていないとのことで、先ほどの博物館ガイド、
私が案内して貰わなかった方の人がお茶に誘ってくれる。
紅茶、日本茶、中国茶の専門店に連れて行ってくれた。
ガイドが私と同じように仕事ではなく、ボランティアであること、
曜日が決まっている他に団体の予約が入ると引き受けることなど話してくれた。
私たちが帰国する日に中国10日間、日本20日間の旅へと出発するそうだ。
日本では以前預かっていた留学生が熊本出身なのでそこまで足を伸ばすらしい。

パーティー会場へと彼女は車で連れて行ってくれて同席してくれた。
受付ではそれぞれの名前の入った手作りのピンが用意されている。
私のステイ先の人はここにも来ていない。
ユダヤ教のその日は新年に当たり家族の集まりがあるために来られないそうだ。
なんだか家なき子みたいで心細くなる。
パーティーではそれぞれの代表の挨拶、そして記念品やお菓子などたくさんのお土産を頂いた。
記念品は綺麗な自然石に地球儀風の図柄が刻まれていてずっしり重い。
そして日本の形がちょっと違っているかなぁ。
でもひとつひとつに心がこもっていてありがたい。
テーブルも秋の落ち葉やハロウィンのミニカボチャなどで飾られている。
帰りにそれを「持って帰って。」と手渡してくれた。
今、我が家の玄関にそれをディスプレイしている。

パーティー終了後、先ほどお茶を一緒に飲んでくれた女性が、私のスティ先へと送ってくれる。
セーラム市内から隣町、さらに隣の市へと。ゆるい傾斜の斜面を昇っていくと、どんどん山の上へと。
街灯もなく、宵闇が深い。
着いた先のお宅の玄関でスティ先のRさんを紹介される。
そしてご主人のジョージと他州から訪ねてきて明日帰ると言うお嬢さんも。

事前に趣味がアートとガーデニングとのことだったので、お土産として、
最初は自作の陶芸作品にしようかと思ったが、余りに出来が悪いので、
かつて陶芸を教えてくれた陶芸家の作品の片口にする。
ドレッシングでもソースでもミルク入れにも使えるかと思って。
そして絵柄の描かれた和ろうそく、たまたま前日にみつけた筆ペンと一筆書きのセットを渡した。

陶芸作品は本人も作っていて素晴らしいアートが家中にある。
日本なら私設美術館にでもなりそうな邸宅だ。
自分の作品を持ってこなくて良かったとほっとする。
なんとお習字を習われているとのことで思いの外、筆ペンがうけた。

「明日はどうしたい?私のお習字のレッスンに一緒に行く?
それとも娘に市場を案内させてもいいし。その後は近くの海辺の町に案内するわ。」

市場に連れて行ってもらうことにしてその日は夜も遅いし、お互い疲れているので、
休むことにして、寝室やバスルームに案内してもらう。

山の上なので更に気温が低い。
「趣味にスイミングってあったけど、泳ぐ?」と聞かれて庭を見ると、
ボストンのホテルのプールよりも大きくて素敵なプールが。
「水を温めることもできるんだよ。」とご主人。
しばらくプールを眺めていた私だがさすがに丁重にお断りした。

しかし夜遅くに余所のお宅へ伺っていきなり寝るというのも、家の中の使い勝手がわからない。
もう少し明るい内に行けたら良かったと思った。

ボストン二日目、そしてセーラムへ

2010-09-23 10:05:21 | MAへの旅
旅先での第一印象は大きい。
それがベイツモーテル(ヒッチコックの映画「サイコ」に出てくるモーテルの名前)
のようなホテルだったために、先行きが危ぶまれた旅行だが、
二日目、午前中はボストン観光となった。
レッドソックスが遠征先へと出掛けている球場を外からだけ見学。

その後はボストン美術館へ。
ここのコレクションは見応えがあった。
ガイドの案内の後、一時解散となる。
日本美術に関して、仏像彫刻が多数あり、一つの部屋は新しい作家のものばかりだった。
係員に聞くと一つだけフラッシュ禁止の物があり、その他は撮影可とのこと。
日本の寺院にいるような雰囲気の入り口と室内。


集合時間までそれだけを見て売店をちょっとだけ冷やかすつもりが、
ここのグッズに私は嵌まってしまった。
猫系の可愛らしい絵、アンディー・ウォーホールの猫のメモ帳、マウスパッド、マグネット、
私の対応をしてくれていた店員が「ちょっと待っていて。もっと詳しい人、猫好きの人がいるから。」
担当を変わった年配の店員は次々と猫のカードや本を倉庫からも出してきてくれた。
私はここで猫の絵柄のタイルや本を大人買いしてしまい、その上、これはかなり重い荷物になった。
これで帰りの重量制限を越えたことは間違いはない。

その後、市内のレストランでクラムチャウダーとサンドイッチ、コーンブレッドの簡単な昼食後、
セーラム市へと向かう。バスで一時間ほど。

その街はハロウィンで有名な街だ。
9月初めとはいえ、そこら中にハロウィンの飾り付け、いや、一年中やっているのかも。
魔女の扮装とメイクをしてくれて写真を撮る店まである。
かつてヨーロッパで行われた魔女狩りがアメリカではどういうわけかその都市へと飛び火した。
罪もない10人近い女性が密告などにより処刑されている。
暗い歴史とも言えるが、観光地ではそういったことを隠している場所も多々あるにもかかわらず、
それを売りにしているというのは珍しい。

街の中を見学、青空市場が設営されていて手作りの蜂蜜、パン、野菜や果物を売っている。
それぞれ試食したり、見学。
私はここでごっそり自然食で砂糖を使っていないと言うブラウニーやパン、マフィンなどを買ってしまった。

その後ホテルへとチェックイン。
着いたホテルは温かみのあるとても可愛いしつらえの部屋だった。
しかしやはり冷蔵庫とセーフティーがない。
また観光地の中心にあるため、日常品を買う店もない。
こちらもコネクティングルームだが作りがしっかりしているのと、
ドアの向こうの気配は感じず気にならない。


その後は市庁舎を訪問、市長との面会時間になる。
私は部屋でブラウスだけ着替えることにした。
歩いて市庁舎へと向かう。
100年近い歴史のある建物がそのまま使われている。
議事会議室で市長を待つ。
この都市に初めて誕生した女性市長。
日本にも来たことがあり、姉妹都市から日本人の学生をホームステイさせた経験もあるそうだ。
子供達三人の学校が今は始まったばかり、議会の方も合わせて忙しい時期とのこと。

私は持参したS区で作っているモース博士の本とO区が作ったセーラム市についての本を見せた。
日本でもセーラム市が、モース博士がこのように紹介されていること、
女性初の市長とは素晴らしいなどと話し、握手をして写真も一緒に撮った。
市長も日本語は読めないが本の表紙にあるセーラム市のシンボルマーク、写真などを見て、
喜んでくれた。

余談だが、ライブハウスではショウの後、アーティストと会い、サインをもらったり、
写真を一緒に撮ったりする機会が良くある。
そんな時に自分の番が回ってくるまでに皆さん、それぞれ何か感想や感動を伝える準備をしているはずだ。
それが習慣になっているお陰で、その経験がこの旅行中、この時もその後もとても役に立ちました。

ホテルに帰ると8月に日本でホームステイをしたという中学生の少年が待っていた。
皆を街に案内すると言う。
先ほどの市場とお土産の店などに連れて行ってくれるので、「スーパーかコンビニないかな?」
と尋ねると近くのスーパーに案内してくれた。
「先に帰っていいのよ。」と言ったのに買い物が終わるまで見届けてくれる。

その日の夕食は同じホテルの宴会場だったのでゆっくりすることができた。
全員赤い帽子をかぶった年配女性の集団がパーティーをやっている。
それぞれ地方都市からこの日のために集まってきたとお洒落をしていて、帽子は全員赤。
ロビーにいる時からめだっていた。
アメリカの宴会場でプロムのグループに遭遇したことはあるが、こんなのは初めて。
プロの歌手も呼びつつ、皆でカラオケパーティーをやっている。

今思い返してみると、この日がこの旅行中、最ものんびりと過ごせた日だったのかもしれない。



マサチューセッツへ・第一日目

2010-09-22 07:29:46 | MAへの旅
この旅行についてどう書いたら良いものか正直迷ってしまった。
全くの団体旅行で、思い出に残るエピソードは他の方と絡んでいる。
私が差支えないと思っても、個人や団体として特定できる表現は避けるべきか、
あるいはそういった内容を書かないようにするか。

アドバンスドブログにしてからどういう検索で私のブログに入ってきたか毎日、
報告が来るようになった。
余り知られていない、書き込みがないようなことを書くと検索で上位に入ってしまう。
また「えっ?」と思うような検索語句から私のブログに辿りついている方もいる。

そこで個人や団体に関する表現はぼかして、自分以外の他の参加者のことはあまり触れずに、
書くことに決めました。
もうすでに書いてしまったことはそのままで。

旅行の前に何度か説明会があった。
その時、私は保険の説明などもしっかりと聞く機会を持った。
キャンセル保険というのが存在することを知る。
掛け金は数百円、キャンセルした場合、限度額があるがある程度の金額が戻ってくる。
これからは親の健康や、もちろん自分にもいろいろと状況が変わることも考えられるので、
事前にこの保険を掛けた。
また歯科治療に関しては保険が適用されないことも知った。
常識でしたか?

過去の記録を塗り替える猛暑が続いた夏の終わり、体調を崩す人も多い頃に、
この旅行に出かけることになった。
旅先の気候は10月中旬から下旬の陽気。
気温とドレスコードがわからないので荷物は増える。
大型のスーツケース、たくさん入ってしまう分、最近は重量制限が厳しいので、
帰りなど簡単に重量オーバーになってしまう。

まずスーツケースの重さを計ると7・5キロ。
デルタ航空の荷物制限は23キロだったが、スーツケースだけで三分の一の重さ。
全部、パッキングした後、また計ると18キロ余り。
帰りの重量オーバーが心配な微妙な数字だ。

今までは成田まで宅急便で荷物を送るか、軽い場合は家から持って出て行く。
今回は某区の区庁舎集合なので、重い荷物を持って家から出て行くことが簡単にできる。
その上、一階で荷物を預け、会議室には身軽になって集合。

壮行会ではいらしていた区長がその日はご都合がつかなかったとのことで、
副区長の送る言葉、団長からの出発の挨拶が結団式で行われた。
雨の中、区の職員の見送りを受けて、バスへと乗り込んだ。
約20名ほどの団体。
バスには一人で二席分、ゆったり座って成田までへと行ける。
成田で荷物を預けると添乗員さんや区の職員の方達と搭乗口までへと移動。
そこで搭乗時間まで解散となる。

成田でも引き続き雨が降っている。

デルタ航空でデトロイトまでへと旅が始まった。
初めて乗るデルタ、確実に欧米系のエアラインの中では思ったよりも感じが良かった。
映画は自分で選択はできず前方の画面の物を全員で観る形式だが、
前から観たかった"Karate Kid"「ベストキッド」だったのにもかかわらず、
途中で眠ってしまったような。これって帰りだったかな?記憶があいまいだ。

デトロイトに約13時間後に到着すると、アメリカ国内の乗り換えはいったん預け荷物を
受け取らなければならない。
昨年の7月、エッセンスミュージックフェスティバル、
そしてエリック・べネイファンの集いに出席するため、一人でニューオリンズへ向かった時は、
短い乗り換え時間にしなければならないこの手間が面倒に思えて、
また以前これで飛行機を一本逃したことがあるので、すべての荷物を持ち込みにしてしまった。

ターンテーブルに出てきた自分の荷物を取る時に他のスーツケースの奥にあり、
周りの見知らぬ方達が手伝ってくれて手元に引き寄せた。
その時に行き先のタグが剥がれたようだ。

入国審査や荷物検査を改めて受けて今度はボストンへとチェックイン。
私の行き先タグが紛失しているのを係員が見つけて、カウンターへと向かうよう指示された。
そこでは荷物でトラぶった人達が並んでいて一人一人が長い。
添乗員さんが「どうしました?」と飛んで来てくれる。
空いているカウンターをみつけて新たにタグ付けされた荷物をチェックインする手伝いをしてくれた。
そして「ラッキーでしたね。」そのまま係員が気づかないで受け取られていたら、
ロスバケの可能性ありだった。

デトロイトからボストンへは2時間ほど。
この距離は機体が上昇し飲み物が出たと思うと着陸への準備体制となる。
到着するとまた現地の係員、迎えのバスがあり、宿泊先のホテルへ。
この時点で私はかなり疲れていた。

宿泊先のホテルに着いて私は愕然とした。
それはホテルではなくモーテルだったのだ。
平屋の建物が建て増しを重ねたのか迷路のように奥へ奥へと繋がっていく。
冷えたコンビニ弁当とウーロン茶を渡されて部屋へ。
聞けば一番近いスーパーへも5分ほどとのこと。
とても歩く気にはなれない。部屋までの途中にソフトドリンクの自販機を見かける。

プールがあるとのことで、楽しみにして水着を持っていったのだが、
水は抜かれていた。
最もこの気候、そしてそんなプールではとても泳ぐ気にもなれないが。

がらんとしたシングルの安普請の部屋。
冷蔵庫もなければセーフティーボックスなどあるはずもない。
その上、隣との壁が薄く、更にコネクティングルーム。
私は隣室の男性の咳を一晩中聞きながら眠ることになった。
部屋の真ん中にあるコネクティングドア、鍵穴も薄っぺらな扉も不気味だ。

カーテンを引き、シャワーを浴びようとお湯を出すと、
ハンドシャワーではない上からお湯がでるアメリカにありがちなタイプ。
アルフレッド・ヒッチコックの映画「サイコ」、銀行の金を横領した女性が、
最初に到着したベイツモーテルでシャワーカーテンの向こうから刺されるシーンが
蘇って来てしまった。

最初の宿で区の親善使節の旅とはこれほどまでに過酷なのか、
皆、これに満足しているマザーテレサのような方たちばかりで、
不満を持ったりする私は我儘なのかと考え込んでしまった。

ところが翌朝朝食の際に話を聞くと、「三人部屋なのに立てかけてあったエキストラベッドが
部屋に入れる余裕がなくて、添乗員さんを呼んだ。」
「浴槽に汚水が溜まっていて流そうとしても流れず添乗員を呼ぶと、報告のためにと、
写真を取っていた。」
排水の悪さは誰もが辟易していた。

これまで団体旅行と言うのは余り経験がなく、
なるべく添乗員を煩わさずにするものかと思っていたが、
旅行社からフリーランスで派遣されている方だったので全体像が掴めるように、
ホテルへの苦情は個人的に言わずにその方を通した方が良いと知り、
私も昨夜の事情をお話しした。

このようなホテル、いやモーテルだから朝食もさんさんたるものだった。
このホテル、もう一度戻って来て旅の終わりに帰りも二泊することになるが、
今度はコネクティングではない部屋を用意してくれていて
ほっとしたのもつかのま、夜、寒くて目が覚める。見ると窓が壊れて閉まらない。
窓をしめるための金具が取れたままになっている。
無理にしめようとして怪我をしてもと思い、そのまま厚着をして眠った。
翌日、ルームクリーニングの際に窓は閉めてくれているかと思いきや、
部屋に帰ると観音開きの窓は雨の中、外に向かって全開状態。
添乗員に報告すると、部屋に工具を持った男性がやってきて、窓を打ちつけていた。
朝食はここでは食べにいく意味がないと思い、部屋で飲み物と買ってきたパンで済ますことにする。

こんな部屋から私の旅は始まる。

これは明らかに現地に経験のない旅行代理店のミスで、
前回はJ社だったそうだが、今回は引越しでは名前を聞いても旅行代理店をしているとは、
聞いたこともない社名だった。
区の旅行と言うのはいろいろな業者を交代で使わなければならないそうだ。
そのホテル、いやモーテルを選んだ旅行社側の理由としては
「地の利が良い。」とのことだったが、
ほとんど団体行動でバスで移動するので交通の便の良さなど関係もない。
ホームステー先でも「ボストンではどこに泊まったの?」と聞かれて、
そこのホテルの名前を言うと「あんなところに泊まったの?」
と絶句されてしまった。
そして昨年まで日米両市の交流に尽力されいて退職された
セーラム市側のコーディネーターの日本女性が、もし今年もいたなら、
あなた達をそんなところに泊まらせることにはしなかったでしょう、と。

そういう状況の中で健闘してくれ、善処してくれた若手の区の職員や
仕事とはいえ、そこら中からくる苦情に対応してくれた添乗員さんには感謝している。
またそんなホテルだったので、最後の自由行動日ではホテルには少しでも留まりたくなくて、
ボストンとニューヨークの中間地点、タングルウッドまで思いっ切って遠出できたことも、
良かったと思っている。

マサチューセッツへの第一歩

2010-08-25 09:07:16 | MAへの旅
9月始めに行くマサチューセッツの旅の第一回目のミーティングに行ってきた。
区役所の会議室、テーブルは全員の顔が見えるようにセッティングされている。
自分のネームプレートの置かれた席に座る。
一人づつ自己紹介になる。
全部で20名ほどだろうか。
私の順番は3,4番目だった。
こういうのはトップバッターも緊張するが最後に行くほどプレッシャーも掛かってくる。
早い順番で良かった(ホッ)

出発前に会合が三回ある。
最初はそれがたいへんかと思ったが、参加してみたら、
ご一緒する方達と親睦を深めることができてむしろ心強いと思った。
すでにお馴染みの方達は早速私の名前を覚えて下さって声を掛けて下さるのが嬉しい。

私よりもずっと年上の女性がいらっしゃる。
「以前に行った時に何もできなかった。だから今回はリベンジよ。」
とにっこりお話される姿にいくつになっても挑戦するって素晴らしいと励まされる。
デトロイトで乗り換えてボストン、そこから更にバスに乗る。
ニューオリンズ、ブリュッセルの時と同様の長時間のフライト、
ひるんでいた自分がちょっと情けない。

この旅行に参加するか迷っていた時に知人に、
「出掛けて行くことで出会いのチャンスもある。」と言われて背中を押された。
その方は夏休みに新しい体験にチャレンジされている。
http://blog.goo.ne.jp/ak-tebf/d/20100806

モース博士にちなんだ場所、ボストン美術館、
立ち上げに係り館長を長く務められたピーボディー博物館を訪問、
そしてモース博士の墓参もさせていただける。
市庁舎や地元の小学校、農業高校を見学し、ホテルにも泊まるが市内の家庭にも3日間滞在する。
この旅に出かけて行くことで観る未知の場所、知り合う方達との事を考えるとワクワク、ドキドキ。

ボストン、レッドソックスの本拠地だが野球は余り分からないのでこれはパス。
子供の頃の愛読書だった「若草物語」もこの地が舞台だった。
そして探偵スペンサーシリーズのロバート・B・パーカーもここに住み、いくつものシリーズを書いている。
一日ある自由行動日ではどこを訪ねてみよう?
パーカーの小説に度々登場するケープコッドにも行ってみたいが少し遠いようだ。

ずっと行きたいと思っていてなかなか行けない場所もあるのに、
こうやって旅の方が私を掴まえてその土地が呼んでくれるような出来事がある。
http://blog.goo.ne.jp/ak-tebf/d/20100723
ニューオリンズの時もそうだった。
http://blog.goo.ne.jp/ak-tebf/d/20090624

いざマサチューセッツ州へ!

2010-07-23 00:00:19 | MAへの旅
エリック・べネイのファンになったことから、昨年の夏の初めにファンクラブの集いに参加するため、
自分にとって縁もゆかりもなかった土地、ルイジアナ州ニューオリンズ市へと向かった。

今年は夏の終わりにマサチューセッツ州に行くことになった。
旅というのはこういういろいろな偶然が導いてくれて、
その土地へと向かうことになるのかと思う。
それは偶然のようでありながら、想いが強いことで運命が導いてくれた必然なのかとも思う。

地域の博物館で展示解説のボランティアをするようになって今年で8年になる。
http://blog.goo.ne.jp/ak-tebf/e/7c75d777c46e66a4596fe45592f5406e

団体の予約が入ると事前に連絡をいただく。
人数、年齢層、来館目的、滞在予定時間など。

たいていは館内全体を20~30分位で、と言われることが多いが、
7月初めに「モース博士だけで一時間説明して欲しい」という予約をいただいた。

私にとって、自分の中で三つのライフワークがある。
このブログを読んで下さっている方はすでにご存じかもしれないが、
Eric Benet、金子三勇士、そしてもう一人はモース博士。

大森貝塚の発見者、日本の考古学の祖、モース博士のお話を一時間も聞いて下さるグループ、
そんな方達とお会いするのがとても楽しみだった。

熱心に館内を見て下さり、一時間半近く滞在された。
その方達は都内某区を代表してモース博士が日本から帰った後に余生を過ごされた市へと
向かわれる親善使節団の方達だった。

帰り際に何人かの方達が「そんなにモース博士が好きなら一緒に行きましょう。」
と誘って下さったのだ。
たいへんありがたいことだと思ったが、自分がその海外派遣の条件を満たしているとは思えなかった。

モース博士の墓前に献花、モース博士が館長をされた博物館を見学、
日本から帰国後にされた研究や足跡、アメリカへ持ち帰ったコレクションを辿ることができる。
私にとっては願ってもないお誘いだった。

その後、旅行の責任者の方と何度かお話を重ね、私もそのグループに入れていただいて、
マサチューセッツ州のその町を訪問できることになった。
出発まで後6週間ほど。
更にいろいろな文献を読んだりして知識を深め、充実した旅になるようにしていきたい。