アメリカに住むfacebook friendのMichikoさんから
"Unsung"というアフリカ系アメリカ人向けの音楽テレビ番組で放映された
ドキュメンタリー映像を教えていただいた。
Tammi Terrellについて私は今まで何を知っていたというのだろう。
Marvin Gayeとデュエットのヒットを重ね、24歳で夭折したこと、
最後のアルバムのレコーディングでは、タミーにはもう歌う力がなく
ソングライターであるValerie Simpsonが代わりに歌ったという逸話。
ロンドンのライヴで二人の曲を歌う時に既に故人となっていたタミーの紹介をすると、
大きな拍手が沸きマーヴィン・ゲイが喜んで、
「みんな、彼女のことが好きなんだね。」と言った映像。
1945年に生まれたタミー・テレル、
男の子を望んだ親がトミーと名付けたこと、
子供の頃から音楽教育を受けたことがまず紹介される。
普通の家庭で育ったものの、母は精神疾患があり、
タミー自身も幼少期から頭痛に悩まされていた。
11歳の時に近所の少年達に暴行を受け、この事件以来タミーと改名する。
この後、タミーの性格は奔放に変わっていく。
15歳に至る前にタレントショウをきっかけに歌手として人気が出て、
学校を優先しながらもレコードも出し、ツアーをするようになる。
20歳でモータウンと契約するが、この時にモンゴメリーという本名が、
覚えにくく長いことから、インパクトがあるテレルに変えられる。
その頃、タミーは数年つきあっていた恋人の暴力に苦しめられていた。
あくまで噂としているがバイクのヘルメットをタミーにかぶせて、
上からハンマーで叩いたという。
そのことがきっかけでタミーは彼と別れたとされる。
マーヴィン・ゲイと組むことになり、
アシュフォード&シンプソンが作った"Ain't No Mountain High Enough"
をレコーディングする。
ライヴの時もシャイでレコーディングではなおさら緊張するマーヴィン。
タミーには「私はマーヴィンに歌わせてみせるわ。」という自信とやる気で一杯だった。
映像を観ると二人の様子は恋人同士のようだ。
それぞれに恋人はいたはずだが、このレコーディング中に
お互いに慕い合う気持ちがあったということが伝わってくる。
マーヴィンは今までタミーが付き合ってきた積極的なボーイフレンド達とは、
全く違う控えめな性格だった。
その後のAshford & Sympsonによる"Precious Love"は、更なるヒットにつながる。
そこまでは二人は別々のマイクでレコーディングしていたが、
次の"Ain't Nothing Like A Real Thing"では一つのマイクを使って、
二人同時にレコーディングした。
それは輝きを放ち、臨場感溢れるレコードへと仕上がる。
"If This World Were Mine"のオリジナルマスターテープが倉庫から捜し出され、
Tammi Terrellの歌声をスタジオで聴くシーンがある。
鳥肌が立つ瞬間だ。
タミーの歌い方の特徴として語尾をはっきりと発音し上げる。
タミーの頭痛は酷くなっていく。
レコーディングから数週後のツアーでタミーは遂に発作を起こし意識を失ってしまう。
マーヴィンはタミーを抱きかかえて舞台の袖へと運んだ。
マーヴィンはツアーをキャンセルし、タミーは腫瘍を摘出する手術を受ける。
マーヴィン・ゲイはタミー・テレルがこんな状態になるまで気付かなかった自分を責めていた。
半年後に復帰したタミー、二人は"You All I Need To Get By"をレコーディングする。
アシュフォード&シンプソンがタミーの思い出を語る形で進んでいくが、
この時にタミー・テレルの力は弱っていたものの、美しい歌声を聴かせたという。
しかし取りきれなかった腫瘍はまたしても悪化し、
タミーは激しい頭痛が始まり、再手術となる。
それでもタミーは希望を捨てず、復帰することを願いながら闘病を続ける。
パーティーで若い医師と知り合い、二人は恋人同士になる。
彼や友人や身内の人たちがタミーを支えた。
毎回、その手術が最後と思いながらなんと7回の手術に臨んだ。
そして7回目の手術の際に昏睡状態になり亡くなった。
タミーの担当医からの話もその都度、挿入されている。
病状が落ち着いていた時の数々のエピソードが親しい人達から語られる。
最後のアルバム、"Easy"
車椅子でスタジオに来たタミー、ニコラス・アシュフォードは、
「昔のようなお茶目なところはなくなってしまった。
その頃のことが懐かしく思い出されたが、それでも彼女の精神力には感動した。」
ヴァレリー・シンプソンが代わりに歌ったのではという疑問に、
(マーヴィン・ゲイの伝記の中に書かれたために定説となってしまった)
ヴァレリーは「リハーサルでマーヴィンと合わせるところまでは私が代役をした。
でも本番ではほんとうにタミーが歌ったのよ。」
その数週間後のマーヴィン・ゲイのコンサート、タミーは客席にいた。
歩くことも話すこともままならなかったはずのタミー。
それが自分の曲になると立ち上がって歌い始めた。
マーヴィンは「タミー、来てるのか?」と喜び、彼女にマイクが廻ってきた。
二人は一緒に歌った。
それが最後の人前で歌を聴かせた場面だった。
看病をしていた恋人に「ちょっと聴いて。」
とアカペラで"You All I Need To Get By"を歌って聴かせた。
お見舞いに来た従弟に「今、モータウンでは誰が流行っている?」
と聞き「ジャクソン5」と答えたら「元気になったら彼らに会わせてあげるからね。」
当時の恋人、従弟、友人、担当医、皆タミーとの思い出を語りながら、
声を詰まらせる。
モータウンのベリー・ゴーディーがすべての医療費を負担していた。
マーヴィン・ゲイも毎週、電話を掛けて来てくれた。
葬儀では"You All I Need To Get By"がかかり、
出席したマーヴィンも嘆き悲しんでいたという。
マーヴィンはこの後、アルコールやドラッグの依存が進行していった。
タミーの周囲の人々はマーヴィンがわざわざ葬儀に来てくれたことを、
未だに感謝の気持ちを持って語る。
タミーの脳疾患は元恋人から受けた暴力が原因だったのではという説を、
担当医はやんわりと否定している。
タミーの死から数か月後"Ain't No Mountain High Enough"
はダイアナ・ロスが歌いNo.1ヒットに。
今や次々と新しい歌手が生まれてタミー・テレルを知る人も少なくなった、
長く生きればもっと偉大な業績を残せたのではないのかもしれないと結びつつ、
没後40年を経て人気歌手たちが彼らの楽曲をリメークしていること、
タミーのリリースされていない音源、映像が公開される予定であること、
タミーの姉妹が彼女の伝記を出版したことなどが紹介された。
タミーのマーヴィンの、そして今月一周忌を迎えたNickolas Ashford、
多くの人の魂がこもった楽曲だからこそ、
未だに聴く人々の心を打ち、これらの曲は歌い継がれていく。
この映像を観るまで「タミーの短い生涯は幸せだったのだろうか?」と思っていた。
しかし今ははっきりと言える。「タミー・テレルは幸福だった。」
それは苦しむことや落ち込むことがあっても、彼女の心の中には、
いつも大きなポジティヴィティーがあったから。
Ashford & Sympsonの2009年の来日、ブルーノートでのライヴの際、
彼らがマーヴィンとタミーのメドレーを始めた時に、客席からひときわ大きな歓声が上がった。
その時に「みんな、二人のことが好きなんだね?」と言ったニコラス・アシュフォード。
マーヴィンがタミーのための拍手に喜んだようにMarvin & Tammiが日本で愛されているのを、
嬉しそうにしたニック。
"Real Thing"ではマイクを向けてくれて、一緒に歌わせてもらった。
あの日のヴァレリー・シンプソンとニコラス・アシュフォードの姿も
私の目にはくっきりと焼き付いている。
「Unsung:アイザック・ヘイズの真実」
http://blog.goo.ne.jp/ak-tebf/d/20130201
「Unsung:ボビー・ウーマック」
http://blog.goo.ne.jp/ak-tebf/d/20130202
「Ashford & Sympson @Blue Note Tokyo 11/21 2nd 2009」
http://blog.goo.ne.jp/ak-tebf/d/20091122
Unsung (Documentary) - Tammi Terrell
"Unsung"というアフリカ系アメリカ人向けの音楽テレビ番組で放映された
ドキュメンタリー映像を教えていただいた。
Tammi Terrellについて私は今まで何を知っていたというのだろう。
Marvin Gayeとデュエットのヒットを重ね、24歳で夭折したこと、
最後のアルバムのレコーディングでは、タミーにはもう歌う力がなく
ソングライターであるValerie Simpsonが代わりに歌ったという逸話。
ロンドンのライヴで二人の曲を歌う時に既に故人となっていたタミーの紹介をすると、
大きな拍手が沸きマーヴィン・ゲイが喜んで、
「みんな、彼女のことが好きなんだね。」と言った映像。
1945年に生まれたタミー・テレル、
男の子を望んだ親がトミーと名付けたこと、
子供の頃から音楽教育を受けたことがまず紹介される。
普通の家庭で育ったものの、母は精神疾患があり、
タミー自身も幼少期から頭痛に悩まされていた。
11歳の時に近所の少年達に暴行を受け、この事件以来タミーと改名する。
この後、タミーの性格は奔放に変わっていく。
15歳に至る前にタレントショウをきっかけに歌手として人気が出て、
学校を優先しながらもレコードも出し、ツアーをするようになる。
20歳でモータウンと契約するが、この時にモンゴメリーという本名が、
覚えにくく長いことから、インパクトがあるテレルに変えられる。
その頃、タミーは数年つきあっていた恋人の暴力に苦しめられていた。
あくまで噂としているがバイクのヘルメットをタミーにかぶせて、
上からハンマーで叩いたという。
そのことがきっかけでタミーは彼と別れたとされる。
マーヴィン・ゲイと組むことになり、
アシュフォード&シンプソンが作った"Ain't No Mountain High Enough"
をレコーディングする。
ライヴの時もシャイでレコーディングではなおさら緊張するマーヴィン。
タミーには「私はマーヴィンに歌わせてみせるわ。」という自信とやる気で一杯だった。
映像を観ると二人の様子は恋人同士のようだ。
それぞれに恋人はいたはずだが、このレコーディング中に
お互いに慕い合う気持ちがあったということが伝わってくる。
マーヴィンは今までタミーが付き合ってきた積極的なボーイフレンド達とは、
全く違う控えめな性格だった。
その後のAshford & Sympsonによる"Precious Love"は、更なるヒットにつながる。
そこまでは二人は別々のマイクでレコーディングしていたが、
次の"Ain't Nothing Like A Real Thing"では一つのマイクを使って、
二人同時にレコーディングした。
それは輝きを放ち、臨場感溢れるレコードへと仕上がる。
"If This World Were Mine"のオリジナルマスターテープが倉庫から捜し出され、
Tammi Terrellの歌声をスタジオで聴くシーンがある。
鳥肌が立つ瞬間だ。
タミーの歌い方の特徴として語尾をはっきりと発音し上げる。
タミーの頭痛は酷くなっていく。
レコーディングから数週後のツアーでタミーは遂に発作を起こし意識を失ってしまう。
マーヴィンはタミーを抱きかかえて舞台の袖へと運んだ。
マーヴィンはツアーをキャンセルし、タミーは腫瘍を摘出する手術を受ける。
マーヴィン・ゲイはタミー・テレルがこんな状態になるまで気付かなかった自分を責めていた。
半年後に復帰したタミー、二人は"You All I Need To Get By"をレコーディングする。
アシュフォード&シンプソンがタミーの思い出を語る形で進んでいくが、
この時にタミー・テレルの力は弱っていたものの、美しい歌声を聴かせたという。
しかし取りきれなかった腫瘍はまたしても悪化し、
タミーは激しい頭痛が始まり、再手術となる。
それでもタミーは希望を捨てず、復帰することを願いながら闘病を続ける。
パーティーで若い医師と知り合い、二人は恋人同士になる。
彼や友人や身内の人たちがタミーを支えた。
毎回、その手術が最後と思いながらなんと7回の手術に臨んだ。
そして7回目の手術の際に昏睡状態になり亡くなった。
タミーの担当医からの話もその都度、挿入されている。
病状が落ち着いていた時の数々のエピソードが親しい人達から語られる。
最後のアルバム、"Easy"
車椅子でスタジオに来たタミー、ニコラス・アシュフォードは、
「昔のようなお茶目なところはなくなってしまった。
その頃のことが懐かしく思い出されたが、それでも彼女の精神力には感動した。」
ヴァレリー・シンプソンが代わりに歌ったのではという疑問に、
(マーヴィン・ゲイの伝記の中に書かれたために定説となってしまった)
ヴァレリーは「リハーサルでマーヴィンと合わせるところまでは私が代役をした。
でも本番ではほんとうにタミーが歌ったのよ。」
その数週間後のマーヴィン・ゲイのコンサート、タミーは客席にいた。
歩くことも話すこともままならなかったはずのタミー。
それが自分の曲になると立ち上がって歌い始めた。
マーヴィンは「タミー、来てるのか?」と喜び、彼女にマイクが廻ってきた。
二人は一緒に歌った。
それが最後の人前で歌を聴かせた場面だった。
看病をしていた恋人に「ちょっと聴いて。」
とアカペラで"You All I Need To Get By"を歌って聴かせた。
お見舞いに来た従弟に「今、モータウンでは誰が流行っている?」
と聞き「ジャクソン5」と答えたら「元気になったら彼らに会わせてあげるからね。」
当時の恋人、従弟、友人、担当医、皆タミーとの思い出を語りながら、
声を詰まらせる。
モータウンのベリー・ゴーディーがすべての医療費を負担していた。
マーヴィン・ゲイも毎週、電話を掛けて来てくれた。
葬儀では"You All I Need To Get By"がかかり、
出席したマーヴィンも嘆き悲しんでいたという。
マーヴィンはこの後、アルコールやドラッグの依存が進行していった。
タミーの周囲の人々はマーヴィンがわざわざ葬儀に来てくれたことを、
未だに感謝の気持ちを持って語る。
タミーの脳疾患は元恋人から受けた暴力が原因だったのではという説を、
担当医はやんわりと否定している。
タミーの死から数か月後"Ain't No Mountain High Enough"
はダイアナ・ロスが歌いNo.1ヒットに。
今や次々と新しい歌手が生まれてタミー・テレルを知る人も少なくなった、
長く生きればもっと偉大な業績を残せたのではないのかもしれないと結びつつ、
没後40年を経て人気歌手たちが彼らの楽曲をリメークしていること、
タミーのリリースされていない音源、映像が公開される予定であること、
タミーの姉妹が彼女の伝記を出版したことなどが紹介された。
タミーのマーヴィンの、そして今月一周忌を迎えたNickolas Ashford、
多くの人の魂がこもった楽曲だからこそ、
未だに聴く人々の心を打ち、これらの曲は歌い継がれていく。
この映像を観るまで「タミーの短い生涯は幸せだったのだろうか?」と思っていた。
しかし今ははっきりと言える。「タミー・テレルは幸福だった。」
それは苦しむことや落ち込むことがあっても、彼女の心の中には、
いつも大きなポジティヴィティーがあったから。
Ashford & Sympsonの2009年の来日、ブルーノートでのライヴの際、
彼らがマーヴィンとタミーのメドレーを始めた時に、客席からひときわ大きな歓声が上がった。
その時に「みんな、二人のことが好きなんだね?」と言ったニコラス・アシュフォード。
マーヴィンがタミーのための拍手に喜んだようにMarvin & Tammiが日本で愛されているのを、
嬉しそうにしたニック。
"Real Thing"ではマイクを向けてくれて、一緒に歌わせてもらった。
あの日のヴァレリー・シンプソンとニコラス・アシュフォードの姿も
私の目にはくっきりと焼き付いている。
「Unsung:アイザック・ヘイズの真実」
http://blog.goo.ne.jp/ak-tebf/d/20130201
「Unsung:ボビー・ウーマック」
http://blog.goo.ne.jp/ak-tebf/d/20130202
「Ashford & Sympson @Blue Note Tokyo 11/21 2nd 2009」
http://blog.goo.ne.jp/ak-tebf/d/20091122
Unsung (Documentary) - Tammi Terrell