Me & Mr. Eric Benet

私とエリック・ベネイ

品川歴史館の夏

2009-08-22 09:53:05 | 私の日々
地元の品川区にある歴史館、7年ほど前から、
不定期に展示解説ボランティアをさせていただいている。
この時期、夏休み終わりごろになると、宿題の自由研究のための小中高生がやってくる。
テーマも決まっていない子もいれば、品川宿、大森貝塚などはっきりしている子も。
子供の質問はとんでもないから笑える。
「この模型、作るのにいくら掛かりましたか?」などと大真面目で聞いてくる。

大人でツアーを組んでくる方達は手強い。
たいへんな知識を持たれて下調べもして来られるので、私の柔な説明では歯が立たない。

海外からの来館者もいて、夏休み日本にホームスティに来た学生もやってくる。
こういう方々の目の輝きが俄然と違ってくるのが、日本の考古学の祖モース博士のコーナー。

Dr. Edward Sylvester Morse、大森貝塚発見者として日本で親しまれているが、
海外では、その出身地アメリカ、メイン州でも無名だ。
1838年に生まれ、小学校から退学を繰り返し、とうとうハイスクールでドロップアウト。
母親の勧めで貝類の収集を始め、研究者の助手となる。
その後、研究所の職員となり、論文や講演で生計を立てるようになる。
そして専門分野の腕足類の研究のため、日本へと旅立つ。

1877年、6月17日深夜、横浜港に着いたモースは、研究の許可を取るため、
6月19日、横浜から東京へと汽車に乗り、その車中で大井町と大森駅の間に、
貝塚をみつける。

その日のうちにたまたま東京大学の教授と会う機会があり、
2年間、東大の動物学の教授として働く契約を結ぶ。
その金額は月給350円、日本人教授が100円、職人の稼ぎが10円だった時代。

まず江ノ島で発掘を始め、そして大森貝塚も開始しようと、
その許可を取ろうとするが、他にも3人の外国人が狙っていた。
自分が最も相応しいと思うモースはヤキモキする思いで許可が下りるのを待つ。
そして、許可が下りると早速、学生達と発掘を始める。
一時帰国したモースはアメリカから多くの専門書を持ち帰り、
それらは、資料として大学に収められた。そして大学での講義も始まる。
その当時の東大の授業は英語で行われていたそうだ。

3回の来日、約2年半の滞在で北海道、本州、九州とモースは旅をしている。
三度目の来日では、アメリカ人収集家とともに訪れて古美術、民具などを収集し、
これは後にボストン美術館などに売却、モースの死後は地元の博物館へ寄贈される。
モースのコレクションの特徴としては、浮世絵や陶器のみではなく、
日本のその当時の日常的な雑貨にも興味の幅が広がっていた。

"Japan Homes And Their Surronundings" "Japan As Day By Day"の著書があり、
翻訳された物に『日本その日その日』創元社 『大森貝塚』岩波文庫
などがあるが、偏狭の地JAPAN、そこにあるアメリカにはない文化の何もかもに、
モースは感激している。

たとえば、箸、フォークやナイフ、スプーンを使わず、
この道具ひとつで、食事ができると感心し、その使い方を図解している。
ザルやカゴも丁寧にスケッチしている。
また日本の家の間口は小さいが奥行きがあり簡素に整えられている様子、
アメリカの幌馬車では争いあって追い抜いたりするのに日本の人力車は、
穏やかな微笑みのもとにすれ違う、など。
日本の女性が着物がはだけて膝下の足が見えることにも驚いている。
アメリカの女性は胸が開いたドレスを着ているのに。
商人や職人がまじめで正直であると賞賛している。
旅先で露天風呂の混浴場面に出くわし、これにはあきれているが。

モース博士は遺言ですべての蔵書を東京大学に寄贈した。
関東大震災で東大の書庫が焼失したことに心を痛めていたという。
3度の来日の後、40年後に亡くなるまでモース博士は日本を訪れることはなかった。
その理由として、新鮮な感動を胸に留めておきたかったからなのでは、とされている。

モース博士は日本にダーウィンの種の起源を伝え、考古学を築きあげた。
報酬も相当得たが、お金のためだけではなく、
未開の地、日本を愛し、そして、その地の学生達に、少しでも知識を授けたいと
大志に燃えて、学生からも慕われ、教育者として大学の期待も受けていた。
自分が最も輝いていた時代の日本、
後に単なる観光客として来訪したくなかったのかもしれない。

今では日本、海外からの来訪者や長期滞在者は増えたものの、
やはり少数派、欧米からは遠い国だ。
外国からの来館者はそんな自分とモース博士の気持ちを重ねるのだろうか。

1996年、モース博士の120年後に初来日したエリック・ベネイ。
その後、インタビューで「ライブで行って好きな国は?」
と聞かれると、「日本。人々が慎み深くて、独特の文化がある。」と答えていた。
「何もないところ」の例えによく使われるウィスコンシン州ミルウォーキー。
田舎町で生まれ育ったエリック・ベネイにとってCDが発売され、
初めて来日した日本はモース博士ほどではないにせよ、
数々のカルチャーショックがあったに違いない。
そしてモース博士との共通点は、そこに自分を必要とし歓迎する多くの人達が、
待っていてくれたことだ。


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