Me & Mr. Eric Benet

私とエリック・ベネイ

セーラム市とピーター・ドーラン一家

2012-06-27 15:25:00 | 私の日々
一人の青年が都内の区役所に米国マサチューセッツ州セーラム市から、
交換職員としてやって来たのは約20年前だったそうだ。
その間、教員免許も持っていることから区内の学校で英語を教えたり、
区の職員として日本の人々に深く関わり、期間終了後帰国した。

その後、20年に渡って農業高校で教鞭を取りながらも、
区とセーラム市との交流に貢献し、日本からの中学生を始めとする短期留学生、
滞在者の受け入れ、反対にセーラム市からの日本への使節団の派遣などに
ピーターだけでなく、帰国後に知り合って結婚した妻エレンと共に携わってきた。

私も一昨年にセーラム市に滞在した時にいろいろとお世話になった縁もあり、
23日、土曜日の夜に開かれたドーラン一家の歓迎会に参加してきた。

旅行中、ピーターの運転する車が石の上に乗り上げて動かなくなってしまい、
奥さまが別の車で迎えに来てくれた。
セーラムで訪問させてもらった地元の博物館、美術館、
小学校、農業高校の授業風景、先生方から伺ったお話も貴重だったが、
この一時のこと、車がエンコした状態でなすすべもなく、
森の中に立ち尽くして待っていた、
それが忙しかった旅のスケジュールの中でふと気を抜くことができた一瞬として、
思い出に刻まれている。
ピーター夫妻には突然のアクシデントにそれどころではなかったはずで申し訳ないが。

セーラムからの交流施設団の派遣が昨年は震災のために中止となり、
またここ数年、円高、航空運賃の値上げなどにより、実現していないこともあり、
家族全員でセーラム市を代表するつもりで日本へやって来たと言う。
震災の折にはセーラム市民達の募金を募って赤十字にも寄付したそうだ。

奥さまからも挨拶があったが、夫のスタートさせたこの日米の交流に、
一生貢献していく覚悟で臨んでいることが伝わってきた。
お嬢さんからも「皆さん、歓迎会を開いてくれてありがとう。」と可愛い挨拶が。

20年の間に日本からもアメリカ国内でもこの交流の会において、
いろいろなことがあったに違いない。
自分の仕事としてではなく、あくまでもボランティア、
しかも一個人として都内の某区とアメリカのセーラム市、
国際親善に努めてきた根気と継続させてきたパワーは並大抵のものではない。
それを妻も、それどころか幼い子供たちも父親の意志を理解して、
支えている姿に心を打たれた。

R・アゼラッド「あなたの側に幸せを呼ぶ天使がいる」

2012-06-24 15:41:18 | 私の日々
日本を離れるフランス人の友人の送別会でローランスと出会った。
ローランス・アザラッド・シシド、ユダヤ系フランス人。
ニースに生まれ、アメリカに留学、今は日本在住、ご主人は日本人。
日本語、英語が堪能なだけでなく、何とも周りを明るく包む魅力がある美しい人だ。
話しをしていく内にその週の終わりに自書、
「あなたの側に幸せを呼ぶ天使がいる」KKロングセラーズ
を紹介する講演を行うことを知った。

大勢の人の集まる場所で自分のイベントを宣伝する人がいる。
ローランスは一週間後に控えた自分の講演会を決してアピールしたわけではない。
話しの流れとして自然に出て来て、私が行きたいと思ったのだ。

帰りの方向が一緒なので同じタクシーに乗車して帰ることになる。
「フランスの人たちが次々と日本を離れていくけれど、あなたは平気?」
と尋ねると「一つの物を疑いだすとキリがなくなる。
食べ物を変だと思うと水も空気もという具合にね。
私は日本が好き。だからずっとここにいるわ。」

彼女はイヴ・サンローランのモード学院の出身なので、
最近観たサンローランの映画の話になる。
映画の中のお互いの印象深い個所が重なり更に親しみを覚えた。

1時からの講演会、若干早めに着くと会場の席はもうほとんど埋まっている。
講師であるローランス、後から登場するのかと思ったら、
既に着席して入場してくる観客を眺めている。
私が来たのにもすぐに気付いて笑顔で手を振ってくれる。

司会者から紹介が始まる。
「スピリチュアル、占いの講師の中には自分がちっとも幸せに見えない人がいる。
でもローランスさんはほんとに幸せそう。」全くその通りだと思った。

ローランスから「みなさん、天使のイメージってどんな風に描いています?」
講演は始まったばかり。
誰も挙手する人はなく「ではAさん、いかがでしょう?」といきなり振られた。

マイクが廻ってくるまでの間に手元にあるローランスの本の表紙を眺めつつ、
考えをまとまる。「明るくて清らかで私達を見守ってくれている存在。」
そんな趣旨のことを答えた。
「同じように思っている方は?」と会場に尋ねるローランス。
多くの方が挙手して下さりホッとしました。

ローランスは「これは宗教でも占いでもない。」と続ける。
守護天使に関しての研究を続けてその集大成として本を出した。
ローランスの話を聞いていると、天使とは私の思い描いていたよりも、
ずっとお茶目な存在のようだ。

本の中では72人の天使をその人の誕生日に合わせて紹介している。
会った時に「その部分しか見ない人がいるけれど、そうじゃないのよね。」
と話していたが、多くの天使の中で自分のその時の状況に相応しい守護天使をみつけ、
その都度、身近に感じつつ日常に取り入れて欲しいと。

質問コーナーが始まると受講者達が、ざっくばらんに質問を投げかける。
3時間を越える講演の中でローランスに対してぐっと打ち解けたのがわかる。

私にも聞き取れない日本語もあったが、彼女はすべて把握して、
質問者が納得するまで応じていた。
日本人が講演会をしても質疑応答で満足させる答えを与えない講師がいる。
日本語は彼女にとって第二、あるいは第三の言語のはずなのに、
徹底して対応するローランスのきめ細やかさには頭が下がる思いだった。

最後にサイン会、その後、希望者との写真撮影とのことだったが長い列ができる。
時間も押していたのでそのまま失礼することに。
帰り道、受講者の方が「本も読んだけれど、本人からお話を聞くのは、
ずっと良く分かり、来て良かった。」と話しているのが聞こえてきた。

Au revoir!

2012-06-19 23:41:24 | 私の日々
彼女の一家が日本を離れることにしたと聞いたのは、
本人よりも先にCHICのベーシスト、ジェリー・バーンズからだった。
前日CHICのライヴに行ったNさんがジェリーに話し、
翌日行った私達はジェリーからいきなりその話を伝えられ驚いた。
ジェリーが私とNさんが友達だと知っていたのも意外だった。

CHIC、ナイル・ロジャースのライヴを通して知り合ったフランス人のNさん、
その後、一緒にライヴに行ったり、お食事会や彼女の絵の展覧会に行ったり、
家族ぐるみの交流が続いていた。

多くの在日フランス人が日本を離れる中、
お嬢さんたちの学校の教材が行き届かなかったり、
クラスメートの数が減ってきたりしているという話を聞くと、
日本に残っていることへの不安もきっとあるだろうと思ってはいた。

フランスの人達は昨年の震災の後、一斉に関東を離れた。
もどっては来たものの
チェルノブイリの影響が20年に渡って出てきた経験をしているだけに
小さな子供のいる人ほど日本の生活への心配は尽きないようで、
私の習っていた仏語教師も一人、二人と東京を去っていった。

ほどなくNさんからもシンガポールに引っ越すことになった、
送別会を六本木の行きつけのレストラン『リューズ』でするので参加して欲しいと連絡が来た。
送別会も近くなった頃「参加人数が増えてお店に入りきれなくなり、
急遽場所を自宅に変更することにした。何か手伝ってくれれば嬉しいのだけど。」

Nさんはその時期に近くの画廊で個展も開催していて忙しい。
メニューを相談すると生まれ故郷、セネガルの料理を作ってみたいと言うので、
前日に築地市場からの食材を宅配し、
当日はパーティーの始まる2時間ほど前に手伝いに行くことにした。

家に着くとご主人がマリネードしたチキンを揚げている。

Nさんが作るセネガル料理はPastel、
自家製の生地に鯵のミンチとパセリの刻んだものなどを包み、
これも油で揚げる。

料理を作りながら、セネガルで6歳まで育ってフランスへと移住したこと、
料理は誰にも教わらず、自分で覚えたと話してくれた。

フランスの伝統的な一皿、お米のサラダ、

ペースト状にしたサーモンのパテや豆のパテも出来上がった。

フルーツポンチには様々な果物やジュース、バニラ風味のスパイス、
ミントも千切って加える。


私はエプロン持参、Nさんはドレスの上にTシャツ姿で、
それぞれの夫も加わり支度をしていると、
Nさんのお嬢さんのSちゃんが台所にいる私に、
「A、こっちに来て!」と声を掛けてくれる。

リビングに行くと彼女は私のためにCHICの"Good Times"
を掛けてくれていた。
何だかこういうのぐっとくるなぁ。
二人で記念撮影。

次々とゲスト達が到着する。総勢40名ほど。
Nさんの友達で普段は自転車で走り回っているFさんも、
この日はシックなノースリーブの黒のドレス。
ヒールを履かないとバランスが取れないから靴を履いても良い?
と尋ねている。
もう一人そういう女性がいて、皆が靴を脱いでいる中、
この二人だけが飛び切りお洒落な靴で立っている。

Fさんがお別れの記念品を皆に寄付を募ってまとめてくれた。
それが、日本なら一人いくらっと割るのが、
自分で金額を決めるという任意のカンパ。
習慣の違いにはちょっと戸惑った。

皆次々と食べ物を持ってくるが、お皿ごと、
また保温できるようなピザの宅配風のケースに入れて、
自家製のキッシュやピザを持ってくる。
それぞれの料理が半端じゃなく美味しい。
自慢のとっておきの一皿を持参してきている。
外見は似ていても日本の味とは明らかに違う。

レストランで食事よりも自宅に会場が移ったことで、
Nさん一家ともいろいろな話ができたし、
日本に住むフランスの方達のお得意料理も味わえた。

翌朝が早いので、宴たけなわ、一足先に失礼することにする。
短い期間のお付き合いだったし、
お互いに相手の国の言葉が流暢に喋れたわけではない。
でもこんなに仲良くなって名残惜しいのはCHIC、
ナイル・ロジャースが繋いでくれた縁、
それとNさんや家族の人柄に寄るところが大きい。

翌日、丁寧なメールが来た。
「アデューではなくて、オールボワールよね。」
『アデュー』とはまず今後会う機会がない時に使うとされる仏語独特の別れの言葉。
「もちろん、オールボワールよ。それどころか、トレ・ビアントー!」
「またすぐに会いましょう。CHICも年末には日本に来るしね。」と返事を書いた。

メルヴィル・プポー来日

2012-06-14 09:19:30 | 私の日々
フランス映画祭が有楽町朝日ホールやTOHOシネマズ日劇などで、
来週後半から開催される。
WOWOWでは既に今月からフランス映画特集が始まっている。
関連イベントとしてユーロスペースと日仏学院エスパスイマージュで、
「メルヴィル・プポー特集」が組まれた。
メルヴィルの今までの主だった作品、
短編映画も含めたレアな作品を共に鑑賞することができる。

Melvil Poupaud、デビューは9歳からなので、
子役の時から数えると長い経歴になるが'73年生まれなので、
現在は39歳。

最初にメルヴィル・プポーを観たのは1996年のエリック・ロメールの作品、
「夏物語」だった。
20代前半の若者の不安定な気持ちが描かれていたが、
それを演じるメルヴィルの外見はあくまでも爽やかな好青年だった。

その後、2005年のフランソワ・オゾン監督の「僕を葬る(おくる)」
余命3ヶ月と告げられた30代初めのゲイの写真家が治療を拒み、
親しい人にも真実は告げず、祖母(ジャンヌ・モロー)にだけ、
打ち明ける。
淡々と死へ向かっての準備、死後の後始末などを済ませた後、
最後に浜辺で眠るように息絶えていく痩せた姿には胸を突かれた。

本人の自伝"Quel est Mon noM?"(「僕の名前は何だろう?」)や
「カイエ・デュ・シネマ ロメール追悼」などからの抜粋が
今回の特集に向けてのパンフレットには掲載されている。

かつてメルヴィルの妻だったキアラ、
キアラの母であるカトリーヌ・ドヌーヴ、父であるマルチェロ・マストロヤンニ、
とのエピソード、俳優としての役作りについてが語られている。

エリック・ロメールについては、
「夏物語」でこの役はロメール自身を反映させていると感じ、
監督をするロメールを観察して話し方や仕草を参考にしていたところ、
ある日、ロケ現場に行ってみたら二人はほとんど同じ服装、
白いTシャツ、薄いグレーのズボン、麦わら帽子、だったという逸話。

この時の二人の写真が掲載されているが、写真ではサングラスを二人とも手に持ち、
セーターを腰にしばりつけ、カメラに向かって笑顔を見せている。
この写真、フランスの夏景色の光の中で微笑む二人の姿が、
監督と俳優の信頼関係までも捉えているようで素晴らしい。

メルヴィル・プポーは今回の特集に合わせて来日し、
上映前の舞台挨拶、上映後の映画についてのレクチャーなどの機会を設ける。
映画でしか観たことのなかった彼の姿を直に見て、素で語るところを聴いてみたい。
最後に観た作品から7年が経過している。
39歳になったメルヴィルは変わっているだろうか。
どんな抱負を聞かせてくれるのだろうか。

Eric Benet Studio Q Interview

2012-06-11 12:46:10 | エリック・ベネイ関連インタビュー
アメリカで6/5にEric Benet"The One"が発売されたこともあり、
たくさんのインタビューが記事や動画で上がってきている。
エリックべネイも精力的にラジオ、テレビ、イベントに出演し、
アルバムのキャンペーンを行っている。

同じ内容の質問が重複するインタビューも多いが、
その中でも他とは違った切り口から
踏み込んだ内容の質問をしている動画をみつけた。
以下、インタビューの要旨。

***********************

ライヴにおいてあなたと観客の間には目に見えないエネルギーが存在します?
エリック「確かに音楽には不思議な力がある。
観客の前でライヴをするという経験を重ねてきて、
自分の曲をずっと好きで聴いてきてくれた観客、ファン達の前で歌い、
バンドとも絶妙のコンビネーションが生まれた時には、
言語や普通のコミュニケーションを越えた心と心の触れ合いが生まれ、
トランス状態になる。
そして僕に向かって押し寄せてくるたくさんの愛を受け止めて、
僕も観客に向かってそれを送り返そうとする、
説明するのは難しいけれど、音楽にはそういう癒し、パワーがある。」

ライヴの前には緊張しますか?
「始まる直前はいつも緊張する。
でもステージに出た途端、すぐに吹き飛ぶよ。」

自分のレーベルを持ったことで?
「他のレーベルに所属していた時よりも、ずっとやりがいがある。
自分のレーベルを持たない限り、最終的な決定権は常に他の人にあるから。」

もし自分が間違っていても気付けないということは?
「誰かがきちんと納得できることを言ってくれれば、聴く耳を持つよ。」

このアルバムはリスクはありますか?
「(笑)いろいろやりたいことを、やりたいようにやったからね。
レゲエもカントリーも入っているし。」

"Real Love"について。
「ワーナーから離れてすぐに従弟のジョージと会い、
スタジオで作り上げた。
妻のマニュエラのことを曲にしたいと思って。」

彼女との関係について。
「愛にはいろいろな要素がある。
愛とは相手を受け入れること。
相手を変えようとか、自分の型にはめようとかではなく、
そのままを受け入れて愛すること。
また本来なら受け入れられないようなこともその人のためなら、
それが可能になるのが愛。」

あなたは自分の生活をすべて曲に反映させてますが、
そうしてオープンにしてきたことで後悔していることは?
「全くないね。
アーティストである以上、自分の繊細な部分も晒していかないと。」

ヒットチャートを追わないのは?
「アーティストとして現役でいられる時間は限られている。
その短い年月の中で自分の納得できることをやっていこうと、
最初のソロアルバム"True To Myself"から決めた」

創作するプロセスを聞かせて下さい。
「楽器は専門じゃないし、得意でもないけれど、
作曲の時にはギターやキーボードで思い付きをちょっとやってみる。
そうすると周りのクルー達がそれを自分たちの楽器で、
『わかった!こんな感じでどう?』みたいに膨らませてくれる。
メロディーが浮かんで歌ってみてもそんな感じで曲になっていく。
歌詞を書いてメロディーを付けるというよりも、
メロディーが最初でそこに歌詞をつけていくことが多いね。」

http://www.youtube.com/watch?v=ymiQZo3rBB4&feature=share

エリックべネイ インタビュー 6/4 Part.2

2012-06-07 20:27:36 | エリック・ベネイ関連インタビュー
画像は地元ミルウォーキーでマクドナルドを訪れてファンに囲まれたエリックべネイ。
ちなみにエリックはハンバーガーを食べるのは一年に一回あるかないかだとか。
この日にマクドナルドでは食べてないようです。

地元のモーニングショウに出演した映像のPart2
http://www.themorningblend.com/videos/156984745.html

お嬢さんの名前は?
エリック「ルチア・ベラ。」
奥さまはどこの血が入っているの?
「イタリアとエジプト。」
そういう女性の肌はとっても綺麗ね?
「確かにそうだ。」

ところでバックヴォーカルとリードヴォーカルにはどういう違いがある?
「いい質問だ。今まで誰にも聞かれたことがないよ。
僕は家族で子供の頃からコーラスをやってきたけれど、
バックボーカルをする時には自分の音をしっかり保ちつつ、
周りの音も良く聴いて合わせながら、振り回されることなく、
自分らしさも少し出していく、リードヴォーカルとバックヴォーカルは、
全く違う部分の脳を使う、そんな感じかな。」

『リアルラヴ』のプロモーションヴィデオ、とっても素敵ね?
「本物の何十年も連れ添った夫婦に出演してもらたんだよ。
カメラがオンになったら、皆自然に話したり、触れ合ったり、笑い合ったり。
感動的だったね。」

あなたのトレードマークのファルセットについて。
「ファルセットは地声を張り上げるよりも実は楽なんだ。
だから長期のツアーで一週間近く公演が続く時には、
喉を保つためにセットリストにファルセットの曲を増やす。」
歌ってもらってもいい?
("Sometimes I Cry"を1フレーズのみ歌うエリック。)
こんな朝早くからごめんなさいね。

今までの中で最もプラウドできる瞬間は?
プライベートでも仕事上でも。
「そうだな。やはりインディアの存在だね。
今回のアルバムでも"Muzik"でデュエットすることができた。
そしてルチアの誕生も。

そして仕事上では数か月前にカリフォルニアでライヴをした時に、
スティーヴィー・ワンダーが観に来てくれて、
『僕も一緒に歌いたい。』って言ってくれたことかな。
(ここからはエリック、スティーヴィーの口真似になる。)
『何をやろうか?僕の歌にしよう!
そうだ、"Superstition"がいい!』
バンドの皆にできるかって聞いたら、皆、できないって答えたんだけど、
ベーシストだけが知っていて、彼が始めたら皆合わせ始めた。
スティーヴィーが『僕が一番好きなコンテンポラリーR&Bシンガーは、
エリックべネイだ。』って言ってくれてね。
最高の瞬間だったよ。」

(地元のテレビで思いっ切り、寛いで本音で語るEric Benet。
中々楽しいインタビューでした。)

エリックべネイ-The One-全米では本日発売

2012-06-05 18:04:31 | エリック・ベネイ関連インタビュー
6/5、アメリカでEric Benetのニューアルバム"The One"が発売される。
6/4、ミルウォーキーに里帰りしたエリックは地元の朝の番組、
"Morning Blend"に出演しインタビューに答えた。
Part1と2に分かれて掲載されている。
Part1
http://www.themorningblend.com/videos/155986715.html

「おはよう、エリック。あなたってほんとうにハンサムね。」
Eric「君たち、二人こそ、とっても素敵だよ。」
「そう、そして私達にはいい男を見る目もあるってことね(笑)
ミュージシャンにスタジオに来てもらうことはとっても嬉しいわ。」
E「う~ん、普段だとこの時間は眠っているからね。」

「ミルウォーキーに帰ってきてくれてどうもありがとう。」
E「しょっちゅう帰ってるんだよ。一年に10回近く戻ることもある。
母、姉、兄もいるからね。」
「5人兄弟だったわよね?」
E「そう、その末っ子だよ。」
「さぞ、甘やかされたことでしょう?」
E「いや、むしろ親が7人いるみたいで厳しかったよ。」

「お兄さんとお姉さんがいるのね?それぞれ何人?」
E「育ったのは3人の姉と1人の兄とだ。
そしてもう一人兄弟がいるんだよ。
今日、来てるんだけれど、ミシェル。
彼女は結婚したばかりなんだ。」
(このことは以前のインタビューでエリックが明かしているが、
死期の近づいた父が母以外の女性との間に女の子がいることを告白し、
その子が自分と同じ学校に行っていて知っていただけにエリックは驚いたそうだ。
しかしその後、エリックの母も兄弟たちも彼女を身内として受け入れている。)
E「何しろ、愛と音楽に満ちた家庭だったよ。」

「ジョーダンハウス(エリックのラストネームはジョーダン、
そして今回立ち上げたレーベルにもその名を付けた)は、
いつも音楽が絶えなかったと思うけれど、
お父さんはクラシックが好きだったんですって?」
E「クラシック、ジャズ、フュージョン、ファンク、ロック、
家族の皆がいろいろなジャンルを聴いていた。
家にはレコードがたくさんあったから、14歳まで買ったことがなかったんだ。
家族から受けた音楽の影響は大きいね。」

「結婚おめでとう!」
E「一周年が過ぎたよ。ハリウッドでは長続きの部類に入る(笑)
娘のルチアは5ケ月になった。」
「あなたは自分の妻がプリンスの元妻だってこと、知っていたの?」
E「実は昨夜、突然彼女からそれを聞かされてびっくりしたんだ(爆笑)
実際、つきあってしばらくの間、デートしながらも知らなかった。
お互いに離婚で辛い思いをしたことは話し合っていたけれどね。
ある時、彼女を空港に送る道すがら『あなたは私の元夫が誰か、ほんとに知らないの?』
って彼女に言われて、良く考えてみて話を繋ぎ合わせてみたら、
『彼はひょっとして?』と気付いたわけだ。」
「あなたの奥さんはあなたの元妻がハル・ベリーだって知っていた?」
E「うん、知っていたね。」

「ハリーとの離婚から学んだことは?」
E「マスコミに絶えず晒されることになってしまったけれど、
どこにも真実などなかった。
それでも自分が自分に正直であれば、それでいいんだ、ということ。
それさえ把握していれば、常に自分を保つことができる。」
「ミルウォーキーのような田舎町から都会に出て行ったあなたみたいな
素朴な人にとってはたいへんな経験だったわね。」

「新しいアルバムについても引き続き話して欲しいのだけれど?」
E「もちろん。僕の今までのキャリアの中で最高のアルバムだよ。」

以下、Part2に続く。

イヴ・サンローラン-L'amour Fou

2012-06-01 07:27:46 | 私の日々
映画は白黒の画面、イヴ・サンローランの引退宣言から始まる。
黒い服にタイ、まるで葬儀の喪主のようだ。
しかしそこには奥深い言葉の数々が満ちている。

18歳でディオールのアシスタントになり、21歳で後継者として抜擢される。
女性のワードロープを作り上げ、時代を作ったという自負を語る。
「ファッションは女性を美しく見せるだけでなく、
自信と自分を主張する強さを与えるもの。」
「人生で最も大切な出会いは自分自身と出会うこと。」

場面はサンローランの葬儀へと変わる。
公私共にパートナーだったピエール・ベルジェのスピーチ。
出棺の際には当時の大統領サルコジがピエールの隣に立っている。

イヴとピエールの邸宅へとカメラは入っていく。
美術館を凌ぐような絵画、彫刻、陶器が所狭しと並べられている。
ざっと見渡してもマティス、ブラック、ゴヤ。
それらがこれからオークションへと掛けられる。
「自分は何も信じない(信仰を指しているのだと思う)
魂など自分にも作品にも存在してない。
ただ二人で収集した作品の行く末を見届けたい。」とピエール。

一方、二人で過ごした市内のアパルトマンはぐっと寛いだ雰囲気だ。
そこには親しい人々との写真も飾られている。
ディオールの葬儀の写真には参列者の中にイヴとピエールの姿がある。
しかしこの時点で二人はお互いを知らない。
出会ったのはイヴがディオールの後継者となった最初のコレクションだった。
二人を取り巻く人々の中にジァン・コクトーやベルナール・ビュッフェがいる。

アルジェリア戦争が起き、兵役についたイヴは神経を病み、
病院へと収容される。
これがディオールの経営陣の反感を買い解雇されることになる。
イヴとピエールは二人でメゾンを起ち上げる決心をしたのだった。
その頃の映像や写真が出てくる。
一からの出発だがピエールもイヴも若く美しく希望に満ちている。
コレクションは大成功に終わり、二人のビジネスは軌道に乗っていく。

場面はまた現在へと戻る。
オークションに出品するために点検されていく美術品の数々。
希って手に入れた物、偶然の出会いに導かれた物。
庭園が映し出される。
イヴサンローランの愛したマラケシュ、モロッコ風の設え。
二人は初めてマラケシュを訪れた時に余りにその地に魅入られ、
一週間後には「レモンの庭」と言われる一角に家を手に入れていた。
ここから多くの刺激を受け、それは作品にも反映された。

「自分には20代、青春がなかった。」とイヴ。
「今から青春をすれば?」という問いに「もう遅い。」と答える。
年に二回のコレクションの発表に追われる内に
アルコールとドラッグに依存するようになっていく。
夜はクラブで遊びまわる日々が続く。

休息を求めてノルマンディーに牧歌的な家を二人は購入する。
ここでは誰にも会わずにひっそりとイヴは過ごした。
サンローランはプルーストの「失われた時を求めて」が好きで、
ホテルなどに宿泊する折には自らを「スワン」と名乗ったという。
ここでも自室を「スワンの部屋」と名付けた。

ピエールは徐々に政界との関係を深めていく。
イヴにはミッテランからレジョン・ドヌール勲章が授けれれる。
いつの間にか二人の自立し長続きしている関係はゲイ達のシンボルとして奉られる。
エイズ撲滅運動、ゲイの権利を認めさせるべく団体にピエールは貢献する。

神経を病んだイヴは人々から遠ざかっていく。
インタビューやマスコミとの接触も絶った。
唯一幸せそうだったのは年に二回のコレクションの後に、
歓声でランウェイへと迎えられる時。
それでもその日の晩か翌朝には深い闇へと戻っていった、
とピエールは語る。
「それがどうすることもできない『彼の人生』だった。」

オスカー・ワイルド「ターナーが描くまでロンドンに霧はなかった。」
ランボー「火を起こす者のお蔭で人々は現実を見られる。」
ピエールはこの二つを引用し、イヴは選ばれた類まれな存在だったと続ける。

90年代に入り、治療を受け、アルコールもドラッグも絶ったものの、
ファッション業界は変化していく。
イヴ・サンローランの引退パーティー。
カトリーヌ・ドヌーヴの歌で始まり、多くのマヌカン達に涙で見送られる。

いよいよオークションの日がやってくる。
Le Mondeには一面にこの記事が出る。
会場では次々と二人の集めた作品たちが高値で落札されていく。

オークションが終わり、会場のグラン・パレから去っていくピエール。
門が閉じられる。
海を見下ろす邸宅、窓辺に佇むピエールベルジェ。
振り返った表情のアップと共に映画は終わる。

ピエールは葬儀ではなく、作品を手放すことでイヴを見送ったのだろうか。
仕事を全うした満足感、残された者として生きていく覚悟、
ピエールの表情から真意はわからない。

美しい風景と調度品、美術品の数々、
サンローランのオートクチュールコレクションとそのデッサン、
吟味された言葉がこの作品には凝縮されている。
タイトルの"L'amour Fou"とは「盲目的な愛」の意。