絵本の威力ははかりしれない
洗脳…と言ったら怖いけれど、寝る前に読んであげる“最後はハッピィエンド”なおとぎばなしのおかげで、子どもたちは思春期の荒波を前向きに生きていく力をつけてあげることも可能だ。
シンデレラ姫や白雪姫、あるいは、ピーターパンやトムソーヤの冒険などなど・・・。
小さな子どもは、おとぎばなしが大好きです。
話を聞いているうちに、自分がおとぎばなしのヒーローやヒロインになった気分になり空想の世界を駆け巡ります。
さんざん苦労しながらも、最後は、ヒーローあるいはヒロインとなってすてきな王子様やお姫様と幸せになる・・・というお決まりのアメリカンヒーロー物語に自分もなれるようなプラス思考を夜な夜な読んでもらうおとぎばなしで手に入れることができるのです。
個人的には、プラス思考という言葉は好みではないけれど、子どもにどんな困難がやってきても、逃げださず、どうにかこうにか解決しようとする気持ちの持ち主になってもらうために、おとぎばなしを利用しない手はないと思う。
困難に遭遇することは人生そのもの。
そんな人生の荒波に、哀しいかな、オンギャーと生まれた途端投げ出されたのが、この世に生を受けたということだと思う。そう、生まれたからには、荒波はつきもの。大前提。その荒波を乗り越えて人生の舵をとって難破しないようにするには、幼いころに妄想したヒーローになりきって幸せになると洗脳された楽天主義のおかげなのだ。
絵本を読んであげるのは面倒だというママも、自分なりのアメリカンドリーム物語を作って語ってあげてもいいと思う。毎日、同じものでもいい。この時期に、めいっぱいヒーローあるいはヒロインになりきって、最後は、ハッピーエンドに絶対なるという洗礼を受けることの効用は、わが子が人生の荒波に直面した時の最高のプレゼントになるはず。
実は、おとぎばなしには、もう一つの効用がある。それは、
つづく
白雪姫やシンデレラに登場するなくてはならない存在、それが、まま母。
実は、
じつは、
ジツハ、
実は、・・・・・・・・・・・・・・・・・あれは、まま母ではなく、怒ったママ、命令するママ、子どもの好奇心から生じるやんちゃにキレるママ、自分のお思いどりにわが子をしたいママ、したくないことをさせるママ・・・・などなどを総じてまま母に仕立て上げたのだそう。
子どもたちは、大好きなママと大嫌いなママの両極端で大揺れしている。怒られて、くそ~っと握り拳を握りしめている。
でも、大嫌いなんて・・・死んでしまえなんて・・・口が裂けても言えない。言っちゃいけないと思っている。それを言っちゃ見捨てられるかも…とマジで思っている。
そんな切ない子ども心を見事に、白雪姫のまま母は演じてくれているのだ。
子ども達は、白雪姫のまま母をとおして、よそのお母さんも結構怖いのかも、うちのママだけじゃないのかも・・・・と思えて、すっごくほっとする。『私だけじゃないんだ。』この感覚は、人を死から救ってくれる。
つづく
人が不安で生きているのもつらくなるときって、『私だけが・・・・・・。』というトンネルの中に入り込んでしまって出口が見えない時。
『わたしだけじゃない・・。みんな・・・・私と同じように○○なんだ。』そう思えたとき、トンネルの出口が見えてくる。
絵本の中のまま母の哀しいてん末をとおして、『私だけが、怒ってばかりのママなんかいなくなればいい。死んでしまえばいいなんて思っているわけじゃない。』と知って、ほっとする。
だって、誰にも言えないじゃない。『鬼みたいに怒るママなんか死んでしまえ!』
つづく
幼い子どもたちは、『ママなんか死んでしまえ!』なんて口にしたらいけない・・・と思い込んでいる。
よく、グリム童話の原本ってリアルだけど、時には、子どもたちに読んであげるととっても喜ぶ。あんな恐ろしい話しを読み聞かせてあげるなんてとんでもない・・・というママも多いけれど、どうよ。人間だもの。誰の心にも、結構、恐ろしくって卑怯で意地悪な心ってしっかり、ちゃっかり存在しているという事実をいい加減、人間全員認めようよ。
どんなに心優しい人の心にも、内面世界では、いろんな葛藤が存在する。
子どもに、きれいな話ばかり読んであげたくなるのが、親心。でも、子どもの心には、ママが頭ごなしに怒ればおこるほど『くそ~、このくそばばぁ~め、パンチしてやるぞ~。』と右手の握り拳をギュ~っと握りしめているんだから、その気持ちも汲んであげなきゃね。
わが子が、と~ってもけなげで優しい子ね…と抱きしめたくなることもあれば、全然いうことを聞いてくれなくて憎たらしさも限度を越す・・・みたいな・・・つまり、かわいさ余って憎さ百倍・・・になるのは、元をただせば、親が子どもを自分の思いどおりにさせて静かな暮らしをしたいから・・・でしょ。もしくは、このままいったら、まともな大人にならないんじゃないかという不安にかられてでしょ?
そんな大人の重しによって、本来の好奇心旺盛でキラキラした優しい気持ちと、欲求不満でギラギラドロドロした気持ちの極端を行ったり来たり大きくスイングする。それが、3歳児ってもん。
そんな3歳児のもやもやとして混沌としたドロドロギラギラをグリム童話の原本は昇華してくれるのだ。
ありがたいねぇ。
つづく
洗脳…と言ったら怖いけれど、寝る前に読んであげる“最後はハッピィエンド”なおとぎばなしのおかげで、子どもたちは思春期の荒波を前向きに生きていく力をつけてあげることも可能だ。
シンデレラ姫や白雪姫、あるいは、ピーターパンやトムソーヤの冒険などなど・・・。
小さな子どもは、おとぎばなしが大好きです。
話を聞いているうちに、自分がおとぎばなしのヒーローやヒロインになった気分になり空想の世界を駆け巡ります。
さんざん苦労しながらも、最後は、ヒーローあるいはヒロインとなってすてきな王子様やお姫様と幸せになる・・・というお決まりのアメリカンヒーロー物語に自分もなれるようなプラス思考を夜な夜な読んでもらうおとぎばなしで手に入れることができるのです。
個人的には、プラス思考という言葉は好みではないけれど、子どもにどんな困難がやってきても、逃げださず、どうにかこうにか解決しようとする気持ちの持ち主になってもらうために、おとぎばなしを利用しない手はないと思う。
困難に遭遇することは人生そのもの。
そんな人生の荒波に、哀しいかな、オンギャーと生まれた途端投げ出されたのが、この世に生を受けたということだと思う。そう、生まれたからには、荒波はつきもの。大前提。その荒波を乗り越えて人生の舵をとって難破しないようにするには、幼いころに妄想したヒーローになりきって幸せになると洗脳された楽天主義のおかげなのだ。
絵本を読んであげるのは面倒だというママも、自分なりのアメリカンドリーム物語を作って語ってあげてもいいと思う。毎日、同じものでもいい。この時期に、めいっぱいヒーローあるいはヒロインになりきって、最後は、ハッピーエンドに絶対なるという洗礼を受けることの効用は、わが子が人生の荒波に直面した時の最高のプレゼントになるはず。
実は、おとぎばなしには、もう一つの効用がある。それは、
つづく
白雪姫やシンデレラに登場するなくてはならない存在、それが、まま母。
実は、
じつは、
ジツハ、
実は、・・・・・・・・・・・・・・・・・あれは、まま母ではなく、怒ったママ、命令するママ、子どもの好奇心から生じるやんちゃにキレるママ、自分のお思いどりにわが子をしたいママ、したくないことをさせるママ・・・・などなどを総じてまま母に仕立て上げたのだそう。
子どもたちは、大好きなママと大嫌いなママの両極端で大揺れしている。怒られて、くそ~っと握り拳を握りしめている。
でも、大嫌いなんて・・・死んでしまえなんて・・・口が裂けても言えない。言っちゃいけないと思っている。それを言っちゃ見捨てられるかも…とマジで思っている。
そんな切ない子ども心を見事に、白雪姫のまま母は演じてくれているのだ。
子ども達は、白雪姫のまま母をとおして、よそのお母さんも結構怖いのかも、うちのママだけじゃないのかも・・・・と思えて、すっごくほっとする。『私だけじゃないんだ。』この感覚は、人を死から救ってくれる。
つづく
人が不安で生きているのもつらくなるときって、『私だけが・・・・・・。』というトンネルの中に入り込んでしまって出口が見えない時。
『わたしだけじゃない・・。みんな・・・・私と同じように○○なんだ。』そう思えたとき、トンネルの出口が見えてくる。
絵本の中のまま母の哀しいてん末をとおして、『私だけが、怒ってばかりのママなんかいなくなればいい。死んでしまえばいいなんて思っているわけじゃない。』と知って、ほっとする。
だって、誰にも言えないじゃない。『鬼みたいに怒るママなんか死んでしまえ!』
つづく
幼い子どもたちは、『ママなんか死んでしまえ!』なんて口にしたらいけない・・・と思い込んでいる。
よく、グリム童話の原本ってリアルだけど、時には、子どもたちに読んであげるととっても喜ぶ。あんな恐ろしい話しを読み聞かせてあげるなんてとんでもない・・・というママも多いけれど、どうよ。人間だもの。誰の心にも、結構、恐ろしくって卑怯で意地悪な心ってしっかり、ちゃっかり存在しているという事実をいい加減、人間全員認めようよ。
どんなに心優しい人の心にも、内面世界では、いろんな葛藤が存在する。
子どもに、きれいな話ばかり読んであげたくなるのが、親心。でも、子どもの心には、ママが頭ごなしに怒ればおこるほど『くそ~、このくそばばぁ~め、パンチしてやるぞ~。』と右手の握り拳をギュ~っと握りしめているんだから、その気持ちも汲んであげなきゃね。
わが子が、と~ってもけなげで優しい子ね…と抱きしめたくなることもあれば、全然いうことを聞いてくれなくて憎たらしさも限度を越す・・・みたいな・・・つまり、かわいさ余って憎さ百倍・・・になるのは、元をただせば、親が子どもを自分の思いどおりにさせて静かな暮らしをしたいから・・・でしょ。もしくは、このままいったら、まともな大人にならないんじゃないかという不安にかられてでしょ?
そんな大人の重しによって、本来の好奇心旺盛でキラキラした優しい気持ちと、欲求不満でギラギラドロドロした気持ちの極端を行ったり来たり大きくスイングする。それが、3歳児ってもん。
そんな3歳児のもやもやとして混沌としたドロドロギラギラをグリム童話の原本は昇華してくれるのだ。
ありがたいねぇ。
つづく