世相を斬る あいば達也

民主主義や資本主義及びグローバル経済や金融資本主義の異様さについて
定常で質実な国家像を考える

●日本は進行形で変わっている 果たして、どういう国になるのか

2018年06月28日 | 日記


●日本は進行形で変わっている 果たして、どういう国になるのか

日本は大枠で、欧米文化圏の仲間として生きようとしてきた。このことは、イデオロギー上の問題はあるだろうが、多くの日本人が、敗戦の痛手と日本国憲法の下、概ね賛同してきた。日本の場合、この欧米文化国家であるために、米国の庇護の下で、その仲間入りを果たしたのは事実だろう。そして、繁栄もしてきている。しかし、戦後70年以上を経過した今、盤石に思えた欧米文化圏(日米同盟文化圏)は制度疲労を起こしているような兆候をみせている。

東西冷戦後の時代は、当初、平和的方向に向かっていたが、イデオロギーの二項対立という均衡が崩れたことで、欧米文化圏の“独り勝ち”と思われた世界の流れは一時のことで、次第に競争者を失った世界は混沌と云う時代の流れを鮮明にしてゆく。このような世界の流れを「Gゼロ」等と呼ばれる現象までおきたわけだが、そこまでフラットな世界が現れているわけではないが、幾つかのブロックが流動的性格を抱えて、今にあるとみて良いだろう。

幾つかのブロックをみると、欧米文化圏が米国とEUと云う、共通の価値と異なる価値の分裂が次第に起きているのが昨今であり、この分裂は、東欧文化圏(ロシア中心)巻き込み、50年後には様変わりしている予感さえおぼえさせる複雑さを見せている。次のブロックが中国を中心としたユーラシア文化圏の再登場である。このユーラシア文化圏には、中東文化圏(イスラム文化圏)が個別の文化圏勢力として、破壊と再生を繰り返しながらも存在をアピールしている。この文化圏にもう一つ加えておけば、日本・朝鮮半島・台湾・ASEANと云う文化圏も視野に入れておくべきだろう。

このような世界の流れを自覚している日本人がどの位存在するのか筆者は知らない。欧米文化圏、特にアメリカ文化圏の中で自分達は生きていると云う自覚のある人がどの位存在するのかも知らない。もしかすると、日本列島と云う特別な文化圏で、特別に生きていていると思っている人もいるだろう。日米同盟の所為で、さまざまな問題を抱えるが、概ね安全に、将来的にも生存出来る国と、なんとなく感じている人が多いのかもしれない。

しかし、日本という国のかたち(国体)が、現状維持で済まされる可能性は低いだろう。たしかに、島国なのだから、孤島のように生存することは可能なようにも思える。少なくとも、陸続きの脅威がないのはたしかである。ミサイル時代だから、陸続きであっても関係ないとは云うものの、海は充分な要塞になるわけで、他勢力が侵攻してくる意味で要塞になる。しかし、前述したように流動性のある世界の流れの中で、日本は極端に日米同盟固定化の強い国になっている。

この米国に従順に応じることで、日本の国体が維持されているのは事実は、強く認識する必要が、今まで以上に求められている時代なのはたしかだ。しかし、日本の政治外交を見る限り、アメリカの浮き沈みに応じて、その運命が左右されている環境は、小泉政権と安倍政権で強まった。このまま行くと、世界の流れにおいて、「蚊帳の外」のような国家になる確率は高まっている。

日本の国体は隅々まで、アメリカの要望なのか忖度なのか、嬉々として破壊の方向に激走している。アメリカの大統領が変わるたびに、その風向きに合わせて国体を変化させ、どこに権力があるのか、判断がつかない政治外交が目まぐるしく進捗している。アメリカが絶対的力を持っていて、世界に逆らうものが存在しない時代なら、それも、一つの選択に違いないが、今のアメリカには、世界のあらゆる勢力を屈服させる切り札を持っていない。

その証拠と云うわけではない、中国・習近平体制は、あきらかに米中大国と云う意識下で、ものごとを着々と進めている。ロシア・プーチンも、ウクライナ、シリアにおいて、アメリカと引けを取らない闘いを挑んでいる。EUの仏や独も、独自の価値観において、アメリカに異を唱えている。中東の各国も、親米、反米と云う構図で闘いを挑んでいる。英国はEUから離脱し、英米と云う関係性の維持を試みているようだが、将来的には反ドイツと云う図式が再来する可能性を秘めている。

このような世界的状況にも関わらず、我が国は、ひたすら、自由主義なグローバル経済システムの強化に向かって驀進中である。各省庁から出されている行政上の指針をみても、日本独自の「社会的共通資本」の解体と云う共通項で統一されている。各省庁が個別に行っているので、一つ一つには、大きな違和感がなく、徐々にと云うスピード配分も巧妙なため、多くの国民が気づかない範囲で、滿汐のようにジワジワと国民を、アメリカにおける「移民」のような存在にしようと試みている。

いわゆるオーウェルの1984年問題である。俗に言えば“ゆで蛙問題”と言ってもいいのだろう。日本人が、知らないうちに、皆保険はなくなり、混合診療は明確になり、外国系保険会社に加入していないと大病に罹っても碌な治療を受けられなく可能性はおおいにある。移民は、外国人労働者関連の法律が改正されるたびに、日本の移民政策導入は明確になり、日本人は外国人労働者と競合を余儀なくされるだろう。正社員の待遇は、非正規社員の水準に引き下げられ、逆転現象も不思議ではなくなる時代は、もう目の前だ。

民に任せることは、ことごとく民営化され、地方自治体の民営化まで出現するかもしれなくなる。国体の多くのものが民営化されることで、公共性の観念は希薄化して、営利目的が鮮明になり、弱者の切り捨ては拍車が掛かる日本が誕生する。古き良き日本を知っている人間から見れば、これは気が狂うほど腹立たしい現実だが、現在の20代30代にとっては、それほど違和感を覚えずに受け入れる国体なのかもしれない。

おそらく、現在の安倍政権に一定の支持が集まる要因は、アメリカによる支配と云う大枠から、日本は抜け出せないのだから、そういう脱力感があるのだろう。まぁ、流されてでも生き延びていれば、封建制度における農民のように、いつの日か復活しないものでもないで、団塊世代がとやかく言う必要もないのかもしれない。特に、安倍政権になって日本売りは本格化してきているが、安倍三選はかなりの確度で現実化してきた。まぁ、それも悪くはない。来年の、統一地方選や参議院選が、石破や小泉進次郎政権になっているよりも、野党連合政権が誕生する可能性はあるのだから、安倍三選は、野党のつけ込みどころでもある。最後の〆が永田町話になった点はお許し願おう。
 


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