●民主主義の限界 立法権だけで国民主権は保持できない
最近つくづく思うのだが、民主主義が、その定義通りに動くためには、世界中の民主主義国家では、何かが欠けているように思える。いや、ギリシャやフランスにおける民主主義も、どこかが欠けていた。筆者の感覚から思う場合は、均質性と平等の概念で引っかかる。また、選挙によって、国会(立法権)を設えても、多くの問題(政治)は行政が行うために(行政権)、行政権が強くなり、立法権が後方に追いやられている事実がある。この状況は、民主主義の大前提である三権(立法・行政・司法)の独立が担保されているとは言いがたい。
現在のように、多くの民主主義国家においては、一定の安定した立法が出来上がっていることが多いので、立法を制定することよりも、既存の立法の下で行われる行政行使が、民主主義の肝になる。つまり、立法権よりも行政権が優位になりがちである。無論、立法府が行政府の長(日本であれば内閣総理大臣を選出)を選ぶのだから、立法府(国会・国会議員)の権益は守られていると云う言い分もある。しかしながら、経済国民(損得)になってしまった国民を擁した国では、民主主義政治は衆愚政治に直結している。
ファシズムもナチズムも日本陸軍帝国主義も、この衆愚政治に陥った結果生まれた政治体制なのだ。現在の安倍自民党政権にも、似通った部分が多々見られ、国民の付和雷同的流れにも、その傾向は顕著に見られる。アメリカと云う国のトランプ大統領が率いるホワイトハウスの決定にも、その傾向は見られる。この二国の政治主導者には、経済国民として、生活者的飢餓からの逃避と云う共通の感情が渦巻く。
日本の場合、完全に経済国民化した有権者にとって、経済環境の浮き沈みが、思考のバックボーンになるので、悪い時期から、良い時期のと云う循環に当たると、その世代に人々は、持続性を求めるあまり、“このまま、このまま”と思う感情が優越する。まさに、安倍政権やトランプ政権は、この間隙に生じた衆愚政治権力の例示としてあげることが可能だ。世界的経済の循環と、自らの代表者としての時期が重なったことで、多くの幸運を享受している権力者と言えるだろう。
トランプ大統領の場合は、行政権は握っているが、立法府(議会・共和党若干有利だが、民主党と拮抗)による抵抗と云うブレーキが存在するので、好き勝手は出来ないので、幾分健全だ。しかし、我が国の安倍政権には、ブレーキが存在しない。その上、“嘘も方便”を悪意に濫用して、行政の善悪行為さえ区別しない状況にあり、司法にも人事介入することで、ほぼ独裁政治を完成させる方向に進んでいる。
もうこうなると、民主主義は機能していないと言っても良いだろう。すべてが安倍官邸で決定するのだから、事を為したいものは、官邸におもねればいい状況になる。これが、現在の日本の現実だ。この間に、安倍政権は、その行政的権限や、行政の裁量制度を独占することで、マスメディアの掌握にも乗り出し、ほぼ壊滅状態に追い込んでいる。
その上、仮に気骨あるメディアが、行政の腐敗を糾弾しても、その影響について考えが及ばない、経済国民にとって、それらの問題は他人ごとになり、興味の範囲から逸脱する。衆愚が大多数を占めても、行政が、一定のルールに則って、粛々と為政を行えば問題はないが、ルール破りが常態化しても、今の経済環境が良ければ、関係のないことは、すべて他人事にしてしまうのが、最近の20代から40代に見られる傾向だろう。
日本は、高度経済成長により、世界第二位の経済大国になったことで、迂闊にも、理念性のあった国民が、経済(損得)国民になったことで、今、そのツケを払わされているように思える。上述の理屈で行けば、経済が疲弊的循環になれば、反権力的行動様式が出てくるわけなので、安倍政権であるかどうか別にして、自民党は下野するシーンも見られるだろう。それは甘い考えとも言える。なぜなら、それまでに、自民党政権が全体主義体制を築いてしまえば、衆愚の連中の、経済国民感情さえ無視される可能性がある。たしかに、過去の自民党政治の矜持が懐かしくなっているようでは、安倍ファシズム政治に対抗は出来ない。(今夜は疲れたので、ここまで。2部でこの続きを)
≪哲学者が語る民主主義の「限界」 ガブリエル×國分対談(1)
日々のニュースで当たり前のように政治や経済の危機が語られる今、民主主義は「危機」の解決に役に立つのか。
もはや民主主義こそ問題なのではないか――。著書「なぜ世界は存在しないのか」(講談社選書メチエ)がベストセラーになっているドイツの哲学者マルクス・ガブリエルさんが来日し、東京・築地の朝日新聞東京本社読者ホールで6月12日、哲学者の國分功一郎さんと対談した。「危機」の時代に、改めて歴史をさかのぼり、民主主義の原理を見直した議論では、「民主主義と国民国家は両立しない」「主権という考え方は怪しい」など、ラディカルな発言が飛び出した。
対談は、住民運動への参加経験などから議会中心の既存の民主主義観を批判してきた國分さんが事前に送った「手紙」による問題提起を受け、ガブリエル氏が講演する形でスタートした。
通訳は斎藤幸平・大阪市立大学准教授、聞き手・司会は朝日新聞文化くらし報道部の高久潤記者が務めた。対談は、本の著者を招いて講演などをしてもらう「作家LIVE」(朝日新聞社主催)の一環で、会場には定員を大きく上回る約900人から応募があり、抽選で当選した約200人が来場。2時間半に及んだ当日の議論の全容を、2万5千字超で詳報する。
■國分さんからの手紙
対談に先立ち、國分さんは事前にガブリエルさんに問題提起のため、民主主義をめぐる四つの質問を手紙で送っていた。ガブリエル氏の講演はこの質問を踏まえて行われた。
◇
①実際には行政権力が強大な力を持っている現代の政治体制で、どのように民主主義を構想すればよいでしょうか
②立憲主義と民主主義の関係をどう考えればよいでしょうか
③主権に統治は可能でしょうか。主権によって政治コミュニティーを統治することはできるでしょうか
④現代政治が主権の限界に直面する一方で、主権を求める動きが日増しに高まっているこの状況をどう考えればよいでしょうか
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手紙の中で國分さんは、2013年に都の道路建設計画の見直しを求める住民運動に参加した自身の経験に触れ、「道路を建設するにあたって、建設現場に住む人びとからいかなる許可も取る必要がない」とし、「日本の行政には万能とも言うべき権力」がある、と指摘。近代の民主主義において、主権は「伝統的に立法権として定義されてきた」が、主権者である民衆が行政の決定に直接関わることができない中、それは民主的と言い得るか、と問題提起した。
公文書改ざん問題でも改めて注目を集める行政権力の強大化は、国レベルでも当てはまる。國分さんは安倍政権が2015年、閣議決定で日本国憲法第9条の解釈を変更したことに言及。その反対運動の中で注目された立憲主義を、「いかなる政治権力も制約を受けるという原則」と説明し、制約を受ける側である安倍政権が「そのルールの解釈を変更」したことを批判した。だが考えるべき問題はその先にある。では「憲法は民主主義的な権力をどこまで制約できるのか」と問いかけた。
また英国の欧州連合(EU)離脱を決めた国民投票など世界政治の潮流にも触れ、「主権を求める動きが高まっている」と診断した上で、「主権(民主的な議会)による統治は可能か」「主権を求める動きが高まる状況をどう捉えればよいか」との質問も投げかけた。
■マルクス・ガブリエル氏の基調講演「危機に瀕する民主主義」
日本の哲学者と交流を持てるのを楽しみにしていました。きょうこれから國分さんからの手紙との関連で民主主義の危機について論じますが、二つのパートにわけて話を進めようと思います。最初に論じたいのは、民主主義の本質に関する問題、つまり民主主義とは何かという問いです。それを踏まえて後半では、民主主義は今、社会システムの中で実際にどのような形で実施されているのかについて話します。
そのうえで最後に、民主主義の危機とは、前半で論じるその「本質」と、現在実施されている制度の間にある距離、隔たりから生まれているのだ、ということを指摘したいと思います。
民主主義が誕生した時期として、一般的に二つの時期が語られます。古代ギリシャとフランス革命です。では、なぜこの時期に民主主義が生まれたかを考えてみると、民主主義がある種の「価値」に対応する形で生まれてきたことがわかります。ここでいう「価値」とは「事実」に関するものです。例えば子どもを虐待してはいけないという価値(判断)は、子どもを虐待してはならないという事実に対応しています。同様に民主主義について考えるならば、民主主義の価値は、人間は人間として存在することができるためには、けっして誰にも譲渡できないような諸権利を必ずや必要とする、という事実に対応しているのです。ではどういう権利が必要かというと、人間として充実した意味のある人生を送るための条件、幸せな生活を送る条件を人間は必要としており、こうしたものが権利の内容になります。
これが人権と呼ばれるものですが、人権とは言い換えるならば、人間が人間としての人生、生活を送るために必要な条件です。民主主義とは、こうした人間が人間として存在するための権利を実現することを目指す政治システムということになります。
まずこの単純な話を基礎として、理想的な民主主義の定義について話すことができます。つまり、どのような社会的、経済的、政治的条件のもとでなら人々は充実した生活を送ることができるか、という問いに答えていくことで、理想的な民主主義を定義することができるでしょう。
では実際にはどう定義していくのか。社会学、経済学など様々な学問がその条件を明らかにする役割を果たします。その意味で、民主主義とは、知に――それを知の体系と呼んでもいいでしょう――基づいたシステムということになります。ですから、まず私たちは、自分たちが生きていくために、どういった条件が必要なのかを事実として知る必要がある。民主主義とは知に基づいた統治形式と定義することができます。
古代ギリシャの民主主義がなぜ失敗したのかについて話しましょう。簡単に言えば、その民主主義が「みんなのための」民主主義ではなかったからです。当時は奴隷がいました。奴隷は、民主主義の基本的な理念と矛盾しています。奴隷は奴隷所有者のために働くことを義務付けられており、自分のしたいことを行うことができません。こうしたエリート主義的なシステムでは民主主義は実現しませんでした。
また、フランス革命の後の民主主義の試みも失敗しています。このときは、ナポレオンが目指した民主主義の拡大という試みが帝国主義的な性格を内包していたからです。帝国主義な性格による失敗については、まさに今日の米国の民主主義が失敗していることにも同じようにあてはまるように思います。
ナポレオンのプロジェクトの失敗は、後世同じように繰り返します。そうした試みが失敗したのは、帝国主義的な方法で民主主義を普及させようとすると「みんなのため」という民主主義の基本理念を実現できないからです。要するに他者を十分に理解してこなかったことに由来する問題です。米国は「他者」を理解することを非常に苦手としています。この問題はこの後にも話になると思うので示唆にとどめますが、(ギリシャとフランスの)二つの失敗は、それぞれ(の民主主義)が十分に普遍的なものではなかったということで説明されるでしょう。
さて2番目の問題について話しましょう。現代の民主主義についてです。今の民主主義の危機を考えると、二つの大きな問題があると言えます。
一つ目は、真理と知についての危機です。そして、二つ目が不平等という問題です。二つ目のほうが簡単なので二つ目(の不平等)から話を始めたいと思います。
世界規模でみると、少数の人のみが先ほど言った人権の理念に合致した生活を送ることができています。なぜ少数の人たちがそのような生活を享受できているかというと、残りのものすごく大勢の人たちが、人権の理念に合致しない生活を送っているからです。
これは古代ギリシャとまったく同じような状況で、つまりある種の奴隷制が世界規模でみると生じているのです。ただし、今回の場合は、古代ギリシャのように、国内に大勢の奴隷と一部のエリートがいるというわけではなく、先進国のために途上国の人がTシャツを作っているという状況です。そのため、自分たちのために途上国の大勢の人々が仕事をしているという状況が(利益を享受している少数の人間側に)見えない、言ってみればアウトソーシングをしているような状態になっているのが特徴です。
そうした状態下での民主主義は普遍的ではありません。この状況は帝国主義的な方法でも解決できません。無理やり解決しようとして(民主主義の理念を帝国主義的に)拡張してしまったら、今度はTシャツをつくる人がいなくなってしまうでしょう。つまり現代の民主主義は、世界的な規模での不平等を必要としているのであって、それがすでに大きなものになっており、非常に深刻な問題になっています。
もう一つの問題、つまり真理と知の問題に戻りましょう。私が言おうとしているのは、ポストトゥルースと呼ばれる事態のことです。民主主義のリーダーたちが、科学的な事実について無知な状態にあります。これは大統領のようなトップにいる人たちだけではなく、議会に選ばれている政治家たちも含めて、科学的な事実について完全に無知な状態に陥っています。例えばドイツではいま大麻を合法化するかどうかの議論がなされていますが、議論は事実をしっかり調べないままに、国会でただぺちゃくちゃしゃべっているだけの状態になってしまっている。これは事実に基づいて検討するという態度からかけ離れています。
だからこそ必要なのは科学者たちであり、さらに言えば哲学者たちです。重要な問題については科学者や哲学者に意見を聞く公聴会が必要なのです。もしこうした公聴会なしに様々な決定がなされていくと、無知で自己中心的な政治家が私たちの生活にかかわる重要な決定を勝手にしてしまうことになります。こうした試みが私たちの民主主義を最終的に破壊することになります。
ここにポピュリズムの矛盾が表れていることに注意が必要です。このポピュリズムの状況を変えるには、きちんとした情報が人々に行き届く公共圏を作り出すことが必要です。だからこそ科学と哲学が必要なのです。公共圏を作り出すことができなければ、私たちにはある種の独裁が待ち受けているでしょう。 (2)に続く―――
≫(朝日新聞デジタル)