●日米隷属の掟 米国グローバル企業・経団連と安倍のコラボ
筆者は、米国トランプ政権の保護主義的な動きはグローバル経済の限界点が見えた結果と最近のコラムで書いてきた。しかし、どうも一部訂正せざるを得ない状況になっているようだ。なぜかと云うと、トランプ大統領が選択している保護主義的な動きは、必ずしも正当な保護主義政策に舵を切ったわけではないと思い至ったからである。トランプの保護主義的に見える動きは、単に、米国ファーストの我が儘による保護主義擬きに過ぎないことが判りかけている。つまり、トランプの制裁関税発動は、単に多国籍企業群が活動しやすい土俵を作りたいだけの我が儘ではないかと云うことだ。
無論、トランプに、そのような我が儘な選択を強いたのは米国の多国籍企業群であることは明々白々だ。多国籍企業群の連中にとって、中国と云うグローバル経済の牽引フロンティア地域の喪失は、致命的危機なわけで、何とかして、フロンティア地域に代わるフロンティア探しが始まったとみるべきだろう。その一つが、今回の、買い手市場有利の原則を利用した、不公平貿易の是正目的の関税措置なのだ。このコラムでは、日本市場(日本人の富)もグローバル企業らによって、フロンティア地域扱いされている現実にスポットを当てた。
たしかに、米国の貿易赤字は問題だが、米国多国籍企業らが、低賃金と途上国市場目当てにフロンティア地域に生産拠点を移行した結果、気がついてみたら貿易赤字が出ただけのことで、小学生でも判るメカニズムによる貿易赤字なのだから、他国の所為にするのはヒステリー症状というほかない。まぁ、この問題は最終的に、相手国も報復関税を行う、関税合戦になるだろうが、最後はアメリカが音を上げるに違いない。
現在、上述のような問題がメディア等々で騒がれているが、日本という国家として、米国の振舞い、或いはトランプ大統領の振舞い、グローバル企業の振舞い、日本の大企業の振舞い(経団連)、日本の官僚の振舞い、そして、安倍内閣の振舞い等を考えてみる。ここでは、安倍の問題は、簡単に片づけておく。安倍晋三の凡庸な悪は、“森友学園、加計学園、スパコン、山口レイプ事件”の4件である。無論、これだけで安倍は、十二分に牢屋の人になるべきだが、「国家」の問題とは次元の異なる、極めてせこい、コソ泥や覗き犯程度のという認識も成り立つ。
日米と云う大きな枠組みで考えを整理すると、以下のような構造が、我が国日本に存在していると云うことがわかる。当たり前のことだが、多くの人は、日本と云う国が、米国の支配下にある、或いは、相当の影響下にあることは、薄々理解している。そして、それを苦々しく思う心情と、米国の支配下にある方が安全なのではないかと云うような心情も存在する。この心情の違いで、対立する日本人が存在するし、時には、ひとりの人間の中に、二つの対立する心情が同居していることもある。
いずれにしても、日本と云う国は、戦前戦後を通じて、否、ペリーの来航以来、米国の影響下にあった。特に、第二次大戦後の日本は、非常に米国の影響下にある。影響下と云うものは、米国への反発と迎合の気持が、時間軸で右往左往していると言えるだろう。そして、現在はほぼ完全なかたちで、迎合が勝っている。特に、小泉純一郎以降の日本政府は、鳩山由紀夫政権を除いて、完全に、米国の意のままの国家になろうと努力しているのが現実だ。
そのことが、良いのか悪いのか、それは、或る意味でイデオロギー的問題なので、善悪は判断しにくい。ただ、米国という国自体が、多国籍企業と軍産複合企業と云う二つの利益勢力に牛耳られた国家であり、1%の為に存在するシステムが構築された国家であることは、まぎれもない事実だ。そして今、我が国日本も、米国と同様の1%の為のシステムが導入されている最中と考えるのが妥当だろう。
記憶に新しい部分から言えば、郵政民営化以降の日本の「改革路線」は、上述の米国式1%の為のシステム作りに、政治・行政・司法、経済・大学・放送・言論等々の世界が、「改革」という幻想的な言葉の響きに惑わされて動いているのが現状だと言える。これらの「改革」は、日米年次要望書にもとづき、粛々と進捗している。ランダムに思いつくまま書いてみると、安全保障関連、裁判員裁判、規制改革、省庁再編、国鉄民営化も、NTT・JTの民営化、アベノミクス、日銀異次元緩和、特定秘密保護法、累進税率緩和、法人税減税……書き始めたら止まらなくなる。
つまり、“規制改革”と云う言葉が持つ魔力にうつつを抜かしている間に、日本人が生活を通じて作り上げた「社会的共通資本」と云うものがことごとく、米国中心の多国籍企業の餌食にする為の方便な言葉であったことに気づくのである。最近では、郵政事業は、たしかに無駄も多かったのは事実だが、民営化するほど、事業を分割することで、共通資本の効力を喪失している。また、郵貯・保険の持つ350兆円もゴールドマン・サックスを通じて、多国籍企業の餌食になりかけている。国民皆保険も多国籍企業群にとっては癪の種で、いずれは餌食になるのは判っている。
困ったことに、現在の日本の社会は、米国の支配下であることを問題視せずに、いや、より積極的に同化することで、社会的な地位を得ているのが現実なので、社会的地位の高い人ほど、米国への依存度が高い。特に経済界は酷いのひとことだと言える。経団連などは2000年に、「経団連・規制改革要望」を政府に提出して、米国多国籍企業の尻馬に乗る態度を鮮明にしている。
その内容は、15分野に及び雇用・労働・年金、医療・介護・福祉、教育、流通、土地・住宅、廃棄物・環境保全、危険物・防災・保安、情報・通信、金融・保険・証券、運輸、エネルギー、通商、農業、競争政策にもおよぶ規制緩和の要求である。このような内容は、米国の対日指針と同様のものであり、経団連も、日本社会のアメリカ化により、利益の最大化を狙っているのが現状である。米グローバル企業と日本のグローバル企業は、時に対立し、時に協調して、日本市場や世界市場を食物にしようとしている。最近、日本企業による、世界的M&Aの流れは、それを象徴している。
とどのつまり、現在の日本は、米国政府や米国多国籍企業及び国内の経団連企業群の要求に屈する政治しか出来ない仕組みになっているのが事実だろう。これに、米国政府の年次改革要望書がセットになれば、雁字搦めであり、日本国の自由な為政など行う余地はないに等しいと云う現実が理解出来る。要するに、日米同盟基軸という観念に捉われている限り、与野党通じて、米国からの圧力に抵抗することは、相当に困難だと言えるだろう。余程複雑な抵抗手順を踏まないと、その政権は、でっち上げのスキャンダルに潰されるだろう。
現状で言えることは、米国に、100%屈服するか、70%なのか50%なのかの違いの競争だと言える。まぁそうはいっても、日本独自の「社会的共通資本」を失うことは、あの貧富の差が歴然としたアメリカになるわけであり、最終的には「移民政策」に舵を切らない限り、日本国民の富は、自動的に収奪されるだけで、先細り確実な“少子高齢化社会”なのだから、その人口構成を変えない限り、収奪だけが残るので、「移民政策」避けて通れないことになる。
まぁ、極めて他力本願な話なのだが、筆者個人としては、アメリカの多国籍企業や軍産複合企業が、出来るだけ早く滅んでくれることを望んでいる。その点で、ユーラシア勢力(中国・ロシア・インド・イラン)の抬頭は、一縷の望みである。日本としては、安保は当面アメリカ基軸であっても、外交においては、中国を重要視するのは当然の流れだと思う。好きか嫌いかではなく、このような場合にこそ、損か得かの観念に拘って貰いたいものだ。明治期以前の、本来の日本文化を残すためにも、田中角栄、石橋湛山的思考を持つ政治家の出現を期待したい。