映像を見ているとき、僕らは現実が見えなくなっている(DESIGN IT! w/LOVE)
http://gitanez.seesaa.net/article/288075882.html
--------------------------
重要な視点だと思う。
人間が持つ入力器官は5つある。
触覚、視覚、聴覚、嗅覚、味覚の五感だ。
(第六感についてはここでは触れません・・)
この入力器官から入力される情報の8割を占めるのが「視覚」だと言われている。
8割もの情報を視覚に頼っていれば、我々の認知行動に「視覚」が多大なる影響を及ぼすことは想像するのに難しくない。
やや逆説的になるが、それゆえ、古今東西の宗教家や思想家は、「目に見えないもの」の重要性を訴えてきたのだ。
人間が生存競争を生き抜くのに視覚からの情報が非常に重要だったし、昨今その視覚を利用した情報入力を補完する技術やサービスは急激な普及をみせているが、だからといって、それ以外の情報の重要性が減るということではない。
(米Apple社は、この視覚を起点としたディスプレイ・サービス事業で利益を上げているというのが、私の持論だ。)
ただ、リンク先の内容について一つだけ言っておきたいのだが、我々は「視覚に頼ると傍観者になる」ということではない。
視覚に偏重することが思考のバランスを崩すことに繋がるのはその通りだが、それと傍観者になるかどうかは直接的な関係がない。
我々は、目の前で起きていることにさえ傍観者になりがちだ。
傍観者になるかどうかは、事象を自らの問題として認識するかどうかにかかっている。
(これを「責任」という。)
「傍観者」となるか「観察者」たりえるか。
この件に関しては、ピーター・F・ドラッカー『傍観者の時代』をおススメしたい。
また、傍観者にならないためには、ネットワーク思考が鍵となるだろう。
関連したことを過去に幾つか述べているので、その中から2つ転載したい。
--------------------------
IT革命による社会的イノベーションの本質 ~新文化人と旧文化人~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/d1130a80a9b4ae5f165b423fee27075d
分業は資本主義の基本的メカニズムと言われているが、この分業を可能にするのは交換だ。
交換できなければ、生きるための全てを賄わねばならず、特定の仕事に特化することができない。
交換を可能とする技術は時代とともに進化してきた。
池田信夫氏が言うように原始の時代に物々交換が存在したかどうかはわからないが、ドルや円の前にも、古くは絹や米などが貨幣として交換手段になっていたし、今では電子マネーやら電子決済という形態など様々な形での交換も可能となっている。
そして、今、IT技術の進化が、この交換にまつわる状況を急激に変化させ、社会的構造を大きく揺るがしている。
モバイル技術やクラウド技術の進化が不偏的な情報アクセスを可能にし、Webが、映像、音声、テキストなど電子化できるあらゆる情報へのアクセスコストを限りなく0に近づけているのだ。
さらに、BlogやSNS、とりわけTwitterなどのサービスは情報を細分化・断片化し、その断片化された情報を収集し、編集し、整理し、再構成することも技術の力で容易にした。
端的に言おう。
あらゆる情報が断片化され、交換可能になっているのだ。
これがどのような社会的変化をもたらすだろうか。
本エントリの初めの文章に戻ればわかるだろう。
あらゆる情報が交換可能となれば、違いが恵みとなり分業が進む。
つまり、このような社会においては、「違い」が先鋭化するということだ。
これは現在進行形で起きている変化だ。
そして、もう1つ見逃せない変化がある。
情報へのアクセスコストが限りなく0に近づくと、情報が自分のところにある必要がなくなる。
外部に整理された情報があり、その情報にいつでもアクセスできるのであれば、自分のところで解釈し整理する必要がなくなるのだ。
自分が整理したいと思う情報のみに専念し、他は外部から調達するのがよい。
交換技術の進化によって、ここでも分業が進むのだ。
この分業は非常に興味深い社会的変化をもたらす。
比較的に大きな物語や文脈といったものを練り上げるためには、ある程度の総合的な知見が必要であり、"専業化したい人々"には苦しい作業になる。
こうした専業化したい人々が、外部から大きな物語なり文脈を調達するようになるのだ。
そして、自分たちは自分たちの専念したいことに取り組む。
これがソーシャル・ネットワークにおいて、数多くの文脈のない言葉たちが生まれるメカニズムである。
発信者の意思(情報)はネットワーク上に偏在しており、発信者の意図を読み取るには、ネットワーク上に偏在している情報を統合する"Key"が必要である。
外側にいる人は、それらの情報を統合する"Key"を持っていないため、文脈のない情報に見えるのだ。
それはまるで暗号のように。
しかし、ソーシャル・ネットワークの世界では情報は都市化され城壁に囲まれているため、Keyは外側には見えない。
この問題は、これから、いや既にはじまっている新しい時代の要点となるであろう。
城壁を超え都市と都市をまたぐKey、今は、その可能性を探る長い旅の始まりだ。
★★★★★★
これまでの時代は、どちらかといえば大きな物語を皆で共有する時代であった。
人々は情報の交換手段として、マス・メディアのような大きな情報しか扱えないメディアに依存していたからだ。
また、マスメディアには双方向性や直接的なアクセス手段がなかったため、人々が手にすることのできる情報は限られていた。
これがIT技術の進化、インターネットの普及によってEnd to End、そして小さな情報を扱えるようになると、様相は大きく変わる。
人は、内面的作業の充実に飢えている。
その機会をより多く得るために、情報の交換手段の進化は福音だ。
人々は、この交換手段に飛び乗った。
自分だけの物語を紡ぐのに、現在ほど恵まれている時代は無い。
この進化した情報の交換手段を獲得した人と、そうでない人の間には、深い文化的な溝ができている。
前者は進化した新文化人であり、後者は旧文化人である。
新文化人にとってIT革命はイノベーションであり、人類はブルーオーシャンを見つけたわけだが、旧文化人にとってのIT革命は文化の破壊に見えるであろう。
ITは人類にとっての破壊的イノベーションなのである。
--------------------------
IT革命がメディアの特性を強調し、社会に変化を与えている
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/22c926ac609ae97e634fbb49a9866aaa
前回のエントリを少し補足しておきます。
『IT革命による社会的イノベーションの本質 ~新文化人と旧文化人~』
これはマーシャル・マクルーハンの有名な言葉だ。
マクルーハンはメディアを情報密度の高い「熱いメディア」と、情報密度の低い「冷たいメディア」とに定義した。
これは抽象的な概念で、この定義に厳密にこだわることに意味は無い。
(どのメディアが熱くて、どのメディアが冷たいかという事を真剣に考えるのは時間の無駄だ。)
ただ、この定義が言わんとしていることには大きな意味がある。
彼はこう言う。
ラジオのような「熱い」(hot) メディアと電話のような「冷たい」(cool)メディア、映画のような熱いメディアとテレビのような冷たいメディア、これを区別する基本原理がある。熱いメディアとは単一の感覚を「高精細度」(high definition)で拡張するメディアのことである。「高精細度」とはデータを十分に満たされた状態のことだ。写真は視覚的に「高精細度」である。漫画が「低精細度」(low definition)なのは、視覚情報があまり与えられていないからだ。電話が冷たいメディア、すなわち「低精細度」のメディアの一つであるのは、耳に与えられる情報量が乏しいからだ。さらに、話される言葉が「低精細度」の冷たいメディアであるのは、与えられる情報量が少なく、聞き手がたくさん補わなければならないからだ。一方、熱いメディアは受容者によって補充ないし補完されるところがあまりない。したがって、熱いメディアは受容者による参与性が低く、冷たいメディアは参与性あるいは補完性が高い。だからこそ、当然のことであるが、ラジオは例えば電話のような冷たいメディアと違った効果を利用者に与える。
つまり、こうだ。
情報密度の高い熱いメディアの場合は、受け手側で情報の補充なり補完なりをする必要がないので、受け手側の参与性が低い。
反対に冷たいメディアの場合は、受け手側が情報の補充なり補完をする必要があるので、受け手側の参与性が高い。
この2つのメディアに関する違いは、受け手側にに異なる効果を与える。
これは直感的だ。
新聞やラジオよりテレビの方がイメージを与えるのには適している。
百聞は一見に如かずではないが、文字や音声だけで説明されるより、映像で見たほうがイメージは持ちやすい。
逆に、何かの数値や手順といった詳細情報などは、映像よりも文字であった方が漏れが無く伝わりやすいだろう。
どちらが優れているかではなく、特性の違いである。
しかし、世の中の一般的な考え方はこうだ。
冷たいメディアより、熱いメディアの方が進んでいる。
だから時代は、冷たいメディアから熱いメディアへと移行していくのだ。
これはある側面では真実だ。
冷たいから熱いへの移行は、技術の進歩と関連している。
新聞 → ラジオ → テレビ → ハイビジョン・テレビ という流れは技術の進歩によってもたらされた変化だ。
だが、ここでも注目すべきIT革命による社会的な変化がある。
それは、Webの広がりによって、冷たいメディアである文字情報がメディアの主役に返り咲いたということだ。
勘の言い方はもうおわかりだろう。
そう、この変化は「マスの崩壊」とも関連している。
最近皆が「ごり押し」と感じることにも。
前回のエントリでも述べたことにつながっているのだ。
前エントリでは、情報の交換技術が進化し、情報が断片化されたことで、違いが先鋭化されたと説明した。
マクルーハンの言葉で言えば、受け手側の参与性が高いメディアが、IT技術によって力を得て、人々に自分だけの物語をつむぐ余地を作り出したということだ。
人々が扱う主要なメディアが変化したこと、そのメディアの性質によって、社会全体に変化が起きているというイメージを、ここで少しでも共有できれば幸いだ。
--------------------------
断定的な語り方をしているが、あくまでも私的見解であることは言うまでもない。
本文の内容に関して影響を受けた参考図書を挙げておく。
タイラー・コーエン『フレーミング 「自分の経済学」で幸福を切り取る』を挙げておく。
ピーター・F・ドラッカー『傍観者の時代』
アルバート・ラズロ・バラバシ『新ネットワーク思考 世界の仕組みを読み解く』
http://gitanez.seesaa.net/article/288075882.html
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重要な視点だと思う。
人間が持つ入力器官は5つある。
触覚、視覚、聴覚、嗅覚、味覚の五感だ。
(第六感についてはここでは触れません・・)
この入力器官から入力される情報の8割を占めるのが「視覚」だと言われている。
8割もの情報を視覚に頼っていれば、我々の認知行動に「視覚」が多大なる影響を及ぼすことは想像するのに難しくない。
やや逆説的になるが、それゆえ、古今東西の宗教家や思想家は、「目に見えないもの」の重要性を訴えてきたのだ。
人間が生存競争を生き抜くのに視覚からの情報が非常に重要だったし、昨今その視覚を利用した情報入力を補完する技術やサービスは急激な普及をみせているが、だからといって、それ以外の情報の重要性が減るということではない。
(米Apple社は、この視覚を起点としたディスプレイ・サービス事業で利益を上げているというのが、私の持論だ。)
ただ、リンク先の内容について一つだけ言っておきたいのだが、我々は「視覚に頼ると傍観者になる」ということではない。
視覚に偏重することが思考のバランスを崩すことに繋がるのはその通りだが、それと傍観者になるかどうかは直接的な関係がない。
我々は、目の前で起きていることにさえ傍観者になりがちだ。
傍観者になるかどうかは、事象を自らの問題として認識するかどうかにかかっている。
(これを「責任」という。)
「傍観者」となるか「観察者」たりえるか。
この件に関しては、ピーター・F・ドラッカー『傍観者の時代』をおススメしたい。
また、傍観者にならないためには、ネットワーク思考が鍵となるだろう。
関連したことを過去に幾つか述べているので、その中から2つ転載したい。
--------------------------
IT革命による社会的イノベーションの本質 ~新文化人と旧文化人~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/d1130a80a9b4ae5f165b423fee27075d
違いが災いの元ではなく恵みであるためには、交換がためである。
分業は資本主義の基本的メカニズムと言われているが、この分業を可能にするのは交換だ。
交換できなければ、生きるための全てを賄わねばならず、特定の仕事に特化することができない。
交換を可能とする技術は時代とともに進化してきた。
池田信夫氏が言うように原始の時代に物々交換が存在したかどうかはわからないが、ドルや円の前にも、古くは絹や米などが貨幣として交換手段になっていたし、今では電子マネーやら電子決済という形態など様々な形での交換も可能となっている。
そして、今、IT技術の進化が、この交換にまつわる状況を急激に変化させ、社会的構造を大きく揺るがしている。
モバイル技術やクラウド技術の進化が不偏的な情報アクセスを可能にし、Webが、映像、音声、テキストなど電子化できるあらゆる情報へのアクセスコストを限りなく0に近づけているのだ。
さらに、BlogやSNS、とりわけTwitterなどのサービスは情報を細分化・断片化し、その断片化された情報を収集し、編集し、整理し、再構成することも技術の力で容易にした。
端的に言おう。
あらゆる情報が断片化され、交換可能になっているのだ。
これがどのような社会的変化をもたらすだろうか。
本エントリの初めの文章に戻ればわかるだろう。
違いが災いの元ではなく恵みであるためには、交換がためである。
あらゆる情報が交換可能となれば、違いが恵みとなり分業が進む。
つまり、このような社会においては、「違い」が先鋭化するということだ。
これは現在進行形で起きている変化だ。
そして、もう1つ見逃せない変化がある。
情報へのアクセスコストが限りなく0に近づくと、情報が自分のところにある必要がなくなる。
外部に整理された情報があり、その情報にいつでもアクセスできるのであれば、自分のところで解釈し整理する必要がなくなるのだ。
自分が整理したいと思う情報のみに専念し、他は外部から調達するのがよい。
交換技術の進化によって、ここでも分業が進むのだ。
この分業は非常に興味深い社会的変化をもたらす。
比較的に大きな物語や文脈といったものを練り上げるためには、ある程度の総合的な知見が必要であり、"専業化したい人々"には苦しい作業になる。
こうした専業化したい人々が、外部から大きな物語なり文脈を調達するようになるのだ。
そして、自分たちは自分たちの専念したいことに取り組む。
これがソーシャル・ネットワークにおいて、数多くの文脈のない言葉たちが生まれるメカニズムである。
発信者の意思(情報)はネットワーク上に偏在しており、発信者の意図を読み取るには、ネットワーク上に偏在している情報を統合する"Key"が必要である。
外側にいる人は、それらの情報を統合する"Key"を持っていないため、文脈のない情報に見えるのだ。
それはまるで暗号のように。
しかし、ソーシャル・ネットワークの世界では情報は都市化され城壁に囲まれているため、Keyは外側には見えない。
この問題は、これから、いや既にはじまっている新しい時代の要点となるであろう。
城壁を超え都市と都市をまたぐKey、今は、その可能性を探る長い旅の始まりだ。
★★★★★★
これまでの時代は、どちらかといえば大きな物語を皆で共有する時代であった。
人々は情報の交換手段として、マス・メディアのような大きな情報しか扱えないメディアに依存していたからだ。
また、マスメディアには双方向性や直接的なアクセス手段がなかったため、人々が手にすることのできる情報は限られていた。
これがIT技術の進化、インターネットの普及によってEnd to End、そして小さな情報を扱えるようになると、様相は大きく変わる。
人は、内面的作業の充実に飢えている。
その機会をより多く得るために、情報の交換手段の進化は福音だ。
人々は、この交換手段に飛び乗った。
自分だけの物語を紡ぐのに、現在ほど恵まれている時代は無い。
この進化した情報の交換手段を獲得した人と、そうでない人の間には、深い文化的な溝ができている。
前者は進化した新文化人であり、後者は旧文化人である。
新文化人にとってIT革命はイノベーションであり、人類はブルーオーシャンを見つけたわけだが、旧文化人にとってのIT革命は文化の破壊に見えるであろう。
ITは人類にとっての破壊的イノベーションなのである。
--------------------------
IT革命がメディアの特性を強調し、社会に変化を与えている
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/22c926ac609ae97e634fbb49a9866aaa
前回のエントリを少し補足しておきます。
『IT革命による社会的イノベーションの本質 ~新文化人と旧文化人~』
メディアとはメッセージである。
これはマーシャル・マクルーハンの有名な言葉だ。
マクルーハンはメディアを情報密度の高い「熱いメディア」と、情報密度の低い「冷たいメディア」とに定義した。
これは抽象的な概念で、この定義に厳密にこだわることに意味は無い。
(どのメディアが熱くて、どのメディアが冷たいかという事を真剣に考えるのは時間の無駄だ。)
ただ、この定義が言わんとしていることには大きな意味がある。
彼はこう言う。
ラジオのような「熱い」(hot) メディアと電話のような「冷たい」(cool)メディア、映画のような熱いメディアとテレビのような冷たいメディア、これを区別する基本原理がある。熱いメディアとは単一の感覚を「高精細度」(high definition)で拡張するメディアのことである。「高精細度」とはデータを十分に満たされた状態のことだ。写真は視覚的に「高精細度」である。漫画が「低精細度」(low definition)なのは、視覚情報があまり与えられていないからだ。電話が冷たいメディア、すなわち「低精細度」のメディアの一つであるのは、耳に与えられる情報量が乏しいからだ。さらに、話される言葉が「低精細度」の冷たいメディアであるのは、与えられる情報量が少なく、聞き手がたくさん補わなければならないからだ。一方、熱いメディアは受容者によって補充ないし補完されるところがあまりない。したがって、熱いメディアは受容者による参与性が低く、冷たいメディアは参与性あるいは補完性が高い。だからこそ、当然のことであるが、ラジオは例えば電話のような冷たいメディアと違った効果を利用者に与える。
つまり、こうだ。
情報密度の高い熱いメディアの場合は、受け手側で情報の補充なり補完なりをする必要がないので、受け手側の参与性が低い。
反対に冷たいメディアの場合は、受け手側が情報の補充なり補完をする必要があるので、受け手側の参与性が高い。
この2つのメディアに関する違いは、受け手側にに異なる効果を与える。
これは直感的だ。
新聞やラジオよりテレビの方がイメージを与えるのには適している。
百聞は一見に如かずではないが、文字や音声だけで説明されるより、映像で見たほうがイメージは持ちやすい。
逆に、何かの数値や手順といった詳細情報などは、映像よりも文字であった方が漏れが無く伝わりやすいだろう。
どちらが優れているかではなく、特性の違いである。
しかし、世の中の一般的な考え方はこうだ。
冷たいメディアより、熱いメディアの方が進んでいる。
だから時代は、冷たいメディアから熱いメディアへと移行していくのだ。
これはある側面では真実だ。
冷たいから熱いへの移行は、技術の進歩と関連している。
新聞 → ラジオ → テレビ → ハイビジョン・テレビ という流れは技術の進歩によってもたらされた変化だ。
だが、ここでも注目すべきIT革命による社会的な変化がある。
それは、Webの広がりによって、冷たいメディアである文字情報がメディアの主役に返り咲いたということだ。
勘の言い方はもうおわかりだろう。
そう、この変化は「マスの崩壊」とも関連している。
最近皆が「ごり押し」と感じることにも。
前回のエントリでも述べたことにつながっているのだ。
前エントリでは、情報の交換技術が進化し、情報が断片化されたことで、違いが先鋭化されたと説明した。
マクルーハンの言葉で言えば、受け手側の参与性が高いメディアが、IT技術によって力を得て、人々に自分だけの物語をつむぐ余地を作り出したということだ。
人々が扱う主要なメディアが変化したこと、そのメディアの性質によって、社会全体に変化が起きているというイメージを、ここで少しでも共有できれば幸いだ。
--------------------------
断定的な語り方をしているが、あくまでも私的見解であることは言うまでもない。
本文の内容に関して影響を受けた参考図書を挙げておく。
タイラー・コーエン『フレーミング 「自分の経済学」で幸福を切り取る』を挙げておく。
ピーター・F・ドラッカー『傍観者の時代』
アルバート・ラズロ・バラバシ『新ネットワーク思考 世界の仕組みを読み解く』
AKBのチーム4解体でがっかりされているのかと
勝手に思っています(笑)。
まぁ、僕も個人的に忙しくて1ヶ月くらい
こちらにお邪魔できませんでした。
いつも無茶な発言に付き合ってもらっているので、
感謝の意も込めて(?)、報告しました。
ネットじゃなければ、経緯をお話したいんですがね…
何があって緩めの運転をするのかは存じませんが、
体調にはお気を付けください。
これからは、頻繁に遊びに来られると思います。
コメントありがとうございます。
おひさしぶりです。
お忙しかったのですね。
「がっかり」もあるのですが、変な宣言をしてしまったことが原因です。
少々傲慢になっていたようです(笑)
AKB48についてしばらく語れないので、他の何かについて勉強しますww
いろいろと教えてください(笑)
以前「超大人数は重要な差別化要因だ」と述べたことがありますが、AKB以外に超大人数グループで大きな伸びしろを秘めている(と思う)グループが日本にあります。
E-Girlsです。(EXILEの妹分。Happiness、Flowerなどいくつかのグループの集合体。メンバーはほとんど中高生)
「one two three」
http://www.youtube.com/watch?v=XgARrL18m_0
「follow me」
http://www.youtube.com/watch?v=FkXdPTA5URk
AKBとは逆に実力派を集めているわけですが、面白いのは収益についてです。まず、CDは全然売れていません。握手会をしても2万枚行きませんでした。
しかし、モデル系美女を揃えているためサマンサ・タバサなどのCM起用があります。
それでも赤字だと思うのですが、赤字でもEXPG(EXILEの会社が運営するダンススクール)も含めて考えると必要な投資なんだと思うのです。つまり、EXPGに入れば、E-Girlsになれるかもしれない!という夢を顧客に提供でき、EXPGの集客力がアップするので全体として黒字となる、という。
このシステムは、Fariesもアクターズスクール系で同じだと思います。あと、乃木坂もダンススクールで2期生を先行募集する広告を出して問題になったことがありますね。
http://blog.livedoor.jp/ngzk46/archives/6005084.html
この「ダンススクールを背景とした資金力で売り出す」というやり方は、「ダンススクールに子供を通わせる親」という市場が十分にないと機能しないわけで、ある意味とっても日本的だな、と思う次第です。
あと、E-Girlsはパフォーマンスグループであり、アイドルではない、との謳い文句ですが、一方、モデル・女優など音楽以外の活動も活発で、日本における「アイドルとは?アーティストとは?」に一石を投じる存在でもある、と思います。
日本のアイドル文化に、また別のベクトルの彩りを添えている存在として注目しています。
コメントありがとうございます。
いつも有益な情報提供ありがとうございます!
助かります。
>ダンススクール
「教育市場」ですね!
非常によい着眼点ですね~。
さすがです。
実は、以前から「アイドルのライバルがアイドルとは限らない」「アイドルの定義を変えればいい」と主張する背景の一つに、教育があるのです。
アイドルグループの社会貢献の形として教育があるのではないか?というのは前から考えておりました。
「ダンス」の方がわかりやすいですが、「アイドル」もありなのではないかと。
実は片手間なのですがある技術を使って教育市場に打って出ようとするアイディアのお手伝いをしておりまして、そのあたりに興味があったりします。
まだ開拓されていない市場があると思うのですよね。
というのも、あまり語りたくないのではありますが、裕福になった先進国の人々が求めるエンターテイメントってなんだろう?と考えると、健康と教育なんじゃないかと思うのですよね。
顧客価値提案の新機軸があっていいですよね~。
>日本のアイドル文化に、また別のベクトルの彩りを添えている存在として注目しています。
tuneさんはアンテナが高くていつも感心します。