進化する魂

フリートーク
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【AKB48】サプライズ手法に対する疑問に回答します(3) ~采配~

2012-03-29 12:31:10 | AKB48_オピニオン
やすす先生! 鬼になれ! そして前へ進み、河を渡るのです!
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/e757f5634174d9975a4874bed4b2e24e

↑こちらの記事にYossie kaさんから当Blogとは異なる立場での非常にいいコメントを頂けたので、これを基に議論を発展させていきたいと思います。
(コメントありがとうございます!)

本エントリは、第2弾。

サプライズ手法に対する疑問に回答します(1) ~直接的な情報発信~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/2b073e5db2ac14c7c2f3d4756030801e

サプライズ手法に対する疑問に回答します(2) ~「マクロ vs. ミクロ」の構図~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/fb8016295797abd4e6befdce2b362718

の続きです。

◆◆◆◆◆◆

3つめ。
AKBエース、象徴の卒業発表。
ネガティブサプライズはすべてここに繋がるのかと勘ぐらせてしまう、
全てが吹き飛ぶ激震です。
このタイミングは、前田敦子に委ねられていたのかもしれませんが
あまりに急です。

何を慌てているのでしょう。
確かに秋元氏は、今年は批判覚悟、痛みを伴う改革と断言しました。
今AKBは緩やかに下降を始めたと意識しており、改革は急務ですが、
それにしてもやり方が性急過ぎて鼻につきます。
劇薬投与にも用法・容量があるはずです。

この大切な場面をスマートに演出できなかったこと。
ぶっちゃけると「色んな意味で偏愛なサプライズだなぁ」という
感想しか生まれませんでした。

個人的に、ですが、この改革はドライに偏り過ぎです。
会社・社会組織を考慮する時、秋元氏の手腕、
スピード感は賞賛されるべき挙動だと思います。
が、型にはめるべきでないこともあります。


SKE48/NMB48からの2名のAKB48を兼務することが、前田敦子の卒業から端を発している、もしくは前田敦子の卒業は今なくても将来的には想定される事態ですので、この布石としての戦略だとすれば、これは運営が意図した「サプライズ」とは違います。

サプライズ手法に対する疑問に回答します(1) ~直接的な情報発信~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/2b073e5db2ac14c7c2f3d4756030801e

で述べたように、今回のことは情報共有であって、サプライズではないと私は思います。

驚かせようと、面白くしようと思って発表したのではなく、練り上げた今後の戦略を皆さんに共有しようと思って報告した。
これが正しい認識だと思います。

前田敦子の卒業だけでなしに、上位メンバーの卒業なり、中長期的なAKB48全体のことを考えると、多少なりともスピード感を持って備える必要があると運営は認識しているのだと思います。
このままでも短期的にはうまくいくかもしれませんが、秋元氏はあえてここで決断したと。

「スマートに演出できなかった」のは、その余裕が運営にはなかったと考えるのが適切な認識ではないかと思います。
誕生日プレゼントのように、サプライズを企画して盛り上げるだけの余裕がなかったのです。

手遅れになる前に布石を打っておかなければならないということの優先順位が圧倒的に高かった。
だからあらゆることの調整が未にも関わらず、方針をまず出した。
準備が出来てからでは遅いのと、準備をしている途中で利害関係の調整が難しくなって動けなくなるのを回避するために。

◆◆◆◆◆◆

と、ここまで書いてググタスでやすす先生の投稿が。




やはり、前田敦子の卒業は最後まで本人に委ねられていたようですね。

すると、運営(やすす先生)は、いつ来るかわからない前田敦子の卒業に備えて、将来の不確実性に備える必要があって急いだ。

急いだことが良いことなのか、悪いことなのか。

私は、やすす先生の判断を評価します。
なぜなら、私がやすす先生の立場だったら、やすす先生のような決断ができたかというと、できなかった可能性が高いです。

まず、最終判断を前田敦子、本人に任せた。
これができない。

辞めるかどうかわかっていないし、卒業して欲しくないから根回しのしようもない。
やすす先生の胆力は、さすがとしか言いようがない。

それでいて、そのための布石を打っていおいた。

中日ドラゴンズの監督、落合博満さんの『采配』の言葉が、思い出されます。

自分の采配を「正しかったか」
それとも「間違っていたか」
という物差しで考えたことがない。

ただあるのは、
あの場面で最善と思える決断をした
ということだけである。


どんな局面でも、采配というものは結果論で語られることが多い。
采配の是非は、それがもたらした結果とともに、
歴史が評価してくれるのではないか。
ならばその場面に立ち会った者は、
この瞬間に最善と思える決断をするしかない。


決して完璧な決断ではありません。
しかし、その瞬間において最善と思われる決断を積み重ねている。

言い訳に聞こえるかもしれませんが、私はそう思います。


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