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進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

祭りのあと

2012-08-27 21:31:49 | スピリチュアル
私の通っていた小学校には、その地域の祭りの日に休校になる伝統があった。

規則があったわけではないが、暗黙の了解として休校になるその日に、子供たちは祭りに参加することが求められていた。

もちろん、当時はみな何も考えずに参加していた。

地域の祭りのため、みな親と一緒に参加していたのだから、参加しないという選択肢などなかった。

だが、私は考えてしまうダメな子供だった。

なぜ参加したくないのに、参加しなければならないのか。

親と現地集合の約束をすると、私は家を出て集合場所に行くふりをして、逃げた。

自分が楽しくないのに、みんなのための祭りに付き合うのがバカバカしかったからだ。



当然、後でこっぴどく怒られた。

親とすれば、現地で私が来ることを待っていたのだ。

後で聞いた話では、みんなに心配される中、父親は「大丈夫、必ずくるはずだからと。」と私を信じてずっと待っていたらしい。

親に恥をかかせた以上に、身近な人の信頼を裏切ったことにはさすがに胸が痛んだが、当時の私には、そんなことで感傷に浸るほどの思慮深さもなければ、まずもって人生に期待などしていなかった。

人生を悲観していたら、誰かのことを気にかける必要性があるわけがないのだ。



なんでこんなくだらない昔話をしているかというと、急に「祭り」について語りたくなったから。

「祭り」の起源は、五穀豊穣を祈る神事だったとされる。

そこから幾多の変遷を経て今に至るわけだが、基本的には「信じること」が初めにあるのだと思う。

五穀豊穣を祈るにしても、その行為が、祈りが五穀豊穣につながると信じるから、祭るのだと思う。

地域から切り離された現代人は、ワールドカップやオリンピックという祭りに熱狂するわけだが、それも世界一や金メダルに価値があるとみな信じているからだ。



祭りをするのに、どれだけ多くの人が信じるか、が極めて重要だ。

地域のみなが農業を生業としていたら、五穀豊穣を祈る祭事に意味があると、みなが信じるのは容易い。

しかし、今の日本のように、国民の生活水準が高く、ほとんどの人々が衣食住にさほどこまらない状況に置かれていたら、資本主義が進める分業の力がより一層働いて、みなが違うことに精を出すことになるから、みなで同じことを信じるのは極めて難しくなる。

みなで何かを共有するとしたら、ワールドカップやオリンピックのように国家や国民というアイデンティティを基礎としたものや、東日本大震災や福島原発事故のような国家的危機くらいしか、ないのが現実だ。



マスの力を利用したい人々(それは結局、人々が心の底では祭りを求めているから、それを提供したいと思う人々が現れる)は、みなで祭れるものを日々探している。

それで、どこかで何かの祭りを見つける度に、その祭りについて「こんな祭りがありますよ!みんなで楽しみましょう!」というようなことをやってしまう。

「誰かの祭り」を「みんなの祭り」にしようとしてしまう。

だけれども、それは「みんなの祭り」ではない。

「これは楽しいものです!みんな参加しましょう!」などと言ってみても、聴いている人の心に響くわけがない。

「みんなのための祭りに付き合うなんてバカバカしい。」と思った子供の頃の私のように。



では、祭りを盛り上げようとする人は、どうするべきなのか。


繰り返しになるが、祭りというのは、信じることが最初にあるのだ。

であるならば、その「祭り」の未来に信じるべきものがある、ということを主張すべきであろう。

祭りを盛り上げようと、楽しくしようと努力するだけでは不十分だ。

それでは、所詮は自己満足に過ぎないと見透かされるだけで、祭りの後に何も残らず終わってしまう。



みんなにとって、その未来に信じるべきものがある。

ということを丁寧に説明すべきなのだ。

どれだけ多くの人に、その未来に信じる価値がある、と思うだけのものを発信できるかどうかに、そのものの行く末は大きく左右されることであろう。

その先の未来を見たくなるからだ。

スペインのキリスト画に見るイノベーション

2012-08-27 13:32:39 | AKB48_イノベーション
あくまで一般論です。特定の何かに対する意見ではありません。





素人が修復しちゃったスペインのキリスト画、海外のお前らにも大人気でコラが作られまくってる件
http://news020.blog13.fc2.com/blog-entry-2629.html



こういうことだ。

観光名所になり、このままにしてくれと嘆願書まで出てくる結果になった。

本人も含め、誰が、こうなることを予想できたか?

誰もいなかった。



事件の発覚前と発覚後で、問題のフレスコ画に関する価値観が変わっているのだ。

以前にはそこになかった価値が、今はあるのである。

価値がどこからか沸いて出てきたように見えるが、モノは変わらずそこにあった。

見る側の視点が変わったのだ。

価値というのは、どこかに浮遊しているようなものではなく、見出されるものなのである。



この件の凄さは、誰も狙っていなかったが事態は起きた、ということだ。

こういうことは狙ってできるものではない。

背景には、インターネットによって情報が拡散しやすくなったことと、IT技術の発展で様々な形の編集やデフォルメがし易くなったことがある。

これまでローカルでは許されなかったことが、グローバルに展開されることとなりネットワーク効果が働きやすくなった。

結果、ムーブメントが発生しやすくなり、禍を転じて福と為す的なことが起きやすくなった。

(一方で、炎上リスクも高まった。)



重要なことは、狙ってできるものではない、ということだ。

なぜなら、これまでになかった価値だから、それまでには誰も気づけない。

だとすれば、我々が得るべき教訓はなんだろうか?

意図しない「新しい価値観の創造」が起きやすい環境を作ることくらいだ。



フレスコ画の件でいえば、80過ぎのおばあさんが自らの手で修復できる環境がなければならなかった。

しっかりと導線が張られ、フレスコ画に近づけない環境であったら、今回の事件は起きただろうか。

フレスコ画を劣化したまま放置せず、すぐに修復していたら今回の事件は起きただろうか。

もちろん、自由放任が素晴らしいなどというつもりは全くない。

そうではなく、何が本質的に守るべきものなのか、何は変えてもよいのか、ということを常日頃から考えることが重要だ。

その場合には、議論が偏らないように、ダイアログ(前提を保留した対話)が一つの方法となるだろう。



ただし、それでも結果は意図できない。

状況を不確実性の下に置くということが、新しい価値を創造する第一歩だから、本質的に意図できるものではない。

だから、その不安定な状態に耐えられる信念を持つ者だけが、イノベーションを起こすことができる。

不安に耐えきれず、状況を管理可能なものにしようとしたとき、見えない可能性が消えるのだ。

(その可能性が消えたことに我々は気づけない。見えないのだから。)

信じることが最初の小さくても大きな一歩なのである。



田野しいやつらが引き起こす創造的摩擦 ~イノベーションのジレンマを超えるバリュープロポジション~

IT革命と視覚と社会と