私の通っていた小学校には、その地域の祭りの日に休校になる伝統があった。
規則があったわけではないが、暗黙の了解として休校になるその日に、子供たちは祭りに参加することが求められていた。
もちろん、当時はみな何も考えずに参加していた。
地域の祭りのため、みな親と一緒に参加していたのだから、参加しないという選択肢などなかった。
だが、私は考えてしまうダメな子供だった。
なぜ参加したくないのに、参加しなければならないのか。
親と現地集合の約束をすると、私は家を出て集合場所に行くふりをして、逃げた。
自分が楽しくないのに、みんなのための祭りに付き合うのがバカバカしかったからだ。
当然、後でこっぴどく怒られた。
親とすれば、現地で私が来ることを待っていたのだ。
後で聞いた話では、みんなに心配される中、父親は「大丈夫、必ずくるはずだからと。」と私を信じてずっと待っていたらしい。
親に恥をかかせた以上に、身近な人の信頼を裏切ったことにはさすがに胸が痛んだが、当時の私には、そんなことで感傷に浸るほどの思慮深さもなければ、まずもって人生に期待などしていなかった。
人生を悲観していたら、誰かのことを気にかける必要性があるわけがないのだ。
なんでこんなくだらない昔話をしているかというと、急に「祭り」について語りたくなったから。
「祭り」の起源は、五穀豊穣を祈る神事だったとされる。
そこから幾多の変遷を経て今に至るわけだが、基本的には「信じること」が初めにあるのだと思う。
五穀豊穣を祈るにしても、その行為が、祈りが五穀豊穣につながると信じるから、祭るのだと思う。
地域から切り離された現代人は、ワールドカップやオリンピックという祭りに熱狂するわけだが、それも世界一や金メダルに価値があるとみな信じているからだ。
祭りをするのに、どれだけ多くの人が信じるか、が極めて重要だ。
地域のみなが農業を生業としていたら、五穀豊穣を祈る祭事に意味があると、みなが信じるのは容易い。
しかし、今の日本のように、国民の生活水準が高く、ほとんどの人々が衣食住にさほどこまらない状況に置かれていたら、資本主義が進める分業の力がより一層働いて、みなが違うことに精を出すことになるから、みなで同じことを信じるのは極めて難しくなる。
みなで何かを共有するとしたら、ワールドカップやオリンピックのように国家や国民というアイデンティティを基礎としたものや、東日本大震災や福島原発事故のような国家的危機くらいしか、ないのが現実だ。
マスの力を利用したい人々(それは結局、人々が心の底では祭りを求めているから、それを提供したいと思う人々が現れる)は、みなで祭れるものを日々探している。
それで、どこかで何かの祭りを見つける度に、その祭りについて「こんな祭りがありますよ!みんなで楽しみましょう!」というようなことをやってしまう。
「誰かの祭り」を「みんなの祭り」にしようとしてしまう。
だけれども、それは「みんなの祭り」ではない。
「これは楽しいものです!みんな参加しましょう!」などと言ってみても、聴いている人の心に響くわけがない。
「みんなのための祭りに付き合うなんてバカバカしい。」と思った子供の頃の私のように。
では、祭りを盛り上げようとする人は、どうするべきなのか。
繰り返しになるが、祭りというのは、信じることが最初にあるのだ。
であるならば、その「祭り」の未来に信じるべきものがある、ということを主張すべきであろう。
祭りを盛り上げようと、楽しくしようと努力するだけでは不十分だ。
それでは、所詮は自己満足に過ぎないと見透かされるだけで、祭りの後に何も残らず終わってしまう。
みんなにとって、その未来に信じるべきものがある。
ということを丁寧に説明すべきなのだ。
どれだけ多くの人に、その未来に信じる価値がある、と思うだけのものを発信できるかどうかに、そのものの行く末は大きく左右されることであろう。
その先の未来を見たくなるからだ。
規則があったわけではないが、暗黙の了解として休校になるその日に、子供たちは祭りに参加することが求められていた。
もちろん、当時はみな何も考えずに参加していた。
地域の祭りのため、みな親と一緒に参加していたのだから、参加しないという選択肢などなかった。
だが、私は考えてしまうダメな子供だった。
なぜ参加したくないのに、参加しなければならないのか。
親と現地集合の約束をすると、私は家を出て集合場所に行くふりをして、逃げた。
自分が楽しくないのに、みんなのための祭りに付き合うのがバカバカしかったからだ。
当然、後でこっぴどく怒られた。
親とすれば、現地で私が来ることを待っていたのだ。
後で聞いた話では、みんなに心配される中、父親は「大丈夫、必ずくるはずだからと。」と私を信じてずっと待っていたらしい。
親に恥をかかせた以上に、身近な人の信頼を裏切ったことにはさすがに胸が痛んだが、当時の私には、そんなことで感傷に浸るほどの思慮深さもなければ、まずもって人生に期待などしていなかった。
人生を悲観していたら、誰かのことを気にかける必要性があるわけがないのだ。
なんでこんなくだらない昔話をしているかというと、急に「祭り」について語りたくなったから。
「祭り」の起源は、五穀豊穣を祈る神事だったとされる。
そこから幾多の変遷を経て今に至るわけだが、基本的には「信じること」が初めにあるのだと思う。
五穀豊穣を祈るにしても、その行為が、祈りが五穀豊穣につながると信じるから、祭るのだと思う。
地域から切り離された現代人は、ワールドカップやオリンピックという祭りに熱狂するわけだが、それも世界一や金メダルに価値があるとみな信じているからだ。
祭りをするのに、どれだけ多くの人が信じるか、が極めて重要だ。
地域のみなが農業を生業としていたら、五穀豊穣を祈る祭事に意味があると、みなが信じるのは容易い。
しかし、今の日本のように、国民の生活水準が高く、ほとんどの人々が衣食住にさほどこまらない状況に置かれていたら、資本主義が進める分業の力がより一層働いて、みなが違うことに精を出すことになるから、みなで同じことを信じるのは極めて難しくなる。
みなで何かを共有するとしたら、ワールドカップやオリンピックのように国家や国民というアイデンティティを基礎としたものや、東日本大震災や福島原発事故のような国家的危機くらいしか、ないのが現実だ。
マスの力を利用したい人々(それは結局、人々が心の底では祭りを求めているから、それを提供したいと思う人々が現れる)は、みなで祭れるものを日々探している。
それで、どこかで何かの祭りを見つける度に、その祭りについて「こんな祭りがありますよ!みんなで楽しみましょう!」というようなことをやってしまう。
「誰かの祭り」を「みんなの祭り」にしようとしてしまう。
だけれども、それは「みんなの祭り」ではない。
「これは楽しいものです!みんな参加しましょう!」などと言ってみても、聴いている人の心に響くわけがない。
「みんなのための祭りに付き合うなんてバカバカしい。」と思った子供の頃の私のように。
では、祭りを盛り上げようとする人は、どうするべきなのか。
繰り返しになるが、祭りというのは、信じることが最初にあるのだ。
であるならば、その「祭り」の未来に信じるべきものがある、ということを主張すべきであろう。
祭りを盛り上げようと、楽しくしようと努力するだけでは不十分だ。
それでは、所詮は自己満足に過ぎないと見透かされるだけで、祭りの後に何も残らず終わってしまう。
みんなにとって、その未来に信じるべきものがある。
ということを丁寧に説明すべきなのだ。
どれだけ多くの人に、その未来に信じる価値がある、と思うだけのものを発信できるかどうかに、そのものの行く末は大きく左右されることであろう。
その先の未来を見たくなるからだ。