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越後の「日本」を巡る旅② -日本平山と持倉鉱山跡-

2023年05月27日 22時46分15秒 | 山行速報(登山・ハイキング)

自然と歴史とエトセトラ
越後の「日本」を巡る旅②
日本平山

2023/5/11 日本平山

道の駅みかわで夜を明かす
早朝、この地域特有の朝霧が濃い

日本平山への登路はいくつかあるが、一番登られている大須郷(中山道ルート)から歩き始める
幸い、あの環形動物は見当たらない

ゆったりとした傾斜の道を行く
朝露のついた草木で濡れるかと雨具を着て登り始めたがそれほど濡れることはなかった

五十母清水で水分補給
とにかく距離を稼ぐ

人分山へは登山道から30m奥に入る
景色がいいので休憩にはもってこいの場所
山里は霧の海に沈んでいる

その先からは時に残雪が現れる
踏み跡はしっかりしているが残雪に覆われると道を失いやすい
目印はほどほどにあるのだが、本格的なハイキングシーズン前もあって脱落も多い
注意が必要だ

大池は雪に囲まれていた
新緑と残雪、そして水面と空
トンビが空に輪を描いていた

そこからは残雪多くチェーンスパイクを装着。
登山道も雪の下でGPS(スマホアプリ)がないと道迷いしそうだ

残雪に埋め尽くされた季節なら、藪を気にせず上へ上へと向かえば何とかなるが、
所々に藪が出ているから、やはり踏み跡を追うのがベストだ
とはいえ、時に道をロストする

新緑に萌え、事あるたびに見上げてしまう
森の息吹
木々も生き物たちも春を謳歌している

日本平山の山頂はぽっかりと丸い平坦地
雪は解け、山頂標識や三角点、蛙の石祠も顔を出している
どうして山頂の石祠に蛙なのだろうかと、いろいろ調べてみたが明確な解は見つけられなかった
※ご存じの方がいたらご教授ください

「日本平山」という山名は、志賀重昂の『日本風景論』では二本平山と記されており、
二本(ウマの背に2個の荷物を振り分けて乗せる)つけたウマでも通れる平らな山だと伝えられたことから、そう呼ばれていたらしい
それがいつしか「にほんたいらやま」⇒「日本平山」となったのだろう

下山は往路を戻る
とはいえ、雪を積極利用できる場所は尾根の雪堤を拾っていく

春の日
緩んだ雪にチェーンスパイクも通用したが、雪が堅ければアイゼンが必要だろう
特に沢筋をトラバースする場所は傾斜が急で滑落の危険もあるので要注意

下山後、五十母川沿いの林道へと車を走らせる
途中の小広い路側帯に車を置いて、崩落した林道を歩く

向かったのは遺構、持倉鉱山跡

持倉鉱山は、江戸期に会津藩主が奉行を派遣し採鉱したのが始まり
その後、明治三十五年に新発田の寺田助松氏が蛍石を採掘中に銅鉱床を発見
明治三十九年、五泉の実業家・小出淳太氏が寺田氏が得た採掘許可を買い取り、
明治四十一年にはこの事務所と製錬所が山中に建設され、本格的な銅山経営がスタート 

その後、大正八年十月に三井鉱山が買収するも、鉱床に恵まれず大正九年には閉山
戦後は五十島鉱業㈱が昭和三十年代まで蛍石を採掘していた

明治四十一年建設というと1908年だから実に115年の年月がこの建造物には流れている
この豪雪地帯にあって永きにわたり崩落をしつつもこの姿を残しているのは、重厚なカラミ煉瓦によるものなのだろう

独特な紋様をもつそれに時の深さを見る
惹きつけられるのは、歴史と文化
そして、人が暮らしてきた証

 

越後平野の田園を走る

緑の沃野
この風景も受け継がれてきた文化財産

想像で、時を旅する
畦に咲く蒲公英が、やけに黄色く見えた


sak

 

自然と歴史とエトセトラ
越後の「日本」を巡る旅①「下越・日本国」へ


越後の「日本」を巡る旅③「下田山塊・日本平」へ

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