acc-j茨城 山岳会日記

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西会津・木地夜鷹山

2001年10月25日 12時34分50秒 | 山行速報(薮・岩)

2001/10下旬 西会津・木地夜鷹山

秋、探訪

里でも小さい秋がそこここに顔を出し始めた。 
そんな季節に山人達が考える事といえば、やはり山の色づき具合であろう。

山の紅葉はいつしか始まりいつしか消え落ちる。 
それは日を追う毎に刻刻と移り変わって行く。 
秋の山に出かけ枯葉を踏んで帰るなんて事も珍しくはない。 
だからこそ、山人達がそのタイミングに敏感になっているのもうなずける。

しかし、山の色づきが良いとか悪いとか現代に生きる我々がいかに自分勝手であるか 反省する所でもある。

私は秋を味わいに西会津に訪れた。 
山々は秋色に輝いていた。

沢と薮

山の色づきにはおおまかに紅葉と黄葉がある。 
その樹その樹によって色づき方は異なる。 
紅葉の代表的なものといえばモミジや ナナカマドであり、黄葉の代表といえばブナであろう。

現代日本においてはどちらかというと紅葉が珍重されているようであるが その昔、中国文化の影響を強く受けた時代には黄葉が”最も美しい物のひとつ” と称されていたと聞く。

そんな黄と紅と緑のコントラストが絵画のような美しさを描き出す沢を遡行 していく。 
地図を頼りに長谷川の支沢を詰め、支沢はやがて薮へと様相を変えていく。 

 


会津日和

山頂はだいぶ冬枯れの進んだ寂葉の枝が風を切り、ひゅうひゅうと 口笛を吹いているようであった。

心地よい日和が私を包む。 
温かい紅茶で一息。そして甘栗を口にほうり込む。

まさに会津日和。山人であれば誰もが感じる贅沢なひとときである。


山と逸話

その昔、鉄砲伝来以前に鷹を使った狩り、鷹狩りという手法があった。 
また、鷹は山の守り神として崇拝されたり、畏敬の対象として敬われた事であろう。 
木地夜鷹山にはどのような鷹に関するエピソ-ドがあるのだろうか と想いを巡らす。

標高は859mと決して高くはない。とはいえ、明瞭な道はなく会津の原生が 芯から楽しめるという意味では”低山”という範疇を逸脱する魅力がある。

山頂からは隣の夜鷹山へと続く切れ落ちた稜線が良く見える。 
キツネモドシというその難所は、この辺りを根城にするキツネが恐怖に泣き泣き 戻ったという逸話があるらしい。

鷹といいキツネといい、興味の尽きない山岳劇場となった。


迷い人の回想


山には色々な山がある。 
言わずもがな、岩や薮や沢や湿原などである。 
それにまつわる楽しみとなると、山はさらに広がる。 
このたびの山行は、予定通り行かないという楽しさが魅力のひとつであった。

木地夜鷹山の麓にはあまり人に知られる事の無い沼がひっそりと佇む。 
予定では沼から山頂へと向かうはずであった。 しかし、それがどうにも見つからず、山頂へと至った。 
山頂からは地形が手に取るように良くわかる。 
さあ、秘められた沼探しに出かけよう。

私は目的地に向かって猛烈な薮を手がかりに急降下を始めた。 

静寂の水面

私にはすぐわかった。この雰囲気は間違いが無い。

干上がった沼地、背丈を越える葦、傍らに一筋の流れ。 
ようやく行きついた。

興奮を押さえながらその流れに導かれて行くと突然視界が広がり静寂の水面が 余所者の私を拒む事なく迎えいれてくれた。

それが百戸沼である。

秋の色づきと青い空、それらをそれ以上に美しく写し出す沼面。 
しばしため息。言葉で賞賛するのは野暮というものだ。

 

原生逍遥

自然は美しい。 
無為に胸打つ何かを秘めている。 
ことさら秋ともなればなおさらである。

自然は賢明である。 
全てに理由があり、ひとつの無駄も無い。 
森羅万象、輪廻転生。全てそこから始まり、そこで終わる。

果たして私は、美しくあるだろうか?賢明であるだろうか? 
愚問である。苦笑いせずには居られない。 
自身が一番その答えを知っているのだから。

原生逍遥の素晴らしさは己が動物になれる事、自然になれる事。 
そしてなにより素直になれる事のように感じてならない。

sak