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Ruby の会

シニアライフ~能楽・ボランティア・旅行・食べ歩き・演劇などを綴っています

本 「四十一番の少年」

2019-12-22 | 

   先日紹介した厚生連高岡病院の7階ホールの読書コーナーにあった本である。 井上ひさしと言えば、テレビの「ひょっこりひょうたん島」、映画やお芝居の「父の暮らせば」などが思い出されるが、私は演劇鑑賞会に長く属しているのでそれは多くの「こまつ座」のお芝居を見ている。「しみじみ日本乃木大将」、「頭痛肩こり樋口一葉」、「泣き虫なまいき石川啄木」、「吾輩は漱石である」、「国語元年」などなど…。

 こんな小説は知らないな~と思いながら、短編だったのと少年が主人公だったのに興味を惹かれ手に取った。

 児童養護施設(実際にはカナダ人の修道士が運営する「ナザレトホーム」)に入所した中学生の利雄は、同じ部屋の先輩昌吉の鋭い目にたじろいだ初日から、彼の言うままになってしまった。ホームで暮らす少年たちの切ない夢と残酷な現実…。おそらく今もそうであろうが、切ない夢はとんでもない事件へと進み、なんと幼い少年の命を奪ってしまうのだ。親の貧しさから施設に預けられる子供たち、表面には現れない子供たちの社会。切ない物語だった。

 最後に作者の体験に基づくと書いてあり、井上ひさしの少年時代を調べてみた。早くに父親を亡くし、母親が病気(肺結核)になった時期に男の子たち3人が施設や親せきに預けられたらしい。彼自身は上智大仏文科を卒業し、小説家、劇作家となった。
 2月の演劇鑑賞会例会の舞台も、彼の脚本による「犬の仇討」である。どんなお芝居だろう?


本 「百歳人生を生きるヒント」

2019-09-22 | 

 黒井千次さんの「老いのゆくえ」を読み終わり納得したことが多くあったので、さてブログに紹介しようと思った途端に、今度は五木寛之さんの「百歳人生を生きるヒント」を茶々姫さんから借りた。で、こちらを先に簡単に紹介します。

 帯封には、「さあ 準備をはじめよう。未曾有の長寿時代をどう生きるか?」と書かれている。五木氏自身は1932年生まれ、私より7歳年長でいらっしゃる。私は7月に80歳の大台に達した。親友のasaちゃんに「あなたより一足お先に80歳」とメールをしたら、すかさず「4度目の成人式おめでとう。素晴らしい」と返信が届き元気が出たことを以前ブログに書いた。五木さんの本は、5度目の成人式を見据えてのヒントである。

 確かに、昔は「人生50年」だったものだ。それが今や「百歳人生」だとは! 長すぎる人生をどう味わうか?

 👇も、帯封からです。

 50代は「事はじめ」……長い下り坂を歩く覚悟を
 60代は「再起動」………孤独の中で見えてくるもの
 70代は「黄金期」………学びの楽しさに目覚める
 80代は「自分ファースト」…嫌われる勇気
 90代は「妄想のとき」…郷愁世界に遊ぶ

 自分自身、60代からの人生を振り返るとまさにその通りと言えます。
 80代は自分ファースト、 ”群れの中に身を置きつつ、周囲や群れの掟に迎合しないで、自分に忠実に生きる。そうすることによって、70代では気がつかなかった発見を味わうことができると思うのです” と書いておられます。今までもそんな生き方をしてきた私ですが、やはり嫌われたくないとの思いはあります。自分が一番、自分が大切、他人の目は気にしない、他人とは比べない、生き方がどれだけできるかな?

 そして、もし生きていればの話だが「妄想のとき」とは? 想像力よりも妄想力だそうです。記憶は無尽蔵の資産だそうです。ま、それについてはまたいずれ。

 「百歳人生を生きるヒント」~日経プレミアムシリーズ  五木寛之 著  日本経済新聞出版社


本「すぐ死ぬんだから」

2019-08-03 | 

  かなり前の新聞広告に紹介された本に興味があり、すぐに図書館に予約した。すっかり忘れた頃に図書館から案内があったのが、この「すぐ死ぬんだから」である。内館さんの体験談かエッセーか、それともルポのような本かと思い込んでいた。読み始めて「アレ、年齢が違うぞ」と著者の経歴を見直したくらいだ。一人称書きだが、忍(おし)ハナさんを主人公にした小説だった。

 78歳の忍ハナは夫岩造と東京の麻布で営んでいた酒店を息子雪男に譲り、近所で隠居生活をしています。 年を取ることは退化であり、人間60代以上になったら実年齢に見られない努力をするべきだ、という信条を持つハナは美しさと若さを保っており、岩造は「ハナと結婚してよかった」が口癖の穏やかな男です。 雪男の妻由美には不満があるが、娘の苺や孫の雅彦やいづみにも囲まれて幸せな余生を過ごしているハナでしたが、ある日岩造が倒れたところから、思わぬ人生の変転が待ち受けていました。

 夫の岩造が急死した後、ようやく悲しみから立ち直り遺品の折り紙を集め遺作展を開こうと計画を立て始めた矢先のどんでん返し。これには驚いた。驚いただけでなく、夫への気持ちがこんなに変わるものか、にも驚いた。「死後離婚」などと言う言葉があることも驚きだった。結局、家族の愛情や知恵により彼女は新しい生き方を見つけていくのだが…。
 誰にとっても人生は多かれ少なかれ波乱万丈、順風満帆って言うことなどはなく、先はわからないのが当たり前。先が見えないのがいいのかも。以上、読後感はかなり曖昧なもので目下モヤモヤ中です。
 「人は加齢にどこまで抗えるのか。どうすれば品格のある老後を迎えられるのか。」などと宣伝文句にはあったが、そんなこと、どうでもいいです、と言うのが今の気持ちです。 


本 「認知症になった私が伝えたいこと」

2019-07-12 | 

  先日も書いたが、娘が認知症に係わる本を次々に図書館から借りてくる。前回紹介したのは、50代の娘が80代の実母と一緒に暮らす10数年の体験談だった。

 今回紹介するのは、50代でアルツハイマー型認知症と診断されて退職、その後も一人暮らしを続けながら、認知症本人の体験を伝えるためにさまざまな活動を行っている男性、佐藤さんの貴重な体験談である
  
 まず「おわりに」から、佐藤さんの大切な言葉を書いてみます。
「人間の価値は、『これができる』『あれができる』ということで決まるのではありません。もし有用性で価値が決まるのなら、人生は絶望的です。なぜなら、人は年をとると、できることが少なくなるからです。人は、何ができなくても、それ自体尊いものです。役に立たなくても、自分尊い存在だと信じましょう。
 失った機能を嘆くのではなく、残された能力に感謝して、それを最大限に生かすこと。
 自分の無限の可能性を信じて、失敗をおそれず、これからも生きていきます。…」

  もう少し詳しい説明を次回追加します。

  佐藤さんは退職後も、一人暮らしを続けたいという強い希望から日常生活でできないことを克服するためいろいろな工夫をします。

 食事の時間帯がわからない。
 今日が何日かわからない。
 昨日もらった書類をおぼえていない。
 出かけると部屋の鍵をどこにおいたかわからない。
 よく行く店に行くのに迷う。  などなど、数多くあるできなくなった事に対する対策を書いておられます。

  パソコンで日記をつける。
  グーグルカレンダーに予定を書き込む。
  携帯電話のアラームをセットして予定を忘れないようにする。
  物を失くさないよう必ず定位置に置く。

 生活上の不便を工夫した対策で乗り越えながら、できないことを悩まず、無理をせず楽しいことをやって過ごす。高齢になり、認知症になるかわからない私たちにも当てはまることばかり。

 最後に、本人へ、家族へ、医師へ、看護・介護者へ、地域の人へ、行政へ、すべての人へ佐藤さんからのメッセージが大変参考になります。


本 「認知症がやって来た! ママリンとおひとりさまの私の12年」

2019-07-06 | 

  中島京子さんの「長いお別れ」を読んでから、娘が次々と認知症に関する本を図書館から借りてくる。私が興味を持って読むからもあるが、本人も惹かれるものがあるのだろう。その中から何冊か紹介します。

 まず、酒井章子著「認知症がやってきた!ママリンとおひとりさまの私の12年」 SHC(産業編集センター)出版。

 著者の酒井さんは現在60歳、母親のアサヨさん 👇 は92歳である。

  母アサヨさんは門司市生まれ、結婚後奈良県在住、夫の死後一人暮らしをしていたが近所から苦情が出るようになり、大阪に住む娘の章子さんが引き取った。👇は、インタビュー記事からです。

 「2年ほどは、通いで面倒をみていました。私も認知症のことなんて全く分かりませんから、『楽しく過ごしていれば病気が進みにくい』という主治医の言葉に飛びついて、『とにかく楽しませたれ』と、実家に行くたびに母をあちこちに連れ出していました。
 そんな時、ある女性が手書きの絵ハガキを母親に送っていたら、認知症がよくなった――という新聞記事の切り抜きを友人が送ってくれたんです。私にとっては、驚天動地の大事件! 自分もせっせとハガキを書いて、奈良に送るようになりました。
くすっと笑える内容にするのがポイントらしいので、母と外出する際にいろんな写真をとっておいて、雑誌風の見出しや本文を添えたオリジナルポストカードをまとめて作っておくんです。これが、やってみたら結構楽しくて、90枚くらい作りましたかね。」

 その後、大阪市のマンションで一緒に暮らし始めますが、ものすごい罵声を浴びせられる毎日だったそうです。『アンタはドロボーや、私の金が目当てや!』『誰に育てられたんか、素性を疑うわ!』。そしてベランダに出ては大声で、『ドロボーに閉じ込められているんです、おまわりさん、助けて~!』って叫ぶのだそうです。

 そして徘徊が始まる…。
 「私から逃げようとして外に出るんですが、そっと尾行してみると、健脚の母は放っておけば10キロ以上も歩く。夕方に家を出て、気づけば朝日が出ていたなんてことも何回もありました。徘徊が始まった当時、すでに80代だった母ですが、足腰は丈夫で体は健康そのもの。徘徊中はアドレナリンが出ているのか、疲れ知らずでタッタカと歩いて行きます。昼夜を問わず外へ出るようになり、1時間2時間は当たり前、3時間4時間でようやくちょっと休憩という感じで、一晩中歩いて、朝を迎えるということも月に何度かありました。

 ブログを始めて日々の出来事を記録するようになったのですが、4年間で1844キロメートル、1730時間も歩いていました。その前後の3年間を加えたら、7年間で3000キロメートル以上歩いた計算になります。
 
私が気づかないうちに外に出てしまう場合もあり、警察には何度となく保護してもらいましたが、『しっかり見ておきなさい』なんて叱られることもなく、『最後は警察が見つけてくれるから大丈夫』と思うことで、肩の荷がどれだけ軽くなったことか。ただただ、感謝です。

  助けてくれたのは、警察だけじゃありません。母は、デート中のカップルでも、携帯で通話中の人でも、構わず呼び止めて道を聞くので、こっちはヒヤヒヤしどおしでした。ところが、どの人も声をかけられると、足を止めて助けようとしてくれるんです。知らないおばあちゃんがひつこく道を聞いたりしたら、迷惑そうにされるか無視されると思ってたんですけど、そんなことする人は一人もいなかった。大阪の街が、こんなに優しい人ばかりだなんて、最初はちょっと信じられないくらいでした。それに、母に「ありがとうございます」って言われると、どの人もうれしそうにしてるんですよ。実は、みんな親切をしたがってるんやと思いました。

 他人に迷惑をかけまいとする意識が強すぎると、介護を家族だけで抱え込んでしまう心配もあります。家族だけでなんとかするなんて、ムリムリ。認知症になったら迷惑をかけないことなど不可能なんです。だったら、『お任せします』とゆだねてくれた方が、世話をする側も楽。実は、『迷惑かけたくない』と頑張るのが一番迷惑なんですよ。母自身も、3年ほど前から自分で何とかしようとするのをやめて、私に任せてくれるようになったんです。すると、介護がものすごく楽になって、母自身も穏やかに過ごせるようになりました。」 

  「途中、老人ホームでプロに面倒を見てもらった方が、本人のためにもいいんじゃないかと思うこともありました。でも、徘徊と暴言があまりに激しく、デイサービスをクビになったことがあるほどですから、受け入れてくれる施設があるとは思えませんでした。『母親が子供にかかり切りになるのは、だいたい10年くらい。育ててもらったお返しに、私も10年間は頑張って介護をしよう』と、心の中で期限を決めたおかげで、なんとか乗り切ることができました。れからは、できないことが一つ、また一つと増えていきました。今は着替えにもトイレにも介助が必要ですが、素直に受け入れてくれるので本当に楽です。病気としての認知症は前よりも進んでいるのでしょうが、はた目には、ただのカワイイおばあちゃん。認知症かどうかということは、老いが進む中では大した問題ではなくなっていくようです。大好物の薄皮つぶあんぱんをかじって、『おいしいわあ~』とニコニコしている姿は無邪気としか言いようがありません。『童女』という言葉がぴったりです。」

「アルツハイマー型認知症は、人によって表れる症状が違うといわれるのですが、うちの母は全部、出ました。いろんな人の症状を一身に集めたような感じで、まさに「フルコース」だったんです。だから、この経験をまとめたら、認知症のことは一通り分かるような本ができると思いました。これから認知症に接する人たちの役に立つんじゃないかと考えたんです」


 ドキュメンタリー映画「徘徊 ママリン87歳の夏」は、4年前の作品。認知症の母を支える娘による12年にわたる抱腹絶倒の介護奮闘記! 
ママリンを支える娘・アッコによる12年にわたる介護の全記録! 真面目になんかやってられへん!  笑ってしまえ!  大阪、北浜。ギャラリーを営む私のところにやってきたのは、認知症になった母ママリン。 昼夜問わずすさまじい徘徊を繰り返し、暴言・暴力で大暴れしたかと思えば、ただの可愛いボケばーちゃんになり・・・ ままならない現実を笑いに変え、知恵と工夫とアイデアで乗り切った、抱腹絶倒の介護奮闘記? *ママリン徘徊の記録 ・家出回数 約2,340回 ・徘徊距離 3,000km以上 ・最長徘徊時間 12時間/1日 ・最長徘徊距離 15km/1日 *「徘徊 ママリン87歳の夏」とは 認知症の母・アサヨさん(当時87歳、愛称ママリン)の徘徊と、想定を超えた行動に振り回される娘・章子さん(当時55歳、愛称アッコ)の一夏を追ったドキュメンタリー映画。二人の漫才のようなやり取りが笑いを誘い話題になった。2015年に劇場公開後、全国各地でのホール上映は300カ所を超える。

 以上ネット記事を中心に紹介しました。 


本「長いお別れ」

2019-06-28 | 

 映画「長いお別れ」を見た後、本を読みたくなった。中島京子著である。以前、やはり映画化された「小さいおうち」も映画を見た後に読んだ。今回もさっそく図書館に予約して読んだのである。

 本の方は短編集と言う形をとっており、「全地球測位システム」、「私の心はサンフランシスコに」、「おうちへ帰ろう」など8つの短編からなっている。映画では、それをそれぞれのエピソードとして父を介護する娘たち、夫に尽くす妻、おじいちゃんを人生のお手本として接する孫の物語となっている。本は中島京子さんの体験に基づく話で、娘たちは3姉妹、孫も2人いる。

 父のアルツハイマー型認知症が発病してから10年間(映画では7年間)の自宅介護の苦労と家族模様が様々なエピソードを中心に描かれる。
 GPS付き携帯電話を父に持たせること、「じゃあ、俺は帰る」と言って父が家族を困らせること、入れ歯をしょっちゅう失くすこと、デイサービスセンターに通うこと、脳トレの漢字の読み書きで「簪」を読み孫を驚かせ「永久名人」だと言わせること、母が網膜剥離になり「うつぶせ」状態を維持しながらも父の看病をする…など涙ぐましい生活が延々と描かれる。

 その最たるものは、排せつ物の始末である。その部分は映画では詳しくわからなかった。親子、孫のほのぼのとした心の交流が中心だったように思う。が、現実はもっと、もっと厳しい。しかも毎日のことだから介護する者の苦労は並大抵ではない。私自身は、実母の場合も姑の場合もほんの数回経験しただけで想像するだけだ。
 実は今、この本よりもっと厳しい介護日記を読んでいる。酒井章子著「ママリンとおひとりさまの私の12年」と言う本だ。読み終わったらまた紹介します。


本 「みかづき」

2019-04-23 | 

 本 「みかづき」: 森絵都 著、集英社 発行

 永作博美、高橋一生主演のNHK土曜ドラマを見たのがきっかけ。 塾の問題、いや教育の問題がテーマ、舞台である八千代市が息子の住む家に近い、などの理由もあって、録画して最後まで見た。 直後、「あかね」のOさんの「本を読みましたよ」と言う言葉に思い立ち、図書館に予約。期間内に読み切れず延長して読んだ。

 大河小説とも言うべき、家族4代にわたる長編小説。ハードカバーの分厚い本だ。

 《あらすじ》
 1961年、千葉県習志野市の小学校の用務員だった大島吾郎は、用務員室で私的な勉強会を始めていた。そこに来る児童のひとり、赤坂蕗子に吾郎は非凡なものを認める。蕗子の母の千明は、文部官僚の男との間に設けた蕗子を、シングルマザーとして育てていたのだった。2人は結婚し、近隣の八千代市に塾を開き、着実に塾の経営を進めていく。吾郎はワシリー・スホムリンスキーの評伝を書き、2人の間に娘も2人生まれ、千明の母の頼子も塾にくる子どもたちの成長に心を配る。しかし、2人の塾経営をめぐる路線の対立(吾郎はあくまでも補習塾を目指し、千明は塾を進学塾に変えようとする)のため、吾郎は家を出、千明の塾はさらに大規模になり地域の有力な存在となってゆく。
 長女の蕗子、次女の蘭、三女の菜々美のその後の人生を通し、さらに蕗子の長男の一郎の世代まで、家族の物語でありながら戦後の日本の教育の物語だと思った。

 大島吾郎は、昭和14年生まれで私と同じ。昭和21年に国民学校に入学し年度途中で小学校に変わり教科書を墨で塗りつぶした世代だ。妻の千明は昭和9年生まれ、彼女曰く「私は小学校には通えなかった。国民学校ってところで変な教育を受けて、これがすごく嫌だった。だから今でも学校やお国を信じられない。」 軍事教育をしっかり受けた世代で、戦後先生たちがコロッと変わった姿を見て文部省(当時)は信用できない、いつか自由に教育ができる塾で子供たちがわかる勉強を教えてあげたい、「学校が太陽なら塾は月」と願っている。 

 戦後の教育の変遷と教育に携わる一つの家族の物語。ちょうど同じ時代に教育と関わって生きてきた身としては一つ一つの出来事や言葉が身に染みた。 教育に完成はない。満月たり得ない途上の月のようなもの。常に何かが欠けている三日月、教育も同様そんなものかもしれない。欠けている自覚があるからこそ、人は満ちよう、満ちようと研鑽を積む…。 こんな言葉が胸に響く。

 そして最後に、祖父母の存在に圧倒され教育の世界を避けていた孫の一郎が、官民連携教育をスタートさせる。 貧しく塾に通えない子供のための無料の学習塾だ。ボランティアや周囲の知人の協力のおかげで、行政と塾が連携すると言うところで話は終わる。さらに最後にとても素敵なエピソードが紹介されている。一郎の塾に通っていたN君が少しずつ勉強がわかるようになりテストでいい点数をとった。ところがカンニングをしたと友達に言われ先生に手紙を書く。その時の母親の言葉がこうだ。「テストの点数が上がったことより、先生に自分の気持ちを伝えることができたことがうれしい。筆で自分の気持ちを人様に伝えられる子ではなかった。力を与えてくださって…。」 教育は子どもをコントロールするためでなく、不条理に抗う力、たやすくコントロールされないための生きる力を授けるためにある…と言われ続けて来たことを思い出し感動した。

 全員クラブ制、週休二日制、偏差値教育、ゆとり教育…いろいろな形を試してきた教育の世界。 富山県では「七三教育体制」と言うのもあった。何が良くて何が悪かったのだろう? そして今はどうなのだろう? と久しぶりに自分の辿った道を振り返ってみた。 


本 「朝夕15分 死ぬまでボケない頭をつくる!」

2019-03-11 | 

  自分自身が80歳に近づき物忘れがひどくなると同時に、周りにもそれを嘆く友人が増えてきた。 私の場合、ここ数か月間家事全般をしておらず楽な反面、自分の脳や体を使わないから頭がボケてくるような気がしている。 7月の運転免許更新に向け不安が募ってきた。

 そこで、図書簡で借りたのが👇の本である。
 須貝佑一著・すばる舎出版 「朝夕15分 死ぬまでボケない頭をつくる!」
 少し紹介してみます。(目次より)

 第一章:そもそも「認知症」とは、どんなものか?
 第二章:ボケる・ボケないは「頭の使い方」で決まる
  * 普段から頭を使っていると。脳の余力が増えてボケにくくなる
  * 季節の便り、日記、投稿な…なんでもいいから文章を書く
  * テレビを見て、活字を読んでニュースをチェック
  * 囲碁、将棋、麻雀はボケの特効薬
  * お琴、ピアノ、バンド活動にカラオケも
  * パソコン教室、パズラーになってよ~く考える
  * 朝晩二回は鏡を見て、お洒落と身だしなみを完璧に
    ・・・
 第三章:「生活習慣」を変えて、ボケを寄せつけない暮らしをつくる
  * 「認知症」は「生活習慣病」の一つと思っておけば、まず間違いない
  * 散歩・ウオーキング程度の運動、ラジオ体操、踏み台昇降運動
  * ヨガ、太極拳、フラダンスなど高齢でも 楽しめる習い事
  * できる家事は極力自分で。段取りを考えて体を動かす
  * ご近所づきあい、親戚づきあい、コンサート、映画館、書店通い
  * 歯磨きとは一生のお付き合い。歯の本数と認知能力レベルは比例する
    ・・・
 第四章:食生活のココに気をつければ、いくつになっても脳が錆びない
  * カロリー過多はボケを呼び込む
  * 主食は玄米、パン派なら全粒粉パン
  * 脳細胞には脂質も必要。マーガリンよりもバター
  * 肉より魚、安い大衆魚がいちばん効く
  * 野菜不足はボケまっしぐら。タマネギの入ったトマトカレーは認知症を予防する
  * 「地中海料理」と「和食」はボケない料理の両横綱
  * おやつのお供は緑茶で決まり
  * ほどほどのお酒は百薬の長、飲むならやっぱり「赤ワイン」
  * 「朝夕15分」の習慣にするために、メモを一枚書いてみる
    ・・・
 第五章:ボケる・ボケないのその先に…
  * それでも認知症の兆しが出てきたときは、どの病院へ行けばいいの?
  * 元気なうちに「エンディングノート」や「遺言書」を。これはもはや大人のたしなみ

 以上目次だけでもこんなに読み応えがあります…。 細かいこと、どんなメモ用紙を作るか、などは是非ご一読を!!


本 「好日日記 季節のように生きる」

2019-03-08 | 

 昨年映画化された、森下典子さんの「日日是好日」の続編が出版されたと新聞で知り、すぐに図書館に予約した。 長い間待って先日ようやく案内が届いたので借りてきた。

 タイトルは、「好日日記・季節のように生きる」である。 

 ” 春になれば、至る所で草が芽吹き、草木にいっせいに花が咲く。 そんなこと、誰もが幼い頃から当たり前だと思って暮らしている。 だけど、ある日、まぶしい若葉を見て、卒然として気づくのだ。 私たちはものすごく不思議なことに囲まれ、それを不思議とも思わず暮らしているのだということに… ”

 👆は、表紙カバーの内側に書かれた本文中の言葉です。 「冬の章」、「春の章」、「夏の章」、「秋の章」。「ふたたび冬の章」まで、一年を二十四節気にわけて日記風に一年の生活をお茶との係わりのもとに綴っておられる。とても読みやすく、親しみやすい文だ。 茶道を通して、毎日の暮らし、人の生き方を考えさせてくれる。

 私もやがて30年余り、茶々姫さん宅に通い茶道を習っていながら季節の変化さえ無頓着な生活を送っている。 床に茶花を生け、季節ごとのお軸やお茶碗などの茶器、主菓子など毎週木を配って用意してくださる茶々姫先生の気配りもその場限りで聞いている。
 昨年から弟子の交流も兼ねて、「禅deさろん」と言うお便りを手書きコピーで発行し始めた。 私も時には、主菓子やお茶碗などの写真をこのブログにアップするが、ただの気まぐれにすぎない。 この本に書かれているように、もっと季節に寄りそった目で暮らしを眺め、茶道の記事を載せていきたいと思った次第です。

 今は、「啓蟄」の頃、やがて「春分」になる。 👇は、著者の描かれた絵「菜種の里」。

 👇は、「圓窓桜図茶碗」。
 👇は、図書館で借りた他の茶道の本とともに…。

 


本 「散り椿」

2018-09-10 | 

 もう4,5年前だろうか、「多文化子ども勉強室」のボランティアの先輩、長〇さんから「よかったらどうぞ」とお借りしたのが、文庫本「散り椿」だ。「返されなくてもいいです」の言葉に甘え、しばらくそのままにしていた。

 上京の折の電車の中などで読み始め、出だしは「面白いぞ」との印象だったが、扇野藩のお家騒動らしくなってくると、ゴチャゴチャして途中で止めてしまった。そのうち、作者の葉室麟が亡くなり…、映画化され、しかも富山県内のオールロケと聞き、最近改めて最初から読み直した。

 椿の花は、ふつう花ごとポトリと落ちる。が、散り椿は花びらが一片一片散って行く。正式には「五色八重散椿」と言うそうだ。秀吉が朝鮮へ出兵した際に加藤清正が持ち帰ったものだと言う。

 架空の地方の藩、「扇野藩」でのお家騒動を中心に、かつて一刀流道場の四天王と謳われた瓜生新兵衛とその甥、坂下藤吾を中心に話は進む。
 藤澤周平の短編小説に慣れている私には、なんかダラダラして読みづらかった。が、映像化すると美しいだろう、凄まじいだろうと言う場面がいくつもあった。

 「剱岳 点の記」を撮って以来、富山県が大好きになったと言う木村大作氏の監督だ。眼目山立山寺、五百羅漢、浮田家、内山邸、国泰寺などなどがロケ地とか…。どんな映像になっているのか、登場人物がどんな肉付けされているのか一見の価値はありそうだ。


本「銀河鉄道の父」

2018-06-19 | 

 何月頃だったか、「あかね」のOさんから図書館の本をまた借りして読んだ。忙しい頃で飛ばし読みをして返し、ブログを書こうと再度借りた。

 直木賞受賞作、門井慶喜著「銀河鉄道の父」(講談社刊)である。

 👇の帯封にあるように、”父でありすぎる父親”である、宮沢賢治の父親の話だ。

 賢治の父、宮沢政次郎は岩手県花巻で質屋を営んでいた。政次郎の父、喜助も質屋だった。政次郎は学問が好きで上の学校へ行きたかったが、「質屋に学問は要らぬ」と喜助にはねつけられ諦めた。
 その政次郎の長男が賢治だ。小さい頃から石を集めるのが好きで「石っこ賢さん」と呼ばれた賢治。小学校へ上がる前赤痢になった。隔離病舎に入ったのに付き添って看病をすると医者を困らす父親だった。病院を一歩も出ずに看病をする。賢治は治って元気に退院するが、感染した政次郎は一生、腸の病気に悩まされる。

 20年ほど前か、東北を旅行した。もしかして「賢治生誕100年記念の旅」だったかもしれない。花巻郊外の高村光太郎の仮住い跡や遠野も回った。あまりよく覚えていないが、賢治が教えていた学校跡、「裏の畑にいます」と書いた黒板、妹トシの病床があった部屋など印象に残っている。「永訣の朝」の詩もここで初めて聞いたような。

 賢治の一生を、父政次郎の目から見た物語。
 賢治自身はこう呟いている。「…おらは、お父さんになりたかったのす」 政次郎ほど大きな存在はなかった。自分の命の恩人であり、保護者であり、教師であり、金主であり、上司であり、好敵手であり、貢献者であり、それらすべてであることにおいて政次郎は手を抜くことをしなかった。…

 最後に孫たち(次女シゲの子ども達)に「雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雨ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダモチ…」の詩を読んで聞かせる場面で終わっている。宮沢賢治の伝記であり、親子、家族の物語である。 


新聞小説「国宝」

2018-06-16 | 

 若い頃から、新聞小説はわりと読む方だ。ここずっと朝日新聞を購読しているが、最近は、沢木耕太郎の「春に散る」、宮部みゆきの「荒神」、荻原浩の「愛しの座敷わらし」、重松清の「エイジ」など印象に残っている。途中でギブアップし、映画化されて観て驚いたのが吉田修一の「悪人」だ。

 その吉田修一の「国宝」を毎日楽しみに読んでいたが、5月末に500回をもって終了した。その結末、最終回に圧倒された。一言で言えば、やくざの息子が歌舞伎役者になる話だ。誰がモデルだろうね?などと、一緒に能楽の太鼓を習っている若い友人と話し合ったりしながら読んでいた。彼女は歌舞伎が大好き、役者さんのことも詳しい。

 舞台は長崎から始まる。長崎は吉田さんの生まれ故郷だそうだ。組抗争で非業の死を遂げた権五郎と言うやくざの親分の息子、喜久雄が、歌舞伎役者として波乱万丈の人生を生き抜くストーリー。
 たぐい稀な美貌の持ち主で、根っから芝居が好きだった喜久雄は、花井半二郎と言う歌舞伎役者の弟子になる。半二郎には喜久雄と同年配の息子、俊介がおり、二人は兄弟のように仲がよく、切磋琢磨し合いながら芸を磨く。が、半二郎が自分の後継者に喜久雄を指名したことで、彼だけでなく周囲の人々の人生が狂って行く。歌舞伎の世界独特のしきたりや人間関係が複雑に描かれる。

 👇は、東芋さんの挿絵です。

 👇は、「源氏物語」。

  👇 口上。

 女形として大成し、人間国宝の指定を受け、最後の舞台で「阿古屋」を演じ終えた後、喜久雄は舞台から降りて、歌舞伎座の中を進み、玄関からさらに銀座の大通りを進んで歩いて行く。車のヘッドライトが舞台の照明のように輝く空間へ向かって…。

 この最終回の光景にぐっと胸に迫るものがあった。読者は皆、思ったことだろう。「この後、喜久雄はどうなったのか?」 

 数日後、作者の「連載を終えて」の記事は、「喜久雄は幸せな人生だったのか」と言う見出しで始まっていた。吉田さんは歌舞伎役者を主人公にした小説を書こうと思い、4代目鴈治郎さんに頼んだそうだ。鴈治郎さんは黒衣の衣装を作ってもらい黒衣の一人として全国の劇場をついて回ったそうだ。最終回を終えた今も、喜久雄のことばかり考えているそう…。そのくらい思い入れのある主人公だったのだろう。
 単行本は9月に刊行予定。


本「沙門空海唐の国にて鬼と宴す」

2018-06-05 | 

  昨日はフレンチ、今日はイタリアン、明日も…と最近は、毎日豪華ランチをいただいています。

 そして最近、長編小説を2つ続けて読了しました。一つは朝日新聞の新聞小説「国宝」、もう一つは夢枕獏の「沙門空海唐の国にて鬼と宴す」です。

 まず、後者から紹介します。ハードカバー本で巻1~4まで、文字が大きく、行間が粗く、会話が多いのでとても読みやすい。が、何と言っても登場人物が多く、しかも50年前の玄宗皇帝と楊貴妃の時代と、空海と順宗皇帝の時代が行ったり来たりするので、長時間かけて読んでいると今どの時代を読んでいるのか忘れてしまうのが難点。各巻の最初のページに、登場人物一覧と、空海入唐経路と長安周辺図、長安市街図の地図が掲載されているので、時々それを見て確かめながら読みました。
 その点、映像はわかり易いですね。そもそもこの本を読みだしたきっかけは、映画「KUKAI~空海」。スケールが大きく、映像が美しく謎めいて、面白かった。が、楊貴妃の死の謎がよくわからず、本を読めば納得するかと思い…、読み始めたのです。

 👇は、巻一。沙門空海。遣唐使として密教を学びに唐の国に渡ります。

 👇は、巻二.楊貴妃だろう。

  👇は、巻三 と 巻四。 タイトルの「~鬼と宴す」は四巻の場面です。ミステリーが解明される場面でそこまで息もつかせず読ませてくれます。

       

 夢枕獏の本はたぶんこれが初めて。空海の名は歴史の教科書で習った程度。日本仏教界の天才・空海が茶目っ気があり、ひょうひょうとして魅力的な人物として描かれています。唐で密教の修学のみならず、梵語や、拝火(ゾロアスター)教、景教(キリスト教)など様々なことにも興味を持って吸収していったことも、取り込まれています。
 白楽天(白居易)や、安倍仲麻呂(中国名:晁衡)、李白、玄宗皇帝、安禄山、楊貴妃、韓愈など多くの歴史上の人物が登場し、時空を超えた伝記小説と言う感じです。夢枕獏がいかに下調べに時間をかけたか感服します。あとがきで、本人自らが「なんと言うど傑作を書いてしまったのだろう」と書いているように17年間を費やしたそうです。

 唐に渡った後、空海が次々に出合う不思議な事件。それは玄宗皇帝が生きていた頃の話まで遡り、安禄山の反乱や楊貴妃の殺害の事件にまで絡むことをつかみます。事件解明のために空海たちは、楊貴妃の墓を暴いたり、怪異のあった綿畑を調査するうちに、安史の乱の際起きた楊貴妃殺害の事件が、一般的に知られている事と異なる事を知るのです。

 楊貴妃はその時殺されたのではなく、胡の道士・黄鶴(実は楊貴妃の父)の提案により尸解(しかい)の法を用いて、いったん仮死状態にされ、墓に入れられ、後に掘り出されたことがわかります。その時楊貴妃は気がふれていました。そして黄鶴の弟子(実は兄)の白龍と共に暮らしていて白髪の老女になっていたのです。
 その事実を解明するため、玄宗皇帝と楊貴妃が過ごした驪山(りざん)の華清宮で白楽天らとともに宴を催し、過去の事件にかかわった一同が集まって来るのを待ち、事件の真相に一気に迫ります。

 20年と云う留学期間にもかかわらずわずか2年で目的を果たし日本へ帰る空海、そこへ白楽天が「ようやく『長恨歌』が完成した」と息を弾ませ駆け付けて、空海の前で吟じます。

 ” 漢皇 色を重んじて 傾国を思う
   御宇 多年 求むれども得ず
   楊家に女あり 初めて長成す
   ……    ……      ”


本「億男」

2018-03-23 | 

 👇のような新聞の広告を見て、図書館に予約を入れた。待つこともなくすぐに借りられた。

   映画化決定! 本屋大賞ノミネート作品、ついに文庫化
”宝くじが当選し、突如大金を手にした一男だが、三億円と共に親友が失踪。「お金と幸せの答え」を求めて、一男の旅がはじまる!”

 宝くじなど生まれて一度も買ったことがない私が、お年玉年賀はがきの3等に当選すると嬉しい。わずか144円の切手シートが何枚当たったかは大問題で、ちょっと幸せな気分になれる。

 「お金と幸せの答えを教えてあげよう」。宝くじで三億円を当てた図書館司書の一男は、大富豪となった親友・九十九(つくも)のもとを訪ねる。だがその直後、九十九が三億円と共に失踪する。九十九は学生時代の「落研」仲間、二人合わせて100%と言われた親友同士だ。
 一男は、九十九の行方を探して彼と共同で企業を立ち上げたと言う3人の仲間を次々に訪ね歩く。ソクラテス、ドストエフスキー、福沢諭吉、ビル・ゲイツなど、数々の偉人たちの「お金に係わる言葉」に逢いながら、一男のお金をめぐる三十日間の冒険が始まる。

 著者:川村元気  発行所:マガジンハウス。

 私個人としては、3億円のお金には何の興味もなかった。もし3億円の宝くじが当たったらなんに使いますか?と尋ねられ、胸に手を当て考えても何にも浮かばない。だから話のすじはあまり印象に残らなかった。

 ただ、一男の家族(離婚した妻と小学生の娘)に心ひかれた。最近TVドラマで見た「弟の夫」(佐藤隆太と把瑠都)、「この声をきみに」(竹野内豊)をなぜか思い出した。それぞれ事情があって離婚した妻と小学生の娘や息子と若い父親の交流である。(本の感想にならずすみません)


本「おら おらで ひとり いぐも」

2018-02-04 | 

  先月の音訳ボランティア「あかね」の活動日に、Oさんが芥川賞受賞作の「おらおらでひとりいぐも」を読み、まだ図書館に返本しないで持っていると仰った。私も、図書館に予約はしたのだが大勢の人がついていて”いつになるやら?” 状態だった。翌日ダビングをする日に「持って来ようか?」と仰ったので即お願いした。👇はその本。背表紙に「高岡中央図書館」のラベルが貼ってある。

 「おら おらで ひとりいぐも」と言う言葉は、宮沢賢治の「永訣の朝」の中の妹の言葉だそうだ。「私は私で一人で逝きます」と言う意味。
 この本では… 74歳、一人暮らし、名前もカワイイ桃子さんが、「おらの今は怖いものなし、おらはおらで一人で生きて行こう(死んで行こう)」と居直っている(?)ように私には思えた。そんな大げさなものではないとしても、自分の人生を振り返り悔やんでみたり、肯定もしたり、同年代の私にはそんな風に読み取れた。

 ただ、迫力もありユーモラスでもある東北弁(岩手弁)はかなり読みづらかった。桃子さんの思考に従って、現実の話かと思えば、想い出や妄想の世界に飛んでいて、慣れるまでは頭がくちゃくちゃになってついて行けない(最近はわかりやすい文しか読んでいない)。
 結婚式の直前に家を飛び出し東京へ出て来たのが24歳、それからの50年間の半生だ。美男子の夫周蔵と結婚、娘と息子をもうける。55歳で夫と死別、子どもたちは自立し、今は桃子さんが古い家に一人で、と言うかネズミと一緒に暮らしている。娘がときどき電話をかけ、食べ物を買って孫と一緒に来てくれる。桃子さんが周蔵の墓まで遠い道のりを足を引きずりながら歩いて行く場面に鬼気迫るものを感じた。

 「自分が自立できず支えることで、自分が身をもたれかけ自分を支えていた。人のために生きるのはやっぱり苦しい。」と、桃子さんは一人になって初めて自立できた喜びを語っているように私には思えた。私の場合、50歳で夫と死別、それまで描いていた将来は見事に目前で崩れた。ただ、幸いにも仕事に向かうことで新しい生き方を自然に模索していたのだと思う。読む人の立場により、共感する場面は異なるだろう。今日のお茶のお稽古では、皆さんまだ読んでおられなかったのでいつか聞いてみたい。 

 著者:若竹千佐子  出版社:河出書房新社