何月頃だったか、「あかね」のOさんから図書館の本をまた借りして読んだ。忙しい頃で飛ばし読みをして返し、ブログを書こうと再度借りた。
直木賞受賞作、門井慶喜著「銀河鉄道の父」(講談社刊)である。
👇の帯封にあるように、”父でありすぎる父親”である、宮沢賢治の父親の話だ。
賢治の父、宮沢政次郎は岩手県花巻で質屋を営んでいた。政次郎の父、喜助も質屋だった。政次郎は学問が好きで上の学校へ行きたかったが、「質屋に学問は要らぬ」と喜助にはねつけられ諦めた。
その政次郎の長男が賢治だ。小さい頃から石を集めるのが好きで「石っこ賢さん」と呼ばれた賢治。小学校へ上がる前赤痢になった。隔離病舎に入ったのに付き添って看病をすると医者を困らす父親だった。病院を一歩も出ずに看病をする。賢治は治って元気に退院するが、感染した政次郎は一生、腸の病気に悩まされる。
20年ほど前か、東北を旅行した。もしかして「賢治生誕100年記念の旅」だったかもしれない。花巻郊外の高村光太郎の仮住い跡や遠野も回った。あまりよく覚えていないが、賢治が教えていた学校跡、「裏の畑にいます」と書いた黒板、妹トシの病床があった部屋など印象に残っている。「永訣の朝」の詩もここで初めて聞いたような。
賢治の一生を、父政次郎の目から見た物語。
賢治自身はこう呟いている。「…おらは、お父さんになりたかったのす」 政次郎ほど大きな存在はなかった。自分の命の恩人であり、保護者であり、教師であり、金主であり、上司であり、好敵手であり、貢献者であり、それらすべてであることにおいて政次郎は手を抜くことをしなかった。…
最後に孫たち(次女シゲの子ども達)に「雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雨ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダモチ…」の詩を読んで聞かせる場面で終わっている。宮沢賢治の伝記であり、親子、家族の物語である。
宮沢賢治の父親はそんな人だったのですね。賢治が教員をしたり土地改良に勤しんだり農民の相談に乗ったり、肥料を作ったり・・・・等々、すべて父の理解があったのですね。
賢治は熱を押して板の間に正座して農民の相談に乗っていた,間もなく死んでしまった、というのを何かで読みましたが親はさぞ落胆されたでしょうね。妹も早くに亡くなっていますし。
質屋の息子、というと山本周五郎を思い出しますが、全く違う父親だったのですね。
賢治のような天才というか変わった人はどうして出来たのか?と不思議に思っていました。今も思います。
なはさんの方がよほど賢治のことをご存知ですよ。父の理解と言うか、苦々しく思いながら結局お金を送ったりして賢治の思うことをさせたのですね。
本文に追加しましたが、賢治は「お父さんになりたかった」のだ、と言う場面があります。
政次郎は、賢治の遺言通り「妙法蓮華経」を1千部作り配ったりしています。真宗から改宗しようかとまで思ったようですよ。
正座して農民の相談に乗った場面、出てきました。 読みやすい本でした。
正座して