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Ruby の会

シニアライフ~能楽・ボランティア・旅行・食べ歩き・演劇などを綴っています

祝・新湊初戦突破

2011-08-13 | 富山

 8/9(火)夜、合唱練習の時「明日、新湊やね」との話題が出た。「え~ッ?明日映画の日やわ。試合何時から?」「3試合目だから午後の1番」
 映画は1度延期しているから変更したくない。上映時間は?と悩んでいると、当日朝、ようこ姫さんから電話があり、映画の前に小杉のギャラリーでKuさんの二人展を観ようとのお誘い。「それがネ、今日新湊やよ」と言うと、「新湊って何?」との返事。ああ、もう諦めて夜ハイライトを見よう。

 午前中、小杉で待ち合わせ、絵を見て、コーヒーを飲んで、ランチは道の駅「カモンパーク新湊」で白エビバーガーを食べることになった。カモンパークも白えびバーガーも初めてなので、すぐ乗った。 ↓は、カモンパークのHPです。http://www.shinminato.co.jp/

 入り口に、「新湊のさかな」と「しろえび」コーナー。大きな目玉のおさかなさんがゆうゆうと泳いでいる。
      

 ”テイクアウトコーナー”の真ん中に大きなテレビ。第二試合が延長しているらしい。白えびバーガー(300円)とお茶で待つ。
         

 カリカリの白えびのから揚げ入りの大きなバーガー。1個で満腹だ。ご当地新湊で、新湊の試合の応援ができるなんて幸せだ。
     

 いよいよ試合開始。対戦相手は強豪校、京都代表の龍谷大平安高校。
        

 残念ながらここでは2回裏までしか見られなかった。両校無得点。新湊の好守備が目立つ。諦めてイオンの映画に向かう。
 25年前の春の選抜でベスト4入りをし、「新湊旋風」と騒がれた。夏は12年ぶり5回目の出場だそうだ。

 10数年前、牧野中にいた頃担当した学年の野球部の生徒たちが何人も新高から甲子園に行っているのだ。そんな思い入れもあり、久しぶりの新高出場は嬉しい。
 映画を見た後、イオンの喫茶に入り、「試合結果どうやったかね~」と私。さっそくようこ姫さんが左のテーブルの男性二人連れに、「スミマセン、新湊、どうでした?」「新湊なら…」と方角を教えてくれるらしいジェスチャ。「ああ、いいです、野球ですよ。」すると、右隣りで静かに読書中の青年が顔を上げ、「勝ちましたよ、4対1。」「わぁ、ありがとう。よかったね~。」でした。

 その夜テレビで経過を見た。↓ 6回表、この後各チーム1点ずつ得点し同点。
      

  ↓ 8回表で新湊が2点追加。 
      

 ↓ 9回表、新湊4点目を入れる。
      

 試合終了。
      

 主将の袴谷くんの喜びの言葉。
      

 「ヨイヤサ ヨイヤサ」で盛り上げた青いハタキの応援団。3塁側が青一色だったそうだ。この大声援に相手チームはかなり圧倒されたことだろう。(トップ)
 この中に入ってとまでは思わないが、次の試合はリアルタイムで応援したいもの。15日、8時開始。東洋大姫路(兵庫代表)と対戦する。息子の帰省とにらみあわせてお盆の墓参りの時間をセットしよう。  


安田城跡(やすだじょうせき)のスイレン

2011-06-30 | 富山

 何人かのブログで、安田城跡の睡蓮が紹介されてからかなり経ったが、6/29(水)富山への用事の帰りに立ち寄った。思いのほか用事が長引き、城跡に着いたのは夕方4時を過ぎていた。この日も日中の気温は32℃、風こそあるが夕方もまだまだ暑かった。

 広い外濠には、青々とした葉っぱだけ。所々に蕾は見えるが一つも開いていない。やはり終わったのか!と、がっかりして帰ろうとしたら、娘が資料館に入ろうと言う。昼食を食べ損ね、ローソンでおにぎりとお茶を買ったので、資料館の中で食べることにする。入場料は無料。受付にも館内にも人影はない。ベンチで腹ごしらえをしてから、資料館内の展示や発掘された土器を眺める。

 「安田城跡」…ここでは”じょうせき”と読むようだ。増山城跡は”ますやまじょうあと”だった。昭和56年に国指定史跡となっている。その後整備され、資料館もスマートな立派な建物だ。

 富山へ行く途中、必ず通る道だがここまで来たのは初めてだ。呉羽丘陵の麓、井田川左岸の扇状地にあった戦国時代の平城だ。本丸、二の丸、右郭の3つの郭があり、井田川から水を引き入れた堀が巡っている。土塁跡も確認され、保存状態がよく、全体像がわかる平城は珍しいそうだ。
 大河ドラマでは、ちょうど秀吉の天下統一が描かれているが、秀吉が越中の佐々成政を攻めた際に、本陣とした白鳥城の支城だったそうだ。

 資料を見ていると、係の方が事務室から出て来られ、「どこから来られましたか?」「高岡から」「ほう~、よく来られました」と言うわけで、市外の人は少ないらしい。2階へ上がると、城跡、土塁跡が見渡せる。そう広くないから歩くのも楽だが、この暑さ、それは次回に回した。(トップ写真の草むらの向こうに、郭跡や土塁展示館がある)。

 さて、お目当てのスイレンだが、暑いので午前で花が閉じるのだそうだ。今は、赤、白の他に黄色も咲いているとか。9月まで見られるが、7月末頃まで見頃。8月下旬には、「安田城 月見の宴」が開かれるそうだ。
    

        

 写真は何枚撮っても、↑ のように葉っぱばかり。白い蕾がいくつか見えるだろうか。次回は午前中に訪れ、きれいな花にお目にかかりたいものだ。 


富山環水公園

2011-06-16 | 富山

 6/16(木)、午前中、用事があって富山へ出かけた。午後は平米公民館のお囃子と謡のお稽古日。ちょっと慌ただしい日程だった。

 訪ねた事務所の駐車場の天井から骨だけの傘が2本逆さにぶら下がっている。おや、何のため?と思いよく見ると、ツバメの巣があるではないか。折しも親ツバメが飛んで来て子ツバメに餌をやっている。ちょっと粘ったが、上の写真しか撮れなかった。黒い頭が2つ見えるだけだ。近頃ではツバメは珍しい。骨だけの傘はカラス対策だそうだ。

 そこでの用事が予定より早く済んだので、駅北口へ回った。噂に聞く、「富山環水公園」を見たかったからだ。 

 「富山県富岩運河環水公園(ふがんうんが かんすいこうえん)」は、とやま都市MIRAI計画のシンボルゾーンとして水辺空間の豊かさを大切にしながら整備される面積9.7haの親水文化公園です。富山の自然と富岩運河の歴史を活かしたこの空間は、地域の文化や未来を見つめ、創造するオアシスとなります。

 と、紹介文に書かれているが、水に親しむ場として旧舟だまりを利用した水辺があり、両岸には遊歩道や芝生のスロープを配置し、憩いと親水の公園となっている。
 もともと、「富岩運河」は、
海まで続く長さ5.1kmの運河。昔、富山市街で大きく蛇行して流れていた神通川は、よく洪水に見舞われたそうだ。そこで蛇行部分をまっすぐな川に変える工事をした。その1部が運河として残り、途中の中島閘門(こうもん)まで、散策路が整備された。周辺に多くの緑地や桜並木が残っている。また、市街地では松川として残っている。

     

     

 水際に建つレストランは、”ラシャンス”。2階は予約制だが、1階は手ごろなランチが食べられると聞いていた。二人なら席もあるだろうと、行ってみた。ところが店の前で待つ客が7,8名。40~45分の待ち時間と聞き諦めた。やはり、噂に聞く通りの繁盛ぶりだ。
      

 同じ系列で経営している結婚式場をちょっと覗き、高岡へ戻った。太鼓のお稽古にかろうじてセーフだった。いつかまた行ってみたい。


「生きた文化財 とやま弁」~蓑島良二さん講演会

2011-05-28 | 富山

 元の職場の退職厚生会の総会があった。総会後講演会があるのだが、興味のある演題の時は出席するようにしている。昨年は「富山の巨木」、一昨年は「高岡城築城物語」だった。地元がテーマの内容にはやはり興味が湧く。

 今年は、「生きた文化財 とやま弁」、講師は、エッセイストで方言研究家の蓑島良二氏である。ラジオのパーソナリティも務めておられたそうで、よく話を聞いたと言う人もいるが、私は初めてで大変面白かった。レジメもなければ、映像もない。黒板さえも使われず、漢字を書いた紙を何枚か持って来られ、それを見せながらのお話。中身と話術で、次々と冨山弁を紹介された。メモを頼りに、一部を紹介します。

 まず、方言が持つ力:認知症で無気力だったお年寄りが、同郷の看護師と巡り合い、方言で喋るうちに心が癒され、元気を取り戻し、回復に向かって行った、と言う話をされた。

 冨山弁だけ(他の地方で使われる場合も)に残る表現
  *
「お」…大きい「お」、「を」…小さい「を」  これは、昔は「大川」を「おおかわ」、「小川」を「をがわ」と表記した。それが、今でも残っている。
  *富山では、歌の「一題目、二題目」…これは一般には、「一番目、二番目」と言う。
  *富山では、「校下」…これは、普通は「校区」と言う。確かにPCでは変換できない。

 冨山弁は、「西日本方言」。上方の言葉が富山で止まった。新潟、長野は、関東系方言。
  *関西では「なすび」、関東では「なす」。今は、「なす」が標準語。

 富山国体の時のエピソードから(選手の宿をした家で):
  *家族紹介で「うちのアンマですちゃ」 「いや、按摩は要りません」
      アンマは「兄者(あにじゃ)」から。
      オッジャは「乙者(おとじゃ)」から。「オッジャに生まれりゃおぞいもんでござる」
われた。
  *帰宅した選手が「3位ゲットしたよ!」とピースした。「え?げっとくそやった?」 げっとは「下種」「下司」から。げっとに「糞」までつけて使うのが可笑しい。

 上の例も、古語が冨山弁に残っている言葉だが、他にも、「あいの風」「こけ」「おちんちんかく」「おつくばい」「はしかい」「かかちになる」・・・まだまだたくさん元の漢字や出典を示しながら話された。方言の紹介や笑い話はよく聞くが、由来や歴史の話が面白かった。いつか、著書やエッセイや読んでみたい。


新幹線工事

2010-12-26 | 富山

 今年は千葉の息子宅で新年を迎えると、私が勝手に決めて連絡し、息子からOKの返事をもらった。 去年のお正月は帰省せずじまい、今年のお盆の墓参りにも来なかったので、彼としては嫌とは言えなかったのだろう。
 今日、26日は日曜日にもかかわらず出勤したらしく、夕方ケータイに「今日は工事の仕事が早く終わりホッとしました。着時刻が決まったら知らせてください」とメールが届いたので、大変だな~と思いつつ、楽しみにしている。

 とは言うものの、年暮れの旅行はシンドイ。 越後湯沢の乗り換えは寒いし、飛行機は飛ぶかどうかお天気次第だし、バスは安いけど疲れそうだし・・・早く新幹線が完成するといいな~とつくづく思っている。 
 今日は例年のように、くまさん宅の”美女の会”の日。 招待を迷わずにお受けし、雪の中いそいそと出かけた。 大江に近づくと新幹線の工事が目の前。 私の家の近くでは見られない光景なので、車を止めてパチリ。 日曜だから工事はお休み。 日ごろどんなふうに進めておられるのだろうか。 ここを新幹線が通る時、電車の窓から美しい田園風景が眺められるのだろうな~。
  

    


チューリップの球根

2010-11-04 | 富山
 今年のチューリップフェアのある一日(暑い日だった)、チューリップ公園のチューリップを眺め、四季彩舘で新種の名前募集に応募し、最後に球根を買った。 送ってもらうと送料が要るので、近いことだしと「取りに来る」の項目に○をつけた。
 10月になり葉書きが来たが、なかなか行く日がない。 締切日は書いてないが、もう植えなくちゃならないね、と言いながら、ようこ姫さんと27日(水)に砺波へ行くことにした。 10月末は行事が目白押しなので疲れがたまりっぱなし。 この日も朝からだるく、寒々とした曇り空だし、ちょっと迷ったが出かけるとまた元気がでるから不思議だ。

 昼前に家を出たので、砺波の
麺房「山形屋」でうどんを食べる。 店の前に鉢植えのコリウスが美しい…。
    

 ちょうどお昼時でなかなか混んでいる。 カウンター、テーブル席、和室、すべてほぼ満席。 評判がいいお店のようだ。
 
 ようこ姫さんのカーナビはしっかりと「富山県花卉球根農業組合」へ案内してくれる。 
            

 事務所で注文していた球根一箱を受け取る。 こんなにたくさんどこへ植えようかナ。 植える時の肥料も買った後、カメラ片手に道路の反対側へ。 道路わきの畑がコスモス畑なのだ。 一面に満開。 散居村の緑をバックにそれはきれいだった。 「トタン屋根が入るね」、「赤白の鉄棒が入るね」、「花びらが枯れている」などと言いながら数枚撮った。 今年は夢の平には行かずとも一面のコスモスはこれで十分と言うことにしよう。            
            

            
            
 帰る途中に「ぼくの細道」に寄り、久しぶりのコーヒーを飲みくつろいで来た。 暖炉の薪が赤々と燃え、冬も間近ですね。            

メルヘンおやべ

2010-11-02 | 富山
 10/26(火)、小雨の降る寒い日だった。 お寺のお参りを変更してもらい、宮島峡「滝の荘」のツアーに参加した。 宮島峡には、夫の叔母さんのお寺があり昔はよく訪ねたものだ。 叔母さんの葬儀に参列して以来、今は年賀状を交わすだけになった。
 その後も宮島温泉には時々行くものの、ゆっくり散策することはめったにない。 晴れておれば、と少し悔まれるが久しぶりだったので楽しかった。

 まず、桜町遺跡の出土品を展示してある「ふるさと歴史館」へ。 ここは初めて。 昭和61年に8号線バイパス建設中に発見された遺跡だ。 約8000年前の縄文時代早期からの遺跡であるとわかった。 当時のことはよく覚えているが、ずっと青いシートが被せてあった。
 入り口でマスコットキャラクターの”こごみちゃん”がお出迎え。 約6cmのコゴミが出土し、出土直後は黄緑色のみずみずしい状態だったそうだ。
   

 マスコットにもなった”こごみ”の写真は失敗作だったが、下は左から、くるみ、縄の結び目、Y字型の木材。 ”謎のY字材”は、用途は不明。 桜町遺跡からは大量の加工木柱材が出土し、高床式建物が縄文時代からあった、とわかったそうだ。 他にもそれはたくさんの出土品が…。 弓、楔、土器など。 (小矢部市埴生上野 休館日は月曜日 入館料は無料)
         

 宮島峡は、子撫川の峡谷で、左より下流から”一の滝”、”二の滝” ”三の滝” である。 紅葉時期には白い滝しぶきと回りの紅葉が美しいことだろう。
         

 子撫で川の川沿いに、12個のブロンズの女神像が建てられている。 左は、”紺碧の像”、右は、”人魚の像”、他に”水辺の像”、”湖畔の像”・・・、これらはすべて松本元市長が建てられた。 小中学校のメルヘン校舎を始め、松本さんは多くのものを遺しておられる。 そして今、「小矢部市」は元気である。 真ん中は「子撫川ダム」。 
              

 「滝の荘」は料理も美味しく、熱めの温泉も人気。 お風呂だけ入りに来る人は銭湯のように駐車場のすぐ傍に玄関があり、番台にはおばさんが座っておられた。
 雨の中、熱心に詳しい説明をしてくださったガイドさん、ありがとうございました。
 

お墓参りと城端(じょうはな)散策

2010-08-18 | 富山
 何年か前までは、お墓参りは家族や親類が寄り集まり、二上山まで車をつらねてお参りした。 その後、会食したり、氷見、姿の「ひみ」(今は’ひみのはな’)へ全員で泊まりに行くのがお決まりコースだった。 
 が、家族が次々と亡くなり、法要が続くうちに、私が勤めていたせいもあり、兄嫁の仕事はしばし中断することに決めた(と言うか自然にそうなった)。 それ以来、お墓参りは、それぞれの家族でする。 私は、子どもたちと。 子どもが帰省しない年は一人で、だ。  

 15日は、夕方二上霊苑へ、17日は実家のお墓がある城端へ。 いつもは遅くとも16日には、墓参りをすませるが、同級生がお昼を付き合ってくれると言うので17日に延ばした。 
 曇り空で少し涼しめの日。 JAで買ったお花をいっぱい車に積み込み、戸出「らんじょ屋」でお土産の菓子箱を買う。 
 お墓へ行く前に、1軒めの分家に寄る。 可愛らしかった3人のサッカー兄弟はもう中、高、高専生。 アルバイトやらまだ寝てるやらで、じいちゃん、ばあちゃんとだけ話す。
 待ち合わせの同級生二人に付き合ってもらい、町の墓地で3つのお墓にお参りする。 昼すぎになるとやはり暑い。 3人で、「かねしま」で鰻を食べた後、食後のコーヒーをと、喫茶店へ行くが盆休み。 次の店も閉店。 「やっぱり城端やね~」と言いながら「善徳寺」へ行く。

 城端別院善徳寺は、蓮如上人の開基から530年余りの古刹。 浄土真宗大谷派のお寺である。 7月末に「虫干法会」があり、たくさんの貴重な古文書や宝物が展示される。
 本堂で休みたいところだが、ちょうどお盆のお勤めの最中。 読経の声が聞こえる。 下は、本堂と山門。
             

             
 
 次は、別院前の通り。 右手前が庫裏の入り口。 更に手前に鐘楼がある。 左手、家並みの間に見える台形の山は、「袴腰山」。
             

 しばらく町を散策する。 大通りでなく裏通りを歩いた。 まず、「あらまち」。
             

 古い町には、小路が多いが、ここ城端も例外ではない。 大通りと裏通りを結ぶ小路が無数にある。
                   

 土蔵造りの通り。 ここは私の同級生の旧家の裏側。 今は、「曳山会館」と「美術館」になっている。
            

 郊外へ出ると、「水車の里」がある。 下は「水車公園」。 周りに大小さまざまな水車が回っている。
            

 友達と別れ、もう一軒の分家にも挨拶に寄り、スイカをご馳走になり、帰途についた。 帰りに、城端駅で車を止めた。(トップ写真)
            
 分家からはお土産にススダケのビン詰めと干しぜんまいをいただく。 両方とも自家製だ。
            
 
                   

「ヒロシマ原爆展・富山大空襲展」

2010-08-02 | 富山
 7/26(月)~8/1(日)、富山国際会議場で、「ヒロシマ原爆展・富山大空襲展」 があると、新聞で知った。 広島の平和記念公園や原爆資料館は、修学旅行で何回となく訪ねている。 高岡市内の中学校では、中三の修学旅行は広島での平和学習と決まっていた(ほんの数年だけ忌避する傾向があったが)。

 昭和20年8月2日午前0時15分、広島の原爆投下4日前に、富山市は大空襲を受けた。 
65年前の今朝のことである。 この時、私は6歳、小学校へ入る前の年だ。 病弱だった祖母と、母と弟と4人家族だったと思う。 父の戦死公報はまだだった。 大きく名前を書いた防空頭巾をかぶり、布製の肩掛けかばんを掛け、どこへ逃げたのか?
 家の裏の山田川の土手で、近所の人と真っ赤な空を見上げていたことだけ覚えている。

 8/1の「富山まつり」は、富山市が富山大空襲の犠牲者の慰霊のために行っている。 「薪能」は、その前夜祭だ。 薪能の前に、展示会場に寄った。 
 会場へ入ると、富山市長と広島市長連名で「主催にあたって」のメッセージが書いてある。 そして、富山市の「平和都市宣言」が。  

                    

 広島原爆資料館から、たくさんのパネルや遺品(レプリカも)が展示されており、夏休みのこととて、親子連れや、宿題なのかメモ帳片手に、友だち同士で来ている小学生で賑わっていた。 ベビーカーの若いママさんや若い人たちが目立つ。 確かに、広島へ行かないと見られない貴重な資料ばかりだ。 地方巡回をしており、北陸では富山市が初めてだそうだ。
             

                            

         人影の石           滋君弁当箱        伸ちゃんの三輪車    
              

        8時15分で止まった腕時計   防空頭巾        触れられる瓦
         
         

 
 
2時から、体験者の「証言」が語られると聞き、富山大空襲の体験かと思っていたら、なんと広島から派遣され来富された、新宅勝文さんの講話だった。


 新宅さんは、現在84歳。 19歳の時、東洋工業(今のマツダ)に勤めており、夜勤明けの朝、蚊帳をつって寝ようとしていて、被爆された。 蚊帳のせいか家屋の中だったせいか、爆心地から1.5kmの所だったのに、奇跡的に無傷だったそうだ。 ご自分のことを「化け物」です、と言われた。

 広島が、軍港があり、造船所があり、練兵場があり、飛行場があり、狙われる都市だったこと。 自分の小学生時代の話。 小学校の先生が貧しかった自分を心から支えてくださったこと。 そのことにより一生懸命勉強したこと。

 戦争前の日本の国は大変貧しい国だったが、軍事のためにはたくさんのお金を使っていたこと。

 自分は無傷だったが、周囲は犠牲者でいっぱい。 必死で救援活動をしたこと。 特に瀕死の4~5才の男の子が水を欲しがるので、虫のわいた泥水を布ですくい、しぼって飲ませると、「ありがとう」と言って死んでいった様子。 自分の背中に背負われて死んでいった若い娘さんや、胸や肩に身体をもたれさせ亡くなったおばあさんなど多くの人々のこと、を涙をぬぐいながら語られた。

 背筋をぴんと伸ばし、休む間もなく話し続けられる姿に圧倒され、質問したくても言葉が出なかった。 下は、広島市の被害状況の地図。 赤い部分が全焼地区。 

           

 富山大空襲のパネルは少なかった。 だが、下のパネルにもあるが、2日未明、「B29爆撃機174機により空襲を受け、市内は堀川、新庄の一部と、県庁、放送局、電気ビルなどを除いてすべて焼失、焦土となった。 富山市の被害率は、死亡者は100人に当たり、全国平均8.7人であるのに対し、13.5人と全国的に並はずれて高かった。」
 死亡者は2275人、重軽症者は7900人とある。

           

 今朝の新聞(8/2)に、昨日、県民会館と国際会議場の2か所で、「富山大空襲65年を語る」集いが開かれた、と知った。


自転車シェアリング

2010-08-01 | 富山
 数年前から、日が空いていれば「富山薪能」を見に行くことにしている。 8/1日の富山まつり前夜祭として、毎年、7/31日に県民会館で行われる。 急に話がまとまり、3人で行くことになった。 薪能の前に、「富山国際会議場」の催しも見ることにした。
 今度は、JRではなく、私の車で行き、舟橋北町の「教育文化会館」(通称キョウブン)の駐車場に止め、後は徒歩に決める。 前回、「あるも」のコンサートを聴きに「市民プラザ」へ行った時、大手町の歩道の広さに驚いたが、今度は、上の自転車置き場に目を奪われた。

 鮮やかな青色の自転車がずらっと4台並び、空きスペースが11ある。 つまり、15台分の自転車置き場が
歩道に並んでいる。 下の青い部分に、予め登録した手持ちのカードをタッチして、ロックしたり、外したりするらしい。 
             

 「シクロシティ」と呼ぶようだ。 下は「大手町ステーション」のボード。 富山市内15か所のステーションマップが示されているのは、バスストップとよく似ている。

          

 市電やバスと併用して、県庁、市役所、病院、商店街へ出かけると言うことらしい。 駐車料金が高い、富山市内の移動には便利かもしれない。 3月からスタートしたばかり。

 今朝のA紙、「ニュースがわからん!・ジュニア版ワイド」の特集を見て驚いた。 その、シクロシティが紹介されていた。

 ”自転車シェアって何?” 
 ”マンションに住む人たちで一緒に使ったり、街中のあちこちで借りられ、用が済めば返せる仕組み”
 
 と、ある。 自転車シェアが本格実施されている都市は、新潟市、富山市、高松市、北九州市、それと東京都世田谷区だそうだ。 
 「富山市ではシクロシティ(本社・東京)と言う会社に運営を任せ、無人ステーションを約300mおきに15か所、路面電車やバスと乗り継ぎしやすいよう停留所の近くに置く。 自転車はパンクしにくいタイやを使い、サドルは簡単に上げ下げできる。 24時間使え、月々500円の基本料金を払えば、1回30分以内なら何度乗っても無料。・・・」

 以上、記事より抜粋。
 高岡にも、似たようなシステムがあると、友だちは言っていたが・・・?