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Ruby の会

シニアライフ~能楽・ボランティア・旅行・食べ歩き・演劇などを綴っています

新年あれこれ~左義長など

2014-01-15 | 富山

 全国高校サッカー選手権大会の富山第一高校の準決勝、決勝戦とも素晴らしい試合でしたね~。感動の涙、涙でした。14日の朝刊2紙を隅々まで読み返し、またまた涙がにじみました。
 11日(土)の準決勝はずっと見ていたのですが、最後のPK戦は怖くて見られず音声だけ聞いていたのです。決勝は、しっかり観て応援しようと、テレビに向き合い目を離さず最後の瞬間までドキドキ、ハラハラしながら観戦しました。
 13日(月)の星陵との決勝戦。2点差をつけられた後半42分、途中から入った高浪くんがゴール後すぐボールを持って駆け出す姿、時間がない、早く試合を続けようと言う気持ち、終了間際のPKを冷静に蹴ってゴールに入れた主将の大塚くん。同点で延長戦にもつれ込み、そこでも決まらずPK戦突入を目前に、村井くんが放ったゴール。ドラマの連続でした。99名の部員のほとんどが県内の生徒で自宅通学生だそうです。大塚監督の「子どもの頃から知っている者同士、田舎の子でも全国一になれることを証明でき嬉しい」の言葉を誇りに思った県民は多いことでしょう。

 祝日だが息子は出勤しているか、家でテレビを見ていたか?と思いつつケータイにメールを入れました。「テレビ見ていましたか?感動的な試合だったね」と。折り返しの返事は「見ませんでしたが…、他の人からもその話でメールが来ました。」 会社の人か?同郷の友人か?でしょう。

 さて、翌14日、近所の大木白山神社の左義長の日。朝、姫ちゃんの伏木・気多神社の左義長の様子をブログで見て思い出しました。大木白山神社は、高岡市大工中町、JR北陸線の線路南にある神社。ウイングウイングでのMiTuの練習日なので、途中神社に寄ってから行くことに。左義長は6時までなので、5時に家を出ました。雪がハラハラと落ちています。途中、お向かいのご夫婦と会いました。境内でも近所の方と数人会い、新年の挨拶を交わします。暗くなった境内で赤い炎が勢いよく燃え上がっています。       

 ↓ 拝殿前で、1年の無病息災をお祈りします。       

 ↓ 道路脇には、消防車が待機していました。                         

 ↓ 線路側に回り、石垣の間から。      

 この石垣と線路の間の道を駅方向へ進み、線路下の地下道をくぐると駅北へ出ます。たまに車か自転車で通りますが、めったに歩きません。地下道の両方の出入り口に、↓のような表示を見つけました。右は 階段、左はスロープです。この地下道の上を用水が流れていますから、浸水した時の目安でしょうか。見方がよくわからないけど、赤線まで達したら通行止めになるのでしょうか。       

 7時の合唱までかなり時間があり、図書館で本を読んでいました。


「風の盆」 ’13~3日め

2013-09-16 | 富山

 9/3日、いよいよ最終日。今夜はなはさんも一緒だ。朝からいい天気。これなら立山も行ける?と思ったが、TOさんの「山へ行けば、たくさん歩くよ。今夜も歩くから無理では?」の一言でさすがの私も諦めた。彼女は、「平家物語」や「源氏物語」を愛読する傍ら、「山女」でもある。昨年はヒマラヤ・トレッキング・ツアーに参加したとの年賀状が届いた。

 「ではゆっくりしましょう」と、またまた隣のコンビニ食堂で高めのモーニングセットをとり、「八尾ゆめの森ゆうゆう館」のお風呂にでも行くか、と話していたら、お店の人いわく「おわらの3日間は宿泊客のみ」だそう。じゃ、ちょっと遠いけど、森の空気も吸える「古洞の森スワン王国」へ行こう、と決めた。ゆっくり入浴、冷たい飲み物を飲んで外へ出ると、雨になっていた。立山を中止して正解だったな。ここから大門のなはさん宅はそう遠くない、迎えに行ってもいいな、とメールを入れる。午後用事があるので夕方電車で行く、との返事だった。

 駅前の店で昼食。一旦宿に帰り、お茶にし、その後仮眠。隣の大部屋に団体さんが到着した様子で一時賑やか声が聞こえる。そして、なはさんから、台風のため北陸本線で電車が遅れ八尾に着くのは遅くなる、と連絡が入った。町の中で会えるだろうと、私たちは宿を出た。まだ明るいが、町にはそろそろボンボリに灯が入り始めた。

 特設郵便局の風の盆切手や、富山の薬売りの店を覗きながら歩く。なはさんから宿に着いたと電話があり、そのまま街ヘ向かうとのこと。私だけ少し戻り東町と西町の別れ道の所で待っていると、じきになはさんに会えた。ラッキー! もう暗くなっていたのに、雨模様で人出が少なかったからだろう。3人で東新町まで上る。↓は、東新町だけの早乙女姿の女の子たち。         

 ↓ 一踊りをして一服の時間。左の女の子はお母さんに脚絆を直してもらっている。        

 この後、ようこ姫さんに会い、若宮神社のそばの「マリーマリー」の宿にお邪魔した。この日だけ泊り客を受け容れると8月に聞いた。お茶だけでもと、寄らせてもらった。お茶ならぬ冷酒をいただきほろ酔い気分。マリーマリー大坪さん、姫さんと同行のどんちゃんと、お久しぶり!と旧交を温める。お泊まり客の夕食、美食薬膳料理を覗きこんだりもした。(ここでは写真を1枚も撮らなかったのです、すみません。

 皆さんと別れ、再び街へ。小雨が降ったりやんだりで通りはあまり混んでいない。↓は、西町コミュニティセンタ=で。

                  

 ↓は、今町公民館前で。お囃子の皆さん。     

 ↓ 道路を斜めに使い男踊り。 

 ↓ 輪踊り。大人に交じり真剣な面持ちの男の子。 

  この後、宿へ帰る途中で遅めの夕食をとりに店に入る。昼はうどんだったから、今度は玉子丼だ。宿に戻ると、夕方到着された静岡からの団体さんも街へお出かけの様子。私たちは前日同様2部屋使えるのでゆったりのんびり。お喋りの後、12時頃に床についた。2時(だったそうだ)になはさんが出て行かれた。「踊りの様子がわかれば電話するよ」との言葉に生返事をしていた。正直、もう充分、朝まで寝てよう、の気持ちが大きかった。

 2時半だったか3時だったか、ケータイ電話が鳴った。「街流し始っているよ」と。「TOさん、どうする?」と気乗りしない私。「行こうよ」とTOさん。二人ともタフだな~。二人の意気込みに釣られ出かけました。日本の道100選に選ばれた諏訪町の石畳。道の両側にひっそりと座って踊りを待つ人たち。寝ている人も。諏訪町をスタートする最後の踊りを待つ人達だ。
 そのうち、遠くからかすかに三味線の音が聞こえて来た。だんだん近づいて来る。待っていた人たちも静かに動き出す。街の人たちが混じり合い踊りながら鏡町に進みます。3日間の祭りの最後の夜を楽しまれるのです。鏡町のおたや坂を降りた所で踊り納めをして、その後4日の始発電車を駅のホームで見送り、その年の祭りは終わるそうです。ところどころで踊りを見せてくださいます。男女とも笠は背中に背負い、また踊り手でない人も混じり合って。
     

 踊り手の後にお囃子が進み、その後ろを観光客が黙って息をひそめてついて行く。↓は三味線方。 

 ところどころで ♪いっぷくしょまいかいね♪の歌詞が入り、一服になるのだが…。      

 ここでチョッとしたハプニング。一服が長いと思っていたら救急車が来たのだ。消防車も来て火事かと思えば、見物客が溝に落ちて動けないとか。坂の街、八尾。あちこちで通行止めの臨時の柵を見たが、それでも暗がりでわからず危険個所へ入ったか?何が起ころうと皆、静かに待っている。
 そのうち、コースを変えて踊りの列がふたたび動き出した。
      

      

  鏡町に着くと輪踊りになる。唄い手が一人ずつ輪の中に入り唄う。各町内の唄い手さん達が順番に、競うように。        

        

 そして踊り納めの挨拶があり、拍手が起こる。町の人も見物客も一緒になっての拍手。なんか胸にこみ上げるものがあった。TOさん、なはさんに充分満足してもらえたようで嬉しかった。「川越祭りにしろ、他のどこの祭りも、祭りと言うものは賑やかで勇ましいもの。こんな静かなしっとりとしたお祭りがあるなんて感動した」と、TOさんは何度も口にされていた。私としては踊りの輪の中に入れなかったのがちょっと残念。TOさんに、基本の踊りは易しいから覚えて行けば?と数回誘ったが彼女は手を振るばかり。

 今年の観光客は、1日目が12万人、2日目が6万人と聞いた。3日目はどうだったのだろう?
 ちなみに小林さん宅の泊まりは、連泊は8000円です、と言われ、4000円も儲かった気分だった。              


「風の盆」’13~2日め

2013-09-13 | 富山

 1月、東京での城端の同窓会に出席した時、翌日池袋で川越のTOさんに会った。TOさんは学生時代からの親友。当時私は中野に下宿していたが中野駅までバスに乗ると、バス代がとても高く、わざわざ京王線笹塚まで歩き、新宿経由で西荻窪へ通学していた。TOさんの家は中野駅のすぐ近くで、よく訪ね、泊めてもらったものだ。

 いつか尾瀬に行こうなどと話しているうちに、ふと「一度、風の盆を見てみたい」と言われ、「じゃ、街中の宿を聞いてみるから行けそうなら連絡して」と答えた。
 4月頃だったか、行けるから宿を頼むと電話があり、すぐ八尾福島の小林さんに聞いた。今も3日間は宿をしている、素泊まり1万円、今ならまだ大丈夫、との返事だった。
 彼女が、ゆっくりしたい、最後の夜の踊り納めを見たい、と言うので9/2日と3日の宿泊を頼んだ。私も付き合うことにした。

 9/1日夜東京を夜行バスで発ち、早朝に富山へ着いた、とメールが来た。高山線で八尾に着き、日中は街中を隅々まで見物したそうだ。昼食を食べようにもどの店も「準備中」、夜だけの営業らしい。ようやく見つけたラーメン屋さんも長く待たされ、おわらの3日間だけの営業と言われた。駅前で食べた「しろえび天丼」が美味しかったそうで、翌日も食べることになる。

 私はと言えば、3時までに入らないと町中へ車は入れません、と言われていたのに、9/2日、娘夫婦を出迎えた後2,3用事をして八尾に向かったら3時をちょっと過ぎてしまった。事情を話せば入れてもらえるなどと勝手に考えていたがとんでもない。どこへ回ろうとストップをかけられ、結局小林さんに電話をして通行許可証を持って迎えに来てもらった。(トップは、神さまに思えた「通行許可証」)。

  福島の小林司法書士事務所。ここが2日間の宿だ。前日は横浜から団体が来ていたそうだが、この日はTOさんと私の二人だけ。大部屋は空、二間続きを二人で独占だった。↓は、お茶菓子、「玉のかおり」。おわら玉殿のような味だった。風の盆の特製かな。        

 お隣のコンビニの奥に三日間だけ食堂ができている。そこで定食を注文。TOさんは昼にたくさん食べたからとデザートだけ。鯉が泳ぐお庭がきれい。      

 腹ごしらえもすみ、町へ出かける。駅前ステージを勧められたが、町へ向かった。聞名寺をちょっと覗き、東町へ上がる。7時前、東町公民館前ではそろそろ集合の時間らしい。まだまだだな~。      

 雨が心配だからだろう、時間通りに街流しがあるのか、ないのか、情報が入らない。小学校グランドの演舞場へ行くことにする。何年か前にも、遠くからシルエットのような踊りを見た。それはそれで美しかった。入場料は指定席3500円、自由席2000円。もちろん自由席だ。11町内の中、前日6支部、この日は5支部の競演会だ。支部(町内)名とその支部の踊りの特徴、指導者と演出者の名前がアナウンスされる。支部により、構成人員が異なる。中高生が少ない町内もあれば、成人女子が多い町内もある。それぞれの数に見合ったステージ構成が工夫されている。それが面白く見ていて飽きない。踊りの種類、順、囃子方と唄い手の人数も紹介される。

 まず、「鏡町」から始った。かつては花街として賑わったそうだ。女踊りの着物が白地できれい。横に広がった隊形から↓のようなポーズに。      

        

 ↓は、鏡町の男踊り。      

 ↓は、西新町の男女が混じる踊り。      

      

      

 最後は、↓の出演者みんなの総踊り。お囃子と唄い手が最後に退場する。        

                    

 ↓の「天満町」は、唄の途中で「コラショット」と囃子が入り、低い音程になるのが特徴。唄い手さんはどの町内にも5人以上はおられる。老若男女、ベテランさん新人さんいろいろ(たぶん)である。
 ↓は男踊り。全員そろっているかと思うと…

  
 ↓は、右端の人だけ間違えたのではなく…。一人ひとり、または一人と二人違う踊りをして変化するのです。
 

 ↓の右端と真中の人はずっと同じポーズ。片足のトンビです。

  ↓は、先ほど集まっておられた東町。ここでも、左の4人が同じポーズ。右から順に動き始めたのです。

                           

 この頃から少しずつ雨がぱらつき始めた。最後の諏訪町は↓のだけ。面白いポーズなので。          

 7時から9時近くまで。帰り、交通整理のおまわりさん、「街流しのことを聞かれても、私たちにはわかりませ~ん」と叫んでおられる。誰もがおまわりさんに聞くのだろう。
 途中、もう一度聞名寺に寄ってみた。ここのおわらはお寺の講中の方たちだそうだ。おわらは町内の人しか踊れない(囃子も唄も)。そこで全国の踊りたい、三味線、胡弓、太鼓を習いたい、唄いたい人が誰でも参加できるような会が生まれた。3日はお寺に奉納するそうだ。
          

  十分堪能して宿に戻る。一軒家なので自分たちで玄関の鍵をかけ、シャワーを浴びて床についた。明日、晴れれば弥陀ヶ原に行こうと用意して来たのだが、お天気はよくないようだ。 


マーク・セフトン作品展~北銀清水町支店ロビー展 《続編》

2013-08-22 | 富山

 娘の夫、マーク・セフトンの油絵の写真パネル展(以前、ブティック”丸清”で展示した作品と同じ)を、北銀清水町支店のロビー展で展示してもらうことを前に書いた。8/1から始っていたのだが、北日本新聞のロビー展紹介に掲載されたのがお盆過ぎの17日(土)だった。
 とたんに、友人から記事を読んだよ、北銀で見て来たよ、とメールや電話をいただいた。
 ↓は、Oさんより
先日 北陸銀行で、マーク セフトン氏の絵画展を、もう一度見せてもらいました。やはり 洋装店での展示と少し違った雰囲気でしたね。
私は、”ニューヨーク” が 明るくて、陽気な喧噪という私のニューヨークのイメージを表しているようで大好きでした。 ”アイルランドの岸壁”も、ひところ アイルランドと言えば紛争をイメージしていましたが、このごろよく、テレビでアイルランドの素晴らしい景色を見るようになり、ロマンチックな雰囲気で素敵だな!と思いました。 

 ↓は、Sさんより:
清水町支店のマークの個展見てきました。前のブティックであったのより格段にいいです!へんに洋品の小物が飾ってないから、「絵」だけに焦点が合わされて。マークの才能が輝いていました。掲示の環境って絵画の命を左右するって実感!  

 21(水)茶々姫教室から、庄川の「川金」へ鮎を食べに行くことになり清水町集合だった。茶々姫さん、なはさん、ようこ姫さんに見てもらった。皆さん”丸清”まで足を運んでくださった方たちだ。10時開店を待って、店内に入る。近所のMさんが、ちょうど来ておられ見てくださっていた。行員さんが、すぐ来られて「お好きな絵の番号を書いてくださいね」と言ってくださる。ありがたいことだ。↓のようなお願いとメモ用紙、小箱が置いてあるのだ。『マークの絵をご覧いただきありがとうございます。いいな、気に入った、印象に残ったと思われる作品がありましたら番号かタイトルを記入してお知らせください。よろしければ、感想や名前もどうぞ』と書いてある。              

       
 
 
 ↓の箱の中には、数枚メモ用紙が入っていた。9月に娘夫婦が来たら喜ぶだろう。        

久しぶりの「クロスランドおやべ」

2013-08-13 | 富山

 8/5(月)おとぎの森公園で「古代エジプト・不思議アート展」を見た後、クロスランドおやべへ向かった。昨年暮れ、ホールへ「クリスマス・コンサート」を聴きに来て以来だ。タワーに上るのは何年ぶりかしら?このタワーは、一辺が12mの正三角形の塔だそうだ。展望室の高さが100m。チケット代は、シニアは200円。
 エレベーターの横スペースで「加越線物語」の写真・パネル展示をしていた。昔は”かえっせん”と呼ばれ親しまれていた懐かしい鉄道。私の高校は、城端線と加越線の交わる福野町にあり、井波、庄川、津沢から通学する友人もたくさんいた。
今は廃線、サイクリングロードになっているはず。

 さて、タワー展望室にオープンしたカフェは期間限定で、今は休店中。展望室をグルグル回りながら周辺の景色を眺める。
 ↓ の散居村は砺波地区より工場が多いようだ。川の流れは見えないが、奥が小矢部川。
       

 ↓ タワー下の交流広場には、池やハウスが見え、ハート型の何やら不思議なマークも見える。

               

 ↓ 展望室の窓にもハート型のものが?ここは「恋人の聖地」なのだそうだ。神社のお札のように名前を書いた鈴(?)が下がっている。           

 ↓ エレベーターを降りると、こんなスポットが。記念日の日付け入りです。まさに恋人の聖地。恋人同士が来る場所らしい。         

 外へ出ると、大きなヘリコプター。これも以前はなかったな~。これは子どもが喜びそう。       

 ↓ すぐ傍に踏切があるので、え?これは?と思ったらミニSLが走っているらしい。手前の小さな線路を見ればSLの大きさは想像できるが土日限定の運行とか。          

 ↓ プラットホームの駅の表示板は?隣の駅は倶利伽羅(くりから)古戦場と宮島峡とある。なるほど。            

 ↓ 駅舎の時計が楽しげに4時を告げます。 

 しばらく来ないうちに、クロスランドおやべは大変身していた。目下「サマーフェスティバル」開催中。7月に開かれた「空中カフェ」もその一環だったよう。今後のスケジュールを見ると、

   8/24,25日:ヘリコプター&防災・防犯フェスタ
   9/15、16日:ミニSlフェスタ
   9/23日:しげちゃんキトキトLIVE・室井滋さんの絵本紹介、トーク、音楽

 などがあります。


「新田次郎・岩倉政治とイタイイタイ病」

2013-03-07 | 富山

 旅行から帰った翌26日(月)は、わかっていたことだが大忙しだった。まず、お寺のお参り。除雪をしなければならない。どうやら間にあい、8時半ごろお参りに来られた。
 その後、車検のため車を取りに来られ、代車を置いて行かれた。午後、ウイングウイングで講座。夜はMiTUの合唱練習だった。さすがにクタクタだった。

 ウイングウイングの講座は、米田憲三先生の「文学の舞台を読む 41・新田次郎と岩倉政治 イタイイタイ病」だった。岩倉政治は想像できるが新田次郎とイタイイタイ病の関係は知らなかった。(写真はすべて、映像からなので不鮮明だが
 ↓は、富山市友杉の「イタイイタイ病資料館」。昨年4月に開館したばかりだ。ニュースで聞いたが、まだ行ったことがない。
        

 ネットで見つけた、資料館のURLを紹介します。 http://itaiitai-dis.jp/

 神通川流域の農業被害が報道されたのは、明治時代からだそうだ。昭和の初め、旧婦中町熊野地区の女性に奇病が発生。昭和30年初めて「イタイイタイ病」と言う病名がついた。30代以後の女性に多く、骨と筋肉が痛み縮む、それまで日本にない奇病だった(米田先生は、この頃の新聞記事をいくつも紹介された)。

 萩野昇医師が、「神通川の上流にある三井金属神岡鉱山から排出されるカドミウムが原因」と言う鉱毒説を発表。昭和43年厚生省が「イタイイタイ病は公害」と認定した。水俣病、四日市ぜん息などと共に「4大公害病」の一つとなった。当時、私はN中に勤めており、教材に取り上げた記憶がある。

 トップ写真は、神通川の冬景色。「神の通る川といわれた神通川冬景」とある。      

 ↓は、新田次郎氏。気象学者でもあり山岳小説を多く書いている。(妻は藤原てい、息子は正彦彼が「神通川」と言うタイトルの小節を書いている。主人公の医師、熊野正澄は萩野博士がモデル。復員して、廃墟となった富山に戻る場面で始ったいる。当時、新田氏は2週間ほど富山に滞在し、詳しく取材、主人公と近所の人や患者との会話は冨山弁で語られる。最初の部分だけプリントされ、それを読まれた。高岡市立図書館にあるそうだ。

 ↓は、本の表紙。川の流れが表表紙になっている。高岡市立図書館にあるそうだ。      

 もう一冊は、井波町出身の作家、岩倉政治の「ニセアカシアの丘で」に収められている「尋問」という短編だ。これは、イタイイタイ病裁判の中での法廷場面だ。患者の中井タカが裁判長から証人尋問を受ける。
 神通川がどんな時濁ったか、その水を飲んだか、いつ発病したか、どんな痛みか・・・と、それに飾らぬ冨山弁で訥々と答えるタカ。米田先生が一部を朗読されるのを聞いているだけで胸が一杯になる。これも図書館にあるそうだ。いつか読んでみよう。↓は、岩倉政治氏。
         

  最後に、岩倉氏の有名な「イタイイタイ病」の詩を、心をこめて朗読された。長いが、ネットで見つかったのでコピーしました。 知っている方も、ご存知ない方も一度読んでみてください。イタイイタイ病対策協議会が結成された頃の作品です。あの頃、くまさん達と一緒に読んだ記憶があります。

  詩 「イタイイタイ病」          岩倉政治

 

おれの大好きな おばばが死んだ

まつりになると おれの手に

飴玉をいっぱいにぎらせたおばば

一俵の米をかるくかついで 男に負けなんだ

力もちの おばばが 死んだ


やさしかった 母親も死んだ

おっぱい臭いふところにもぐると

何が起ろうと 安心だった

はだかのおれを 素肌の背中におぶって

暗くなるまで 田んぼをした

働きものの 母親も死んだ

おばばも 母親もおなじことをいうて 死んだ

イタイ イタイ イタイ

暗いなんどの ねどこは

すっぱい堆肥のにおいがした

ふとんの外へ 火ばしみたいな足が一本

折れて はみ出て

ぼろきれの上にのせてあった

それを見るのがこわかった


  --おとと かんにんしてや

  おら かかさまのつとめも

    ろくに せなんだちゃ

そのとき おれには

なんのことか わからない

母親も おやじも 泣いていた

死にたい 死なしてくれとおがみながら

泣いて もがいて 死んだ


神様が通る 神通の川

とりわけうまい 水と魚たち

神の水で育つ 米と野菜

うまいうまいと 押しいただいて

食べて 村じゅうの 罪のない

おばばと おかからが 死んだ

カドミウムの毒とは知らず

「業病」の責め苦の日々を

ひとりで耐えて 死んだ


三井が 神通へ毒を流した

三井が 神の川を 悪魔に変えた

三井が おばばを 母親を殺した

今度は おまえの 母親と兄弟をねらっている

三井が 緑の村に 地獄をつくった


山をこがし 坑(あな)を掘り

ハッパを ぶっかけ

カドミウムの青い死の沼で谷々をみたし

戦争のたびに おやたちを殺しながら

ふくれあがった 三井

その三井の とまらぬ笑いが

イタイイタイの 叫びとなり

売れない 婦中米の嘆きとなった


むすこよ おぼえておけ

ふるさとの この悲しみと怒り

神通から 神を追い出した

三井を 胸にきざめ

緑の田に 毒をもった

下手人を ゆるすな

たたかいはよしながくても

おやたちの 恨みのながきをおもえ

いのち守り 田を守ると

こぞり立つ ひとびとのちから

真実の つよさと勝利の

たしかさを 信ぜよ


さあ

おまえと おまえが迎える妻のため

おまえらの 子どものために

おやじの おれにつづけ

おれを 乗りこえろ

たたかいに組んだ 手をほどくな

怒りを もやせ

三井が ひたいを地につけるまで

神通の水 とりかえすまで 


「石川啄木と富山ゆかりの女性」

2013-02-16 | 富山

 かなり前に、井上ひさし作の「泣き虫 なまいき 石川啄木」と言うお芝居を見たことがある。数々の名作を生み出しながらも、不遇のまま早世した歌人・石川啄木の晩年の生活を描く芝居だった。東京・本郷の床屋の二階に間借りをし、貧窮と病魔、家族との確執に苦しみながら27歳の若さで亡くなった啄木。妻・節子が、彼の日記を読み始め、その短い生涯を振り返る場面が印象に残っている。

 そんな啄木と富山ゆかりの女性2人について、米田憲三先生が熱く語られた。2/12(火)、ウイングウイング高岡で、「文学の舞台を読む」シリーズ・40回目の講座だ。ここしばらくは日が合わず受講しなかったのだが、昨年YAさんから「面白いよ」と聞き、久しぶりに申し込んだ。↓のように、この講座は男性の受講者が多い。      

  米田先生は、以前よりさらにお元気で若々しく見えた。      

 明治41年、啄木は22歳の時に釧路新聞の編集長として迎えられ、そこで小奴(こやっこ)と言う美人芸者と親しくなる。当時小奴さんは18歳、歌や詩を愛する文学少女でもあった。その小奴さん(本名は近江ジン)が、昭和37年富山の知り合いを訪ねて来て、その後1年半ほど富山県厚生病院で療養していた。富山新聞や北日本新聞は、啄木の愛人として紹介し、競って記事にした。啄木忌にちなみ「思い出」を寄稿してもらったりした。東京郊外の養老院で亡くなった時も大きくとり上げている。
 資料として、新聞記事のコピーや歌集「一握の砂」に”忘れがたき人々”として小奴さんを歌った短歌20首以上が紹介された。18歳の小奴さんの可愛らしい写真もあったのだが、なにぶん新聞記事のコピーなのでボヤケテおり割愛します。

 もう1人の女性は、橘智恵さん。啄木が釧路へ行く前に函館で小学校の代用教員をしていた頃の同僚。智恵さんの父、橘仁は高岡市長慶寺(当時射水郡横田村)の出身で、札幌で橘農園と言うりんご園をを経営していた。長女の智恵は、函館弥生小学校の訓導をしていて啄木と同じ学校で勤めていた。啄木は、彼女のことを’鹿の子百合’のようだと日記に書いている。そして、「一握の砂」の”忘れがたき人々へ”でやはり20首以上の短歌を残している。

 これらの恋の歌を、一首ずつ読み上げ、米田先生流の解説がつくから面白い。受講生はほとんどが年配者なので、ふふふ、と笑いながら聴いているのだ。

小奴さんを詠んだ歌:

死にたくはないかと言へば これ見よと 咽喉(のんど)の痍(きず)を 見せし女かな
きしきしと寒さに踏めば板軋む(きしむ) かヘリの廊下の 不意の口づけ

智恵さんを詠んだ歌:

馬鈴薯の花咲く頃と なれりけり 君もこの花をすきたまふらむ
世の中の明るさのみを 吸ふごとき 黒き瞳の 今も目にあり

 今、NHK第二放送「カルチャラジオ」と言う番組で、「啄木再発見」(三枝昂之著)を放送しているが面白いそうだ。     

  短歌も俳句も、よくわからずあまり興味もない私だが、苦しみながら短い生涯を終えた啄木の情熱に触れ、雪の舞う帰り道もほのぼのと暖かい気持だった。


「むぎや祭り」と秋風

2012-09-18 | 富山

 子どもの頃から、9/15日のむぎや祭りの夜から長袖ブラウスを着たものだ。毎年そうだった。遠くから聞こえる胡弓や三味線の音色に耳を傾けながら、なんか腕が寒く長袖をはおっていた。
 が、今年のこの暑さはどうだろう。17日(月)、今日は35度を超しているのでは?熱風のような空気だ。この日は、富大講堂の「ヨハネ受難曲」を聴きに行く予定だったが、先日来の登山、三派能楽大会などで疲れ果て、体調も悪いので急きょ取りやめた。残念だが休養の日としよう。

 さて、15日夕方のこと。午前は東部老人福祉センターへ行き、午後はまだ疲れが残っていたが、茶々姫さんのパソコンのチェックもしたくてお茶教室へ回った。
 帰宅後、翌日の素謡の仕上げをしようか、と思っているところへ電話のベルが。さっきまで一緒だったKAさんからだ。「今、むぎや祭りの中継をしているよ。」と。「え?今日、むぎや祭りだった?」と言うわけですぐテレビをつけた。すっかり忘れていた。最近、9月は行事が多くむぎや祭りはご無沙汰だ。KAさん、お知らせ、ありがとう。

 嬉しいことに、平高校の郷土芸能部の演奏最中だった。私の高校生の頃は、福野高校平分校。中には、福野町に下宿したり、高校の寮に入って本校に通学している人もいた。今は、南砺平高校だ。数年前から、郷土芸能部が生まれ、麦や、こきりこ、古代神、といちんさなど、五箇山に伝わる民謡の歌と踊り、囃子を練習披露するようになった。全国高校総合文化祭で何度か最優秀賞をとった。
 今年の夏の総文祭は、富山県が会場。郷土芸能は砺波文化会館で行われた。超満員で入場できなかった客のために、外でも演奏したとニュースで言っていた。テレビ画面は、ちょうど始まったところ。だが、動いている画面を撮るのは難しい。色も悪い。精一杯マシな写真だけ載せてこの程度だが、何よりも高校生の笑顔に注目ください。↓は、こきりこ。ささらを持って。     

 ↓は、歌い手たち。この自信を持った、元気な笑顔。

             

 3年生は引退して、1,2年生だけとのこと。女子の踊りも初々しい。     

 ↓は、笠踊りと笛方。     

 踊りの種類も多く、囃子方や唄い手も大勢。全校生徒総出演かと思うほど。この後、城端の町内の踊りに移ったが、元気さでは高校生に負けている。でも、幼児や保育園児の踊りは可愛い。小学生になると笠踊りもきりっとしている。        

 久しぶりの「むぎや」。居ながらにしてテレビで観られて嬉しかった。


城端曳山祭り~余話

2012-05-14 | 富山

 5/5(土)、南砺市城端、「薪の音」でランチ後曳山祭り見物に行った。お茶教室の仲間7人である。夜の提灯山まで粘ろうと残った3人組は、曳山の行列と一緒に歩きながらいろいろな出会いを楽しんだ。(↓は、”坡場 〈はば〉の坂”、手前を下ると五箇山へ通ずる、右は醤油屋) 

 この坂の下は東新田町。この辺りには機業場が多い。(↓は、機業場の屋根)        

 町の大通りで、紋付袴姿の同級生に次々と出会った。
 大工町のHaさんは親の代からの床屋さん、新聞販売店の経営も。袴には解説委員のリボンがついている。曳山会館前の披露の時、各町内の解説委員が曳山や屋台の説明、庵唄の歌詞の解説をしていたが、町内によりばらばらだったので、最近は、観光ボランティアが原稿を読むようになった、とのこと。そう言えば、きれいな声でプロ並みの解説だった。
 すぐ後ろの曳山に、西上町のMoさんとNaさんが。Moさんはクリーニング屋さん、Naさんは老舗のお菓子屋さん。元と今の町内会長さんだ。資料のお礼やら同窓会の話をする。三人とも長男、家を継いで町に残った人たちだ。まだ現役で町を支えておられる。

 行列は、「所望」の家々の前で庵唄を披露するので、ゆっくり進む。Kaさんは、高岡の知り合いの人達と何人にも出会い、道での立ち話。ようこ姫さんは、提灯山を見ながら歩道の縁に座りこみ、隣のおばあちゃんと仲良くお喋り、「伏木祭り」の提灯山と”カッチャ”の説明に余念がない。時間はゆっくり流れ、歩みもゆっくりと、コーヒータイムや夕食タイムをとりながらあっと言う間に9時を過ぎた。(↓は、お祭りの着物を着て庵屋台の前でママに写真をとってもらう女の子)
             

 出丸坂のUターン見物の後、別院に向かって戻る途中のことです。広小路(城端にも小さな広小路がある)まで来て、「この細い小路の下に”桜坂”と言う急坂の階段があってね」と話していると、一人の女性が立ち止まり、Kaさんに話しかけられた。
 「城端の町は馬の背中みたいに坂の上にあり、両側に川が流れ東新田、西新田の町がある。」
 「曳山の上に昇るのは、大工さん建具やさん、身の軽い高所に慣れた人たちだ。父が大工だったので、子供の頃から祭りの前に準備しているのをよく見ていた。」
 「車の心棒に薄い檜の皮を巻くので”ぎゅうぎゅう”と言う音が出る。祭りの前に父が巻いているのをよく見ていたものだ。だからあの音が出る。町の人は”ぎゅう山”と呼んでいる。」
 「勢揃いした”帰り山”がそれぞれの町内へ帰るのを、一番山がご苦労さまでした、と見送る。あれを見ないと祭りが終わった気がしない。」などと、いろいろと面白く説明してくださり、私の知らないこともいっぱいあった。私の実家は西新田だったので、いわゆる曳き山のない町内(獅子舞がある)なので見物人と同じなのだ。

 「町の方ですね」と聞くと、「実家は出丸のOで、すぐ近くに住んでいる」と仰る。え~ッだった。「城端望見」を送ってくださったOさんのお姉さんなのだ。88歳で最近膝が痛くて、と仰るが元気そのもの、お顔もつやつやして笑顔が素適。元NTTにお勤めだったそうだ。
 ひとしきり、数年前にOさん宅で「所望」の席に座らせてもらい庵唄を聴いた思い出などを話した。Oさんのお義姉さんがOさんや私と同い年など話の種が尽きず、長い立ち話になった。夕食を済ませ、提灯山の出発を見に戻ったら、またまたお会いして話の続きになった。なんとまあ狭い町だこと。嬉しい、楽しい、出会いでした。

 駐車場に戻る途中、「桂湯」に寄る。昔からの銭湯だったがご主人のYaさん(やはり私と同級生)が亡くなられ、奥さんと娘さんで手作り小物の店を開いておられる。浴場をそのまま生かしたレイアウトが面白い店だ。            入浴料金「拾六園」から始っている。昭和30年代の料金表だった。


城端曳山祭り~夜の部

2012-05-13 | 富山

 5/5(土)の城端曳山祭りの続きです。この日は提灯山まで残る予定でいたので、曳山会館内で皆が休んでいる間に、奥の「蔵回廊」に久しぶりに入った。ここは旧野村家の大きな土蔵を美術館にしたもの。戦後疎開をしておられた村井辰夫さんの彫刻も展示されている。↓は、村井氏の写真、土蔵の入り口(女の子が何やら説明を読んでいる)、村井氏の彫刻。

                  

 その後、別院前の小物屋へ入ったり、香具師を覗いたりしてぶらついてから、出丸坂の折り返しを見に行く前に、早く帰宅する人と疲れた人4名が早目に帰ることになり、残留組はようこ姫さん、Kaさん、私の3名になった。荒町の小路など見ながら出丸坂に向かう。私が紋付袴の同級生に会ったり、Kaさんが高岡の知り合いに会ったり、姫さんは写真を撮りながら、つかず離れず、時には見失ってケータイで居場所を確認しながら、出丸で落ち合った。出丸は町の北の端でゆるい坂になっているが、坂の下辺りで全部の屋台と曳山が180度方向転換をする。このUターンも見どころの一つ。ぎゅーっと音をたてながら回転する曳山の姿は勇壮であり、手に汗握る全体が一丸になった技は、何度見ても飽きない。拍子木とかけ声で曳き手の心が一つになる。(トップ写真)回転した途端にすぐ坂を登ることになるので、前は引っ張り、後は押す。思わず「頑張れ~」と言いたくなる。     

 全部の曳山がUターンを終えると見物客もホッと一息。私たちは「安居(あんご)」の喫茶店に入りコーヒーで一休み。店を出た頃は、すでに提灯山になっていた。提灯をつけた後、皆さんは夕食の時間。屋台の中も曳山の上も誰もいない。        

 屋台にも可愛らしい提灯がついている。誰もいないのを幸いに記念撮影をしている人たちも。        

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 さあ、私たちも、「浪漫亭」に入り夕食をとった。お弁当「曳山ご膳」だ。午後7時、提灯山が出発する。        

       

 ↓は、大黒天。       

      

 提灯をつけた6基ずつの庵屋台と曳山は、昼と同じように「所望」の家の前に止まり庵唄を披露するのでゆっくりゆっくりと進む。囃子の音も庵唄の声も、ひときわ夜空に冴え渡る。そして最後に、町の南端の城端庁舎(昔の役場)辺りでUターンをしてそれぞれの町内に帰って行くことになる。この提灯山行列を「帰り山」と言い圧巻だそうだが、10時を過ぎるので諦めた。帰りに「じょうはな座」に寄ったら、映像での曳山紹介が映されていた。大きな画面で迫力のある映像で見ごたえがあった。(次回もう1度、曳山祭り余談を載せますのでお付き合いください 


城端曳山祭り~昼の部

2012-05-12 | 富山

 5/5(土)、「薪の音」でランチを終えたのが1時過ぎ。町のグランドに駐車し、大工町へ向かう。城端町は、東に池川、西に山田川が流れ、二つの川の間を高町と言い、馬の背のように坂の上にある。その6町内が曳山を持つ町内だ。各町に、傘鉾、曳山、御神像、庵屋台(いおりやたい)がある。

 大工町の通りに行くと、先頭の傘鉾が勢揃いしていた。(トップ写真) この後、一番山から順に、庵屋台、曳山の順で街を練り歩き、所望の家の前で庵屋台の中の若連中が笛、太鼓、三味線の囃子に合わせ庵唄(江戸端唄の流れを汲む)を唄う。

 ちょうど、三番山、東下町の「大黒天像」を安置する東耀山が、宗林寺町から大工町の細い通りを抜けて姿を現したところだった。両側の家にぶつからないように屋根がたたまれている。        

 広い通りに出たところで、90度向きを変える。かけ声と拍子木の音とともに、車の前の曳き手は飛びあがって体重をかける。         

 無事に向きを変えたところで、曳車の上ではたたんでいた屋根を降ろす。片足を宙に浮かせての作業だ。          

 首尾よく屋根は元通りに。天井は格天井(ごうてんじょう)の手法だ。          

 ↓は、曳山の壇の飾り彫刻。         

 ↓は、車は輻車(やぐるま)。        

 ↓は、四番山、出丸町の「布袋像」を安置する唐子山の屋根を降ろすところ。          

 ↓は、唐子山の飾り。           

 ↓は、五番山、西下町の庵屋台。数寄屋造り2階建て、主屋、離れ2棟の料亭を模している。        

 ↓は、西下町の法被、「龍神」。法被の模様も町により異なる。           

 さあ、残るは、最後の東上町の鶴舞山、御神像は「寿老人」。ここで、ハプニングが起こったらしく、歓声が上がっている。後で聞くと、例年一番山の町内が電線の高さなどを各町内に知らせる習わしだそうだが、何か手違いで曳山の屋根が引っ掛かったらしい。大工方の若者が屋根の上へ昇り外したらしい。私が見たのは、ちょうど降りて来るところ。電信柱を伝って無事に着地、思わず「猿みたい~!」と叫ぶ子どもの声、そして拍手。照れくさそうな若者。

                  

 その間、この町内の庵屋台は、前方で静かに待っている。       

 最後の町内の曳山が大通りに現れたところで、私たちは、曳山会館前に移動した。ここは特設会場で、全町内の庵唄の披露と曳山の歴史や作者など説明が行われる。有料席もあるが超満員で割り込む隙もない。望遠で、大黒天像の前の操り人形「ラッパを吹く人形」と「逆立ちかるわざ人形」を撮ってみた。見にくいが、左前の人形を見てください。左の人形がラッパを吹くと、右の人形が逆立ちを始めます。

         

 外は夏のような暑さ、曳山会館の奥の「蔵回廊」に久しぶりに入った。その後の、出丸町の折り返しや「提灯山」については次回に書きますので引き続き読んでください。(いい天気だったのに写真が鮮明でなくて残念ですが)


温まる「カンポの宿」

2012-02-09 | 富山

 2/8(水)、予定していた集まりが変更になり、ぽかっと時間が空いた。午前は娘の病院に付き添い、帰りにNAT事務所へ。午後2~3時に迎えに行くまで3,4時間身体が空いた。いつもなら帰宅してまた出直すのだが、急に思いついて「婦中カンポの宿」へ行くことにした。3月までの無料券がまだ残っている。

 天気は、晴れたり粉雪が降ったりの変な天気で、気温がやけに低い。何ヶ月ぶりで行ったら、水曜日は「レディスデー」だそうで、とても空いていた。休憩室も4~5グループだけ。まず4階の展望お風呂へ。

 ここのお風呂はとても温まる。上がると、知らない方が「このお風呂は上がってからポカポカと温かいね~」と言われる。泊まりのグループの人らしい。でも、こっちの言葉だが?ゆっくりと一泊で来られたのだろう。

 休憩室で「レディス膳」とノンアルコールを注文。釜飯と湯葉豆腐がついている。甘エビとこんにゃく刺身、煮物、煮豆、デザートに紅茶まで。月曜、火曜はレストランでバイキング、木曜は休憩室で演芸ショー、金曜は家族風呂半額デーだそうだ。大きいテーブルを独り占めして新聞を広げ、ゆっくり読み(文庫本は持って来なかったので)、ちょっと横になった。
 近くのテーブルの人の話し声が聞こえる。去年はスイカが上手くできたから、今年もたくさん植えよう、大根も…。蕪は植える場所を間違って雪の中掘り出せなくなり、失敗した、などと話しておられる。農家のご夫婦と近所の人かな?
 「大根植えるのも、いつまでできるやら~」の言葉。もう一人の方は、「長い間サラリーマンしとったおかげで、年金ももらえて有り難い。」 川柳をやっておられるらしく、自作の「冥途から 赤紙の来る 年となり」がお気に入りのようで披露しておられた。

 同世代だな~と、思いながらウトウトと聞いていた。休憩室は暖かいが、3時まで。湯冷めしないように、2時過ぎには部屋を出た。近いようで婦中は遠い。まして雪道だし、慌てず高岡へ戻ろう。NAT事務所には3時頃に着いた。
 久しぶりのカンポは良いお風呂だった。友だちと行くのも楽しいが、一人でのんびりも好きだ。
 (トップのチラシがクシャクシャで見苦しくすみません。) 


「富山水墨美術館」&再び「田尻池」

2011-11-24 | 富山

 11/23(祝)、二人とも空いている休日だったので、娘と「水墨美術館」へ「奥田元宋・小由女二人展」を観に行った。

 奥田元宋・小由女のご夫妻は、故郷の広島県三次市に「ふたりの美術館」を作ることを希望されていた。「お二人の故郷であるこの地に美術館を誘致したい」という三次市の強い要望と、二人の故郷に対する思い入れとが合わさり、「奥田元宋・小由女美術館」が4年前に建設されたそうだ。

 元宋の日本画と小由女の人形とが同じ部屋に並べられ展示されていた。
                   ↓は、私が買った絵葉書き。
      

 「水墨美術館」前の庭は憩の場所だ。家族連れやご夫婦連れが日差しの中で散歩を楽しんでおられる。車椅子の方も。庭の紅葉は「元宋の赤」に負けそうだ。
    

    

              ↓の3枚は、娘の作品。 
         

         

 さて、帰りにまたしつこくも田尻池に寄った。朝と夕方しかいない、と聞きながらそれでもなおである。

 案の定、先日同様に鴨の群れだけ。でも、今日は4,5組の観客とボランティアのおじさんがおられた。
       

 「田尻池」のオオハクチョウは、今22,3羽越冬に来ている。「あの方たちは、朝は目覚めが早く、7時頃にはお出かけ。4時頃にこの田尻池ホテルに帰って来る」そうだ。昼は、婦中の「富原」という所、井田川と山田川の合流点の辺りの河原で過ごすのだそうだ。旧長沢を南下して…と道も教えてくださった。ただ、その道路を何度も往復しないと見つけにくいらしく、「いない、いない」とよく電話があるとか。
 弁舌さわやかなおじさんで、白鳥の習性や寿命など、いろいろと興味深い話が続き、あるご夫婦と私ら親子で聞き惚れていた。

 針原にコハクチョウが飛来する場所がある。そこでは餌を撒いているので、日本海側を九州方面に南下するコハクチョウが必ず立ち寄るのだそうだ。一夜の宿、と言うことらしい。
 オオハクチョウが富山県で越冬するのは、十二町潟が最南端だとのこと。話はいっぱい聞いたが、まだ白鳥さん達にはお目にかかっていないので、いつかまた12月にでも来ましょう。


白鳥のいない田尻池

2011-11-19 | 富山

 11/19(土)、予報どおり朝から雨。富山市民プラザへ「あるも」と「コーロギ」のジョイントコンサートを聴きに行く予定。帰りは暗いだろうし、車は怖い、JRにしようか、でも雨の中歩くのはね~、などと迷いつつ、結局車で行くことにした。車なら、途中田尻池に寄ろうかと、一緒に行くSaさんに言うと、行ってみたいと仰った。森のくまさんのブログに「白鳥飛来」のニュースと写真が載って以来、気になっていたのだ。

 雨の日は、白鳥はいるだろうか。池にいなければ、どこで過ごすのだろうね~などと話しながら行った。広い「田尻池」は鴨でいっぱい。水面にも、岸にも。岸にいるのは餌をついばんでいるらしい。人慣れしているのだろう。近寄っても飛び立ったりしない。種類が違うのか、雄と雌の違いか、羽の色がまったく違う。

     

     

 白鳥は、残念ながら一羽もいなかった。駐車場もがらがらだ。やっぱり雨の中、来る人はいないのだね。
     

 今度、晴れた日にまた来ようね、とSaさんと話す。カンポとセットにすればいいね、とも。それにしても白鳥はどこで休んでいるのかしら。

 コンサートの時間も気になるので、早々に引き揚げた。


桜ヶ池クアガーデン・ヨッテカーレ城端(じょうはな)

2011-08-17 | 富山

 今年もギリギリになって、息子がお盆は帰れないと言う。それもこちらから何度も問い合わせた結果だ。今年は娘とお墓参りに行くからいいか、とあっさり諦めた。15日は朝から二上霊苑へ。帰りに、国分浜「越乃庭」に寄り一風呂浴びた。4,5日前に久しぶりにSaさんと行った時忘れものをしたせいもある。海が見え、時には氷見線の電車が窓の下を通るのに出合える。

 16日は、実家の墓参りに城端へ。いつものように2軒の分家や友人宅にも寄るので買い物をして。雨を気にしながら出かけたが、案の定、ちょうど墓参りの最中に大雨が。お墓も、4つ回るので雨宿りをしている暇もない。どうせ暑いのだし、雨シャワーは気持ちがよかった。分家の1軒が近所の葬儀で留守だったので、予定が早めに進み、桜ヶ池に寄ることにした。

 桜ヶ池クアガーデンで、ランチは済んでいてもティータイムをと思ったら、「今日はティータイムはお休み。5時のディナーまで休憩」とのこと。お盆だから?宿泊客が多いから?
 確かに駐車場は満員。室蘭、長崎、千葉、三重ナンバーなど県外車がとても多い。富山ナンバーはプール利用者か、我々のように墓参り組か。
      

      

 クアガーデン(↑写真)のロビーで休んだ後、すぐ前の城端SA”ヨッテカーレ城端”を覗いた。軽食とお土産の店だったはずだが、お土産と野菜直売所が別棟になっている。聞くと、2年前に増築したそうだ。

 ↓は軽食コーナー。コロッケやおむすびが人気だ。
      

 中は、明るい食堂になっており、麺類もしろえび出汁だそうだ。
      

   ↓は、お土産と野菜直売所。

      

 ホタルイカやしろえびのお菓子、五箇山の土産もあるのは、どこの土産売り場も同じ。五箇山の「堅豆腐」(400円)と「麦やエール」と言う地ビール(450円)を買った。
      

      

 ↓は、飾り用・食べられないかぼちゃ。
          

 数年前息子と墓参りに来たとき、高速を利用して二上山の墓と城端の墓を1日で回ったことがある。福光ICで降りるのをうっかり忘れ、五箇山ICまで行きUターンしたことをアップした。その後しばらく試験的に、スマートICの期間があり城端で高速を降りて街へ入れたが、今はトイレと休憩だけのSAだ。駐車場が別なので、ここ”ヨッテカーレ”は人は両側から入れるが、街から来る車と高速道路から来る車は別と言うわけだ。

 タオルをぶら下げてお風呂やプールに来る城端町の人と、遠く県外から来る旅行客が交じり合う不思議なスポットだ。↓は、ヨッテカーレのHPです。

      http://yottekare-johana.com/