今回のお話の内容は、これまでの第1期から含めたコードギアスの中でも回答編に近い位置づけにあったんじゃないかと思うくらい、自分の中では何かが見えたようなそんな感じになりました。
コードギアスの法則・・・じゃないんだけど、真実に近づいたキャラは退場してしまったことを考えると、やっぱりそうか、という思いを強く持ってしまいました。
それは、ルルーシュが叫んだ「ナナリーの笑顔の意味を考えたことがあるか?」だったわけです。
ルルーシュという人物は、基本的に他人の心情に対して一方通行な人間なんですが、その彼がナナリーのことだけは違っていて、他人(ナナリー)のために行動しようとする。
そのルルーシュが叫んだ言葉。
これがこの物語の核心であって、答えだったんじゃないかと思いますよ。
これは後で別記事にしよう、しようと思って全然時間が取れなくてまだ書けてないんだけど(笑)、日経ビジネスオンラインで谷口監督のインタビューが掲載されているんですよね。
ものすごく端的に要約してしまうと、コードギアスという物語において、ルルーシュという人間性だけじゃなく、登場人物のほぼ全てが自分の気持ちに一方通行な人間になっていて、万能の能力を持つルルーシュは他人の気持ちを考えることはなく、チェスの駒のように、こうすればこいつはこう動くだろうという一方通行コミュニケーションになっている。
そんな万能能力を持つルルーシュでさえ、ままならない世界。
それは、この作品において、世界というものはそんなに優しいものではなく、厳しいものなんだというのを徹底的に描くためである、という感じになっているわけです。
気持ちの一方通行
というワードと
世界とは基本的に厳しいものである
というワード。
この2つが持つ意味というのはこのコードギアスという作品においては非常に大きいわけです。
だからこそ、この2つのワードが持つ意味が反転する部分、そこに答えがある、という気がしてならないんですよね。
世界というものは基本的に厳しいものであり、自分の思う世界とはギャップがあるのが当然で、人が成長する中でそのギャップに気づき、埋める努力をしていかないと人としての営みができるわけがない。
他人との接点が少なくなれば少なくなるほどその世界は極小化し、自分そのものが世界になっちゃう。
自分が世界になっちゃえば思い通り・・・なのか?
否。
世界は優しくない。
それは当たり前のことなんだから、それに早く気がついて、自分の考えや意思をしっかりと持たないといけない。
そして当然ながら気持ちの一方通行では世界は成り立たない。
相互理解をしながら、ぶつかり合いながら歩み寄っていかないとそのギャップを埋めていくことはできない。
そういう意味で、マリアンヌを殺害したV.V.の意思は作中では一方通行の世界を支持するV.V.がマリアンヌと知り合うことで変わっていくシャルルを許せなかった、自分の世界が小さくなって、独りになってしまうことを恐れた、作中悪を体現した、ということになるわけだ。
ナナリーという存在は、そういう意味で作中の究極回答になっていて、ナナリーだけがこの物語において、世界というものは基本的には厳しいもので、自分ひとりではできないことがたくさんあることを理解していた存在だったんですね。
だからこそ、ナナリーの笑顔はその助けてくれる人に対するせめてものお礼、優しさのお礼なんですよね。
ユフィやシャーリー、この二人のヒロインも基本的にはナナリーと同じ。
この気持ちの一方通行をあえて描いていくキャラの中で、この二人だけがルルーシュや他人を理解して受け入れるという選択、その境地まで達したヒロインだったんですよね。
だからこそ、ユフィ、シャーリー、ナナリーという既に散ってしまったヒロインたちの意味合いは非常に大きいな、と今回を見て痛感しました。
そしてロロ。
今回シャルルやマリアンヌが目指した世界は嘘の無い世界、意識の統合でした。
このギミックはSFでもよく取り扱われる素材で、グレッグ・ベアや最近でいけば僕の大好きな「交響詩篇エウレカセブン」でも意識の統一を取り扱った作品がありますね。
意識の統合による嘘のない世界。
シャルルとマリアンヌが言う優しい世界。
それって本当なの?
否。
優しい世界の意味が違う。
ナナリーの言っていたのは他人に優しくなれる世界のこと。
全てを本当に語ってしまうことが優しいことなのか?
それを体現したのがロロ。
嘘や仮面をかぶってでも、世界と向き合わないと駄目だったり、時にはそれが人を助けることもある。
相手を思って嘘をつくこともある。
良くも悪くもそれが現実なんだから、それを受け入れないといけない。
シャルルとマリアンヌの世界は、究極の逃避。
一方通行の最終形態。
これが皮肉にもC.C.の言葉として残っていて「お前たちは自分が一番好きなんだ」という言葉に集約される。
優しい世界というのは自分に優しい世界。
ナナリーの目指した、他人に優しい世界の対極。
これをルルーシュが受け入れるはずがない。
世界というものは基本的には厳しい。
だから独りだけで生きていけるわけでもない。
でも、もし他人を思いやる心が互いにあったならば、その厳しい世界の中にも、優しい世界というのは確かに存在する。
これが作中答えのような気がするなぁ。
この意味においては、ルルーシュはまだ一方通行の人間のまま。
スザクにおいても同じように感じる。
それは当然シュナイゼルも同じ。
彼もルルーシュと同じタイプの人間で、他人の意思は彼の前ではどうでも良くて(というか興味がなくて)、チェスのように、こういう風に情報を伝えれば、この人間はこういう風に受け取って、こういう行動を取るだろう、という人間なんですよね。
つまりルルーシュの鏡。
ルルーシュが最後に対峙しないといけないのは、鏡に映る自分自身ということなんじゃないかと考えると、ラスボスがシュナイゼルというのは納得なのかもしれないですね。
あとはC.C.。
彼女の憂うような表情はシャルルやマリアンヌを見て、ルルーシュに何かを投影してみてしまっているのかもしれない。
だからこそ、シュナイゼルという鏡にどう対峙するか、というのは大事だよね。
最後の最後はルルーシュとスザク、そしてC.C.という、第1期第1話に登場する3人で物語の締めに向かうんだろうか。
うーん、でも今回なんかこのコードギアスの目指すところがようやく1年分くらいかけて理解し始めることができた気がしてきた(遅すぎるくらいだ(笑))。
#アーニャがルルーシュの妹、と言う妄想は外れちゃったなぁ(笑)。
#また新たな妄想を考えることにします。
■コードギアス 反逆のルルーシュ R2 volume01 (Blu-ray Disc)
■コードギアス 反逆のルルーシュ R2 volume02 (Blu-ray Disc)
■1/35 メカニックコレクション 紅蓮弐式
コードギアスの法則・・・じゃないんだけど、真実に近づいたキャラは退場してしまったことを考えると、やっぱりそうか、という思いを強く持ってしまいました。
それは、ルルーシュが叫んだ「ナナリーの笑顔の意味を考えたことがあるか?」だったわけです。
ルルーシュという人物は、基本的に他人の心情に対して一方通行な人間なんですが、その彼がナナリーのことだけは違っていて、他人(ナナリー)のために行動しようとする。
そのルルーシュが叫んだ言葉。
これがこの物語の核心であって、答えだったんじゃないかと思いますよ。
これは後で別記事にしよう、しようと思って全然時間が取れなくてまだ書けてないんだけど(笑)、日経ビジネスオンラインで谷口監督のインタビューが掲載されているんですよね。
ものすごく端的に要約してしまうと、コードギアスという物語において、ルルーシュという人間性だけじゃなく、登場人物のほぼ全てが自分の気持ちに一方通行な人間になっていて、万能の能力を持つルルーシュは他人の気持ちを考えることはなく、チェスの駒のように、こうすればこいつはこう動くだろうという一方通行コミュニケーションになっている。
そんな万能能力を持つルルーシュでさえ、ままならない世界。
それは、この作品において、世界というものはそんなに優しいものではなく、厳しいものなんだというのを徹底的に描くためである、という感じになっているわけです。
気持ちの一方通行
というワードと
世界とは基本的に厳しいものである
というワード。
この2つが持つ意味というのはこのコードギアスという作品においては非常に大きいわけです。
だからこそ、この2つのワードが持つ意味が反転する部分、そこに答えがある、という気がしてならないんですよね。
世界というものは基本的に厳しいものであり、自分の思う世界とはギャップがあるのが当然で、人が成長する中でそのギャップに気づき、埋める努力をしていかないと人としての営みができるわけがない。
他人との接点が少なくなれば少なくなるほどその世界は極小化し、自分そのものが世界になっちゃう。
自分が世界になっちゃえば思い通り・・・なのか?
否。
世界は優しくない。
それは当たり前のことなんだから、それに早く気がついて、自分の考えや意思をしっかりと持たないといけない。
そして当然ながら気持ちの一方通行では世界は成り立たない。
相互理解をしながら、ぶつかり合いながら歩み寄っていかないとそのギャップを埋めていくことはできない。
そういう意味で、マリアンヌを殺害したV.V.の意思は作中では一方通行の世界を支持するV.V.がマリアンヌと知り合うことで変わっていくシャルルを許せなかった、自分の世界が小さくなって、独りになってしまうことを恐れた、作中悪を体現した、ということになるわけだ。
ナナリーという存在は、そういう意味で作中の究極回答になっていて、ナナリーだけがこの物語において、世界というものは基本的には厳しいもので、自分ひとりではできないことがたくさんあることを理解していた存在だったんですね。
だからこそ、ナナリーの笑顔はその助けてくれる人に対するせめてものお礼、優しさのお礼なんですよね。
ユフィやシャーリー、この二人のヒロインも基本的にはナナリーと同じ。
この気持ちの一方通行をあえて描いていくキャラの中で、この二人だけがルルーシュや他人を理解して受け入れるという選択、その境地まで達したヒロインだったんですよね。
だからこそ、ユフィ、シャーリー、ナナリーという既に散ってしまったヒロインたちの意味合いは非常に大きいな、と今回を見て痛感しました。
そしてロロ。
今回シャルルやマリアンヌが目指した世界は嘘の無い世界、意識の統合でした。
このギミックはSFでもよく取り扱われる素材で、グレッグ・ベアや最近でいけば僕の大好きな「交響詩篇エウレカセブン」でも意識の統一を取り扱った作品がありますね。
意識の統合による嘘のない世界。
シャルルとマリアンヌが言う優しい世界。
それって本当なの?
否。
優しい世界の意味が違う。
ナナリーの言っていたのは他人に優しくなれる世界のこと。
全てを本当に語ってしまうことが優しいことなのか?
それを体現したのがロロ。
嘘や仮面をかぶってでも、世界と向き合わないと駄目だったり、時にはそれが人を助けることもある。
相手を思って嘘をつくこともある。
良くも悪くもそれが現実なんだから、それを受け入れないといけない。
シャルルとマリアンヌの世界は、究極の逃避。
一方通行の最終形態。
これが皮肉にもC.C.の言葉として残っていて「お前たちは自分が一番好きなんだ」という言葉に集約される。
優しい世界というのは自分に優しい世界。
ナナリーの目指した、他人に優しい世界の対極。
これをルルーシュが受け入れるはずがない。
世界というものは基本的には厳しい。
だから独りだけで生きていけるわけでもない。
でも、もし他人を思いやる心が互いにあったならば、その厳しい世界の中にも、優しい世界というのは確かに存在する。
これが作中答えのような気がするなぁ。
この意味においては、ルルーシュはまだ一方通行の人間のまま。
スザクにおいても同じように感じる。
それは当然シュナイゼルも同じ。
彼もルルーシュと同じタイプの人間で、他人の意思は彼の前ではどうでも良くて(というか興味がなくて)、チェスのように、こういう風に情報を伝えれば、この人間はこういう風に受け取って、こういう行動を取るだろう、という人間なんですよね。
つまりルルーシュの鏡。
ルルーシュが最後に対峙しないといけないのは、鏡に映る自分自身ということなんじゃないかと考えると、ラスボスがシュナイゼルというのは納得なのかもしれないですね。
あとはC.C.。
彼女の憂うような表情はシャルルやマリアンヌを見て、ルルーシュに何かを投影してみてしまっているのかもしれない。
だからこそ、シュナイゼルという鏡にどう対峙するか、というのは大事だよね。
最後の最後はルルーシュとスザク、そしてC.C.という、第1期第1話に登場する3人で物語の締めに向かうんだろうか。
うーん、でも今回なんかこのコードギアスの目指すところがようやく1年分くらいかけて理解し始めることができた気がしてきた(遅すぎるくらいだ(笑))。
#アーニャがルルーシュの妹、と言う妄想は外れちゃったなぁ(笑)。
#また新たな妄想を考えることにします。
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■1/35 メカニックコレクション 紅蓮弐式