下記のタイトルの記事は、エコノミスト 2011.10.4にあった
ものである。
先日、ブログに携帯メールへの反発をだらだらと書いたが、
そのわたしと趣旨を同じくする方がいたので、びっくり
した。
いい内容なので、紹介したいと思った。
「ずっとスマホ」では情報下層民になる
内田 樹(評論家、元神戸女学院大学教授)
スマートフォンは結局、移動しながら通信するツールで、
それ以上ではないのではないか。
長い文章を入力するのが大変なので、私は登録した定型文
を頻用するようになった。
ツイッターで発信する際も、言いっぱなしだったり、イン
ターネット上のアドレスを紹介するだけで、「私はこう
思う、それはなぜか」という展開はできない。
長い文章や、込み入った論理を展開したり、他から引用
したりする時はキーボードとディスプレーを使う。
スマートフォンは、ものを考えて書<道具にはならない。
スマートフォンを利用することで、情報の量は増える
かもしれない。
だが、知的な資源を集中することをせず、時間つぶしに
やっている限りは、情報の質を判定する能力は身につか
ない。
身につかない限り、情報はいくらあっても意味がない。
いま、情報の階層化が急速に進んでいる。
「質の良い情報にアクセスできる階層」と「質の悪い情報に
しかアクセスできない階層」とに分極化している。
テクノロジーが進化して便利になって、どんな人でも
膨大な量の情報を摂取できるようになると、どの情報にアク
セスすればよいのかという「情報についての情報」が必須に
なる。
それはネット上にはない。ネット上に書かれたものだけを
読んで発信者の知性の質を判定するのは難しい。
知性の質は、基本的には本人を個人的に知らなければ判定
できない。
書籍や新聞、雑誌では、個人的に知っている人間を介して
チェックが入り、淘汰がかかっている。玉石混交のネットで、
情報の良否を判断するのは非常に難しい。
人を見る目を養う
メディアリテラシー(使いこなす能力)を身につけるには、
メディアに触れればいいと思っているかもしれないが、全然
違う。
メディアリテラシーとは、人を見る目だ。
人間の知性や倫理性の質を行間に読まなければならない。
“人間”リテラシーだから、実生活でしか養えない。
どんな口ぶりで、どんなことを言う人が人をだますのかと
いう経験の蓄積のうえで、本人がいないところで文章を読ん
でも、声が聞こえなくても、顔が見えなくても、これはジャ
ンク(くず)情報だと判定できる。
この人の言うことをどこまで信用していいのか、何が言いたい
のかというような、メッセージのなかにあるものをつかむ力は、
日頃の生々しい人間関係のなかでしか獲得できない。
具体的な生活世界の上に乗っかれば、とても便利で有意義な
ツールだが、実生活で人との関係がしっかりしていないと、
スマートフォンを手にしてネットの世界で暮らしても何もでき
ない。
一番長い時間、情報機器に触れている人が、実は情報階層化の
なかで最下層に位置するということが起きる。
電車のなかでも皆、スマートフォンを使っているが、人間
観察力が衰えている気がする。隣に座った人を観察するとか、
おばさん同士の会話や女子高生のおしゃべりを聞いた方が、
世の中を知る上で有益な情報があるのではないか。
以上。
大変、興味深い文章で、かなり、賛同できる内容である。
携帯依存症の人には、ぜひ読んで貰いたいと思っている。
彼は、
いま、情報の階層化が急速に進んでいる。
「質の良い情報にアクセスできる階層」と「質の悪い情報に
しかアクセスできない階層」とに分極化している。
テクノロジーが進化して便利になって、どんな人でも
膨大な量の情報を摂取できるようになると、どの情報にアク
セスすればよいのかという「情報についての情報」が必須に
なる。
等述べているが、わたしは、いつの世も、情報の階層化は
ありうると考えている。
現れ方が違うのだと思う。
彼は、こう言っている。
一番長い時間、情報機器に触れている人が、実は情報階層化の
なかで最下層に位置するということが起きる。
これも、ある意味で、当を得ていると思う。
情報化のパラドックスである。
「知っていること」と「考えること」は、全く別物。という人が
いたが、えてして、人は、その陥穽に陥りがちである。そして、
時として、それは、心地よく酔えてしまうからやっかいだ。
情報通の気になって、周囲を幻惑させたり、言い負かせたり
すると、もう、何者かになれたような気がするからやっかい
だ。
情報化社会になれば、その恩恵を受け、誰しも賢くなるべきだと
いうのは、一種の性善説であると思っている。
情報通で、さも賢く振る舞い、小賢しくうまく世渡りができ
れば、と思うのは、たいていの人の心情であるが、情報が知性
や教養にまで、昇華できればと、考える真摯な人は、さして
多いとは思えないからである。そして、それは、容易なこと
では、あるまいから、「知っていること」が「考えること」に
連動することは、なかなかのことだろう。
橘 玲氏は、著書の中で、「『知識層』は人口の10%」と語り、
その本に、あった話しで、「グローパルな世界では労働者は二割
のクリエィティブクラスと八割のマックジョブに分かれるとロバ
ート・ライシュは予言しました。そのクリエィティブクラスには
拡張可能なクリエイターと、拡張不可能なスペシャリストの仕事
があります。
今後日本でも同様の変化が起きるのであれば、この本を読んでいる
ほとんどのひとにとって、人生設計の最適戦略はスペシャストを
目指すことになるでしょう。」というのがあった。
パレートの法則もあることから、内田 樹氏は、
「質の良い情報にアクセスできる階層」と「質の悪い情報に
しかアクセスできない階層」とに分極化している。
と、警告しているが、残念ながら不可避のことと思っている。
テレビでも多く見受けられるように、時代が軟派な時代になって
から、久しい。
硬派の精神の居場所がなくなってから、これも久しい。
もっとも、70年代に入り、知識人の没落が始まったから、今や、
「質の良い情報にアクセスできる階層」と「質の悪い情報に
しかアクセスできない階層」とに分極化している。
と言っても、如何ともし難いことではなかろうか。
現実は、面白おかしく、賢しらぶった感情のぶつけ合い。人の
弱みを嗅ぎまくり、人を貶めて、嬉々としている輩の洪水の
時代になった。
願わくば、自分自身が、内田 樹氏の警告を受け止められる側の
人間であるように、この記事を真摯な気持ちで受け止める能力の
あることを祈るしかない。