消費期限終了

リタイアーのよもやま話

「ずっとスマホ」では情報下層民になる

2011-11-18 22:57:55 | 読書

下記のタイトルの記事は、エコノミスト  2011.10.4にあった
ものである。

先日、ブログに携帯メールへの反発をだらだらと書いたが、
そのわたしと趣旨を同じくする方がいたので、びっくり
した。

いい内容なので、紹介したいと思った。

「ずっとスマホ」では情報下層民になる

内田 樹(評論家、元神戸女学院大学教授)

スマートフォンは結局、移動しながら通信するツールで、
それ以上ではないのではないか。

長い文章を入力するのが大変なので、私は登録した定型文
を頻用するようになった。

ツイッターで発信する際も、言いっぱなしだったり、イン
ターネット上のアドレスを紹介するだけで、「私はこう
思う、それはなぜか」という展開はできない。

長い文章や、込み入った論理を展開したり、他から引用
したりする時はキーボードとディスプレーを使う。

スマートフォンは、ものを考えて書<道具にはならない。

 スマートフォンを利用することで、情報の量は増える
かもしれない。

だが、知的な資源を集中することをせず、時間つぶしに
やっている限りは、情報の質を判定する能力は身につか
ない。

身につかない限り、情報はいくらあっても意味がない。

 いま、情報の階層化が急速に進んでいる。

「質の良い情報にアクセスできる階層」と「質の悪い情報に
しかアクセスできない階層」とに分極化している。

 テクノロジーが進化して便利になって、どんな人でも
膨大な量の情報を摂取できるようになると、どの情報にアク
セスすればよいのかという「情報についての情報」が必須に
なる。

それはネット上にはない。ネット上に書かれたものだけを
読んで発信者の知性の質を判定するのは難しい。

知性の質は、基本的には本人を個人的に知らなければ判定
できない。

 書籍や新聞、雑誌では、個人的に知っている人間を介して
チェックが入り、淘汰がかかっている。玉石混交のネットで、
情報の良否を判断するのは非常に難しい。


人を見る目を養う


 メディアリテラシー(使いこなす能力)を身につけるには、
メディアに触れればいいと思っているかもしれないが、全然
違う。

メディアリテラシーとは、人を見る目だ。

人間の知性や倫理性の質を行間に読まなければならない。

“人間”リテラシーだから、実生活でしか養えない。

 どんな口ぶりで、どんなことを言う人が人をだますのかと
いう経験の蓄積のうえで、本人がいないところで文章を読ん
でも、声が聞こえなくても、顔が見えなくても、これはジャ
ンク(くず)情報だと判定できる。

この人の言うことをどこまで信用していいのか、何が言いたい
のかというような、メッセージのなかにあるものをつかむ力は、
日頃の生々しい人間関係のなかでしか獲得できない。

 具体的な生活世界の上に乗っかれば、とても便利で有意義な
ツールだが、実生活で人との関係がしっかりしていないと、
スマートフォンを手にしてネットの世界で暮らしても何もでき
ない。

一番長い時間、情報機器に触れている人が、実は情報階層化の
なかで最下層に位置するということが起きる。

 電車のなかでも皆、スマートフォンを使っているが、人間
観察力が衰えている気がする。隣に座った人を観察するとか、
おばさん同士の会話や女子高生のおしゃべりを聞いた方が、
世の中を知る上で有益な情報があるのではないか。

以上。


大変、興味深い文章で、かなり、賛同できる内容である。

携帯依存症の人には、ぜひ読んで貰いたいと思っている。


彼は、

いま、情報の階層化が急速に進んでいる。

「質の良い情報にアクセスできる階層」と「質の悪い情報に
しかアクセスできない階層」とに分極化している。

 テクノロジーが進化して便利になって、どんな人でも
膨大な量の情報を摂取できるようになると、どの情報にアク
セスすればよいのかという「情報についての情報」が必須に
なる。

等述べているが、わたしは、いつの世も、情報の階層化は
ありうると考えている。

現れ方が違うのだと思う。

 

彼は、こう言っている。

一番長い時間、情報機器に触れている人が、実は情報階層化の
なかで最下層に位置するということが起きる。

これも、ある意味で、当を得ていると思う。
情報化のパラドックスである。

「知っていること」と「考えること」は、全く別物。という人が
いたが、えてして、人は、その陥穽に陥りがちである。そして、
時として、それは、心地よく酔えてしまうからやっかいだ。

情報通の気になって、周囲を幻惑させたり、言い負かせたり
すると、もう、何者かになれたような気がするからやっかい
だ。

情報化社会になれば、その恩恵を受け、誰しも賢くなるべきだと
いうのは、一種の性善説であると思っている。

情報通で、さも賢く振る舞い、小賢しくうまく世渡りができ
れば、と思うのは、たいていの人の心情であるが、情報が知性
や教養にまで、昇華できればと、考える真摯な人は、さして
多いとは思えないからである。そして、それは、容易なこと
では、あるまいから、「知っていること」が「考えること」に
連動することは、なかなかのことだろう。

橘 玲氏は、著書の中で、「『知識層』は人口の10%」と語り、
その本に、あった話しで、「グローパルな世界では労働者は二割
のクリエィティブクラスと八割のマックジョブに分かれるとロバ
ート・ライシュは予言しました。そのクリエィティブクラスには
拡張可能なクリエイターと、拡張不可能なスペシャリストの仕事
があります。

今後日本でも同様の変化が起きるのであれば、この本を読んでいる
ほとんどのひとにとって、人生設計の最適戦略はスペシャストを
目指すことになるでしょう。」というのがあった。

パレートの法則もあることから、内田 樹氏は、

「質の良い情報にアクセスできる階層」と「質の悪い情報に
しかアクセスできない階層」とに分極化している。

と、警告しているが、残念ながら不可避のことと思っている。


テレビでも多く見受けられるように、時代が軟派な時代になって
から、久しい。

硬派の精神の居場所がなくなってから、これも久しい。

もっとも、70年代に入り、知識人の没落が始まったから、今や、

「質の良い情報にアクセスできる階層」と「質の悪い情報に
しかアクセスできない階層」とに分極化している。

と言っても、如何ともし難いことではなかろうか。

現実は、面白おかしく、賢しらぶった感情のぶつけ合い。人の
弱みを嗅ぎまくり、人を貶めて、嬉々としている輩の洪水の
時代になった。

願わくば、自分自身が、内田 樹氏の警告を受け止められる側の
人間であるように、この記事を真摯な気持ちで受け止める能力の
あることを祈るしかない。


二輪よもやま話ー16

2011-11-18 09:53:46 | 日記


二輪よもやま話ー16

テレビのCMの映像で、青々とした山々が映し出されることが
多々ある。

その映像が、わたしを魅了してやまない。

わたしは、昔、写真にはまっていて、風景写真に凝った。

だから、このような映像が、テレビで映し出されると、楽し
くてしようがない。

そして、その映像を見ているうちに、夏の甲信越の山から
山へと、ホンダのCB400 SUPER FOURで、夏山を愛でながら、
気の向くままに、日がな走り回れたら、最高だと。

見果てぬ夢の妄想に、遊んでしまう。

ところで、今、ブログを書きながら、突然思いだしたこと
があった。

ツーリングは、必ずしも、夏山だけではなかった。

昔、不当人事を食らい、離島に勤務していたが、実は、
そこは、観光地で、全国各地から旅行者が到来する地でも
あった。

わたしがとある年、盆のために、実家に戻ることになった。

やがて、夏休みも後半に入ろうとする時期だったが、バイク
乗りの若者も、けっこうな人数が、この観光地で一夏のツー
リングとバカンスを楽しんだようだ。

狭い島である。旅の者は、すぐ目につく。だから、自然と
若者同士で、交流があったと思っている。

船は、夕方に出航する。そして、翌日の朝に、本島に到着
である。距離にして、500㎞ほどだったと思う。

船が岸壁を離れ、別れのテープは届かなくなり、見送る者、
見送られる者、声も届かなくなり、お互い顔さえも見えなく
なった頃、岸壁から離れた船は、沖に向かって、港を出ようと
進み出した。

すると、分かれを惜しむ気持ちが昂ったのだろう。

突然、いくつかのバイクが、ヘッドライトを点け、見送る者
達の一群から、抜け出し船を追いかけ、埠頭の端に向かって
走り出した。

そして、行き止まりになった埠頭の端で、しきりにヘッドライト
を点滅させ、別れを惜しむ様を見たとき、旅先で偶然にも一夏の
互いの青春の日々が交差することになった若者たちの存在を、
見てとることになった。

マストな生き方に縛られた仕事人間のわたしには、選択しよ
うのない羨ましい青春があることを、見せつけられた。

あの夏の日に、南の島の小さな島で「出会い」のあったバイク
の若者たち今はどうしているのだろう。

なんて、久しぶりに、思い返すことになった。

ところで、夏と言えば、南の島に住む人間にとって、子どもの
頃から、避暑地そして、別荘という言葉が、眩しく贅沢な響き
を伴って聞こえた。

夏場のこのような避暑地を楽しむ生活なんて、わたしの日常
からは、望みようもない話しだからである。

それにしても、学生時代、今に思えば、その避暑地で、合宿
等していたということを時折、思い出すことがある。

むさ苦しい東京に日頃済んでいて、夏場の長野県で経験した
爽やかさを、時折思い出しては、心地よい気分に浸ること
しばしである。

グーグルで、その地を確かめてみると、すでに、都市化の波に
覆われており、その面影は見る影もなく、大きな衝撃を覚えた
ことがある。

その爽やかな思いでも、遠く消えかかる記憶の中のかすかな
存在になっていくのは、きわめて寂いものがある。

閑話休題、そのようなこともあったのであるが、CMの映像を
見ては、夏の甲信越の山から山へと、4気筒、4サイクル、
400CCエンジンのCB400 SUPER FOURのシャカシャカという
涼しげなエンジン音を聞いて、夏山を愛でながら、気の向く
ままに、日がな走り回れたら、最高だと、白昼夢に彷徨って
しまう。

いつの日か。

である。