消費期限終了

リタイアーのよもやま話

“無縁”社会 ~無縁死 3万2千人の衝撃~(仮)

2010-01-30 11:30:54 | 社会
ヤフーのニュースである。


  “無縁”社会 ~無縁死 3万2千人の衝撃~(仮)

自殺率が先進国の中でワースト2位の日本。

NHKが全国の自治体に調査したところ、ここ数年「身元不明の自殺と見られる死者」や「行き倒れ死」など国の統計上ではカテゴライズされない「新たな死」が急増していることがわかってきた。

なぜ誰にも知られず、引き取り手もないまま亡くなっていく人が増えているのか。

「新たな死」の軌跡を丹念にたどっていくと、日本が急速に「無縁社会」ともいえる絆を失ってしまった社会に変わっている実態が浮き彫りになってきた。

「無縁社会」はかつて日本社会を紡いできた「地縁」「血縁」といった地域や家族・親類との絆を失っていったのに加え、終身雇用が壊れ、会社との絆であった「社縁」までが失われたことによって生み出されていた。
また、取材を進めるうちに社会との接点をなくした人々向けに、死後の身辺整理や埋葬などを専門に請け負う「特殊遺体清掃業」やNPO法人がここ2~3年で急増。

無縁死に対して今や自治体が対応することも難しい中、自治体の依頼や将来の無縁死を恐れる多くの人からの生前予約などで需要が高まっていることもわかって来た。

日本人がある意味選択し、そして構造改革の結果生み出されてしまった「無縁社会」。番組では「新たな死」が増えている事態を直視し、何よりも大切な「いのち」が軽んじられている私たちの国、そして社会のあり方を問い直す。

  
昨日、病院にいた時、「無縁社会」というニュースがあった。
なんとなく気になって、ネットで調べたら、上記の内容があった。ニュースで話していたのとは、若干違っていたので、がっくりしていたが、ネットで、検索したら、このニュースをしっかりと掌握していた人がいた。

ekuserushioさんが、無縁社会について、投稿されていたが、この投稿に、ラジオのニュースの内容が、ほぼ拾いあげられていて、喜んだ。

ekuserushioさんの投稿の文章です。参照させて貰いたい。

今日NHKのニュースで報道されていましたが、一人暮らしをされている方で特に40代、50代、ご高齢の方々が、両親、兄弟、友人がいなくなり、また仕事を失い就職先が見つからず、それによって人とのつながりがなくなり、孤独な生活を余儀なくされている方が多いと聞き、これは誰もが起こりえる問題ではないかと思い、ここに投稿させていただきました。

また、今から20年後(2030年以降)の非婚率も3人に1人が未婚になるという事実にも驚き、もしそうなると出会う男性そこらじゅうが独身者ばかりになってしまいます。

それがいいことなのか悪いことなのか分かりませんが、結婚がめんどくさいと思う人が今以上に増えてしまうのではないでしょうか?

結婚をしたくてもニートやフリーター、派遣などで結婚を躊躇される方も多いと思います。

人間関係というものは時にはめんどくさく、悩んだりすることも多くありますが生きている以上は何かしら人と関わっていかなくてはならないのかなと思います。

私は今20代で1人暮らしですが最近、小学生だった頃みたいに外でみんなと無邪気にはしゃぐことがなく、大人になるにつれてシビアになったというか冷めているというか、とにかく減ったなあと思います。

社会人になって今思うと、友人に関しても子どもの頃にできた友人ほど親しい仲ではなく、ただの上辺だけな友達の気がします。

うっとうしい文章ですみませんが、先行き不安な将来に不安な毎日です。



以上、ekuserushioさんの投稿の文章です。


最近、孤独死がわたしの隣の市でも、よくあって、気になっていた。

いよいよかということであった。

実は、不謹慎な話であるが、わたしは、若いころに、とあることで、結婚する気にならなくなってしまった。

わたしは、非社交的な人間である。

大勢人が集まる結婚式というのが、とても、辛いし耐えられない。

それに、家庭も持つことによって、多くのしがらみにまとわりつかれることが耐えがたかった。

その他、諸々のことがあって、とても、結婚生活なんて、まともにやっていける自信がなかった。

「煩わしさ」を我慢するより、「寂しさ」を我慢する方をとったのである。

だんだん、仕事のキャリアも積み、仕事が忙しくなってくると、もう駄目である。

仕事と家庭との両立の目処がまったくたたなくなってしまってきた。

だから、老いては、孤独死するという運命であるということを、自分自身に納得させようと努力してきた。

しかし、今にしてみれば、もしかすると、方向転換するかも知れないという気持がどこかに、あったような気がするが。


しかし、実際に、退職を目の前にして、孤独死もそう簡単にできないという気がしてきた。

退職してみると、意外に持ち物もけっこうあって、死んだ後の迷惑も考えると、死ぬことは、どうも簡単にはできないものだと、思うようになった。

そしたら、「無縁社会」という言葉である。

よくよく、考えみると、本質的に誰でも、孤独死の可能性はあるのである。

独身で一生を通した人も、家庭を持って、子育てをしてきた人も。

生きた人の数だけ、いろんな人生があるが、結局、大勢としては、みんな孤独死予備軍である。

けっこう、真っ当な人生を送った人も、でなっかった人も、大方孤独死をするのかと思い、どんな人生を送っても似たりよったりかと思ったら、ほっとするやら、がっかりするやら、複雑な思いがする。


自営業

2010-01-29 22:46:39 | 経済
自営業



若いころ、自営業の人を羨ましく思ったことがあった。

なにしろ、人に使われることなく、自分で仕事を仕切れるからだ。

それに、収入も勤め人より、高額だと思った。

しかし、ここ最近、まったく違う考え方になった。

勤め人は、定年退職というものがあり、仕事から開放される日がくる。

しかし、自営業は、同級生が退職したからと言って、商売を簡単にたたむことができない場合がある。

それは、小さいながらも従業員がいる場合があるからである。

自分が止めたくても、従業員の生活がかかっているので、そう簡単にやめるわけにはいかない。

(ましてや、授業員が弟だったり、地縁の者だったりすると、
路頭に迷わすことになる。)

自営業の職種が、斜陽産業であったりすると、もう生き地獄になる。

尻すぼみで、青息吐息の商売だったりすると、寝ても覚めても、会社を維持するのに、心労の連続である。

わたしの同級生で、有限会社を経営している者がいる。時折、見かけるが、非常に複雑な気持で見ている。




7歳の英少年が「ピカソの再来か」と話題、世界から注文

2010-01-29 22:24:03 | 風景
ヤフーのニュースである。

7歳の英少年が「ピカソの再来か」と話題、世界から注文

1月29日17時33分配信 ロイター

 [ホルト(英国) 28日 ロイター] 英国では7歳の少年が「ピカソの再来か」などと話題になっている。

昨年11月に販売した絵画16点は、総額1万8000ポンド(約260万円)で、わずか14分で完売。日本からも購入希望があったという。
 
英東部の町ホルトに住むキーロン・ウィリアムソンくんが絵を描き始めたのは、5歳のとき。

家族とコーンウォールで休暇を過ごしたキーロンくんは、港の風景に心を動かされ、両親に初めてのスケッチブックをねだったという。
 
両親はキーロンくんを応援しつつも、無理強いはしないよう気を付けており、キーロンくんは自分が好きな時に好きなものしか描いていない。

世界中から注文が殺到しているが、家族は売りに出す作品の数を制限している。
 
キーロンくんの好きな画家はエドワード・シーゴー氏で、絵を売って得た収入の一部で同氏の作品を購入。

残りはキーロンくんが25歳になるまで、両親が管理するという。




ピカソと比較されているので、興味がわいた。

キーロン君の絵をネットで、探した。あるものである。
嬉しいことである。

さっそく、その絵を見て、びっくり。
わたしの好きな静かな時間、優しい光と陰の世界である。

本当にびっくりである。

七歳の子どもが、わたしと同じフィーリングを共有できる。
ショックである。

、「もし高校野球のマネージャーがドラッカーの『マネージメント』読んだら」

2010-01-29 06:29:56 | 経済
なんかの本を読んでいた時、途中で、本の紹介があった。

それは、「もし高校野球のマネージャーがドラッカーの『マネージメント』読んだら」
岩崎夏海 著 ダイヤモンド社

であった。

インターネットで調べたら、表紙がアニメ調だったので、てっきり漫画本だと思った。

取り寄せて、期待して開いたら、なんと、普通の本だった。

活字がズラーッと並んでるのをみたら、かなりがっかりした。

表紙の女の子の顔が、ちょっとメイド喫茶風の作りだった。だから、てっきり漫画だと思ったし、変に期待してしまった。

とは言うものの、気を取り直して、読み始めた。

ドラッカーは、今でに数冊は、読んでいたので、がっかりはしたものの、それほど抵抗はない。

一気に読み通してしまった。

感想を言うと、こうである。

まず、本の内容は、やはり、漫画にした方がもっと面白いかも。と思った。そのようなキャラクターの登場だったし、話しの展開も漫画にしたら、どうだろうというような調子であった。

もちろん、そのままでも、面白いと思った。


本の中で、ドラッカーのおなじみの語句が出てきて、復習になった。

特に、「真摯」という言葉は、わたしは気に入っている。

一度だけ、ドラッカーを読むずーっと前だったが、残暑見舞いを書いて、その言葉を使ったことがあった。

面白く、読み終えたが、よく考えてみると、話しの展開は、やはり無理がある。

しかし、ドラッカーについて、紹介してみようという前提があるし、漫画にしたらというようなストーリーなので、そういう疑念は許されるだろう。

その本の書かれたねらいが、許容させると思うし、また、ドラッカーについて、導入本だと思えば、よく出来た本だと思う。

やはり、高校生に、ドラッカーに興味を持って貰いたいという想定だと、よく出来ていると思う。

又、大人がドラッカーへの入門書だと思えば、やはり、骨子を理解するために、よく出来た本だろう。

青春版のストーリー、ドラッカーへの入門書で、印象深い一冊となった。

【「得意」と「好き」の違いがわかる人】

2010-01-28 11:46:06 | 人生
「つんく♂」の本を読んだ。

タイトルを見ると、なんとなく、ハウツウもので、照れくさかったが、パラパラとめくったら、内容に説得力があった。

特に、次の文章は考えさせられた。

【「得意」と「好き」の違いがわかる人】
何かを好きになった瞬間、人は抜きん出た存在になる

「得意なことを教えてください」

こうたずねると、「運動が得意」「歌を歌うこと」「そうじ」「料理」等々、じつにさまざまな答えが返ってきます。

「じゃあ、好きなことは何?」

こう聞くと、「ん?」と、一瞬ためらい、「体を動かすことかな」「音楽かな」「映画」「恋人」「両親」と答えが返ってきます。
 
両方の答えが、どう違うかわかるでしょうか。

字面を眺めていてもわかりにくいと思いますが、「好き」には、感情がともなっているのです。

「得意」とは「手慣れていて自信があり、上手であること」と辞書にあります。


説明からは、何度も練習してうまくなっていくようなイメージが湧いてきます。
 
「得意」には、ほかの意味もあります。「誇らしげなこと。思いどおりになって満足していること」です。

上手になった自分を「得意」に思い、「得意になる」。「得意に
なる」には、慢心しているというニュアンスもあるような気がします。
 
得意とは、あることを自他ともにうまい、上手だと認めることです。
 
わが家は塩干・乾物屋でしたから、僕はパック詰めが得意でした。
 
パック詰めに関しては、近所の店の誰にも負けないくらい得意でした。

それはそれで楽しい作業でしたが、では、もっとうまくなりたかったかというと、そんな気はない。

なぜなら、とくに「好き」だというわけではなかったからです。

もちろん「嫌い」ではなかったし、パック詰めに創意工夫を重ねていくこと自体はおもしろい仕事でした。

でも、それはメシを食うのを忘れるほど好きかというとそんなことはなく、ただ得意だっただけなのです。

「得意」なことイコール「好き」とはかぎりません。

身体能力が高い人がサッカーや野球を始めたものの、なにかしっくりこない。

小さいころから手伝わされていたから、接客は得意だけど、とくに好きではない。

まわりの人を見ていると、「好き」と「得意」を混同している人は意外と多いものです。

おそらく「得意」なことは、社会的に認められやすいからでしょう。

けれど、どんなに「得意」なことも、「好き」という感情にはかなわない。

ほんとうに「好き」なことに夢中になっているとき、人は時間を忘れ、至福の時間を過ごしているはずです。
 
何かを好きになる。

その瞬間、人はそのことに関して、抜きん出た存在になる。

それくらい、「好きになる」という感情は、とてつもないエネルギーなのです。



【好きなことにのめリ込む人」
好きというエネルギーは努力では補えない

人から、「そんなアホな趣味」と笑われるようなものであっても、それが好きで好きでたまらないのであれば、それを続けるべきです。

「さかなクン」というタレントがいます。

子どものころから魚が好きで好きでたまらなかったそうです。

そしていまでは趣味が高じて、魚の魅力を子どもたちに伝えることを職業(であり、生きがい)としています。

日本各地の魚の研究者・学者たちが、「さがなタン」に助言を求めることもあるほどだそうです。

だから、子どもが小学生くらいのときに、「そんなことを好きになっても、役に立たないよ」と大人の価値判断で決めつけるのは考えものです。

「役に立たない」といわれて消されていく才能が、じつはたくさんあるように思います。
 
たとえば、子どもが飼育委員になる。

毎日遅くまで学校に残って、友だちと遊ばずに飼育小屋でえさをあげたり、そうじをしたりしている。

そして、動物の毛がたくさんついた服でウチに帰ってくる。

飼育委員のような、そんな汚くて臭くて大変な仕事なんかしなくてもいいのに、と考える親も、なかにはいるでしょう。

でも、その子にとっては、飼育小屋のなかが汚かろうが臭かろうが、そのなかで動物だちと過ごす時間は至福以外の何ものでもなく、そこはいわば天国かもしれないのです。
 
子どもにしろ、大人にしろ、人は好きなことには、全身全霊で取り組むことができます。

好きなことに取り組んでいるときに発揮される集中力は、見ていてまぶしいばかりです。

それはけっして努力して出せるものではありません。しょせん「努力」で出せるエネルギーは、「好き」で出せるエネルギーの比ではないのです。

「好き」がすぐには「得意」につながらなくても、それを捨てずにいれば、やがて「得意」を超えるものになっていきます。
 
仕事に行き詰まると、学生時代、バンド活動に明け暮れ、音楽を夢中で聴いていたころのことを思い出します。

仕事にならなくても、何の利益をもたらさなくても無我夢中でやっていた自分を思い出します。

すると、体のなかからまた熱い感情とそれが発する鮮烈なエネルギーがよみがえってくるからです。

好きというエネルギーは、どんなにがんばっても努力で補えるものではありません。

「一番になる人」は例外なく、「好き」をとことんきわめた人といえます。
 
「好き」という感情を自分の人生において最大限に引き出すことができるかどうか、それはとても大事なことです。

「好き」というエネルギーには、みずからを動かし、そしてまわりさえも巻き込み、奇跡を起こす力が秘められているのです。

以上、「つんく♂」の著書より。






彼は、「まわりの人を見ていると、「好き」と「得意」を混同している人は意外と多いものです。」と、言っている。

残念ながら、そうかも知れない。

実は、「好きなものは何ですか」なんて、本気に質問されると、わたしも、その答えが見当たらない。

人は、時として、「得意なもの」を探そうとするか、なにかを得意になろうとするかということが多いのではと、思ったりする。

何か有益であろうと、生産的でなければ、という観念が社会には、先行するところがあるはずだからである。

日々の生活がどう成り立ちうるかということが、いつも差し迫った問題だからであろう。

「好き」ということが、いつのまにか、わたしたちの意識の中から締め出されるのかも知れない。

わたしたちの両親の生活にも、「好きな事」が、表立って取り沙汰された記憶はない。

だから、わたしの子どもの頃の生活にも、そのようなことが意識の前面に立ち現れることはなかったのだろう。

もしかしたら、「好き」ということを追い求めるには、貧しかったのかも知れない。

とは言うものの、職場という課題設定をしてくれる環境がなくなった今、この問題をなんとかしなければ、これからの長い生活が辛いものになる。


彼は、「好きというエネルギーは努力では補えない」と言っている。

これは、正直言って、ショックな言葉である。

言われてみれば、本当のことである。

そのように、考えたこともないし、教えられたこともない。

何事も、「努力」が優先だったからである。

なんとも厳しい言葉である。

が、なんとかしなければならないことである。

なんとも、非効率的、非効果的な人生だったかも知れないと思うと、矢も楯もたまらなくなる。