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リタイアーのよもやま話

簡単に捨てられるようになったとき

2010-01-07 21:49:40 | 人生
文芸春秋 SPECIAL 2010 季刊冬号

こころとからだの処方箋 健康への道

にあった記事で妙に同感できるものがあった。

以下、記事である。




簡単に捨てられるようになったとき

土屋賢二


六十歳を過ぎると、老化に気づくときがひんぱんに訪れる。

~途中、カット~

ただ一つだけ、若いころには不可能だったことが確実に
できるようになったことがある。

しかも、老化してよかったと思えるようなことなのだ。
 
それは物が捨てられるようになったことだ。

どうしても物を捨てられなかったわたしが、数ケ月前から簡単に捨てられるようになった。

寿命があることに気づいたからだ。
 
寿命に気づくと生き方が変わる。

たとえば大やネコを飼うことができなくなる。

自分か大やネコより先に死ぬとかわいそうだと思って飼えないのだ。

ましてツルやカメなど飼えるはずがない。
 
若いころは、人の寿命には限りがあることは分かっていても、
時間を有効に使えば何でもできるはずだと思いつつ、関
心もないテレビ番組を見て時間を浪費するものだ。

わたしもそうだった。それが三ケ月前に一変した。

引伸機などの暗室用品、ビデオデッキ、電動ノコギリ、パ
ソコン、筋トレ用品を処分した。

いずれも、少し前まで「いつか使うはずだ」と思って捨てられなかったものだ。

だが、わたしに残された時間を考えると、これからカメラマンやパソコンマニアになったり、身体を鍛えたり、電動ノコギリで
家具を自作する時間はないことに気づいたのだ。

そうなれば捨てるのは簡単だ。

録画してあった大量のビデオテープも、見る時間が残っていないことに気づいたら、すぐに捨てる決心がついたし、多大
の時間をかけて細かく編集した何百本というオーディオテープも、間く時間はないことに気づき、何の未練もなく捨てる
ことができた。


よく「せっかく全と労力と時間を費やしたものだから捨てられない」と思うものだが、どんなものでも残された時間は少ないと思えば捨てられるのだ(それと同時に、「捨てるなら、捨てる体力のある今のうちだ」ということに気づくと便利である)。
 
今後はこの調子で、家の大部分を占めている蔵書を処分するつもりだ。

絶版になった本を手に入れる苦労を考えれば捨てられないところだが、全部読むにはあと数百年はかかると思えば処分できる。

こうなると逆に、この世に捨てられない物はないとさえ思えてくる。

執着を捨てることが快感になり、やがて執着を捨てることに執着しそうな気がする。

このまま捨てていくと、どうなるだろうか。

最終的には家の中が空っぽになるのだろうか。家も捨てて出家でもすることになるのだろうか。

たぶん、家を空っぽにするよりはるか前に、わたしが家を追い出されるだろう。

以上、土屋賢二氏の話しである。


読んで、妙に同感できる。と言ったのは、わたしも空き家に置いてあったグランドピアノが、気掛かりでどうしようかと思い悩んでいたが、妹がほしいということで、譲った。(もっとも、妹は、家の床がぬけると気になり、知人に譲ったようだが)

DTM で使った通常のピアノと同じ幅のある フル鍵盤のキーボードを、リサイクルショップで処分した。何時の日か粗大ゴミにして処理するには、忍びなく、誰でも使ってくれたらと処分した。

家に2台車があった。わたしが退職し、必要性がなくなったので、1台は、廃車しようかと思ったが、妹に譲った。(もっとも、妹は、ガソリン代が負担になり、知人に譲ったようだが)

書庫にある本も処理しなければならない。しかし、未練がましくて捨てられない。

時間と相談して、ゆっくり処分するしかない。

ただ、芸術論や文学論等、かなり、まとまった数になっているので、これが散逸することになるかと思うとすごく残念である。


数日前に、曲集をトランクいっぱい詰め込んで、古本屋にもっていった。

しかし、引き取れないと断られてしまった。

この古本屋けっこう大きな方だったので、期待したがだめだった。

店は、昔の勢いがなくなって、うらぶれてしまっていた。


最近のブックオフ等のチェーン店に押されているのだろうか?



とある本にあった話しである。

「1980年代に「ネクラ」という言葉が流行しました。明るく前向きで社交的であることばかりが評価される社会になっていったような気がします。」

「悩んでいる姿を見せたり、人生について議論したりするのは、「暗い」「重い」「ダサい」というイメージが没透していき、友達同士でも「明るく元気」を装って表面的な部分でつき合う人が増えた。」というのがあった。

硬派の人間が疎まれるようになり、いや、硬派の世界が成り立たなくなったのだろう。

本を読む習慣が、失われてきた。

もっとも、一時期、成果主義がもてはやされたりしたし、非正規社員が増大している時代である。金があっても、セレブが持てはやされている時代、とても、本を読むなど振り向きもしない時代だ。

となると、わたしのコレクションの 芸術論や文学論等は、ゴミ箱ゆきか?

これは、ちょっと認めがたい寂しい話だ。

それはさておき

最近、寒くなって、ベットから出るのが辛いと思うようになった。

退職していて良かったなんて、図らずも思うようになった。

寂しい気もするし、ほっとする気もする。

つい、この前まで、自分が無職であることに苛立っていた。

やめた当初は、どういう訳か、時計を買った。そして、手帳も買った。

普通は、時計も手帳も手放すはずだが、わたしの場合には、逆になった。

(勿論、手帳は、すぐに使わなくなった。)


退職しても、現役時代と同じテンポで生活する気でいたのだ。


しかし、あれから、3年目の冬になった。朝、起きるのが辛い。

特に、最近のように、寒くなってくると、つい最近まで、こんな寒いなか、よく5時起きの生活をしていたものだと、不思議でしようがない。

この寒さのなか、ウォーキングに拘っていた時もあった。信じられない。今になってみると、こんなに身体に悪いことをやっていたなんて、自分でも恐ろしくなる。

ところで、ここ数日、うつっぽくなってきた。

父親が、おそらくあと20年、病院生活をするのではと思っている。

病床にあっても、父親には長生きしてもらいたいという気はあるのだが、先の見えない遠い話である。

問題は、わたしも高齢になるということだ。

あと、20年と言えば、わたしも80代だ。

今のような元気があるはずがない。

わたしが先に死んでも不思議でない。勿論、現在一緒に病院に通っている母が元気でいるか。もっと、分からない話しだ。

ただ、母が途中で、病気をすると、その間、父の世話ができなくなるので、父が可哀相である。

現在、午後から毎日、父親のところに通っているが、この生活があと20年続くとなると、さすがに気が遠くなりそうだ。

かといって、父親が元気で、時間的に自由になったとしても、やるに値することが、身の回りにあるかと言えば、そうでない。

これ、如何ともしがたく、胸の内より、怒りがこみあげてきそうだ。

こんな大不況だ。全てが虚ろなものになってしまった。

生きていること自体が、虚しい時代だ。

悲しいかなである。

にっちもさっちもいかない。

だんだん、憂鬱になってくる。

わたしに残された時間、どう考えても病院と家の往復の代わりばえしない毎日だ。

確かに、親孝行をしているのは事実だが。

私自身にとって、意味があるのだろうか。なんて考えがちらついたりし、こんな使えるあてのないどうしようもない時間(余生)なんか処分してしまえ。なんて、良からぬことを考えたりする。

退職者で、見る見るうちに、老け込んでいく人がいる。

もしかして、このような延々と続く、代わりばえしない時間に苛まれて老け込んでいくのではないのか。

自分でも思いもよらないうちに、自分の人生が自壊するままに、足早にこの世を去って、いくのかも知れない。