ニューズウィーク 2012.2.1 経済危機の超え方
にあった記事で、興味深いのがあった。
心に突き刺さった演出家の酷評
役者自身の限界を超える
彼のおかげで、甘ったるかったシーンは新たな
試みと危うさ、高揚感にあふれるセクシーなもの
に生まれ変わった。
ニューヨーク公演のときも、この場面では何度も
称賛の拍手を受けた。
ピーターが「ありきたり」と言った瞬間、あれ
こそが私の転機だった。
本当にショックだった。でも逆に今では、あのとき
あれほど下手だったことを神に感謝している。
あの言葉を乗り越えなかったら、その後に数々の
映画で演じた素晴らしい役はもらえなかっただろう。
あのとき私が学んだのは、役は等身大の自分より
大きく演じなければならないということだ。
例えば、怒りを演じるとする。
私の怒りには限界があるが、演じる役ではそんな限界
を超えなければならない。
役者は自分の日常を超え、「ありきたりな芝居」を
も超えて、何か大胆で素晴らしいものを観客に見せな
ければならない。
愛嬌だけじゃダメだ。
以上。抜粋である。
この記事で、特に下の文章が印象に残った。
あのとき私が学んだのは、役は等身大の自分より
大きく演じなければならないということだ。
例えば、怒りを演じるとする。
私の怒りには限界があるが、演じる役ではそんな限界
を超えなければならない。
役者は自分の日常を超え、「ありきたりな芝居」を
も超えて、何か大胆で素晴らしいものを観客に見せな
ければならない。
これである。
思えば、歴史に残る偉人に、役者という職業は、なりきる
ことが許される。
ある意味で、歴史的にみれば、凡俗な役者が、歴史上の
人物になれる。
等身大の自分を超えることが許される。なんとも、爽快
ではなかろうか。
ところで、田中直紀防衛相の最近の国会答弁の有り様を
見ると、政治家として、あまりにも勉強不足で、答弁を
みている方が辛い。
しかし、そこのところを、じくじくと苛めているようにも
見える国会の様子は、これまた、見るに耐えがたい。この
責めたてる品位のなさに、当の国会議員気づいているだろ
うか。明日は我が身になるやも知れぬ。
テレビでも、失笑されていたが、まるで、バラエティー
番組の様である。
矮小化した昨今の政治家、そこら辺のところを鑑みて、
趣味に演劇でもやって、歴史的な人物に成りきって
みれば、少しは変容するかも知らぬ。