紅蓮(ぐれん)のポケット

子どもの本の作家・三輪裕子のふつうの毎日
2015年夏。三宅島で農業を始め、東京と行ったり、来たりの生活になる

道は遊び場

2006-01-31 06:38:51 | 9・昔の風景
昭和30年代になると、道が舗装され、遊び場がもう一つ増えた。
道は広いキャンバスで、どこまでも続く遊び場だった。
石けり、鬼ごっこ、ドッヂボール、ゴム飛び、なわとび、いろいろな遊びができた。
その頃、ろう石は、私たちの宝物だった。

先日の新聞に出ていた言葉。

昭和30年代は、豊かで自由な今の社会の基礎をつくったが、失ったものも多い時代。
核家族化が進み、家庭の娯楽はテレビ中心になった時代。新幹線が開通し、東京五輪が開かれる一方、公害が発生し、労働争議も続いた。


やがて、道に車がたくさん通るようになると、子どもたちは道という遊び場所をなくした。

(写真:トントン作)

2006-01-30 07:07:59 | 9・昔の風景
私が子どもの頃、まだ家の前の道は舗装されてない砂利道だった。

ある日、舗装道路工事が始まった。
大きなロードローラーが行ったり来たりして、道に敷きつめられた石をつぶしたのを見ていた。
「あれにひかれると、おせんべいみたいにぺっちゃんこになるよ。」
いたずらっ子だった私に、母はそういった。近づくと危ないと思って、おどかしたのだ。
その言葉は十分すぎるほどききめがあった。
平べったくなった自分の姿を考えてはふるえあがり、夜寝てからうなされたほどだ。
決して道には近づかなかった。

(写真:トントンとわたし。妹がまだ生まれていない頃)

遊び場 

2006-01-28 06:13:32 | 9・昔の風景
泥んこになって遊び回っていた子どもの頃。
遊び場は、近くの公園、雑木林の中、原っぱ、空き地、道。それに自由に出入りできるよその家の庭ということもあった。
あの頃は、垣根なんか乗り越えて、縦横無尽に走り回っていたものだ。

砂場は楽しい場所だった。大きな砂の山を作ってトンネルを掘る。二つの道を合体させる。うまくいく時もあるけど、山がくずれて、ガッカリすることもあった。

まだ洗濯機がなかったその頃、洋服を汚さないように、いつも上っぱりを着ては、せっせとトンネルを掘った。

(写真:トントン作)

いたずら姉妹

2006-01-26 10:53:43 | 9・昔の風景
母は、よく洋服を手作りしてくれた。
左のトントンは、子ども用の洋服のファッション誌から抜け出したように素敵な格好。
それに引きかえ、私の格好は……。
上っぱり(スモック)までは許せる。(笑)
でも、その下はどうもねえ。ひどいんじゃないの。

とはいえ、いくらきれいな格好をさせても、無駄というもの。

一日が終わって、遊びから帰ってみると……。








あのきれいなアップリケのついたトントンの服。
一日たつと、この通り。
障子もビリビリだし。

子どもの頃雪の日には

2006-01-24 07:01:47 | 9・昔の風景
昨日、父の残したフィルムに、雪の日のは、残っていないことを書いた。
そうしたら、「こんなのがあるよ」と画像が送られてきた。

タイトル、または、小さい画像をクリック♪
世界がどーんと大きくなる。

そうそう。こんな風にみんなで家の前で遊んでいた。
右で雪つりして遊んでいるのが、私でしょうか。
子どもの時、黒い長靴がきらいだったので、左の子かもね。
赤い長靴をはかせてもらっている、他の子達がうらやましかった。

ちなみに、この画像は、トントン(姉)作。
布と刺繍とでできています。
他にもあるので、子どもの頃の思い出とともに、またアップします。

雪の日の思い出

2006-01-23 06:30:09 | 9・昔の風景
子どもの頃、雪が降った日の朝。窓から一面に積もった雪を見たときほど、嬉しいことはなかった。
急いで着がえをして、外に飛び出した。

雪だるまを作ったり、雪合戦をしたり、雪にまみれて遊んだ。
その中で好きだった遊び。
炭にヒモで結んで、ヒモを上げたり下げたりして、炭に雪をつけ、大きな雪の玉を作る遊び、雪つり。
だんだん雪の玉を大きくしていき、一番大きくできた人が勝ち。
でも、欲張ってもっと大きくしようとすると、下の雪に、炭についた雪がとられて、あっという間に小さくなる。やめ時が難しい。

父の残したフィルムには雪の写真がないので、ちょうどその頃の写真。いつも家の前の道で雪つりをして遊んだ。

2006-01-21 11:52:27 | 20・日々のできごと
朝起きたら、8時過ぎだった。
こんなにおそくまで寝ていることはめったにない。
窓から外を見たら、雪。
すでに、少し積もっている。
雪の日はしんと静かで、いつもとは世界が変わる。
大人になっても、子どもの頃みたいに、心がうきうきとはずむ。

けど、そんなのんきなことをいってられない人も大勢いますね。
本日はセンター試験。みなさん、がんばってください。

ここらで一番好きな場所、野川にいって、新しいカメラで試し撮りをしてみた。

デジカメ購入

2006-01-20 10:38:13 | 12・Blog・PC・カメラ・家電など
新しいデジカメを、とうとう買った。

「ペンタックス・Optio-wpi」
 ただ一つ、この機能がそなわっていることから、機種を選んだ。
「waterproof」
マリンパックをつけなくても、水深1.5mの水中でも撮影できるという。
雨にぬれたり、吹雪の中でもだいじょうぶ。
3月に沖縄の竹富島に行ったら、水中撮影してみよう。


でも、一番写せるといいと思っているのは、娘たちが沢登りをしているところの写真だ。
娘が去年入会した築地山岳会では、一年の半分は沢登りに行っている。
沢登りといっても、泳ぎながら川を遡って行く時もあって、ふつうのカメラは持っていけないし、写せない。
どんな所を登っているんだろうか。ぜひ見てみたい。
といっても、これは、私が付いていくわけじゃないので、娘か夫が持っていって、写してこないとダメなのだけど。

デジカメは、これで4台目。だんだん画素数も大きくなり、形は小さくなる。
この前に持っていたのは、これ。(写真右)
一昨年、ヨセミテ国立公園にいって、ハーフドームに登ろうと思った時、片手でワイヤーをつかみながら、もう片方の手で撮れるもの、ということで買った。
「軽い」「単三電池」これをキーワードで検索して、ヒットしたのがコニカミノルタのこの商品。
単三電池がなぜ便利かというと、海外でも山でも、どこでも簡単に手に入る。
写りはイマイチだったけど、軽いので簡単に山に持っていけて、ずいぶん役に立ってくれた。

カメラを買い換えたちょうど同じ日、コニカミノルタは、デジカメ業界からの撤退を決めた。

写真は、それぞれのカメラで写したもの。

20年の歳月

2006-01-19 11:52:07 | 2・仕事の周辺
初めての本を出版されるまでに、ずいぶん長い時間かかったことを書いたが、実は、今年、最初の本が出てから20年目なのである。

1986年の夏。その年は、子どもたちの夏休みに、K・Mさんの家族と一緒に、新潟と長野の山奥で17日間過ごしていた。
東京に帰ってきて、本屋さんに入ったら、私の初めての本「ぼくらの夏は山小屋で」が本棚に並んでいた。
私は街の本屋さんで、自分の最初の本と対面したのだ。
あんなに嬉しい瞬間というのも、長い人生のうちに、そうそうはないだろう。

翌日、講談社の編集のKさんから電話で、
「新刊を届けようとしたけれど、連絡がとれなかった。」といわれた。
今と違って、携帯電話もない時代である。長々山に行っていたので、本ができあがったことを、私は知らないでいたのだ。

その日の夕方、Kさんは本を届けてくれた。著者には、新刊が出ると、本が5冊、献本されるのである。
その晩は、ふりやかよこさんの挿絵を、あたたかくて、とてもいい絵だなあと思いながら、何度も何度も本を眺めた。

あれから20年。今年の4月頃に、19作目と20作目の本が出る予定である。
1年に1作。年間、何冊もの本を書く人から見れば少ない冊数であるけど、私としては、才能もないのに、よく20年も、20冊も書き続けてきたと思う。
最初の10年間は、ただ1冊の本だけを書いていたのだから。
そんなど素人だった私が、この20年間何とかやってこられたのは、文章の書き方の「いろは」を教えてくれたり、厳しく批評してくれては、ダメだしをしてくれた各社、8人の編集の人たちと、物語のヒントや種をくれた大勢の友人、知人たちのおかげなのである。

(写真:私の本棚より)

より道の10年間

2006-01-17 13:22:32 | 2・仕事の周辺
最初の本が出るまでの間、小さなマーケティング会社で、データを読みながら、レポートを書くアルバイトをしていた。

人生思い通りにいかなかったおかげで、ここで仕事をさせてもらうことになったのだけれど、その間良いこともたくさんあった。そのうちの一つは、一生の友人ともいうべき人たちと出会ったことだ。

この会社で出会った良流娯さんとは、その後、一緒に海外に何度も出かけたり、今も山に登ったり、一緒に連句をしたりしている。良流娯さんと一緒に旅に行ったおかげで、後に4冊の本が書けた。

もう一人の友人、K・Mさんとこの会社で出会ったことでも、人生が変わったと思う。
一緒に、スイス人の知人R氏から、1年間英会話を習うことになったのだ。私が海外に行って、困らない程度に英語が話せるのは、その1年間で、とりあえず、でたらめでも何でもいいから、意思が通じるように英語を話す技術を体得したからだ。
誤解のないように書いておくと、Mさんはそうではなく、その1年が過ぎてからもちゃんとした英語を習い続けて、立派に通訳の仕事までできるようになった。私とはえらい違いなのだ。

そして、先生のR氏には、後にスイスの田舎の家に泊まらせてもらって、そこを舞台に「花の館に」という本を書いた。
Mさんのおかげで書けたのは、二冊目の本「緑色の休み時間」。 そして、今年の4月に出る予定の本も、Mさんご一家のおかげで書くことができた。その本の内容については、今はまだ具体的に書くことはできないのだけどね。

他にも、教師時代の友人たちや、様々な人たちに支えられた10年間であったし、その後もずっと助けられている。

(写真:スイスのR氏の家を良流娯さん親子と一緒に訪ねた時の→◆スイスの旅のBlog