ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



あーあ、毎日の仕事には疲れたなあ。子供のときはよかったよなあ。学校行って、遊んでればよかったんだから。なんで、仕事なんてしなきゃいかんのかなあ。・・・なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『仕事と愛』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人間の仕事には動物たちに比べて違ったものがあることが分かります。それは、みずからの個性に応じたものを創り出していける能力を、各人が持っていることによります。
 鶏は卵を産むことができますが、卵以外のものを産むことはできません。また、卵料理を作ることもできませんし、卵をほかのものと交換して何かを得ようとはしません。このように、彼らは一定の方向づけをされているのです。
 ところが人間は、一つの材料をもとにして、いろいろなものを考え出すことができます。ここに創造の喜びがあり、大宇宙の根本仏と同じような気分を味わうことが許されているのです。
 こうしてみると、仕事そのものは、人間の本質にきわめて近いところにあると考えられるのです。つまり、仏が自分と同じような創造の喜びを人間に与えようとして、仕事というものを与えたのだと考えてよいのです。(中略)
 ここで私が言いたいのは、仕事には必ず報酬が伴うということです。その報酬は、先ほどから述べているように、単に金銭的なものだけではありません。よい仕事をしたという、人からの評価であったり、さまざまなかたちでの、その人の人格形成であったり、社会的な地位の形成であったり、いろいろなものになるでしょう。しかしながら、どのようなかたちであっても言えるのは、仕事には必ず報酬が伴うということです。(中略)
 ここで考えていただきたいのは、「本来の仕事を行なっていれば報酬が伴うというのは、ありがたいことではあるが、ごく自然のことでもある」ということです。報酬を伴うものが仕事であるということなのです。
 その前提として考えねばならないのは、仕事というものは命をかけてやるベきものだということです。仕事は、命をかけてやるだけの値打ちがあるものなのです。それゆえに報酬というものがあって、心に喜びがあるのです。
 命をかけて仕事をしていないのに報酬を得た場合には、罪悪感がつきまといます。むなしさがつきまといます。自分は何かいけないことをしているのではないかという感じがします。(中略)
 世の中を見渡してみても、命をかけて仕事をして失敗している人は少ないのです。イエス・キリストのように、命をかけて仕事をして、この世的には、なんらの地位も、なんらの金銭も得なかった人もいますが、彼はその仕事の報酬をやはり受けているのです。彼はその後、二千年にわたり、人類の師として、父として、大聖者として尊敬されてきたわけであり、それだけの報酬はみごとに得ているのです。
 すなわち、命をかけた仕事に報酬が伴わないことはないということです。そして、それをありがたく受け取るところに魂の喜びがあるのだ、と考えていただきたいのです。
(25~33ページ)

「仕事」というのは、仏の子である人間の本質にきわめて近いものだ。

つまり、仏は無限の創造の力と、それに伴う喜びを持っておられる。その力が、人間にも与えられているのだ。

だからこそ、仕事は命をかけてやるべきものだし、そこに魂の喜びがあるのだ──。

なるほど、なるほど、です。

まさに仏の目から見た「仕事論」。

他では学ぶことができない凄いお教えであったことに、改めて私はちょっと感激しているのです。

『仕事と愛』

大川隆法著

 

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