有ると良い物も、無くてよい物も所詮個人の価値観に大きく左右される。
投資した金額に見合う価値(精神・心理的な価値を含む。)を生み出せるかに他ならない。
最初にアップしたハンモックも虫もいとわずに春から秋まで利用していれば、決して無用の長物ではない。
自然をこよなく愛する強靭な心体を持ち合わせていれば、限りなく素晴らしい至福の時を過ごすことが出来るかもしれない。
それでも、現実問題はそれほど単純でないから難しい。
短所も、長所も捉えて客観的に述べることは不可能であるからである。
ただ、長所のみに惑わされて短所を見る事無く購入や導入を考えるべきではないとの発想である。
夢は自分自身の思考回路の中を廻るうちにどんどん拡大することへの忠告であり助言である。
早い話、別荘や田舎暮らしも似たような所はあるかもしれないが。
薪ストーブもウッドデッキも個人の別荘のライフスタイルで大きくその価値観は変わるかもしれない。
有るとよい物として今回アップするウッドデッキは自分の価値観に伴う物だからである。
夏は涼しいウッドデッキで朝食を頂いたりする非日常の生活。(我が家では全くしませんが。)
別荘が森の中であれば清清しい木立の中での食事。
眺望のきくの場所であれば遠望の絶景を眺めながらの食事。
都会では決して味わう事のできない非日常の空間である。
我が家でも二~三度だけBBQを行った事がある。
以前の峠の我が家でのバーベキューはこちら。
キャンプ地では行うことのできない利便性が別荘でのウッドデッキにはある。
別荘の脇で出来るのであるから言うまでもない。
栓抜きがなくても、建物の中に入れば何でも取り出せる。
同一敷地内の庭でも出来るが、その利便性は格別である。
ワインを飲むグラス類も紙コップではない、ワイングラスである。
料理を載る皿も紙の皿ではない。
磁器のさらに盛るのである。
その精神的な充実感は本物であるから心理的にも最高である。
ウッドデッキの上のテーブルにはキャンドルの灯り、その上一輪の花が活けられてあれば最高である。
ウッドデッキはそんな最高のステージを提供してくれるのである。
都会では決して味わう事のできない至福の時を与えてくれるのである。
我が家で多様する方法はバーベキューでも朝食会場でもない。
夜間にウッドデッキに椅子をだして、外の空気を存分味わうことである。
音楽を聴きながら観察するでもなく只単に受動的に星空を眺めているだけである。
意思を持って観察活動としてデッキから星や星座を見つめているのでなない。
何も考えずに無心で椅子に座っているのである。
意思を持った能動的な行動ではなく、風がそよぐまま、星が瞬くまま、時が流れるまま、
デッキに居るのである。
ウッドデッキである必要は本来ないのかも知れない。
それでも、時と共に朽ち果てていく自然なウッドデッキが良いのである。
その無心の時を過ごす事ができる非日常の空間を創造してくれる場所がウッドデッキなのである。
現実問題としてのウッドデッキの問題点や短所。
原村は雪が少ないといっても雪は降るし雪も積もる。
雪が積もれば除雪しなければならない。
雪の重みでつぶれる心配はないが、利用できなくなってしまう。
その為、冬には雪かきをせねばならない。
ウッドであるから時と共に朽ち果てる。
我が家でも数年おきにキシラデコールを塗っていたが、10年を節目に一昨年デッキを作り直す事にした。
今回は南洋の硬質木材を使用して作った為に300万円を超えてしまった。
それだけの経費を掛けても価値のあるものがウッドデッキである。
独断と偏見に満ちた個人的見解とすれば:
ウッド・デッキが無いのは別荘とは言えない。
それほど、ウッド・デッキは素晴らしいのである。
投資した金額に見合う価値(精神・心理的な価値を含む。)を生み出せるかに他ならない。
最初にアップしたハンモックも虫もいとわずに春から秋まで利用していれば、決して無用の長物ではない。
自然をこよなく愛する強靭な心体を持ち合わせていれば、限りなく素晴らしい至福の時を過ごすことが出来るかもしれない。
それでも、現実問題はそれほど単純でないから難しい。
短所も、長所も捉えて客観的に述べることは不可能であるからである。
ただ、長所のみに惑わされて短所を見る事無く購入や導入を考えるべきではないとの発想である。
夢は自分自身の思考回路の中を廻るうちにどんどん拡大することへの忠告であり助言である。
早い話、別荘や田舎暮らしも似たような所はあるかもしれないが。
薪ストーブもウッドデッキも個人の別荘のライフスタイルで大きくその価値観は変わるかもしれない。
有るとよい物として今回アップするウッドデッキは自分の価値観に伴う物だからである。
夏は涼しいウッドデッキで朝食を頂いたりする非日常の生活。(我が家では全くしませんが。)
別荘が森の中であれば清清しい木立の中での食事。
眺望のきくの場所であれば遠望の絶景を眺めながらの食事。
都会では決して味わう事のできない非日常の空間である。
我が家でも二~三度だけBBQを行った事がある。
以前の峠の我が家でのバーベキューはこちら。
キャンプ地では行うことのできない利便性が別荘でのウッドデッキにはある。
別荘の脇で出来るのであるから言うまでもない。
栓抜きがなくても、建物の中に入れば何でも取り出せる。
同一敷地内の庭でも出来るが、その利便性は格別である。
ワインを飲むグラス類も紙コップではない、ワイングラスである。
料理を載る皿も紙の皿ではない。
磁器のさらに盛るのである。
その精神的な充実感は本物であるから心理的にも最高である。
ウッドデッキの上のテーブルにはキャンドルの灯り、その上一輪の花が活けられてあれば最高である。
ウッドデッキはそんな最高のステージを提供してくれるのである。
都会では決して味わう事のできない至福の時を与えてくれるのである。
我が家で多様する方法はバーベキューでも朝食会場でもない。
夜間にウッドデッキに椅子をだして、外の空気を存分味わうことである。
音楽を聴きながら観察するでもなく只単に受動的に星空を眺めているだけである。
意思を持って観察活動としてデッキから星や星座を見つめているのでなない。
何も考えずに無心で椅子に座っているのである。
意思を持った能動的な行動ではなく、風がそよぐまま、星が瞬くまま、時が流れるまま、
デッキに居るのである。
ウッドデッキである必要は本来ないのかも知れない。
それでも、時と共に朽ち果てていく自然なウッドデッキが良いのである。
その無心の時を過ごす事ができる非日常の空間を創造してくれる場所がウッドデッキなのである。
現実問題としてのウッドデッキの問題点や短所。
原村は雪が少ないといっても雪は降るし雪も積もる。
雪が積もれば除雪しなければならない。
雪の重みでつぶれる心配はないが、利用できなくなってしまう。
その為、冬には雪かきをせねばならない。
ウッドであるから時と共に朽ち果てる。
我が家でも数年おきにキシラデコールを塗っていたが、10年を節目に一昨年デッキを作り直す事にした。
今回は南洋の硬質木材を使用して作った為に300万円を超えてしまった。
それだけの経費を掛けても価値のあるものがウッドデッキである。
独断と偏見に満ちた個人的見解とすれば:
ウッド・デッキが無いのは別荘とは言えない。
それほど、ウッド・デッキは素晴らしいのである。
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