千駄ヶ谷駅から300mほど南に行った所に鳩森八幡神社があり、その境内に千駄ヶ谷富士と呼ばれる富士塚がある。高さ6m径25m。関東大震災後に修復されているが、旧態を留めていて、都内に現存する富士塚の中では最古のものとして、都指定の有形民俗文化財になっている。登山路は幾つかあるようだが、鳥居のある場所を正面とみなし、ここから入る。
参明藤開山の碑に導かれて登山路を上がる。自然石を階段状に並べた道で、手すりもあって歩きやすい。この富士塚は土を円墳状に積み上げ、全体をクマザサで被っている。他の草も茂っているが目障りではない。先ずは、くの字状の急坂を上がって頂上を目指す。
頂上には黒ボク石に囲まれた奥宮がある。その周囲には、富士山頂の名所である、金明水、銀明水、釈迦の割れ石(釈迦ヶ岳の割れ石)が設えられている。頂上からは、神社の境内が見わたせる程度だが、昔はもっと眺めが良かった筈で、富士山を遥拝する事も出来たと思われる。
頂上から下を見ると里宮があった。本来は里宮を参拝するのが先で、順序が逆になってしまったが、一旦下って浅間神社里宮を参拝し、それから改めて富士塚をめぐってみる。途中、小御岳石尊大権現の石碑があったが、ここが五合目という事になるのだろう。先に進むと、七合目に当たる烏帽子岩と身禄の像があった。
江戸時代の中頃、富士信仰の行者であった身禄が、富士山の烏帽子岩で断食し入定したあと、その教えが江戸を中心として庶民の間に急速に広まり、身禄派の富士信仰の団体である富士講が数多く結成され、この富士講による富士塚が各地に築かれる。千駄ヶ谷富士を築いた烏帽子岩講もそうした富士講の一つで、千駄ヶ谷を拠点にしていたらしい。
富士塚を下りて、千駄ヶ谷の富士塚の図を見る。この図によると、登山口は三カ所あるようだが、今回は右側の登山口の道は歩いていないので、途中の石造物は見ていない。そのほか、亀岩や須走りも見落としているが、それはまたの機会ということにしたい。千駄ヶ谷富士の前面には池があるが、富士塚を築くための土を掘ったあとを池にしたという。大名庭園でも池を掘った時の土で築山を造っているので、それと同じ事である。下谷坂本富士も、昔は池があったそうで、掘ったあとを池にしていたようである。なお、高田富士のように古墳を崩して富士塚を築いたり、また、斜面地を利用して築いている事例も少なくない。
「江戸名所図会」の千駄ヶ谷八幡宮という挿絵に、千駄ヶ谷富士も描かれている。現在の富士塚と少し違うようにも見えるが、長年の間に多少の変化はあり得るのだろう。鳩森八幡(千駄ヶ谷八幡)の表門の前の通りは、鎌倉路と呼ばれる古くからの道で、江戸時代にこの道を通る人からは、千駄ヶ谷富士は目立つ存在であったと思われる。
千駄ヶ谷富士は小御岳石尊大権現の銘から、寛政元年(1789)の築造と考えられているが、水盤や石灯篭や狛犬の銘に享保とある事から享保の築造とする説もある。「寺社書上」には、八幡宮に奉納された狛犬(石獅子)が後に移されたとあり、水盤や石灯篭も他から移されている可能性があるので、築造年代の決め手にはならないだろう。また、富士浅間築山については、天正年間とあるが確かではないとし、神体は富士山形の石と記しているが、万治3年(1660)の「古縁起写」に、天正年間(1573~1592)に富士峰を築いたとあるので、万治3年には富士塚が存在していた可能性がある。さらに、寺社の縁起は変更される事もあるが、富士塚の有無のような事柄は三世代ぐらいはまともに伝わると思われるので、天正年間の築造もあり得ると考えられる。万治3年以前の富士塚は、身禄派の富士塚ではないが、中世にも富士塚が存在していた事は知られており、神体が富士の形の石だとすると富士信仰に関わる塚と考えられる。例えば、富士山南麓の村山を拠点とする修験道、村山修験に関わりがあるのかも知れない。富士塚は改修される事があり、大きさや形、石造物も変わる。時には場所を移動する再築のような事もあり得る。江戸時代の中頃、千駄ヶ谷八幡(鳩森八幡)にあった富士塚が、身禄派の富士講によって改修または再築された可能性もあるのではないか。
<参考資料>「日本常民文化研究所調査報告2」「寺社書上」「富士塚考」「富士山文化」「ご近所富士山の謎」「江戸名所図会」