夢七雑録

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錦糸町雑記・昔の錦糸町

2010-02-14 08:25:36 | あの町この町
(1)江戸時代の錦糸町

 明暦三年(1657)、江戸の大半を焼失した振袖火事のあと、幕府は本所深川地域の開発に着手するが、現在の錦糸町界隈は、こうして出来た地域の東端にあたる。北を上にした江戸の絵図で、東(右側)には天神川(横十間川)、西(左側)には横川(大横川。現在は埋め立てられて親水公園になっている)が描かれている。また、南(下側)には竪川(現在は埋め立てられ、頭上を高速道路が走っている)、北(上側)には俗に錦糸堀と呼ばれていた南割下水(現在は埋め立てられ錦糸町駅北側の道路・北斎通りになっている)が描かれている。なお、錦糸堀の名の起こりは、岸堀がなまったものとか、琴糸を作っていたからとか、朝日夕日が照り返したからとかいう説があるが、確かなことは分からない。

 横川には、北に北中之橋、南に北辻橋(撞木橋)、南辻橋が架かる。竪川には西側から、新辻橋、四つ目橋が架かる。四つ目橋を通る南北の道は四つ目通りである。天神川の南側には旅所橋が架かっている。この地域の大半は武家地で、その間に田畑が散在している。竪川沿いは柳原町と記されているが、神田柳原から移された町という。このほか、竪川沿いには茅場町や松代町があり、また、田中稲荷社(田螺稲荷)の社地もあった。
 
 (2)明治の頃の錦糸町
 明治になると武家地は没収され、竪川沿いの柳原町、茅場町、松代町は北側に拡張されて民家も建てられるようになる。一方、南割下水の近くは田畑が広がるのみであったが、やがて、南割下水の南側が、通称の錦糸堀に因んで錦糸町となり、総武鉄道による鉄道敷設が始められるようになる。当時の錦糸町に商家は無く、大半の土地を総武鉄道が所有していたという。明治27年、現在より両国寄りの場所に「本所停車場」が開業。駅の敷地北側には船による貨物を取り扱うため、大横川に通じる堀割も造られる。ただ、当時は駅周辺に何もなかったようで、その様子を正岡子規は次のように詠んでいる。

「汽車道の この頃出来し 枯れ野かな」


 後に正岡子規門下の歌人となる伊藤左千夫は、明治22年に茅場町三丁目(現在の錦糸町駅南口の付近)にて三頭の乳牛を飼い、牛乳業を始めている。この事を記念した石碑が、以前は、錦糸町駅南口の生垣で仕切られた場所に置かれていたが(写真)、現在は場所を移動して、次のような歌が刻まれた石碑だけが置かれている。

 「よき日には 庭にゆさぶり 雨の日は 家とよもして 児等が遊ぶも」
  
 明治29年、現在の東京楽天地のビルの辺りに、国内最初の鉄道車両工場である平岡車両工場が設立される。経営者は、平岡熙(ひろし)。この工場は、明治34年に、政府の汽車製造会社の工場に併合されるが、平岡は莫大な利益を手にすることになる。平岡は趣味人であったが、特にベースボールには関心が強く、明治13年に日本最初の野球チーム「新橋アスレチック倶楽部」を結成している。このチームには、正岡子規も参加していたという。


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