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太田道灌と山吹の物語

2017-05-29 19:20:18 | 歴史メモ帳

太田道灌と山吹の物語

 太田道灌と山吹の物語はよく知られている。前回の落語散歩では、豊島区内と新宿区内にある、この話にゆかりのある場所を取り上げたが、荒川区内にも、道灌ゆかりの地として町屋駅近くの泊船軒という寺に山吹の塚がある。このほか、埼玉県越生には山吹の里歴史公園があり、横浜市の六浦も山吹の里とされ、他にも候補地があるらしい。そこで、道灌と山吹の物語について、少し調べてみた。まだ分からない事も多いのだが、忘れないうちに投稿することにした。

 1.道灌と山吹の話の背景

(1)兼明親王の古歌

事の始まりは、応徳3年(1086)に完成した後拾遺和歌集に載っている兼明親王の歌にある。雨降りの日に蓑を借りに来た人が居たので、山吹の枝を折って渡したが、意味が分からないと言ってきたので、詠んだのが次の歌である。

“ななへやへはなはさけども山ぶきのみのひとつだになきぞあやしき”

(「後拾遺和歌集・第19」 雑五)

蓑を借りに来た人に山吹の枝を渡したのは、遊び心だったのだろうが、相手はどう思ったのだろう。親王なら許されることも、立場が逆であったら、許されない事かも知れない。

 (2)三条西実隆の歌

三条西実鷹(1455-1537)の雪玉集に次の歌がある。

“雨にきるみのなしとてや山ぶきのつゆにぬるるは心づからを”

(三条西実隆の私歌集・雪玉集第七)

この歌は、兼明親王の歌を受けて、実のないことを“蓑なし”にかける事が、後世にも行われていたという事を示している。

(3)永享記による太田道灌

「永享記」によると、太田道灌(1432-1486)は9歳で父のもとを離れて学問所に入り、鎌倉五山で無双の学者になって11歳で戻ったという。道灌は多才であったが、和歌については父に少し劣っていたとあるので、和歌についてさらに学ぶ事はあっただろうが、歌道に暗いという事はなかっただろう。道灌と山吹の話も記録にはないようである。

江戸では“道灌びいき”が多かったというが、家康が江戸を居城とした事から、それ以前に江戸城を築いた道灌についての関心が高まったのだろうか。道灌については、分からない点も多いらしいので、憶測によって様々な話が作られるという事があったかも知れない。

 2.道灌と山吹の話の内容

 (1)和漢三才図会による物語の内容

「和漢三才図会」は江戸時代の百科事典で、編者の寺島良安は大阪城に出入りを許された医者であった。この書の自序には正徳2年(1712)とあり、編纂には30数年を要したという。この中に、太田道灌の逸話の一つとして、道灌と山吹についての話が記載されている。

“道灌は生まれつき剛毅で猟を好み、和歌や文章は知らなかった。ある日、道灌が鷹を野に放したところ雨にあい、蓑を持たなかったので、一軒の小さな家で雨具を借りようとしたところ、一人の婦人が山吹の花を折って道灌の前に差し出した。道灌はその意味が分からなかったので隣で雨具を借りたが、帰ってから人に聞くと、蓑が無い事を古歌によって述べたという事が分かった。道灌は恥をかいたことを悔いて猟をやめ、詩歌を学ぶようになった。”

(2)艶道通鑑による物語の内容

増穂残口は日蓮宗の僧であったが京都に出て還俗し、正徳5年(1715)に神道講釈書である「艶道通鑑」を表し、街頭に出て通俗的な神道講釈を行ったという。「艶道通鑑」のうち、「太田道灌の段」には、次のような道灌と山吹の話が載っている。

“太田道灌は情も知らぬ勇者であったが、金沢山で狩をしたとき激しい雨にあったため、六浦辺りの家に立ち寄り「蓑を借りるぞ」と怒鳴った。しばらくして十七八の女が現れ、笑いながら山吹の花一枝を差し出した。道灌は腹を立て「雨具を借りようというのに何で花を出したか」とののしった。帰ってその話をしたところ、家来の老武者が、「それは蓑が無いという事ではないかと」言い、「七重八重花は咲とも山吹のみのひとつたになきそ悲しき」という歌の心だと話し女をほめたため、道灌も荒々しい振る舞いばかりで情の道も知らなかったことを悔やみ、歌道は武士の知るべき事として心を改め、歌を詠むようになった。”

 (3)公益俗説弁による物語の内容と俗説批判

肥後熊本藩士の井沢蟠竜が著した「公益俗説弁」は、世間に流布する俗説を検討し批判した書で、正徳5年(1715)の序がある。その正編巻16に、「山吹をもって蓑なきをしめす女が説」として次のような話が取り上げられている。

“俗説では、太田道灌が狩りに出て雨に逢い、民家に立ち寄って蓑を借りようとしたところ、一人の女が何も言わずに、山吹の枝を折って差し出した。これは「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ怪しき」という歌になぞらえて、蓑が無いことを答えたこということだが、後拾遺和歌集の話を誤って伝えたのだろうか。もし、兼明親王の歌を覚えていた女が物知り顔で行ったのだとすれば、身の程知らずという事になる。“

 (4)老士語録による物語の内容

「老士語録」は近江膳所藩士で兵法家であった向坂忠兵衛が、老武士の話をまとめたもので、門弟による享保17年(1732)の序がある。この中に次のような話が載っている。

“太田道灌が江戸在城の時分、葛西辺へ放鷹に出たところ、俄かに雨が降ってきたため、民家に立ち寄って蓑を借りたいと頼んだ。すると中から老女の声で誰かと問うてきた。そこで太田道灌と名乗ると、老女は山吹のみの一つさえ持たぬ身なればと詠んで断った。道灌は老女の身の上を尋ねたが、夫の恥になるからと答えなかったため、道灌は不憫に思い、老女が不自由な思いをする事のないよう扶養することにした”

(5)常山紀談による物語の内容

「常山紀談」は、備前岡山藩の儒学者、湯浅常山による戦国武将の逸話集で、明和7年(1770)の完成だが、自序は元文4年(1739)になっている。著者は、戦国の時代の事は詳らかではなく、伝わる事にも誤りが少なからずありとして、信憑性について難がある事を自ら認めている。この書に「太田持資歌道に志す事」として次のような話が載っている。

“道灌が鷹狩で雨に逢い、ある小屋で蓑を借りようとしたところ、若い女がものも言わずに山吹の枝を折って差し出した。道灌は花を求めたのではないと怒って帰ったが、是を聞いた人から、「七重八重花は咲けども山吹のみの一つだになきぞ悲しき」という古歌のこころだと聞き、驚いてそれからは歌を志すことにした“

(6)江戸名所図会による物語の内容

天保7年(1836)に刊行された「江戸名所図会」には、次のような話が載っている。

“道灌が江戸在城の頃、戸塚の金川辺りで鷹を放したところ飛んでいってしまったので、その後を追ったが、急に雨となったため、傍らの農家で蓑を頼んだ。すると少女が出て来て黙って山吹の花を手折り道灌にささげた。道灌はその意味が分からず怒って帰り、近臣に話すと、「七重八重花はさけども山吹のみのひとつだになきぞわびしき」という古歌の心で答えたとのではと話した。道灌は恥じて和歌の道を追求するようになった。”

(7)紅皿の墓の由緒書

新宿区の大聖院に十三仏板碑を転用した紅皿の墓と称するものがあり、その由緒書は次のような話を伝えている。

“京から下って高田に住んだ武士に、二人の娘があった。姉は先妻の子で性質が良く美しく歌を好んだが、妹は後妻の子で容姿が良くなかったので近辺では姉を紅皿、妹を欠皿と、あだ名で呼んだ。道灌が高田での鷹狩で雨にあい、人家で雨具を借りようとした時、紅皿が出て来て黙って山吹の枝を差し出した。道灌はそのまま城に帰ったが、娘の振る舞いが気にかかり、中村重頼という者に尋ねたところ、その娘は由緒ある身で、道灌が歌道の達人と聞いていたので、そうしたのではないか。後拾遺集に”七重八重・・・悲しき“という歌もあると答えた。道灌は自らを恥じ、紅皿を呼び寄せ妾とし歌の友とした。道灌が亡くなったあと、紅皿は尼になり大久保に住んだが、その墓が紅皿の塚である”

 

 3.物語の成立と伝説化

 道灌と山吹の話は、現在では実話ではなく伝説として扱われている。「公益俗説弁」にも書かれているように、道灌に対して女が黙って山吹を差し出したのは、身の程知らずな行為であり、礼を失している。また、怒った道灌が罰を下す事もあり得るのに何故そうしたのかという疑問もある。さらに、若い女性が後拾遺和歌集の歌を知っていたのも妙であり、充分な教育を受けて育った筈の道灌が兼明親王の歌を知らなかったのも変である。ほかに、兼明親王の歌の“あやしき”が“かなしき”(「江戸名所図会」では“わびしき”)に変えられているが、意図的に変えられているようで、気になるところでもある。

「老士語録」の話は尤もらしいが、道灌と老女は対等ではないので、現実にはこの話のような応対はしないだろう。このような小さなエピソードは、記録されない限り、後世まで伝わる可能性は低いと思われるが、仮に実話に近い話が伝わっていたとすれば、広く流布している道灌と山吹の話は、これとは内容が異なるので、新しく作られた物語という事になる。

 道灌と山吹の話が物語であったとすると、どのような経緯で物語が誕生したのだろう。ここから先は憶測になるが、和歌を嗜む人の間では、“実の”を“蓑”にかける事は知られていた筈で、時には遊び心で、蓑を借りようとした人に山吹を出す事があったかも知れない。江戸時代になって道灌についての関心が高まると、和歌の素養がある人の中に、道灌と山吹の話を思いつく人がいたとしても不思議ではない。この物語の成立時期は定かではないが、遅くとも、「和漢三才図会」の編纂作業が進んでいた1700年前後には成立していたと思われる。この物語は、太田道灌ともあろう者が若い娘に恥をかかされたという話が面白く、また、幕府が推奨していた文武両道に適う教育的な話にもなっていることから、道灌びいきが多い江戸では、比較的早くから広まっていたと想像されるが、確かな事は分からない。一方、京都などでは、増穂残口による神道講釈によって18世紀前半には民衆の間に広まっていたと考えられる。この物語に対して、「公益俗説弁」の著者のように、江戸時代にも道灌と山吹の物語を俗説として批判する人もいたが、多くの人は事実として受け入れていたのだろう。明治時代、この物語が教科書に載り、多くの人がこの物語を知ることになるが、実話と考える人が多かったかも知れない。

 物語の場所となる山吹の里については、「艶道通鑑」が六浦、「老士語録」が葛西、「江戸名所図会」が高田馬場北方と、意見が分かれている。これは想像に過ぎないが、物語の成立当初には地名がなかったかも知れず、物語が流布する過程でそれぞれの地名が付加されていった結果かも知れない。道灌ゆかりの場所では、当地が史実としての山吹の里に違いないと思う人もいただろうし、時には、その土地に合わせた物語が付け加えられる事もあっただろう。結局、複数の土地が山吹の里を名乗ることになるが、本家争いをして、共倒れになることがなければ、史実と信ずる人がいる限り、それぞれの土地が伝説の地として残る事になるのだろう。

 新宿区の大聖院にある紅皿の墓の由緒書では、道灌に山吹を差し出した娘を紅皿としているが、「遊歴雑記」では、昔から紅皿欠皿の古墳と伝えられてはいるが、紅皿がどこの国の人でいつ頃の年代の人かについて知る者はいないと記している。「新編武蔵風土記稿」では、道灌に山吹を差し出した少女を紅皿とする話は、こじつけであるとし、「東京名所図会」でも、この話をこじつけとしている。紅皿欠皿の話は継子いじめの昔話で、各地に伝わって、継子いじめという骨子はそのままに、登場人物も筋書きも異なる様々な物語を生み出すことになった。古くは各地に残る紅皿欠皿の民話がそれであり、時代が下がれば、黄表紙の題材となり講談や芝居の演目にもなっている。道灌と山吹の伝説も、昔話の紅皿欠皿の話と結びついて、新たな物語へと変容したという事になるだろうか。

 <参考資料>「道灌紀行」「山吹の里考」「新編国歌大観1,8」「永享記」「和漢三才図会」「艶道通鑑」「公益俗説弁」「老士語録」「常山紀談」「江戸名所図会」「遊歴雑記」「新編武蔵風土記稿」「東京名所図会・西郊之部」


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