溜池から山の裾にそって進めば、吹上観音の下に出る。石段を上がれば東明寺・吹上観音(埼玉県和光市白子3。写真)である。吹上観音は江戸名所図会にも取り上げられており、その図には、参詣者の姿も何人か見えているが、嘉陵が訪れた時は、人の気配も無かったという。また、戸が閉ざされていたため観音を拝むことも出来ず、堂守の僧に由来など聞いてみたが満足な答えも返ってこない有様だった。仕方なく、帰りの道を教えてもらって、吹上の山を下り、徳丸の原を横切って戸田の川(荒川)に出て、早瀬の渡し(笹目橋付近)から舟で北岸に渡り、堤を歩いて戸田に出ている。
戸田の川(荒川)の南側は徳丸の原と呼ばれ、荒川の氾濫で度々浸水する不毛の地であった。嘉陵は、この原について、四日ほど前の大雨で水かさが増し、そこら中に水溜りがあり、広い所では、幅800m、長さ数kmにわたって見渡す限り水溜りになっていると書いている。徳丸の原を通る適当な道などはなく、回り道のようだが、対岸に渡って、戸田の渡しで渡り返すしかなかったのだろう。徳丸の原付近は、昭和40年代に宅地開発が進み 大規模団地が建設されるに及んで、その様相は一変した。なお、この地域の地名である高島平は、天保12年(1841)に、高島秋帆による西洋式砲術の演習が、この地で行われたことに由来している。
嘉陵は、戸田では夕食をとるが、すでに黄昏。急いで戸田の渡し(戸田橋付近)を渡る。ここからは中山道を行くことになる。春には桜草が茂るという志村の原(板橋区舟戸)を通り、蓮沼を経て午後6時頃に梓(板橋区小豆沢)を通過。板橋を過ぎて、鶏声ケ窪(文京区本駒込1)で鐘の音を聞く。すでに午後8時になっていた。家に帰り着いたのは、半刻ほど後のことである。この日は、嘉陵にとって少し不満が残る旅であったかも知れない。
戸田の川(荒川)の南側は徳丸の原と呼ばれ、荒川の氾濫で度々浸水する不毛の地であった。嘉陵は、この原について、四日ほど前の大雨で水かさが増し、そこら中に水溜りがあり、広い所では、幅800m、長さ数kmにわたって見渡す限り水溜りになっていると書いている。徳丸の原を通る適当な道などはなく、回り道のようだが、対岸に渡って、戸田の渡しで渡り返すしかなかったのだろう。徳丸の原付近は、昭和40年代に宅地開発が進み 大規模団地が建設されるに及んで、その様相は一変した。なお、この地域の地名である高島平は、天保12年(1841)に、高島秋帆による西洋式砲術の演習が、この地で行われたことに由来している。
嘉陵は、戸田では夕食をとるが、すでに黄昏。急いで戸田の渡し(戸田橋付近)を渡る。ここからは中山道を行くことになる。春には桜草が茂るという志村の原(板橋区舟戸)を通り、蓮沼を経て午後6時頃に梓(板橋区小豆沢)を通過。板橋を過ぎて、鶏声ケ窪(文京区本駒込1)で鐘の音を聞く。すでに午後8時になっていた。家に帰り着いたのは、半刻ほど後のことである。この日は、嘉陵にとって少し不満が残る旅であったかも知れない。