夢七雑録

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16.成子成願寺と熊野十二社紀行

2009-03-05 22:22:28 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 文政元年八月二十六日(1818年9月26日)、嘉陵は中川正辰とともに中野本郷村の成願寺(中野区本町2。図)を訪れている。寺の南側、井の頭上水(神田川)を小橋で渡り門を入ると、左に百観音堂、右に鐘楼、方丈、庫裏が並んでいた。庫裏の庭を通って高さ10mほどの裏山に上ると金毘羅社があり、その裏手の北西の方角に小高い墳と空堀の跡があった。正観寺(成願寺)の開基とされる正蓮長者(中野長者)の居住跡とされる場所である。中野長者が建立したとされる三重の塔は既に無く、塔屋敷と呼ばれる跡地があるだけであったが、中野宝泉寺(中野区中央2。宝仙寺)の塔(現存せず)は、成願寺の塔を移したもので、内部に正蓮長者夫婦の像を安置しているという、中川正辰の話を記している。実は、宝仙寺の三重の塔は飯塚惣兵衛の寄進による寛永年間の建立で、安置されていたのは飯塚夫妻の像なのだが、当時は中川正辰の言う説が流布していたらしい。この日、嘉陵は成願寺の山で「二人静か」という草を見つけて写生しているが、天保二年(1831年)にふたたび成願寺を訪れた時には、この草は無かったという。

 中野長者の墳墓は、後に境内地に移され、鈴木九郎長者塚として現存しているが、成願寺の堂塔の方は昭和20年の空襲によって灰燼に帰しており、現在の堂宇は戦後に建てられたものである。また、江戸時代の門は南側にあったが、現在は東側の山手通り側にあり、唐様黄檗宗風の三門になっている。中野長者については議論があるところだが、昭和55年に正観寺開山・川庵宗鼎像を解体修理した際、胎内から発見された人骨を、鈴木尚東大名誉教授が鑑定した結果、室町時代の熟年男性と若い女性のものと判定された。確証は無いが、伝承の中野長者と、夭折した娘のものと考えてもおかしくはないという事である。

 嘉陵はこのあと、中野長者が勧請したという熊野十二社に行っている。この社の別当は成願寺で、成願寺隠居の敷地があった。ここには、池があり滝があり茶店もあって、江戸百景の「角筈熊野十二社」や、江戸名所図会の「角筈村熊野十二所権現」にも描かれた清遊の地でもあった。嘉陵は、この山に烏が二羽いて、手を叩くと飛んでくると記し、また、畑の畔に紅葉が多く、秋の眺めは殊に良いと書いている。現在、熊野神社は新宿中央公園内に鎮座しているが、十二社の池は埋め立てられて跡形もない。

 嘉陵の紀行文には、熊野十二社と成願寺の縁起が記載されているが、元文二年(1737)作成の「熊野十二所権現縁起」の引用と思われる。以下に概略を示す。
「源義経に仕えた鈴木三郎重家の子孫、鈴木九郎は、各地を流浪したあげく中野に住みついた。家は貧しかったが、故郷の紀州藤代の産土神である熊野権現若一王子の小祠を建て、日々尊信していた。鈴木九郎は馬の売買を仕事としていたが、浅草観音の御利益で大金を得た。その金で十二所の神を勧請した。応永十年(1403)のことである。そののち、鈴木九郎は田畑を買い宅地を広げ、中野長者と呼ばれるようになった。俗説だが、長者は手にした財宝を埋めたが、その場所が発覚しないよう、手伝った者を姿不見橋(のちの淀橋)の下で殺したという。その報いから、娘が蛇身となったため、これを悲しんだ両親が、相模の最乗寺から禅師を呼び寄せ、禅師によって娘は蛇身を脱して天に昇ったという。鈴木九郎は、こののち正蓮と改名し、その住居を壊して正観寺(のちの成願寺)を建てた。」

 嘉陵はこのあと、熊野社の大門を出て、少し南の兜塚に向っている。その場所は秋元左兵衛佐屋敷北側の牧野大隅守の下屋敷にあったが、垣根もなかったので、小笹をかき分けて中に入った。塚は少し先にあり、樫の木の根元に石が置かれていたという。兜塚は現存せず、その由緒も不明である。位置的には、新宿中央公園の北側と思われる。


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