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夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

大隈庭園

2016-02-03 21:34:56 | 公園・庭園めぐり

 

 

今回は、早稲田大学を創立した大隈重信の邸宅跡である大隈庭園を取り上げる。大隈庭園のある場所は、昭和7年に東京市に編入される以前、豊多摩郡に属していた。そのため、上の図で「地図」をクリックし、表示された地図で次に古地図をクリックして明治を選ぶと、大隈庭園の場所は空白になっている。また、南から流れて来る水路(蟹川)が東京市と豊多摩郡の境界になっていた事が分かる。

大隈庭園に入って東に向かって進むと、左側に芝生が広がっている。芝生は北側のリーガ・ロイヤル・ホテルの近くまで続き、その周囲を樹木が縁取っている。そのため、全体として和洋折衷の明るい庭園という印象を受ける。焼失以前の大隈邸の建物は、芝生地の西側を占めていた筈で、主屋に相当する書院から池までの間は、近からず遠からずの程よい距離であったと思われる。芝生の中に置かれている横長の大きな石は、主屋である書院の前に置かれていた三段の沓脱石のうちの一段のようだが、この沓脱石の付近からの眺めは、当時の庭の景観に近いものがあるのだろう。

紅葉山という築山を右にして園路を進み、少し下って池を渡る。雪見灯篭も置かれていて、日本庭園によくある池のようにも見えるが、ここは流れを表現しているらしく、全体としては細長い池になっている。池の水は敷地の傍を流れていた蟹川から取水していたという事だが、今はどうしているか分からない。

池を渡って左へ、地蔵山と言う名の築山に上がる。築山としてはやや低く、上は平らになっている。地蔵山の名の由来となった地蔵の像は見当たらないが、今は、大隈夫人の像と第4代総長の像が建てられている。昔はここから目白台の森を眺める事が出来たらしく、テーブルを取り囲むようにベンチも据えられていて、休憩するには格好な場所だったらしい。

築山から下りて先に進むと北東の隅に完之荘がある。飛騨の山村の古民家だそうで、寄贈を受けて移築したものという。なお、昔はここに松見茶屋という茅葺の茶屋があったらしい。ついでに言うと、大隈邸の庭園には築山の上に稲荷神社も祀られていたようだが、その場所がどこかは分からなくなっている。帰りは暫し芝生の上を歩く。振り返ると、池を中心とした日本庭園との間に芝生が広がっている。やや間延びした感じに見えるが、広い芝生の広場は、その上で休んだり遊んだり催事を開催出来る、洋風庭園の構成要素という事なのだろう。

 

大隈庭園の歴史について少し調べてみた。「御府内場末往還其外沿革図書」によると延宝年中(1673-1680)には、大隈庭園の場所は近隣の村の入会地になっていた。天保5年(1834)からは井伊家が入会地の買い上げを順次進め、嘉永5年(1852)の時点では、入会地の東側は囲いの無い抱地、西側は井伊家の抱屋敷になっていた。この時、抱屋敷の中に庭園を造っていたとすれば、それが大隈庭園の原点という事になる。嘉永7年(1854)の大久保絵図によると井伊家の屋敷地はさらに広がっているが、安政7年(1860)、桜田門外の変により井伊直弼が倒れたあと、井伊家はこの抱屋敷を手放したようで、文久2年(1862)の分間江戸大絵図には西側に松平隠岐(松山藩主・松平勝成)、東側に松平讃岐(高松藩主・松平頼聡)の名が見える。明治23年の大隈庭園の陪覧記の前文によると、明治維新後に一時は高松藩松平氏(松平頼聡)の別荘になっていたという。ただ、幕末から明治にかけての動乱期に造園を行う余裕があったかどうか分からない。明治7年(1874)、大隈重信はこの地を別荘として入手。明治17年(1884)には本邸をこの地に移し、邸宅の建築と庭園の改修を進め、明治20年(1887)には竣工している。

 

明治26年(1893)に大隈邸を観覧した造園家の小沢圭次郎は、大隈邸の庭園について、近江八景を模した庭園を改修し、泉流を引き、長江延綿の景致を造り、花竹を増植して、小山平遠の風趣を設けたと述べている。明治16年(1883)の五千分一東京図の「東京府武蔵国北豊島郡高田村近傍」には三カ所の築山と池からなる大隈邸の庭園が記されている。この庭園は、本格的な改修以前の状態らしく、大名庭園の姿を多少なりとも残していたと思われるが、改修によって、既存の池が流れの形へと変わり、芝庭も広くとられるようになった。また、植栽にも自然さを求めた庭になったと考えられる。「名園五十種」は、この庭について、一つの庭に春夏秋冬の美を収めた名園と評している。大隈邸には和館と洋館があり、さらに温室もあって当時はまだ珍しかった植物が多く集められていた。このほか、盆栽、鉢植え等も邸内に数多く置かれていたという。大隈庭園は、和館と洋館の何れとも調和し、園芸に関心の高かった施主の意向にも沿う庭であったのだろう。

 

<参考資料>

「江戸東京の庭園散歩」「写真で見る東京の庭」「東京市史稿遊園編6、7」「キャンパスミュージアムVOL.2(大隈庭園編)」「大久保伯爵家写真帖」「東京府豊多摩郡誌」「名園五十種」「地図で見る新宿区の移り変わり・戸塚落合」「街歩き庭めぐり(草樹舎)」。ほかに江戸の絵図及び明治の地図各種。

 


皇居東御苑の紅葉

2015-12-21 17:26:33 | 公園・庭園めぐり

 

年の暮れ、皇居東御苑に名残の紅葉を見に行く。大手門から入り三の丸尚蔵館を右に見て進み、同心番所を過ぎて左に行くと広場に出る。左側は百人番所、右側には中之門の石垣が続き、石垣の前には中之門の石垣を修復した時の説明版と石垣の石が置かれている。石垣をバックにイチョウと紅葉を撮り、広場から右へ二の丸庭園へと向かう。

左手の石垣の下は白鳥濠、右手は二の丸雑木林になっている。武蔵野の雑木林を復元したクヌギ、コナラなどの明るい林の、落ち葉散り敷く道を歩く。

二の丸庭園の池を見に行く。この庭園は明治以降荒廃していたが、九代将軍家重の時代の庭絵図をもとに昭和40年に復元されている。この庭園は菖蒲の季節がベストだが、落ち着いた雰囲気の今の季節も捨てがたい。

池をめぐり、それから諏訪の茶屋に行く。明治時代に吹上御苑に建てられた、ご休所を移築した茶屋という。

都道府県の木が並ぶ区画を過ぎる。イチョウが黄金色の葉を一頻り落としている。その様子を暫し眺め、それから丁字路を右に行く。右手の紅葉は天神濠の下からは見えないのだろう。

梅林坂という坂を上がる。ふと見上げると、石垣の上に紅葉が天を覆っている。坂はなおも続き、書陵部の前に出る。その先に進むと、視界が開けて天守台の前に出る。

天守台に上がる途中から大奥跡の芝生を見下ろす。この時期、入園者の数はそれほど多くは無さそうに見える。それにしても、外国人の姿を多く見かけるが、最近の傾向だろうか。

天守台に上がり周囲を見回す。石垣の上にある松は、下から眺めると格好が良いのだが、天守台の上で見ると、何故ここに松があるのか不思議に思ってしまう。

天守台を下り大奥跡の芝生の上を歩く。西側、桜の島とよばれる辺りや竹林の方向を眺める。今の季節、枯れ木もあるが彩も残っている。

貴重な調度品を収納したとも伝えられる石室を見に行く。本丸から脱出するための抜け穴があったという噂もあるが、本当だろうか。

石室から富士見多聞に向かう、今年は季節の進行が遅いせいか、東御苑内にはまだ晩秋らしい風景が残っている。紅葉の向こうに本丸跡の芝生が見える。

富士見多聞は石垣の上に設けられた長屋造りの武器庫という。富士が見えたのが名の由来だろうが、本来は御休憩所前多聞というらしい。

松の廊下跡を通り抜けて、富士見櫓に行く。中には入れないので外から見るだけである。春には桜がアクセントになっているが、今の時期は紅葉が少しだけ彩を添えている。富士見櫓から果樹古品種園に行きカンキツ類を見たあと、中雀門跡を抜け大番所を過ぎる。中之門跡を過ぎると百人番所前の広場で、東御苑一周はこれにて終わりとなる。

 

<参考>東御苑と江戸城については、当ブログのカテゴリー「江戸名所」のうち、「江戸名所記見て歩き(1)」に記事あり。

 


目黒天空庭園に富士を見に行く

2015-12-07 19:15:23 | 公園・庭園めぐり

 

大橋ジャンクションに空中庭園が出来たことは知っていたが、そのうち行こうと思いつつ、そのままになっていた。その庭園、目黒天空庭園から、晴れた日には富士山が見えるという事を知り、冬晴を幸い出かけてみた。池尻大橋駅を東口に出て、玉川通りを右に行き目黒川を渡る。大橋ジャンクションの下を進むと右側にスーパーのLIFEがある。その前を右に上がり、歩道橋からの道に合してさらに上がる。頭上のジャンクションの構造物と車の騒音が少々煩わしいが、植栽と和風の造形によるアプローチに、この先を期待して進む。

 

高架をくぐると、ようやく明るい日差しの中に出る。ここはもう、高速道路のループ状構造物の屋上に造られた、天空の庭園の一部である。金網から覗くと、緩やかに上がっていく屋上に植栽が続いているのが見て取れる。下を見ると広場のようなものが見える。オーパス夢ひろばと言うらしく、スポーツ施設があるらしい。管理棟でもらったリーフレットによると、天空庭園の開園は平成25年3月。面積は7000㎡、高低差24m、幅16~24m、縦断勾配6%、植樹は4800本という。

 

西口広場からコミュニティスペースへと向かう。頭上には空が広がり、車の騒音も遠のいている。天空庭園は回遊式庭園ということだが、緩やかな傾斜のある、明るい散歩道と考えた方が良さそうである。潤いの森の樹木はまだ成長していないが、そのうち、屋上に造られた木陰の散歩道になるのだろう。くつろぎ広場までくると、庭園は左へ左へと曲がって行く。

 

あそびの広場から四季の庭へと進む。ここまで上がってくると、眺望も良くなってくるが、ここは、展望を楽しむというより、散策と休息のための庭園と考えた方が良さそうに思える。庭園内には四阿があり灯篭も各所にあって、全体としては日本庭園の趣がある。

天空庭園は頂上に相当する東口広場で終りとなる。富士山の展望台として設けたという展望デッキに上がると、霞んではいるものの、富士山がビル群の上に姿を現している。本日の目的がひとまず達成されたため、これにて帰途に就く。


占春園から小石川植物園へ

2015-11-05 20:19:33 | 公園・庭園めぐり

(1)占春園

 地下鉄茗荷谷駅で下車し春日通を渡り左へ、次の角を右に入り左側の歩道を進む。次の角で左に行くと東京教育大跡に開設した教育の森公園となるが、今回は割愛して直進する。歩道で湯立坂を下りても良いのだが、公園めぐりの企画なので、道路から一段高くなっている窪町東公園の中を歩く。右手、道路の向こう側に、銅御殿と呼ばれた重要文化財の旧磯野家住宅の立派な門を見ながら進むと、程なく“こもれびの滝”という人工の滝に行き当たる。斜面を流れ落ちる水の音は思いのほか迫力がある。滝を過ぎて下って行くと、右側に水車が見えて来る。ここを左に行き、占春園の説明版を確認して、その先に進む。

 

道の右側、樹木が生い茂っている場所が、守山藩邸の占春園という大名庭園の跡という。初代水戸徳川家の四男として生まれた松平頼元は、萬治2年(1659)、大塚吹上に屋敷を賜ったが、その敷地は現・教育の森公園を含む六万二千坪の広さがあった。そのうち、池を含む一帯を占春園と称していたらしい。邸内は松や樫の深林があり幽邃境であったと伝えられるので、自然そのままを残した庭園であったと思われる。「東都歳時記」には小石川白山の辺りがホトトギスの名所の一つに挙げられているが、守山藩邸もホトトギスの営巣地として知られていたのだろう。また、占春園の池にはマガモが多く集まっていたという。

 

明治以降の占春園は、東京高等師範、東京教育大へと引き継がれ、今は筑波大付属小の自然観察の場所になっている。一般にも公開されているというので、園路をたどって池に行ってみる。この池は誰が付けたか落英池と呼ばれている。池には湧水があったそうだが、今は確認されていないという。手入れも行き届かないらしく、池も荒れて見える。今は難しそうだが、都市計画公園として整備された暁には、マガモが飛来する池になるのかも知れない。園内を歩いていると、占春園の石碑に行き当たった。頼元から数えて三代目の頼寛が家臣に命じて延享3年(1746)に建てた石碑で、占春園の由来として三代にわたる桜の古樹との関わりを取り上げている。なお、頼寛は藩主としての仕事のかたわら、屋敷内の観濤閣に荻生徂徠や服部南郭を呼び、論語徴集覧の編纂を行っていたという事である。

 (2)建築ミュージアム

 占春園から窪町東公園に戻り千川通りに出る。千川上水沿いの別の道路も千川通りと呼ばれているので少々紛らわしいが、この地を流れていた小石川が、その上流にあたる谷端川に千川上水からの分水が加えられていた事から、千川と呼ばれていたためらしい。

 

千川通りを渡って先に進むと、小石川植物園の西南の角に出る。中に入ると右側に植物園の出口があり、左側には重要文化財の旧東京医学校本館がある。現在、東京医学校本館の建物は東大総合研究博物館小石川分館となり、建築ミュージアムとして使用されている。東京医学校本館の正面は植物園に面した車寄せの側になるが、建築ミュージアムの入口は反対側にある。入館は無料だが、月火水は休館になっている。館内に入って最初に目を引くのは立ち入り禁止のテラス越しに眺める植物園の池の風景という事になるのだろうが、写真を撮るのは、一般の博物館の例にならって取りやめる。館内では常設展示が行われていて、建築模型やモンゴルの天幕、カヌー、生物標本などが展示されている。アーキテクチャの一語でくくった時に、この博物館の範疇に収まるのかどうかシロウトには見当も付かないが、既成の枠を取っ払うには良いのかも知れない。

 (3)小石川植物園

外に出て小石川植物園の正門をめざしてひたすら歩く。現在、植物園の塀を取り壊し敷地の一部を削って歩道を広げる工事が進行中である。地表面から少し掘っているところを見ると遺跡調査も兼ねているらしい。小石川植物園は五代将軍綱吉の白山御殿(小石川御殿)の跡地であり、また御薬園や武家屋敷の跡地でもあったので、何かが見つからないとも限らない。歩道が広がって緑道風に整備されれば、退屈せずに正門まで歩く事が出来るだろう。

 

正門の発券機で100円玉4枚を入れて入場券を購入。券には明治9年の植物園一覧図の部分図が印刷されている。なお、当ブログでも取り上げているが、吹上坂の下の歴史と文化の散歩道・池袋コースの案内板にも、明治の頃の小石川植物園の絵がある。小石川植物園の前身は江戸幕府の御薬園だが、麻布の南薬園をこの地に移した時点を植物園の始まりと考えれば、小石川植物園は世界でも有数の歴史をもつ植物園という事になる。入口でもらった案内図を確認し、正面のゆるやかな坂を上がると本館の前に出る。中央の時計塔が気になるが、関係者以外立ち入り禁止になっている。

 

本館を後にして柴田記念館に行く。ここは、恩賜賞の賞金で大正8年に建てた研究室だそうだが、昔の洋風の住宅のようで、どこか懐かしい佇まいである。内部は公開されているので入ってみる。それから、温室を見に行くが、残念ながら閉鎖中。改築のため近く取り壊されるという事なので、現在の姿を記憶に留めておけるのは今しかない。ただ、改築の予算が不足しているという。大丈夫だろうか。

 

この植物園では御馴染みのメンデルのブドウとニュートンのリンゴを見に行く。今も実を付けるかどうかは知らないが、後継となる木が各地に分譲され、中には実を付けるものがあると言う事なので、そのうち、メンデルブドウのワインやニュートンリンゴのパイが市場に出回る事があるのかも知れない。それまで、親木の長寿を願って、その場を去る。

 

享保7年(1722)、町医者の小川笙船による目安箱への投書がきっかけとなって、貧しい病者に薬を与え養生させる養生所が御薬園のうちに設けられる。明治になると、養生所は廃止されるが、植物園一覧図を見ると、明治9年頃までは建物が残っていたようである。現在は養生所内の井戸跡のみ残るが、関東大震災の時にはこの井戸が飲料用に役立ったという。ただ、今も使用できるのか飲用可能なのかは分からない。近くには、青木昆陽がこの場所で甘藷の栽培を試行した事を記念する碑が置かれている。

 

江戸時代、養生所の横に御薬園を横断する鍋割坂という道があり、この道を境にして南東側と北西側に御薬園を分けて管理していたという。今は無き鍋割坂の辺りを過ぎると、樹木の姿や形も変わってくる。ボダイジュの林を出でて、シマサルスベリの林に入る道は心地よく、ゆっくり歩いていきたいが、その前に右手奥の柵の中にサネブトナツメを見に行く。それから、スギやヒノキの林を抜け、ツツジの群落の中を日本庭園に下る。

 

現在の日本庭園は白山御殿の庭園跡と言われている。日本庭園のある低地は、目に見える程ではないにしろ、今でも湧水が4カ所確認されているので、江戸時代なら池の水を維持するに足る湧水量があったと思われる。庭園を造るとすれば、この場所が適地であったろう。庭園の池の向こうには、時計塔を乗せた旧東京医学校本館が見えている。その姿は、初めからそこに存在していたと錯覚させるほど、日本庭園の風景の中に溶け込んでいる。東京医学校本館は植物園の出口から直ぐのところにあるが、一度出たら再入場は出来ない。東京医学校本館と植物園との間に境界など設けない方が良かったような気もする。

 

小石川植物園のうちには太郎稲荷と次郎稲荷が祀られている。江戸時代からあった稲荷に違いない。麻布の薬園をこの地に移した時、薬園内の稲荷も移しているので、どちらかが該当する可能性がある。江戸には数多くの稲荷があり、人々のありとあらゆる願いを引き受けていたが、養生所から下りて来る鍋割坂、通称・病人坂の近くに位置している太郎稲荷は、養生所には必要不可欠な存在であったろう。一方、次郎稲荷の方は、湧水地と思われる場所に置かれているので、湧水を守るために祀ったのかも知れない(湧水地に稲荷を祀った事例もある)。

(注)御薬園は二つに分けて管理していたので、各々の区画に稲荷を祀ったとしてもおかしくはない。或は、御殿跡地の低地に幾つかの屋敷があった時期があり、屋敷稲荷として祀られた稲荷が、たまたま2社残った事も考えられる(11.8追記)。

 

植物園は、やはり、個々の植物の季節ごとの変わりようを見ないと、ここを訪れる意味が薄れてしまう。できれば、また、春先にでも来てみようと思うが、今日のところは、様々な姿を見せてくれる池と、メタセコイアの林に見送られて、帰ることにしよう。

 【追記】

白山御殿から御薬園に至る経緯につき、江戸の地図や各種文献を参考にして、まとめてみた。

三代将軍家光の四男徳松は承応元年(1651)、白山の地に下屋敷を賜る。翌年、徳松は元服して綱吉となる。寛文元年(1661)、綱吉は舘林城主となり館林宰相と称されるようになる。屋敷も順次拡張され、寛文10~13年(1670~1673)の新板江戸大絵図によると、その敷地は現在の文京区白山三、四丁目に相当し現在の植物園の倍ほどの広さがあった。この屋敷が設けられる以前の正保(1644~1647)の頃を描いたとされる正保年中江戸絵図によると、敷地の北西側に喜多見久大夫の下屋敷がある以外は百姓地であった事が分かる。現在の日本庭園の場所も百姓地で、流れか池があり田もあったようである。下屋敷を造営するにあたって、敷地内にあった白山神社、簸川神社、女体社は他に移しているが、白山神社の神木であった船繋松は屋敷内に残されたものの、近くにあった名水の滝は水が出なくなったという(当ブログの江戸名所記の白山権現の項に記事あり)。

 

延宝8年(1680)、綱吉は五代将軍となる。館林宰相時代の下屋敷は空屋敷のようになったと思われる。天和2年(1682)の増補江戸大絵図を見ると、下屋敷の跡地の北西の角に本多中務のほか寺が記載されているが、他は空白になっている。貞享元年(1684)の絵入江戸大絵図でも、下屋敷の跡地の状況に変化はない。江戸には寛永15年(1638)から南と北に薬園が設けられていたが、天和元年(1681)に護国寺を造営するため北の薬園が廃止となり、さらに貞享元年(1684)に白金御殿の拡張に伴い南の薬園が廃止されたため、館林宰相時代の下屋敷の跡地に薬園が移されている。現在の植物園の三分の一ほどの広さであったという。その後、下屋敷の跡地のうち北東側は開発が進み小屋敷が並ぶようになる。また、南西側には御殿が造営され、元禄6年(1693)の江戸の大絵図には、現在の植物園の位置に小石川御殿(白山御殿)が記載されている。元禄9年(1696)には、白山御殿、寛永寺、浅草寺、湯島聖堂に上水を引くため、玉川上水から分水した千川上水が引かれており、巣鴨の元舛から白山御殿へは1尺2寸四方の樋を敷設している(千川上水については当ブログの千川上水花めぐりに記事がある)。白山御殿は将軍家の別邸の扱いであり御殿番が置かれていた。また、御殿の周囲には石垣を築き白壁の塀で囲って堀を巡らせ、千川上水の水を流していた。坂の内には五段の滝があり絶景であったという。元禄12年(1699)の改撰江戸大絵図にも、堀割で囲まれた白山御殿が記載されている。

 

宝永6年(1709)綱吉が死去し、家宣が六代将軍となる。正徳3年(1713)、白山御殿は廃館となり取り壊される。また、翌年には千川上水からの水の供給も止められる。白山御殿の跡地が御薬園となった時期は不明だが、御薬園に関する享保6年(1721)の文書がある事から、それ以前に白山御殿跡地に御薬園が設けられたことになる。その敷地は現在の植物園に近い広さがあったという。享保13年(1728)の分間江戸大絵図では、白山御殿跡地の南東側に松平左近将監の屋敷地が記載されているが大半は御薬園になっている。明和元年(1764)の分間江戸大絵図でも南東側に松平越中守の屋敷地はあるが大半は御薬園のままである。しかし、文政8年(1825)の分間江戸大絵図になると、御殿跡地の低地の側に高井、田沼、谷田、青柳、小笠原、松平能登守の屋敷地が並ぶようになり、御薬園の敷地は縮小される。さらに、安政6年(1859)の安政江戸図や文久2年(1862)の分間江戸大絵図では、御殿跡地の南東側一帯が松平駿河守の屋敷となり、他に低地の側に高井、蜷川、小笠原、丹羽の屋敷が並んで、御薬園の敷地は大幅に縮小されている。白山御殿の廃止後の変遷にともない庭園も様変わりしていたと思われる。池の水は湧水により維持していたと考えられるが、江戸時代に谷端川下流の小石川の水を取り込んでいたかどうかは分からない。ただ、余水は小石川に流していたと考えられる。

 

<参考資料>「小石川植物園」「新撰東京名所図会・小石川区之部」「東京市史稿遊園編1」「千川上水三百年の謎を追う」「リーフレット(建築ミュージアム及び小石川植物園)」「日本植物研究の歴史」、ほかに新板江戸大絵図など絵図。


都立武蔵国分寺公園と市立歴史公園

2015-10-12 19:47:28 | 公園・庭園めぐり

都立武蔵国分寺公園は中央鉄道学園や郵政省宿舎の跡地を整備して2002年に開園した公園で広域避難場所にもなっている。国分寺市立歴史公園は武蔵国分寺の僧寺跡と尼寺跡ならびに東山道武蔵路跡を整備して歴史公園としたもので、場所は分散しており、僧寺跡については今も整備が進行中である。

 

西国分寺駅の南口を出て左に、武蔵野線のガードをくぐり、府中街道を渡って右に行き、次の交差点を左に入る。道の南側一帯は中央鉄道学園の敷地跡で、道の北側には下河原線が通っていたらしいが、当時の面影らしきものは見当たらない。先に進んで日本芸術高等学園に沿って南に行くと、古代の官道・東山道武蔵路の遺構レプリカを屋外展示している場所に出る。ここは歴史公園の一部にもなっている。屋外展示の先を左に入ると武蔵国分寺公園に行けるが、今回は西側の歩道に移る。この歩道は、中央鉄道学園跡地の市街地整備事業の一環として行った発掘調査で、東山道武蔵路跡が発見された事から、遺跡保存を考慮して整備された歩道で、振り返ると幅12mの古代官道が恋ヶ窪へと向かっていく様子が見て取れる。

東山道武蔵路跡を整備した歩道を、南に向かって進み、国分寺四小入口の交差点を渡る。その先の角を右に入ると、東山道武蔵路跡(武蔵国分寺跡北方地区)の市立歴史公園がある。国分寺四小が移転した後の発掘調査で東山道武蔵路跡が発見されたため歴史公園としたもので、この公園の南側には、国分寺崖線上から見た古代の想像図が置かれている。国分寺崖線を下った先、東山道武蔵路は南に向かって真っすぐ伸びている。右手、武蔵路の近くには国分尼寺の伽藍が見える。左手には國分僧寺の伽藍があり、その奥には七重塔が聳え、さらに、武蔵国府の町も遥か向こうに見えている。東山道を遥々旅して来た人々にとって、眼下に広がる広大な国分寺の寺域と壮大な伽藍は、まさに武蔵の国の華に見えた事だろう。

 

国分寺四小入口の交差点まで戻り多喜窪通りを東に、武蔵国分寺公園に向かう。北側の泉地区は円形の広場が敷地の大半を占めている。公園の南側には武蔵の池と称する滝の落ちる池がある。園内にはこの地が鉄道学園だった事に因んで記念碑が置かれている。

 

眺めの良い人道橋“ふれあい橋”で多喜窪通りを渡って西元地区に行く。この地区の中心となる“こもれび広場”は適度に木が植えられた芝生地で、ピクニック向きである。この地区の南側、国分寺崖線沿いの野鳥の森と呼ばれる樹林の中を歩いて行くと、武蔵国分寺公園と一続きになっている史跡武蔵国分寺跡(僧寺北東地域)歴史公園に出る。

 

ここには、国分寺崖線の上で発見された武蔵国分僧寺の北側境界の区画溝が、復元展示されている。溝はここから東に200mほど続き、西側は薬師堂の先まで続いていた。この溝は崖線と平行して設けられていたようである。国分寺崖線上には、国分寺を指導監督する講師院との説もある北方建物跡もあり、国分寺と崖線は一体として認識されていたらしい。

  

歴史公園から南に下ると湧水地があり、真姿の池と弁財天の祠がある。今も湧水量は多く、汲みに来る人がいるほどだが、飲用可の保証はないらしい。湧水の流れに沿って先に進み、振り返ってみる。紅葉にはまだ早いが、良い雰囲気である。

 

おたかの道を西に進み、史跡の駅・おたカフェで入園券を求め、おたかの道湧水園に入る。ここは国分寺崖線下地域の歴史公園でもある。とりあえず湧水地の様子を確認し、それから武蔵国分寺跡資料館に入ったあと、七重塔の推定復元模型を見に行く。

 

おたかの道湧水園を出て、僧寺伽藍中枢部跡に行く。講堂の基壇は整備されているが、金堂の基壇の整備はこれからのようである。金堂跡のすぐ南は中門跡だが、ここも整備される予定なのだろう。ところで、国分寺の伽藍配置は統一されておらず、国によって異なっている。武蔵国分寺では中門から塀をめぐらせて金堂や講堂などを囲み、塔は外に置いているが、中門と金堂を回廊で結ぶ例が一般的で、中には回廊の中に塔を置く国分寺もあったようだ。

 

僧寺に関しては金堂に限らず今なお整備中の場所があり、全体が歴史公園となるには少々時間がかかりそうである。説明板のイメージ図のような歴史公園の完成が楽しみでもある。中門跡を横目に南に進み、左に折れて七重塔跡へ向かう。その高さ60m。どうやって建てたのだろう。知識、経験が無ければ七重塔の建造は難しそうだが、全国各地からの要請で技術者を派遣していたのだろうか。なお、七重塔建立から70年後に塔は落雷で焼失したが、地方豪族の手で再建されているので、その頃には塔建立の技術が地方に根付いていた事になる。

 

金堂跡の南側の道を西に行き、今回は文化財資料展示室を割愛して府中街道を渡り、武蔵野線をくぐって武蔵国分尼寺跡の歴史公園に行く。国分寺は唐に見習ったものだが、尼寺はわが国独自で光明皇后の進言によるものと言う。尼寺の中門跡から金堂の基壇を見る。基壇の前には幢竿の跡を示す柱が立っている。金堂基壇の断面の展示を見てから尼坊跡に行き金堂の方向を眺める。尼寺には講堂や鐘楼、経蔵があったと考えられているが、今のところ未発見だという。帰りは伝鎌倉街道を通って西国分寺駅に戻る。

武蔵国分寺には謎がある。その一つは伽藍配置についてで、金堂と七重塔の距離が離れ過ぎているのが謎である。説明の都合上、僧寺伽藍中枢部の説明板から伽藍配置図を抜き出したのが上の写真で、図の上が北を示し国分寺崖線は緑で示されている。僧寺の中で金堂講堂などが含まれる区画が中枢部区画で塀と中門で囲まれ、その外側の塔を含む伽藍地区画と、一番外側の寺院地区画は境界を表す溝で囲まれていた。

 

武蔵國分寺については寺域に変遷があった事が知られている。8世紀中頃の草創期においては、上の伽藍配置図で中枢部を南北に横断する点線が僧寺の西側の境界になっており溝(古寺院地区画溝)が掘られていた。この時期には七重塔が僧寺の中央近くに位置していた事になる。その後、古寺院地区画溝は埋められて寺域は西に拡張され、その西寄りに金堂などの中枢部が設けられる。また、東山道武蔵路の西側には国分尼寺も建てられる。9世紀の中頃になると、七重塔の再建に合わせて整備拡充が行われ寺域は東山道武蔵路まで延長される。では、寺域が西に拡張されたのは何故なのだろう。

 

741年、聖武天皇は国分寺建立の詔を発するが、進捗が捗々しくなかった事から、747年、国司の怠慢を叱責し地方豪族である郡司に協力させて3年以内に造営を完了するよう督促する。しかし、国分寺の造営には膨大な費用と労力、それと年月を必要とする。武蔵国分寺の場合、造営が完了するまでにさらに10年余りを要したようである。寺域が西側に拡張されたのは、この督促の時期とも考えられている。これは単なる想像だが、国分寺を国の華として見せるために当初計画を変更して、僧寺の伽藍を東山道武蔵路に近い位置に移動するとともに、尼寺を武蔵路の西側近くに設置したのでは、と思われる。その結果、七重塔と僧寺中枢部が離れてしまう事になった。これも想像に過ぎないが、七重塔再建の際、50mほど西に移して伽藍中枢に近付けようとしたものの、何かの理由で実現しなかったのではなかろうか。ついでに言うと、武蔵国府の中心部から武蔵国分寺は見通せないが、金堂の屋根ぐらいは見えていたかも知れない。もちろん、七重塔は国府中心部からも十分眺めることが出来た筈である。

 

武蔵国分寺の中枢部と七重塔の方位が異なる点も謎の一つである。国分寺は南向きの土地に建てる事を求められるが、寺域について条里制に従う必要が無い場合は、寺域が方形になるとは限らず、地形の影響により様々の形をとる。武蔵国分寺の寺域は不整形で、北側の境界が崖線に平行に設けられているため、全体として真北に対し西に偏っている。国分寺の多くは、金堂や塔の向きが南北の線に一致している。武蔵国分寺でも七重塔の向きは南北の線に一致しているが、中門から金堂・講堂に続く中心線は真北からやや西に偏っている。国分寺によっては真北に対して偏りがある例もあるので、西に偏る事自体は必ずしも問題ではないのだが、塔と金堂の向きの不一致は気になる。武蔵国府の地域には条里制に従っている例も見受けられるが、国府全体としては条里制に拠っているわけではないようである。国府から国分寺への連絡道は、北に向かう道の途中から尼寺に向かって斜行する道が開かれ、その途中から僧寺への道が分岐しており、条里制には従っていない。周辺にも条里制の跡が見られないので、武蔵国分寺は条里制に従っていないと思われる。ここから先は想像に過ぎないが、七重塔は南北の線に合わせているので、最初の計画では伽藍も敷地の中央に南北の線に合わせて建てる予定であったと思われる。ところが、伽藍中枢部を西寄りにするよう計画変更したため、不自然にならないよう西側の境界の向きと伽藍中枢部の向きを合わせたのかも知れない。尼寺については東山道武蔵路の向きに合わせているように見えるが、官道が条理の基準線になる場合もあるので違和感はない。

 

<参考資料>「見学ガイド・武蔵国分寺のはなし」「鎮護国家の大伽藍・武蔵国分寺」「国分寺を歩く」「武蔵府中における条理地割の基礎研究」「都立公園ガイド」「今昔マップ」

 

 


文庫の森公園と戸越公園

2015-09-26 10:34:47 | 公園・庭園めぐり

文庫の森(品川区豊町1-16)と戸越公園(品川区豊町2-1)は、明治時代に三井家が取得した敷地の範囲に含まれている。文庫の森の北西側の角から西教寺の東側の角まで道を北側の境界線とし、戸越公園の南端を東西に結ぶ線を南側の境界線とした方形の土地が三井家の敷地であったが、この土地は大名屋敷の跡地でもあった。昭和になって南西側の土地が学校敷地として寄付され、また、庭園部分も寄付されて戸越公園となっている。

池上線の戸越銀座駅か都営浅草線の戸越で下車し、戸越銀座商店街を東に向かい、八幡坂を南に行くと文庫の森に出る。ここは国文学研究資料館の跡地を整備して平成25年に開園した、広域避難場所を兼ねた公園である。戦前はこの場所に三井文庫があり、大正時代に建てられた書庫2棟と管理棟があったが、現在は第2書庫だけが残されている。

園内をやや下って行くと池がある。大名屋敷だった頃からあった池だろうか。今も湧水があるかどうか分からないが、昔はかなりの湧水があったらしい。そうだとすれば、戸越公園にある池とも繋がっていたと思われる。

文庫の森と戸越小の間の道を東に行くと、右側に戸越公園の入口があり、正門は薬医門になっている。寛文2年(1662)に、熊本藩細川家の分家が下屋敷としてこの地を拝領。寛文6年(1666)、この地は細川家本家の所有となり、周辺の農地を買い上げて3万坪を越える敷地となる。その後も細川家は農地の買い上げを進めていたらしく、屋敷地は広大なものになったらしい。当時の屋敷は南北方向の馬場を挟んで東西に分けられ、このうち西側は現在の戸越四、戸越三に相当し、東側の倍ほどの広さがあった。しかし、延宝6年(1678)に西側が焼失したため元の農地に戻され、東側の屋敷地のみが残される。その後、東側の屋敷地は細川家の手を離れ、さらに何人かの手を経て、明治時代に三井家の所有となる。

正門を入ったところの広場で庭園全体を見渡してから池に行く。今も湧水があるかどうか不明だが、池の水の大半は他の公園と同様に水道水になっているのだろう。池に沿って左に行き築山に上がる。好もしい道である。見下ろすと、滝となって流れ落ちてくる渓流を渡っている子供達がいる。池を一回りして広場を抜け冠木門から外に出る。薬医門や冠木門は、この場所が大名の下屋敷だったことに因んで、平成になって建てられたもののようだ。

寛文11年(1671)の「戸越御屋敷惣御差図」により、当時の大名庭園を想像してみる。西側の庭園には大泉水と呼ぶ大きな池があり、池には島が設けられていた。池の南側には富士山の形の築山もあった。この庭園は、参勤交代の際に見られた風景を写した回遊式の大庭園であったのだろう。戸越屋敷で必要な上水は当初、玉川上水の分水から分けた戸越上水によっていたようだが、この上水は後に廃止となり、寛文11年頃には品川用水を利用していたと思われる。戸越御屋敷惣御差図の北西側に見える水路は、品川用水から引き込むための水路と思われる。この水は西側の庭園に引き込まれて池などを巡ったあと東側の屋敷地にも流れ、屋敷の周囲の堀にも流されていた。東側の庭園の南西側には築山が造られ、北東側の台地上には御殿が建てられ、その間の低地には池があり、島があって橋が架かっていた。この池には湧水が流入していたと思われるが、池に落とす滝の流れには西側の庭園からの水を利用していたかも知れない。

 

<参考資料>「大名庭園」「江戸大名屋敷(品川歴史館解説シート)」ほか


おとめ山公園

2015-09-17 19:02:59 | 公園・庭園めぐり

おとめ山公園(新宿区下落合2-10)は、狩猟禁止を意味する御留山を名の由来としている。江戸時代には鷹狩に関係する場所であったことによる。この地は、大正から昭和にかけては相馬子爵邸であったが、その後、所有者が変わる。昭和40年頃には公務員住宅の建設が計画されたが、地元の自然保護運動がみのって計画は縮小され、昭和44年、池を中心とした区画について新宿区立公園として開園している。おとめ山公園については、当ブログのカテゴリー“神田川支流散歩”の中でも取り上げているが、新宿区が隣接地を取得して拡張整備を行い平成26年に全面開園していることが分かったので、再度、取り上げることにした。

目白駅から西に進み、目白三の交差点を南に入り、交番のある角を西に折れる。南側一帯は明治時代に近衛邸があった所で、大正の頃には分譲地となった場所である。次の角を左に入る道は明治後期からあった道で、おとめ山公園の弁天池に出られるが、今回は直進すると、程なく下り坂となる。坂の上を右前方に入る古くからの道を見送って、坂を下りすぐに上がる。ここは林泉園の池を源流として東流し、南に転じて弁天池に流れ落ちていた丸山の流れの谷に相当している。坂を上がり、次の角でおとめ山通りを左に見送って直進すると、道はやや右に曲がるようになるが、この辺りに相馬家の正門に当たる黒門があった。

 

先に進んで次の角を左に曲がり相馬坂に向かう。明治44年の落合の地図では相馬坂は存在せず相馬家黒門前の道も途切れているので、相馬邸が建てられた大正時代にこれらの道が整備されたと思われる。先に進むと、左側におとめ山公園の拡張区画の一つ、“みんなの原っぱ”が現れる。広い芝生地には遊具や四阿があり、北東側の入口近くには相馬邸の説明板、南東側には水琴窟が造られている。相馬家の邸宅は北側の住宅地の位置にあり、その南側は芝生の傾斜地になっていたが、昭和40年代にここを平坦な土地に造成して公務員住宅が建てられた。みんなの原っぱは、その跡地という事になる。

 

みんなの原っぱの南東側から新設の林間デッキを歩く。下にはおとめ山公園の池や流れが木々の間に見え隠れしている。林間デッキの先は“ふれあい広場”で、ここも公園の拡張区画にあたる。広場の片隅には公園開園以前からあったスダジイが残されている。

 

ふれあい広場を出て、おとめ山通りを渡り、公園の拡張区画である“谷戸のもり”に行く。ここは林泉園の池を源流とする丸山の流れの谷戸に相当している。明治44年の落合の地図にはこの谷戸の西側を南に下る道が書かれているが、現在のおとめ山通りとは位置がずれているようである。大正3年の相馬家庭園設計案では判然としないが、大正から昭和にかけての地図には、相馬邸との記載があるだけで谷戸は空白になっているので、この谷戸も相馬邸の敷地に含まれていたのかも知れない。相馬家はこの邸宅を戦前に手放したようだが、昭和22年の航空写真には既に、現在のおとめ山通りに相当する道らしいものが見える。昭和40年頃、この谷戸を造成して公務員住宅が建てられているので、現在の“谷戸のもり”は、その跡地ということになる。

 

おとめ山公園は、おとめ山通りによって東西に分断されている。おとめ山通りから門を入って、公園の開園当時からあった弁天池(下の池)の区画に行く。明治44年の落合の地図には北からの丸山の流れと西からの流れが書かれているが、弁天池は書かれていない。記載を省略したのでなければ、相馬家の庭園だった頃に弁天池が造られたことになる。弁天池の北側には四阿があり、池には島がある。この島には弁天の祠があり橋が架かっていたが、既に祠も橋も無くなってしまっている。池には西側からのほか北側からの湧水が今も流れ込んでいるようだが、以前に比べ水量はめっきり減っているようだ。

 

弁天池の南側にも公務員宿舎が建っていたが、その跡地を今は公園の拡張区画として整備し、“水辺のもり”と名付けている。ここを弁天池からの水が流れ下っていた筈だが、今は公園風の流れとして再現されている。この区画の東側は近衛邸のあった台地で、水辺のもりの借景になっている台地上の竹林が今後も残る事を期待したい。水辺のもりの南側の道は江戸時代からの道で地元では雑司ヶ谷道と呼ばれたいたらしい。この道沿いの水路には丸山の流れが合流していたが、今は水路の痕跡も無い。

 

おとめ山通りから、公園開園時からあった西側の区画に入る。ここは、落合新聞の発行者だった竹田氏が落合秘境と名付けた頃の雰囲気が今も残っている場所である。管理事務とホタル舎の金網の間を抜け、その先を左に上がると、左側に藤稲荷の社殿が金網越しに見えて来る。江戸名所図会を見ると、社殿から先に山頂の祠まで鳥居が続いていた事が分かるが、大正の頃に相馬邸の敷地に取り込まれてしまったらしい。山頂と思しきところに見晴台が設けられているが、今は何の眺めも得られない。先に進むと四阿があり、おとめ山賛歌の表示板が置かれている。今は何も見えず何も聞こえず、どこか寂しい空地である。

 

山道を下って湧水地に行く。以前は、離れた場所からそれと分かる水量があったのだが、今は湧水があるのかどうか定かには見えない。流れに沿って下ると、小さな滝があった。漏水かどうかは分からぬが、相応の湧水はあるに違いない。

 

湧水地からの流れは上の池を経て中の池に流れ込む。公園として整備した時に多少の改変はあったかも知れないが、全体としては相馬家の庭園だった頃の姿を留めているのだろう。この庭園には、その土地に適した樹木を植えて自然を残そうとする設計者の意図が感じられる。わざとらしさは殆ど無い。七曲りに通じる江戸時代の道が残っているのか探してみたが、さすがにその道は分からなかった。

帰りがけ、流れに沿って翡翠のきらめきを見た。ひょっとしてカワセミ?・・・。そう、確かにそうだ。まさか、この公園で出会おうとは思っていなかったが、この次も会えるかどうかは、保障の限りでは無い。野鳥は人が集まれば、何処かに飛び去ってしまう。運よく見つけたら、遠くからそっと見守るだけにとどめたい。

 

<参考資料>

「ようこそ おとめ山へ」「東京の公園と原地形」「地図で見る新宿区の移り変わり・戸塚落合編」「御禁止山」「おとめ山公園の拡張整備」「東京の池」「江戸東京百名山を行く」


実篤公園と蘆花恒春園

2015-06-20 18:00:12 | 公園・庭園めぐり

(1)実篤公園

仙川駅を南に出て右へ、仙川商店街に出て左折し南へ、桐朋学園前の交差点で桐朋学園沿いに右へ行き、その先、学園の敷地に沿って左に折れ、道なりに右へ曲がり、変形の四つ角を越えて進むと実篤公園の入口に出る。この公園は、武者小路実篤旧宅跡を調布市が寄贈を受けて昭和53年に公園としたもので、昭和60年には隣接地に記念館を設置している。調布市若葉町1-8-30。仙川駅またはつつじヶ丘駅から歩いて10分ほど。公園までのルートは、仙川駅からの方が分かりやすい。

公園の管理事務所の先に実篤公園の案内板が設置されている。この公園は国分寺崖線に位置しているが、案内板の辺りまでが台地の上で、1500坪ほどの敷地の大半は斜面とその下になる。台地上からは樹林のため、展望は得られないが、展望は望んでいなかったのであろう。武者小路実篤は、老後を水のある場所で送りたいという長年の夢を叶えるべく土地を探し歩いた結果、この地に湧水と池がある事を知り、土地を取得し家を建てて移住した。昭和30年のことである。実篤は、水がある事のほか、つくしがとれる事と古い土器が出ることも希望していたが、つくしは敷地内からとれ、また古い土器の破片も敷地内から見つかり、実篤の希望はすべて叶えられることになった。この家は仙川駅に近かった事から、実篤は仙川の家と呼んでいた。

 

入口から玄関に至るアプローチは急坂で、やや右に曲がって玄関に達する。建物の延床面積は30余坪、国分寺崖線下部の緩やかな傾斜地に建てられている。建物は南向きで玄関は北側にあり、入るとロビ-で、その周りに仕事部屋、応接室、客間が配置され、左側には居室などがあり、地下は倉庫になっている。土日祝日には内部が公開されているが、写真撮影は禁止されている。ただし、仕事部屋と応接室については平日でも外から内部を見る事が出来る。現在は樹木が茂ってしまったが、当時の写真を見ると、建物の南側が芝地になっていて、実篤の希望通り日当たりの良い明るい家であったらしい。

 

敷地内の崖下からは涌水があり、小さな池になっている。今は涌水量も多くはなさそうだが、昭和30年頃はかなりの湧水量があったらしい。この水は上の池を経て下の池に流れ込み、さらに田圃の水源としても利用されていた為、池を埋めない事が土地購入の条件だったという。実篤は池に放した鯉や鱒に餌をやる事が日課になっていたようで、上の池にあずまやが造られる以前の、桟橋のような場所から餌を撒いている写真が残っている。

 

実篤公園は道路によって上の池の区画と下の池の区画に分断されている。この道路は戦前からあった農道で、利用する人があったためか購入の対象にはならなかったのだろう。現在は道路下の地下通路により二つの区画が結ばれているので、ここを通り抜けて菖蒲田を見に行く。今年は生育に難があって菖蒲は残念な状態になっているが、その代わりヒカリモが見ごろになっていた。ヒカリモは単細胞の藻類で、群生すると光を反射して黄金色に輝くのだが、都内で見られるのはここだけということなので、少し得した気分になる。

 

実篤公園には実篤旧宅と庭がほぼそのまま保存されており、武蔵野の雑木林の面影も残されている。ただ、樹木が茂って幾分暗くなっているという難点が無いでもない。この暗さを和らげているのが竹林である。竹林があると無いとでは、かなり印象が違うかも知れない。

 

下の池には小島があって、人の手で造られたような風情もあるが、多分、自然の池なのだろう。この小島を実篤は孫ヶ島と呼び、最初のうちは舟で渡っていたが、後になって橋を架けている。昭和30年頃、下の池の西側は、入間川沿いに開かれた田圃に続いていた。しかし、昭和30年代の終わりごろには、田圃が埋め立てられ、宅地化が進んでしまう。

 

地下通路を通って記念館に行く。無料の実篤公園に対し、記念館は有料になっているが、折角、武者小路実篤ゆかりの場所に来ているゆえ、入ってみる。帰りは、つつじヶ丘駅に出るが、道は少々わかりにくい。

 

(2)蘆花恒春園

明治大正の文豪、徳富蘆花の旧宅と遺品を愛子夫人が寄付した事から、これを整備して昭和13年に開園したのが蘆花恒春園である。当初の敷地面積は1万2千㎡余であったが、現在は、周辺の土地も取得して8万㎡まで拡張している。現在の正門を含む北東の区画も、後に取得したもので、正門が建てられたのは昭和47年である。徳富蘆花の旧邸宅を中心とした恒春園区域に対して、後に拡張した開放公園区域は、家族連れにも楽しめる公園になっている。恒春園区域を含め入園は無料。世田谷区粕谷1。最寄り駅は八幡山駅、芦花公園駅、千歳烏山駅だが、千歳烏山駅から歩くのであれば、南口に出て千歳烏山駅南の交差点を過ぎて南東に、品川用水が流れていた道を進み、延命地蔵のある芦花公園西の交差点を東に行けば公園の正門に着く。歩いて15分ほどである。 

明治39年、蘆花がロシアにトルストイを訪問した際の、「農業で生活できないか」というトルストイの一言がきっかけで、蘆花は農業生活を始める事を決意し、明治40年、紹介された北多摩郡千歳村字粕谷に東京青山の借家から移住する。移住先は人家もまばらな新開地の低い丘で南と西に展望が開け、西には高尾山や甲斐東部の連山(大菩薩峠に連なる小金沢連嶺)が見えたが、富士山は防風林に阻まれて見えなかったようである。当時は京王線がまだ開通しておらず、蘆花が東京に出かける時は、3里の道を徒歩で往復したという。移住先には井戸もあったが飲用には難があり、大掛かりな井戸浚いを行う羽目となる。粕谷での暮らしは、蘆花が望んでいたものではあったが、家族にとっては都落ちの悲哀を感じる時もあっただろう。その後、大正2年に京王線が開通し芦花公園駅の前身である上高井戸駅が開業。やがて、住まいも次第に整えられて、恒春園と称するようになる。その住まい、恒春園は、今も当時の姿を伝えており、都指定の史跡になっている。

昭和34年に建てられた記念館に入って、一通り見たあと、愛子夫人の居宅を見に行く。この居宅は、愛子夫人が蘆花旧宅を寄付するに当たっての条件の一つとして建てたものであったが、実際に愛子夫人がこの家に住んだのは1年ほどで、その後は三鷹台に転居している。近くのゴミ集積場からの悪臭が原因だったとされる。現在、この建物は有料の集会場として利用されている。

恒春園内を歩くと竹林の存在が目立つが、それはそれとして、クマザサと建物との対比も印象的である。恒春園が開園した昭和13年当時、園内の植物は156種1716本で、既存の植物に加えて、地元及びその周辺で入手した植物を中心に、青山の借家から持ち込んだものや、各地から取り寄せたものを植えていたようである。昭和61年の調査では144種、高木が3226本なので、種類は減っているが本数は倍増していることになる。蘆花は農業生活を目的として移住しており、畑を耕している写真も残っているが、畑地がどこにあったのかは分からない。開園当時の平面図では、現在の記念館の辺りが空地になっているので、この辺りに畑があったのかも知れない。

秋水書院は屋根が特徴的だが、茅葺の維持が難しいので、今は擬木を用いているらしい。秋水書院は明治44年に烏山の古屋を移築したもので奥書院とも呼ばれていた。秋水書院が建てられた後、各棟を結ぶ廊下も造られている。秋水書院の南側には宝永4年の地蔵尊が置かれているが、高尾山下の浅川の農家から移したものという。

梅花書屋は、明治42年に北沢の売家を購入して移築したもので、表書院とも呼ばれていた。この建物は東に面していて、母屋との間が庭のようになっている。林に囲まれている割には明るく、落ち着ける庭である。現在、梅花書屋は有料の集会場として使用されている。

明治40年、粕谷に移住した時、すでに粗末な草葺の家が存在していた。母屋と呼ばれているのがその家で、粕谷で最初に暮らした家である。ただ、暮らすには難があったらしく、その後、リフォームしたようである。大正12年には、恒春園に4棟の茅葺の古屋があったというが、現存するのはそのうちの3棟で、何れも老朽化していたため、昭和60年までに改修が行われている。母屋の近くに恒春園の入口があるが、蘆花邸の門があった場所である。初めの内、蘆花邸には囲いなど無かったが、後に恒春園を囲むように生垣や竹垣が造られる。

母屋近くの恒春園入口の東側は、大正7年に買い上げた土地で、雑木林の中には徳富蘆花夫妻の墓所がある。ここは、武蔵野の面影が比較的残されている場所でもある。この場所のそばに共同墓地があるが、蘆花が移住する以前からあった墓地で、蘆花は自らを墓守と称していた。

恒春園の敷地の南側は一段低くなっている。今は公園の一部となり、児童公園やトンボ池、自然観察資料館などが設けられているが、もとは水無川沿いの田畑だった場所である。水無川は、玉川上水から牟礼で分水した三鷹用水を受け、芦花公園西の交差点の南で品川用水の下を潜り、恒春園の南側を流れて烏山川に合流していたが、水が流れていないことが多く、大雨が降れば溢れるような川だったらしい。現在、水無川は暗渠化されているが、公園の南側の境界が、その流路の位置を示している。

公園の南東は公園化が遅かった場所だが、今は花の丘区域と呼ばれ、花壇には季節に応じた花が植えられている。花の丘区域から道路を挟んで向こう側は東京ガスの世田谷整圧所で、昭和31年に球状のガスホルダーが設置された時は、その景観が評判になったそうである。花の丘の東側、環八通り沿いは低地になっているが、田圃を埋立て植樹をして公園としたところで、今はフィールドアスレチック広場や、草地広場になっている。ドッグランを左に見ながら進み、駐車場の横を過ぎて先に行くと、公園の北東側に出る。環八通りを渡り、八幡山アパートを抜ければ程なく八幡山駅に着く。

 蘆花恒春園付近の環八通りとその両側は、八幡田圃があった場所であり、この田圃には2本の川が南に流れていた。東側の川は烏山分水(烏山村分水)と呼ばれ、玉川上水の現・岩崎橋付近から分水し、芦花公園駅の西側を南に流れ、世田谷文学館の近くで東流し、環八通りの東側の辺りで北からの支流を入れて南に流れていた。北からの支流は、はらっぱ広場沿いに流れて来る支流(水源は医王寺の薬師池か)と、八幡山駅付近からの支流を合わせたもので、流れに沿って田圃になっていた。現在の世田谷区と杉並区の区境は、それを反映しているようである。一方、西側の川は本来の烏山川で、現・高源院鴨池の辺りを水源とし、烏山分水の西側を南に流れ、途中、西からの出井の流れを入れた後、烏山分水と並行して流れ、環八通りの西側、現・公園駐車場の辺りを通って南に流れ、その先で東に流れて烏山分水と合流していた。昭和30年代に入ると、烏山川は芦花中付近で烏山分水に合流したあと、芦花小の先で西側に分流するように変更される。昭和30年代の後半になると、八幡田圃の埋立てが進み団地が建てられ田畑は一部に残るだけとなる。昭和40年代、公園拡張のため田畑は都に買収されて西側の川は消滅、東側の川は残るものの、用水としての意味は失われている。昭和46年には環八通りが開通。昭和55年には公園の拡張部分が開園する。その後、東南側の土地が買収され平成12年に花の丘区域として開園し、現在に至っている。

<参考資料>「緑と水のひろば71」「明治大正期の別邸敷地選定にみる国分寺崖線の風景文化論的研究」「仙川の家」「蘆花恒春園」「みみずのたはごと」「今昔マップ」

 

 


大田黒公園・角川庭園・荻外荘・与謝野公園

2015-06-05 21:02:25 | 公園・庭園めぐり

(1)大田黒公園

荻窪駅南口から阿佐ヶ谷方向に行き次の角を右に、荻窪電話局前の交差点を左折、その先の角を案内表示により右折して進む。突き当って右すぐの所に大田黒公園の正門がある。駅から歩いて10分ほど。杉並区荻窪3-33-12。入園は無料になっている。大田黒公園は、我が国の音楽評論家の草分け的存在でNHKのラジオ番組“話の泉”の解答者としても知られた大田黒元雄の邸宅跡を杉並区が庭園として整備し、昭和56年に開園した公園である。

正門に向かって左側の道路沿いには、公園の生垣が延々と続いている。見事な眺めである。この道路の辺りは、正門の側から見ると、やや低くなっている。明治の地図を見ると、ここには、水が流れ水田もある小さな谷戸があった事が分かる。谷戸は北西側に水源があり、南東に流れたあと南流しているが、大田黒公園の敷地は、この谷戸の跡を左に見る位置にある。生垣の下にある石積みは、谷戸に対する土留めを継承しているようにも思える。

総檜瓦葺の門と築地塀からなる正門、そして、門から先、イチョウ並木の直線的な道が70mも続く様子は、まるで、社寺の参道のようである。樹齢から見て、イチョウ並木は大田黒邸の時に作られたと考えられるが、社寺と違って個人の邸宅では、門からの気がダイレクトに家の中に入り込まないよう、門から玄関までのアプローチを途中で曲げるか、少なくとも門と玄関の位置をずらせる事が多い。では何故、大田黒邸は社寺のような直線的な道を造ったのだろう。これは想像に過ぎないが、門を北西側に設ける必要があり、敷地の形から、直線的な道とせざるを得なかったのではなかろうか。

イチョウ並木の道は庭門によって終りとなる。実用上は、庭門をここに置く必要はなさそうだが、正門から見た時、ここに、門のようなものを設ける必要があったに違いない。ところで、大田黒家の主屋は庭門の手前、右側に少し上がった管理事務所の付近にあったという。そうだとすれば、主屋の玄関は正門からずれていた事になる。門から入ってきた気は、主屋から外れ、庭門から庭園内に拡散していくという事になりそうである。

大田黒邸の主屋は木造瓦葺で一部茅葺の二階建てだったそうだが、老朽化のため取り壊されている。現在は、管理事務所、休憩室、数寄屋造りの茶室からなる建物が主屋に相当していると思われる。杉並区は公園化に際して、できる限り原型保存を図り、従前からあった池を再生しているという事なので、大田黒邸の頃とは変わってしまった点があるにせよ、全体としては当時の姿を留めた公園になっていると思われる。

休憩室と、その先の廊下から中庭を眺める。池の中の井筒から水が湧き出して、方形の池を満たし、池から溢れた水が茶室の周囲を巡っている。茶室は公園になってから建てられているので、中庭の池と茶室を巡る水路も新たに造られたと思われる。なお、確認はしていないが、井筒の水は地下水の汲み上げか池の水の循環によると思われる。

大田黒公園には、昭和8年に建てられた洋風の建物と蔵が現存しており、大田黒元雄が仕事場として使用していた洋風の建物の方は、現在、記念館として保存されている。建物はピンク色がかった煉瓦色で形も少し変わった洋風建築だが、それでも木立の中にすんなりと納まっている。記念館には後で入るとして、芝生の斜面に沿って園路を下る。

芝生の下から茶室を見上げる。芝生は平安時代にも使われていたそうだが、当時から、芝生は日本庭園の要素の一つであったのだろうか。その一方、種類は異なるが、西洋庭園でも芝生が使われていた。芝生は日本庭園と西洋庭園の何れにも親和性がありそうである。大田黒公園には和風と洋風の建物が存在するが、芝生はその何れとも調和しているように思える。

 

茶室を巡る水路は、その先で自然の中の流れへと姿を変え、斜面を流れ下って行く。その流れは、大田黒公園の美の重要な要素になっているに違いない。流れに沿って下るうち、何故か爽快な気分になっている。ひょっとすると、水の流れは、池の浄化ばかりではなく、庭園内の大気の浄化にも役立っているのではないか。そんな気さえしてくる。

 

大田黒公園は南東に向かって緩やかに傾斜し、最低部には池がある。池は大田黒邸の時代に造られていたと思われるが、杉並区が整備を始める以前は、かなり荒れていたかも知れない。池のある低地は公園外の低地に連なり、高野ヶ谷戸という名の谷戸を形成していたと思われる。明治の地図からすると、この谷戸には二本の水路が南に流れていた事が分かる。東側の水路は読書の森公園の辺りから流れて来た水路、西側の水路は北西から大田黒公園沿いに流れてきた水路で、二本の水路の間は田圃になっていた。

園路を上がり、クマザサに囲まれた記念館に行く。テラスに上がり、掃き出しのガラス戸越しに大田黒元雄の仕事場を眺める。開口部は広いので、部屋の中では、森の中で仕事をしているような雰囲気になるのだろう。記念館の入口は裏手にあり、仕事場として使われた洋間が公開されている。室内の装飾や展示品にも興味がひかれるが、何といっても1900年製のスタインウエイ製のピアノが気になる。このピアノは修復され、その音が録音で室内に流されている。暫くはその音を聞いていたい気もするが、先を急ぐゆえ、展示などに使われる広場を覗いてから公園の外に出る。

 

(2)角川庭園

 

大田黒公園の正門を出て左へ行き、その先の信号で左に折れ、道なりに右に曲がって南に向かい、電柱の案内表示により左折、坂を下ると右側に角川庭園の出入口がある。角川庭園は、角川書店の創始者で俳人であった角川源義の旧邸宅を平成21年に区立公園としたものである。杉並区荻窪3-14-22。旧角川邸は幻戯山房と称されていたが、今はすぎなみ詩歌館という呼称がついている。建物は昭和30年の竣工で、木造二階建瓦葺。設計は加倉井昭夫。近代数寄屋造りの好例で造形の規範になるとして、平成21年に国登録の有形文化財になっている。国登録有形文化財(建造物)は50年以上経過している事を原則としており、旧角川邸はこの条件を満たしているが、文化財としては比較的新しい部類になる。なお、杉並区では西郊ロッヂングなど16件の建造物が国登録有形文化財になっている。

旧角川邸の出入口は北東の低地にあるが、昭和30年頃は北から敷地の北東側に来る道しか無かったらしい。出入口から入って、右に折り返すように上がると玄関になる。つまり、出入口からは玄関を見通せないようになっている。玄関を入って左側に、書斎兼応接室を改修した展示室がある。その隣は居間や食堂を改修した詩歌室で、その先には茶室があり、詩歌室と茶室は有料で利用可能である。ところで、数寄屋造りと言うと凝った造りの高級建築をイメージしてしまうが、本来は格式や虚飾を排した茶室の様式をもとにした質素な造りであったらしい。旧角川邸は、このような数寄屋造りの伝統を受け継ぎ、現代風にアレンジしたものである。

角川庭園の東側は高野ヶ谷戸の続きであり、南側は善福寺川の流域になっている。角川庭園の敷地は台地の端に位置し、もとは野菜畑の斜面地であったので、敷地内には高低差がある。玄関へのアプローチの途中から分かれる小径を下っていくと、進むにつれ建物は姿を隠し、自然石による石畳の道は、山村の道を辿るがごとき趣向を感じる。昭和30年頃は、南側一帯に田圃が広がり、眺めも良かったと思われるが、田圃が団地に変わり周辺に住宅が建つと、風景は一変してしまう。そこで今は常緑高木のシラカシを植え、高さを揃えて目隠しとし、庭園から見た景観を保っている。やがて小径は上りとなり、芝生の庭へと導かれる。

飛び石を伝って明るい芝生の庭を歩く。ここは、芝生を下地にして様々の樹木や草花を愛でる庭である。広大な庭ではないが、それでも外の余分なものが見えないのが良い。試みに、芝生の代わりに池を設え、高低差を利用して滝や流れを造ったらどうなるか。想像してみたが、どうもしっくりこない。この庭には相応しくないのだろう。それにしても、芝生というのは面白い。芝生を西洋庭園に置けば西洋庭園の一部となり、日本庭園に置けば日本庭園の一部となる。芝生は眺めるだけの庭にも、利用するための庭にも使える。ただ、維持管理が適切に行われないと、庭全体が荒れているように見えてしまう。芝生というのは、庭園にとって何なのだろう。

芝生の庭と分かれて茶室への道を辿る。芝生の庭との間は、それとなく仕切られていて、ここはもう茶室の一部になっているかのようである。飛び石や蹲のほかは、すべてが自然のままに見えるよう、手入れもされているのだろう。道の途中に水琴窟を見つけ、水を流してみる。期待していた通りの音である。水琴窟は江戸時代に庭園で使われるようになり、明治時代には流行し、昭和の初め頃までは造られてもいたが、その後は廃れてしまったらしい。音が鳴らないまま、それと気づかずに放置されている水琴窟が、各地にまだ残っているような気もする。近頃は、公園などでも水琴窟を見かけるようになったが、維持管理は難しいのだろう。水琴窟は雨でも音が鳴る筈だが、小さな音なので、鹿威しのように近所迷惑となるような事は無さそうである。

 

(3)荻外荘

角川庭園を出て、案内表示のある電柱のところまで戻り、左に折れて坂を下る。下り終えて右に歩道を進む。この歩道は善福寺川から分流した水路の跡で、左側は田圃だったところである。先に進むと右側に荻外荘公園(仮称)がある。杉並区荻窪2-43。総理大臣・近衛文麿の別荘であった荻外荘の敷地のうち、南側を杉並区が整備して今年公開している。明治の地図によると、南側には当時から池があったことが分かる。この池は荻外荘にも引き継がれたが戦後に埋められており、今は全体が芝生になっている。

この地を最初に別荘とし“楓荻凹處”と名付けたのは宮内省侍医頭の入沢達吉で、昭和2年のことである。昭和12年、この地は、総理大臣近衛文麿の別荘となり“荻外荘”と名付けられる。荻外荘は重要な会談に使用される等、歴史の舞台となる。別荘の建物は伊藤忠太の設計で、何度か改築されている。当時の正門は北東側にあったが、今は、裏門として使われてきた北西側の門が正門になっている。別荘の建物のうち東側はすでに移設され、西側のみ残存しているが非公開であり、公開されている南側から眺めるしかない。杉並区では、建物の再現を計画しており、文化財の指定に向けての動きもあるので、何れ公開される事になると思われる。

 

(4)与謝野公園

荻外荘を出て先に進み、春日橋を渡り、環八通りを過ぎて、その先を案内表示により右に行くと与謝野公園に出る。与謝野寛・晶子夫妻の旧宅跡にあった南荻窪中央公園を整備し直して、名称変更した公園である。杉並区南荻窪4-3-22。関東大震災後の大正13年、与謝野夫妻はこの地を借りて采花荘と呼ぶ小さな洋風の家を敷地の北東側に建てるが、昭和2年になって、与謝野晶子が原案となる図面を書き、懇意にしていた西村伊作に設計を依頼して、遥青書屋と名付けた洋風2階建ての家を北西側に建て、一家は転居する。西村伊作は、居間を中心とした家族主体の住宅を初めて提唱した建築家で、住む人自らが図面を書く事を推奨していたようである。旧宅には、昭和4年に与謝野晶子の弟子たちが贈った冬柏亭という5坪の茶室もあり、他の建物が失われてしまった今も冬柏亭だけは鞍馬寺に移築されて現存しているという。

現在、与謝野家旧居時代のものは何も残っていないが、公園内の説明板により当時の様子を思い浮かべることは出来る。公園の門は与謝野家の正門の位置にあり、公園の門から続く道は、与謝野家の主屋である遥青書屋の玄関に至る砂利道に相当している。昭和54年頃の写真には正門近くに桜の大木が見えるが、庭には多くの樹木が植えられていたようである。遥青書屋の前に立つ与謝野夫妻の写真は、書斎の出窓の位置から、南側の砂利道辺りから撮ったものと思われるが、物見台と階段らしきものも写っている。公園の門から続く道を進むと、道は右に曲がって行き、遥青書屋の玄関に出ることになるが、今は芝生地になっている。玄関を入ってすぐの広い洋間は、当初、居間として考えられたのかも知れないが、実際には、書斎に続く応接間として使われたらしい。なお、遥青書屋は部屋数が多く、子供たちも部屋を持てたようである。遥青書屋の呼称は2階から秩父連山、富士山、箱根山が見えた事に由来するが、当時は高い建物が無かったため、2階からの眺めが良かったと思われる。

 

<参考資料>「緑と水のひろば71」「大田黒公園パンフレット」「角川庭園・幻戯山房パンフレット」「東京の公園と原地形」「荻外荘公園基本構想」「西村伊作の楽しき住家」

 


山本有三記念館と古瀬公園

2015-05-23 08:28:06 | 公園・庭園めぐり

(1)山本有三記念館

三鷹駅から玉川上水沿いに風の散歩道を10分余り歩くと、山本有三記念館に出る。三鷹市下連雀2-12-27。洋風建築の記念館は柵の外からも見える。記念館の入館は有料だが、庭園だけなら無料である。この土地と建物の最初の所有者は、日本電報通信社(現在の電通)の部長から東京高等商業教授に転じた清田龍之介で、土地は大正7年に取得している。当時、一帯は雑木林の広がる別荘の適地であったから、別荘地としての購入だったかも知れない。しかし、関東大震災後の大正15年、清田は完成した建物に移住している。昭和11年になると山本有三がこの土地と建物を購入して吉祥寺から移住してくる。この時、数寄屋風の書斎を設けるなどの改修も行っている。やがて終戦。建物は米軍に接収される。返還後、この建物は国語研究所に提供され、その後、青少年文庫が開かれる。昭和60年、三鷹市に移管されて修復が行われ、平成8年には記念館として開館し、現在に至っている。

道路から少し引っ込んだ場所に、記念館の門がある。石を不規則に埋め込んだ漆喰の門柱と、その横の尖頭アーチの意匠は、建物のデザインと関連がありそうである。建物の北側には洋風の庭園があるが、南側にも庭園があり、有三記念公園として昭和62年に開園している。

記念館は地上2階、地下1階。台所周辺は鉄筋コンクリート造で、建物は木造との混構造になっている。1階外壁は赤褐色のスクラッチタイルを用いるほか大谷石を使用し、2階は漆喰仕上げになっている。この建物は大正12年に竣工した帝国ホテルの影響を受けるとともに、関東大震災後の鉄筋コンクリート造の流行を早くも取り入れている。設計者については諸説あるが確証は無く、今のところ不詳という。

 

建物の内部3カ所に、形の異なる暖炉が設けられている。暖炉外側の煙突基部は大谷石を組み合わせて使っているが、その形が面白い。建物の南面は左右対称のように見えるが、良く見ると窓の形などに違いがある。2階のベランダの上に窓が見えるが、屋根裏部屋だという。

 

建物の南側は芝生の庭になっており、その奥には日本庭園の区画が設けられている。南側から建物を眺めると、樹林で建物の2階から上が程よく隠れ、芝生の緑の向こうに、建物の1階と庭へのテラスが見えている。大谷石は建物の随所に使われているが、庭へのテラスの階段も大谷石が使われている。

 

南側の庭は施主と家族のための庭であり、施主の意向が反映された庭になっている。清田邸の時は南側の庭も洋風であっただろうが、山本邸になってからは、山本有三が好む竹林と、郷里の栃木から運んだ石による池が造られ、読書と休息の場所に変えられている。その一方で、建物の側から見た時、洋風建築に相応しい芝生の庭が目立つので、日本庭園はその背景のようになり、四阿も目立たず、洋風建築に相応しい庭としても違和感はあまり無い。

 

(2)古瀬公園

武蔵境駅をnonowa口に出て北に向かい、境二丁目第一の交差点でアジア大学通りを越える。道は左へ曲がっていき、間もなく仙川を横切るが、川には水が流れていない。武蔵高校前の交差点で左に折れて公団通りを進み、松露庵の案内板に従い右に入る。松露庵の門が左側に見えるが、この門は古瀬公園の入口でもある。武蔵野市桜堤1-4-22。駅から歩いて15分ほどである。古瀬公園は宮内庁御用達のタンス商人だった古瀬安次郎が昭和10年頃に建てた別荘を、武蔵野市が買い上げて公園としたものである。

杉柱の門を入り石畳の道を進むと松露庵に出る。当初の計画では、古瀬公園に美術館を建てる事になっていたそうだが、市民の要望もあり、旧古瀬邸を改修し庭を造り待合を設けて、松露庵という名の総檜造りの茶室にし、有料の施設として、昭和49年に公開している。旧古瀬邸は茶室にも転用可能な和風住宅であったのだろう。

松露庵から左に行くと池があり、人慣れしたカルガモが来ている。池はあまり大きくないが、それでも飛び石が設えられている。池の中にはU字溝のようなものもあるが、これは後から持ち込んだものだろう。戦前の航空写真からすると、付近一帯は畑地の中に雑木林や屋敷林が点在する場所だったようで、古瀬家がここを別荘とした時も、防風のための屋敷林を必要としたと思われる。それに加えて松、梅、モミジなどを庭園の一部として植樹したのだろう。

古瀬公園を一巡りして西側から外に出る。振り返って西側の入口を眺めると、小さな美術館があっても良さそうな雰囲気である。ここで公団通りに戻るが、古瀬公園だけでは物足りないので、もう少し歩く。団地を再生した賃貸型集合住宅に沿って西に向かい、仙川を渡る。くぬぎ橋通りを右に折れると、集合住宅の間を通り抜けてきた仙川にまた遭遇する。ここの仙川には水が流れている。駅から古瀬公園に来る途中の仙川は空堀であったし、浴恩館公園内を流れていた仙川の上流にも水は無かった。では、水はどこから来たのか。後で調べてみたところ、雨水と浄水場の砂洗水を溜めて流しているという事が分かったが、下流までは到達しないという事らしい。仙川を渡って北に進むと玉川上水に出る。右へ行けば国木田独歩ゆかりの地へと出る。今回は左へ、玉川上水に沿って江戸時代から続く桜の名所を見に行く。今の時期は当然のことながら、葉桜見物という事にはなるのだが。

<参考資料>「緑と水のひろば71」「山本有三記念館」「山本有三記念館館報8」「武蔵野ところどころ」